1 『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』巻第九の「貪神通想」の段
神通を求める修行者につけ込んだ魔が、人に取りついて説法させ、火や水上歩行などの現象で聞く人々を惑わす、という筋が一続きに説かれています。
大正新脩大蔵経では第十九巻・No.945です。
書き下し文
> また善男子、受陰虚妙にして、邪慮に遭わず、円定発明す。
三摩地の中に、心に神通・種々の変化を愛し、化元を研究し、神力を貪取す。
>
> その時、天魔、その便を候い得て、精を飛ばして人に附し、口に経法を説かしむ。
その人、誠に魔の著することを覚知せず、また自ら無上涅槃を得たりと言う。
その通を求むる善男子の処に来たり、座を敷いて説法す。
>
> この人、あるいはまた手に火光を執り、その光を手に撮りて、聴くところの四衆の頭上に分かつ。
この諸の聴人の頂上の火光、皆、数尺に長ずるも、また熱性なく、かつて焚焼せず。
あるいは水上を行くこと、平地を履むがごとし。
あるいは空中に安坐して動かず。
あるいは瓶の内に入り、あるいは?の中に処し、?を越え垣を透るに、かつて障礙なし。
ただ刀兵において自在を得ず。
>
>自ら「これ仏なり」と言い、白衣を身に著けて、比丘の礼を受く。
禅律を誹謗し、徒衆を罵詈し、人事を訐露して、譏嫌を避けず。
口中に常に神通自在なりと説き、あるいはまた人をして傍らに仏土を見せしむ。
鬼力もて人を惑わすのであって、真実あることなし。
行淫を讃歎し、?行を毀らず、諸の猥褻を将って伝法となす。
>
>これを、天地の大力ある山精・海精・風精・河精・土精、一切の草木の積劫の精魅と名づく。
あるいはまた龍魅、
あるいは寿終わりし仙の再び活きて魅となるもの、
あるいは仙の期終わり、年を計ればまさに死すべきに、その形化せず、他の怪に附せられて、年老いて魔となるものありて、この人を悩乱す。
厭足する心生じて、彼の人体を去れば、弟子と師と多く王難に陥る。
汝、当に先ず覚すべし。
さらば輪廻に入らず。迷惑して知らざれば、無間獄に堕せん。
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### 現代語訳
また善男子よ。
受陰が虚妙となり、邪な思いに乱されず、円かな禅定が明らかになったとしても、
その三昧の中で神通やさまざまな変化を好み、変化の根本を探り、神力を貪り求めるならば、天魔はその隙をうかがってつけ込む。
魔は精気を飛ばして人に取りつき、その人の口を通して経法を説かせる。
取りつかれた本人は、魔が取りついていることに気づかず、自分は無上の涅槃を得たと言う。
そして神通を求める善男子のもとへ行き、座を設けて説法する。
その人は、手に火の光を持ち、その光をつまみ取って、聴衆の頭上に分け与えることがある。
聞いている人々の頭上には数尺の火の光が現れるが、熱くもなく、火傷もしない。
また、水の上を地面のように歩き、空中に動かず座ることもある。
瓶の中や袋の中に入ったり、窓や壁を通り抜けたりして、何の障害もないように見せる。
ただし、刀や兵器に対しては自由自在ではない。(※注 まさにイエス・キリストではないか!)
その人は自分を仏だと言い、白衣を着て比丘たちに礼拝を受ける。
禅定や戒律をそしり、弟子たちを罵り、人の事情や秘密を暴露して、批判されることも気にしない。(※注 邪教の教祖にままありがちな姿)
口ではいつも「神通自在だ」と説き、ときには人々に別の仏国土を見せることもある。
しかし、それは鬼の力で人を惑わしているのであり、真実ではない。
淫欲を行うことを褒め、粗暴な行いを戒めず、わいせつな行為まで伝法だとする。(※注 邪教の教祖にままありがちな姿)
これは、天地の強い力を持つ山の精・海の精・風の精・河の精・土の精や、長い年月を経た草木の精魅などである。
また、龍の精魅や、
寿命を終えた仙人が再び生きて精魅となったもの、
寿命が尽きて死ぬはずなのに姿が変わらず、別の怪異に取りつかれて年を経て魔となったものもある。
これらがその人を惑乱する。
魔が満足すると、その人の身体を去る。
その後、弟子も師も、しばしば王法による処罰に陥る。
お前たちは、まずそれが魔であると見抜けば輪廻に陥らない。
惑わされて見抜けなければ、無間地獄に堕ちる。
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仏、迦葉に告げたまわく、「我、般涅槃して七百歳の後、この魔波旬、漸く当に我が正法を沮壊すべし。譬えば猟師の身に法衣を服するが如し。魔王波旬もまたかくの如く、比丘の像、比丘尼の像、優婆塞の像、優婆夷の像を作し、また須陀?の身に化作し、乃至、阿羅漢の身及び仏の色身に化作す。
魔王、この有漏の形を以て無漏の身と作し、我が正法を壊らん。
この魔波旬、正法を壊る時、当にこの言を作すべし。▼『菩薩は昔、兜率天上より没し、この迦毘羅城の白浄王の宮に来たり、父母の愛欲和合に依りて、この身を生育せり。』
また、
▼『昔、苦行して、頭・目・髄・脳・国城・妻子を種々に布施せしが故に、今、仏道を成ずるを得たり。
