末寺の善導

●寛永15年(1638年)、江戸小梅常泉寺の什門流本行坊日優が、日精上人の教化を受け、常泉寺は大石寺の末寺に移り、常泉寺の末寺である下総国(千葉県)中田真光寺が大石寺の孫末寺となった。(『新版仏教大辞典』初版)

●寛永15(1638)年 日精上人、隠居して江戸に出られ、常在寺を再建(『新版仏教大辞典』初版)


 日精上人が御登座される前年(寛永8〈1631〉年)に新寺建立が禁止。
法詔寺の建立は元和9(1623)年。

御登座された年には本末帳が作成(本末制度)され、以後何度も実施された。
→各宗派の本寺は末寺を支配するために様々な権利を有する。
寺院の厳格な上下関係。(『日寛上人と興学』)

日精上人の時代から新寺建立は不可能、寺院の帰伏も困難。
日精上人御登座前後には多くの寺院が帰伏していた。
寺院の帰伏といっても、住職の一存で決められたことであろうから、信徒は仕方なく大石寺を本山と仰ぐことを強いられたことであろう。
また、法詔寺のように大檀那の帰伏によって建立された場合も、有縁の者達が一斉に、個々の意思とは拘りなく帰伏したことであろう。
つまり、日精上人御登座当時は、大石寺の化儀にくらい信徒を多く抱える寺院が複数存在した。
 このような寺院の信徒をいかにして善導するか。
日精上人の大きな課題。
謗法厳誡といっても、折伏を受け個人の自由意志によって入信した者と、封建制度下、住職や主人の意向に従わざるを得なかった者では、情状が異なり、教化方法も異なって当然。

善導の内容、
造仏に関して言えば、"曼荼羅本尊の脇士としての安置"であったと考えられる。
一時的措置、日精上人の本意ではなかったこと
→『家中抄』に明白。

 敬台院が寄進、日精上人が住職、法詔寺の造仏は御登座前
第16世日就上人は日精上人に法を付された。
このことについて異議を唱えるものは僧俗を問わず皆無。
末寺での仏像安置は化儀にくらい信徒の善導、第16世日就上人をはじめとする本山の意に沿った行為であったことが容易に推測される。

●敬台院は、『日宗年表』の元和5年(1619)、
 「此頃前阿波太守蜂庵入道大雄院日恩を崇敬東山に隠居寮を建て之を寄す」(『日宗年表』171頁)
蜂須賀至鎮の父・家政が要法寺22代・大雄院日恩に帰依、蜂須賀家に嫁いだ敬台院はその縁から要法寺の信徒となった。

 日精上人は、日昌上人、日就上人についで、要法寺から来られた3代目の御法主上人。
当時の江戸における本宗の寺院は、日就上人開基の常在寺。
常在寺の開基檀那は細井治良左衛門、
日量上人『続家中抄』、
 「父通達院乗玄 慶長十二丁未四月十七日、下谷常在寺古過去帳当時大施主とあり」(『富士宗学要集』第5巻268頁)
日精上人の父、法号・通達院乗玄も常在寺の大施主であった。
日精上人の父は慶長12年(1617)に逝去、この時、日精上人は8歳。
したがって、日精上人の父は要法寺の信徒であったと思われる。
常在寺の檀信徒は大石寺の信徒ばかりではなく、要法寺系の信徒もいた。
そのなかには要法寺流の造仏・読誦の化儀に基づく信仰者も存在したであろう。
敬台院も法詔寺が建立されるまでは常在寺に参詣していたと考えられる。
日精上人は、檀信徒を要法寺の造読から大石寺の正義に引き入れるべく御化導。(法義研鑚委員会『大日蓮』H10)

●元和9年(1623) 母峯高院の17回忌、菩提の為、江戸鳥越の徳島藩邸内に鏡台山法詔寺建立。 
日精上人が初代開基住職。(『日蓮正宗 心蓮山 敬台寺』開創360年記念出版)
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要法寺の信徒であった敬台院が徳島藩邸内に建立したのが法詔寺。
当初の法詔寺は、敬台院有縁の要法寺信徒で構成されていたことであろう。



寺院の建立乃至帰伏による教勢拡大→
化儀にくらい信徒善導の必要性→
第16世日就上人の第17世日精上人への期待(付嘱)→
第17世日精上人の方便の善導→
第22世日俊上人による仏像撤去→
第26世日寛上人による造読に対する理論的破折

一連の繋がり
各上人方が連携して時機に応じて信徒を善導
将来の害悪を防いだ
絶妙の"連係プレー"