Bまたそこから考えると、▼1「本已有善と本未有善の違いは釈尊と有縁であるかどうかくらいのものであり、結局は同じ衆生であることにかわりない。」▼2「余談ながらこの両者(本已有善と本未有善)では仏の『化導の法体』が異なるとする仁がいるが、これは間違い。法体などと言うものではなく『化導の教説、教法』が違うだけ。」当然、それは衆生の機縁、機根の違いによる。

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●↑ ではここで一端切りますかね。

 

▼「本已有善と本未有善の違いは釈尊と有縁であるかどうかくらいのものであり、結局は同じ衆生であることにかわりない。」

 

●↑これ、我見・浅識の甚だしきものと言わざるを得ない。実に悪見。つまり邪義である。

 

日寛上人は、下種仏法と脱益仏法との決定的違いをお示しである。

 

観心本尊抄文段

■ 次に種脱を詳らかにすとは、これを三段と為す。

初めに略して在末の機縁を明かし、

次に能説の教主を明かし、

三に所説の法体を明かす。

 

初めの略して在末の機縁を明かすとは、謂く、在世の機縁は皆これ本已有善の衆生なり。故に疏の十に云く「本已有善、釈迦、小を以て而して之を将護す」等云云。籤の十に云く「故に知んぬ、今日の逗会は昔成就の機に趣く」等云云。証真云く「経に云く『是の本因縁を以て今法華経を説く』云云。故に知んぬ、此の経は皆往縁の為なり」等云云。取要抄に云く「仏の在世には一人に於ても無智の者之れ無し」等云云。これ則ち本已有善の故なり。

 

末法の機縁は皆これ本未有善の衆生なり。故に疏の十に云く「本未有善、不軽、大を以て而して之を強毒す」等云云。太田抄に云く「今末法に入つて在世結縁の者は漸漸に衰微し、権実の二機皆悉く尽きぬ。不軽菩薩世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(取意)文。教行証抄、唱法華題目抄等、これを略す。

 

●↑ここは、栓をとって要を言わば、つまり、機根が善いか悪いかで、全く違う。ということである。

釈尊在世の脱益仏法=本已有善=善い機根

末法の   下種仏法=本未有善=悪い機根

 

しかし、ここを簡単に見るととんでもないことになる。

 

 開目抄愚記

■一、末法に摂受・折伏あるべし等文。(同n)

  問う、若し爾らば、末法もまた摂受を行ずべきや。

  答う、摂折二門に就いては古来の義蘭菊なり。今且く五義に約す云云。

(中略)

  二には機縁に約す。謂く、若し本已有善の衆生の為には、摂受門を以て而してこれを将護す。若し本未有善の衆生の為には、折伏門を以て而してこれを強毒す。この故に疏第十二十に云く「本已有善、釈迦小を以て而して之を将護す。本未有善、不軽大を以て而して之を強毒す」等云云。

 

●↑ここですね。つまり、教法の広め方が全く違うということである。

 

本已有善→摂受

本未有善→折伏

 

ということである。

また、機根に関係して次も大事。

 

■  三には時節に約す。宗祖の云く「末法に於ては大小・権実・顕密共に教のみ有って得道無し一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ、逆縁の為には但南無妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し」と云云。下の文に云く「設い山林にまじわって一念三千の観をこらすとも(乃至)時機をしらず摂折の二門を弁へずば・いかでか生死を離るべき」と云云。その外の諸文、枚挙に遑あらず云云。

 

●↑つまり「摂折の二門」を弁えなければ、絶対に成仏しない。ということである。

であるから、妄犬モゴモゴ君のいうように、

▼1「本已有善と本未有善の違いは釈尊と有縁であるかどうかくらいのものであり、結局は同じ衆生であることにかわりない。」

などと、機に約して曖昧な事をいっていると、結局この「摂折の二門」に於いても曖昧な結果となり、成仏不可能な行体に陥ってしまう、ということである。

事実天台摺りしている、日蓮宗各派は全て、この正統な「「摂折の二門」が分からなくなり、折伏の方途に迷走しているのが現状である。

まっ、創価学会でも、きちんと四箇の格言を表に立てて折伏逆化などしていない現状は、既にこの傾向が顕著である。

 

更に「観心本尊抄文段」を詳しく見ていきましょう。

あっ、妄犬モゴモゴ君?難しくてもうついて来れなかったら、寝てていいよ。

どうせ、無理だろうから。ね。

 

■ 次に能説の教主を明かすとは、凡そ熟脱の教主は必ずこれ色相荘厳の尊形なり。(中略)

