日興上人 身延離山史 日亨上人
205〜

【翻刻】


日精上人 家中抄に

「(※日興跡条々事の)「墓所」とは大聖人の御骨まします故なり、
但し御骨は身延に納めたり、之に依って久遠寺にあり、又、池上にもあり、何れも生身の御骨なりや、又真偽ありや、
此の義分別するとき、三十三、波木井抄の終に「いづくにて死し候とも墓をば身延の澤に立てさせ候べく」已上 
又池上は葬送の地なり 灰塔あること勿論なり、
然れども不審ある故に信じ難し
其の故は其の御骨の色に不同あるが故に難信第一なり。下略」

三百有餘年前の精師時代すら池上に灰塔あるべきと云ふのは、或は御影の御腹籠(おはらごもり)の骨筒の外に此等の噂ありしにあらずや、
其又百餘年前の延山朝師が氣にして化導記の文を殘せるも亦宜(むべ)なる哉である。


要するに精師が「御骨の色に不同あるが故に信じ難し」と云へるは池上と身延との比較か、又家中抄の文には見へざれども本覺寺や妙傳寺の東西小身延と大身延との比較にあるべきや、
大石寺と身延との比較にはあらざるべしと思ふが、往古は知らず、現代の延山の真骨堂の御骨は其色明朗なりと、然れども彼山にては此を裹(つつ)める水晶板の磨き方が拙なる故に色が明かで無いかの樣に云つてをる。


果して聖者の御骨は凡人の骨と異りて明朗透徹の物たるべきか、
大石寺の御骨は然らず、寧ろ凡骨と同じく暗灰色の如く、拜まるるは、予が信力弱くして又は玻璃筒に遮ぎられて眼力の届かざるにや、
但し凡慮には明朗象牙の如く輝ける物よりも灰色の脆き物に親しみを感ずるのである。


併(しか)し乍ら足利時代に分骨せりと云ふ東身延、西身延の骨色と延山のとは同色同質なるべきや、
又池上御火葬の時、分骨なる池上御影の御腹籠の物と中山に在る法師の内收の物と同色同質なるべきや、
甚だ不遜なる想像であるけれども理の推す所、何人と云へども此程度の疑は容易に起り得べきであらう。


強ちに真骨を奉持する大石門徒のみが、懷くべき疑惑で無く、又現今の如く咫尺(しせき)して衆人環視の中に露出せられたる一箇半箇の例の實物と成れるに對しては、不敬の漫語でも無からうと思ふ。

若し此をして輕賤罪としても忍び能はずんば、幾百年の昔に返して御廟堂の奥深く御埋め申し、衆愚の惡批を受けざらしめらるべし。

併(しか)し御廟堂の?(えい)域(お墓、墓地、または埋葬されている区域)には六百有餘年の昔しの儘に真骨歴然たるものも、衆機を釣る爲に模造品を真骨堂に安んじたりや、興師の奉持せられたのは其幾分にして各所の分骨の外に猶真骨御廟堂に御座しますや。

予は公式に如上の疑惑を延山の當局に糺さゞるべきも、往古各本山より身延無間と云はれし不祥の聲消えて目出たかりける祖山の今日に、猶一邊の小批難をも度外視せずして懇篤の辯解を惜しまざる雅量あるべきや。

若し此の愚説が公式ならざる爲に黙殺に附するやうな事あらば、恐らく大石門徒の信念は益(ますま)す強固となりて延山無真骨の叫びが高まるであらうと思ふ。

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【現代語訳】

日精上人 家中抄 引文

三百年以上前の日精上人の時代にさえ、「池上には灰塔があるはずだ」といわれていた。
それは、あるいは御影像の胎内に納められた骨筒とは別に、このような噂が存在していたためではないだろうか。
さらに、それより百年以上前の身延山の日朝上人がこの問題を気にかけ、『化導記』に文章を残したのも、もっともなことである。

要するに、日精上人が「御骨の色が同一ではないので信じ難い」と述べたのは、池上と身延の御骨を比較したものなのだろうか。
それとも、『家中抄』の文章には見えないけれども、本覚寺や妙伝寺などの「東西の小身延」と、身延山、すなわち「大身延」とを比較したものなのだろうか。

おそらく、大石寺と身延山とを比較したものではないと思う。

昔のことは分からないが、現在の身延山真骨堂の御骨は、色が明るく鮮明だという。
しかし身延山側では、御骨を覆っている水晶板の磨き方が拙いため、色が鮮明に見えないのだ、というように説明している。
そもそも、聖者の御骨は一般人の骨とは異なり、明るく透き通ったものでなければならないのだろうか。

大石寺の御骨はそうではなく、むしろ普通の人の骨と同じような、暗い灰色に見えるのは
これを拝する私の信力が弱いのであろうか。
それとも、ガラスの筒に遮られて、十分に見通す眼力が届かないのであろうか。
ただし、私のような凡人の考えでは、明るく象牙のように輝くものよりも、灰色でもろそうなものの方に、かえって親しみを感じるのである。