熟脱の化主は本已有善の衆生を利益す。若しその身を厳らずんば、則ち所化の衆生、心に軽慢を生じ、下種の善根を破するの浅あり。この故にその身を荘厳して、所説をして一心に信受せしむ。宿善を熟脱する故に、熟脱の教主は必ずこれ色相荘厳の形貌なり。

 

 若し下種の教主、本未有善の衆生を利益する所以は逆縁を面と為る故に、外相を見て心に軽慢を生ずと雖も、更に宿善を破するの損なく而して却って逆縁を結ぶの益あり。故にその身を厳らず。故に下種の教主は唯これ凡身の当体なり。

(中略)

 

●↑ここでも、やはり、脱益仏法と下種仏法の決定的違いを述べられている。

熟脱=本已有善=色相荘厳

下種=本未有善=凡身の当体

 

ということであり、化主・教主の有様自体も、全く違うのである。

ここでも、

▼「本已有善と本未有善の違いは釈尊と有縁であるかどうかくらいのものであり、結局は同じ衆生であることにかわりない。」

などと、寝惚けた邪義は全く通用しない。

 

更に次。ここは、妄犬モゴモゴ君は当方を指して、

▼2「余談ながらこの両者(本已有善と本未有善)では仏の『化導の法体』が異なるとする仁がいるが、これは間違い。法体などと言うものではなく『化導の教説、教法』が違うだけ。」

などと、思い切った邪義を吐き垂れているが、日寛上人はその邪義を一刀両断で斬り捨てられておられる。

 

■ 三に所説の法体を明かすとは、

 問う、種脱の法体は応にこれ一体なるべし。その故は在世脱益はこれ化導の終り、譬えば去年の秋の如し。末法下種はこれ化導の始め、譬えば今年の春の如し。然るに去年の秋の葉を以て即ち今年の春の種と為す。故に菓即種なり。葉と種とこれ別体なるに非ず。唯去年の秋に在るを以て即ち名づけて菓と為し、今年の春に在るを以てこれを名づけて種と為す。その名は殊なりと雖も、その体は全く同じ。故に在世化導の終りの脱益の一品二半の法体を以て、即ち末法化導の始めの下種の法体と為すべし。何ぞ種脱の法体異るべけんや。

 

●(※↑これまさに妄犬モゴモゴ君の邪説と全同である。昔から、妄犬モゴモゴ君のような馬鹿者が居たのかと思うと、妄犬モゴモゴ君の悪因縁の深さが実に思いやられる。)

 

■ 答う、この義は爾らず。

 

(※↑ここですよ。一刀両断。気持ちがスカッとするような切れ味ですね。)

 

今若し譬を仮れば、且く田家の如き、槽(かす)を脱するを米といい、脱せざるを籾(もみ)と名づく。米は以て命を養い、籾(もみ)は即ち種と成る。米は文上脱益の一品二半の如く、籾(もみ)は文底下種の題目の五字の如し。仏は米を以て在世の衆生に与えて法身の慧命を養わしめ、籾(もみ)を以て本化の菩薩に付嘱して末法今時の種子と為す。故に「彼は一品二半此れは但題目の五字」というなり。若し粳(しらげ)米(=粘らない普通の米)を以て即ち種子と為さば、豈菓を得べけんや。余穀も例して爾なり。

 

また瓜等の如き、仏の実は種子と成らず、瓜の核能く種子と成る。瓜の実は文上脱益の一品二半の如く、瓜の核は文底下種の題目の五字の如し。瓜の実は能く熱を除き、喉を潤す。故に仏は一品二半の瓜の実を以て在世の衆生に与え、無明の熱を除き法性の喉を潤す。瓜の核は種と成り、能く菓を生ず。故に仏は妙法五字の瓜の核を以て本化の菩薩に付嘱し、末法の衆生の信心の畑に下す。故に「彼は一品二半此れは但題目の五字」というなり。若し瓜の核を以て種子と為さずんば、豈菓を得べけんや。余菓も例して爾なり。

 

●↑実に明快な比喩ですね。つまり、

 

法体には

 

精米した米・瓜の実=「一品二半」=熟脱仏法

精米しない籾・瓜の核(種)=「但題目の五字」=下種仏法

 

という「違い」がある、ということである。

籾や瓜の種は、保存用であって、そのまま食べる米と瓜の実と、似て全く非なるものである。

さ、ここでも、妄犬モゴモゴ君の

 

▼2「余談ながらこの両者(本已有善と本未有善)では仏の『化導の法体』が異なるとする仁がいるが、これは間違い。法体などと言うものではなく『化導の教説、教法』が違うだけ。」

 

との邪説は完全に日寛上人に斬りおとされましたね。

 

目が覚めた?妄犬モゴモゴ君?