しかし、足利時代に分骨されたといわれる東身延・西身延の御骨と、身延山の御骨とは、同じ色・同じ性質であるべきなのだろうか。
また、池上で火葬された際に分骨され、池上の御影像の胎内に納められたものと、中山にある「法師の内収の物」とは、同じ色・同じ性質なのであろうか。

これは、甚だしく不遜な想像ではある。
しかし、道理から推論すれば、誰であっても、この程度の疑問は容易に抱き得るであろう。
この疑問は、必ずしも真骨を奉持している大石寺門徒だけが抱くものではない。

また現在のように、御骨が間近に置かれ、多くの人々が見守る中で公開され、一つ二つとはいえ実物の例として示されている以上、このようなことを述べても、必ずしも不敬な放言とはいえないと思う。

もし、このような批評さえも軽蔑・不敬の罪として耐えられないというのであれば、数百年前の状態に戻して、御骨を御廟堂の奥深くに埋納し、無知な人々からの悪意ある批判を受けないようにすべきであろう。

しかし、御廟堂の御骨が埋葬されている区域には、六百年以上前からそのまま真骨が歴然として存在しているという一方で、人々の関心を引き寄せるために、模造品を真骨堂に安置したということなのだろうか。

日興上人が奉持された御骨は、そのうちのどれほどの部分なのであろうか。

各地に分骨されたものとは別に、今もなお真骨が御廟堂にいらっしゃるのであろうか。

私は、以上の疑問を公式な立場から身延山当局に問いただそうというのではない。
しかし、かつて各本山から「身延無間」とまでいわれた不祥な声が消え、今日、祖山として喜ばしい状態になった身延山であるならば、たとえ一方的な小さな批判であっても無視せず、懇切丁寧な説明を惜しまないだけの度量があってほしい。

もし、この愚論が公式の質問ではないという理由で黙殺されるようなことがあれば、おそらく大石寺門徒の信念はますます強固になり、「身延山には真骨がない」という主張が、いっそう高まるであろうと思う。

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ここでいう「東身延・西身延」は、山梨県の身延山久遠寺そのものではありません。日蓮聖人の御分骨を奉安し、「小身延」と称された東西の寺院を指しています。

この文章の直前に、

> 本覺寺や妙傳寺の東西小身延と大身延との比較

とありますので、対応関係は次のとおりです。

東身延(東の小身延)=鎌倉の本覚寺

西身延(西の小身延)=京都の妙伝寺

大身延=山梨県の身延山久遠寺

東身延――鎌倉・本覚寺

現在の神奈川県鎌倉市小町にある日蓮宗の本覚寺です。

本覚寺は、身延山第十一世の日朝が、身延山から日蓮聖人の御分骨を移して奉安したと伝え、「東身延」と呼ばれました。身延山から見て東方、鎌倉に位置する「東の小身延」という意味です。

現在も鎌倉の本覚寺が「東身延」と呼ばれていることは確認できます。なお、「東身延」の呼称は千葉県の藻原寺など、ほかの寺院にも使われるため、名称だけでは寺院を特定できません。しかし、この本文は直前に「本覺寺」と明記しているため、ここでは鎌倉本覚寺を指します。

西身延――京都・妙伝寺

京都市左京区にある日蓮宗の妙伝寺を指すと考えられます。

こちらも日蓮聖人の御分骨を奉安する寺として、「西身延」または「西の小身延」と称されたものです。身延山に対して西方の京都にあるため、「西身延」と呼ばれたわけです。

ただし、「西身延」という別称も、岡山県の妙本寺や福岡県の本佛寺など、複数の寺院で使用されています。したがって一般論では特定できませんが、この文章では「妙傳寺」と明記されているので、京都の妙伝寺との対応になります。

この文章で問題にしていること

堀日亨上人は、単に寺院の所在地を説明しているのではありません。

問題にしているのは、次の比較です。

> 足利時代に分骨せりと云ふ東身延、西身延の骨色と延山のとは同色同質なるべきや

現代語にすると、

> 足利時代に分骨されたという鎌倉本覚寺・京都妙伝寺の御骨と、身延山真骨堂の御骨とは、当然、同じ色・同じ性質でなければならないのではないか。

という疑問です。

つまり、同じ日蓮聖人の御骨を分けたものならば、

身延山久遠寺の御真骨

鎌倉本覚寺の御分骨

京都妙伝寺の御分骨

は、基本的に色や性質が一致するはずである、と考えているのです。

そのうえで堀上人は、池上本門寺の御影像の胎内に納められた分骨や、中山に伝えられた御骨についても同じ疑問を提示しています。

したがって、この箇所における「東身延・西身延」は、御真骨の色・材質・真偽を比較検討するために挙げられた、御分骨奉安寺院の呼称です。