この因縁を以て、人天、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩?羅伽のために恭敬せらる』
と言う。もし経律にこのように説くものあらば、当に悉くこれ魔の所説と知るべし。
善男子よ、もし経律に、●『如来は正覚して久しく已に成仏せり。今、成仏道を示現するは、衆生を度脱せんと欲するがためなり。
父母あり、愛欲和合に依って生まれたと示すは、世間に随順してこの示現を作すなり』
と説かば、これらの経律は、当に真に如来の所説と知るべし。
もし魔の所説に随順する者あらば、これ魔の眷属なり。
仏の説く経律に随順する者は、即ち菩薩なり。」
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● 魔と仏の説の違いは、久遠実成を説いているかどうか、という点である。
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ここは迦葉菩薩が、『瞿師羅経』で仏が説いたという話を引いて、魔の変化について述べる場面。
したがって、下の「若天・魔・梵……」は、迦葉が引用している言葉である。
迦葉、仏に白して言さく、「世尊よ、我、今、この四種の人に依らじ。何を以ての故に。『瞿師羅経』の中に、仏、瞿師羅のために説きたまわく、
『もし天・魔・梵、破壊せんと欲して仏の形に変じ、三十二相・八十種好を具足して荘厳し、
一尋の円光あり、面部円満にして盛明なる月のごとく、眉間の白毫相は珂雪よりも白し。
かくのごとく荘厳して汝に来向せば、汝、当に検校してその虚実を定むべし。
既に覚知し已らば、当に降伏すべし。』
世尊よ、魔等すらなお能く仏の形に変ず。
いわんや、羅漢等の四種の身に変じ、空中に坐臥し、左脇より水を出し、右脇より火を出し、身より煙炎を出すこと、火の集まりのごとくならざらんや。この因縁を以て、我、この四種の人に対して、心に信を生ぜず、あるいは説くところあれども受けず、敬念して依止することもなきなり。」
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現代語訳
迦葉は仏に申し上げた。
「世尊、私は今、この四種の人を頼りにしない。
なぜなら、『瞿師羅経』の中で、仏が瞿師羅のために次のように説かれているからである。
『天・魔・梵が、仏法を壊そうとして仏の姿に化けることがある。
三十二相・八十種好を備えて荘厳し、身体の周囲に一尋の光を放ち、顔は満月のように明るく整い、眉間の白毫は雪のように白く見える。
そのような姿であなたの前に現れたなら、その真偽をよく確かめよ。
正体を見破ったなら、退けよ』と。
世尊、魔でさえ仏の姿に化けることができる。
まして、阿羅漢など四種の人の姿に化け、
空中に坐ったり横になったり、
左脇から水を出し、
右脇から火を出し、
身体から火のかたまりのような煙や炎を出したり(※注 岡田茂吉の霊写真ばまさにこれ!)
することができないはずはない。
このため私は、こうした四種の人を心から信じず、その説を受け入れず、敬って頼ることもしないのである。」
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この経は、魔が仏を恐れさせようとして、さまざまな光り輝く姿を現す場面。
原文は「美しいものも醜いものも、さまざまな姿の輝きを示した」と述べている。
以下はパーリ語本文に沿った和訳。
その時、世尊は夜の暗闇の中、戸外に坐しておられ、雨が一滴ずつ降っていた。そこで悪しき魔は、世尊に恐怖と戦慄と身の毛立つ思いを起こさせようとして、世尊のもとへ近づいた。
近づいて、世尊の近くに、さまざまな色の輝きを示した。美しいものも、醜いものもあった。
そこで世尊は、「これは悪しき魔である」と知り、偈をもって魔に告げた。
「長き時を輪廻しつつ、美しい姿、醜い姿を作り出してきた。
悪しき者よ、それで十分だ。
死の主よ、汝は打ち負かされた。
身と言葉と心とをよく制する者たちは、
魔の支配に従う者ではなく、
魔に縛られた者でもない。」
その時、悪しき魔は、そこにおいて姿を消した。
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この経では、魔がバラモンの姿を装い、修行中の比丘たちに欲楽を勧める。
こちらもパーリ語本文に沿った和訳。
その時、多くの比丘たちが世尊の近くに住し、不放逸に、熱心に、専心していた。
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そこで悪しき魔は、バラモンの姿を化作した。大きな髻を結い、鹿皮をまとい、老いて、垂木のように背を曲げ、ぜいぜいと息をし、ウドゥンバラの杖を手にして、比丘たちのもとへ近づいた。
近づいて、比丘たちにこう言った。
「諸君は若くして出家し、黒髪で、若さに恵まれ、人生の盛りにあり、まだ欲楽を楽しんでいない。
諸君は人間の欲楽を楽しみなさい。目の前に見えるものを捨てて、後に実を結ぶものを追い求めてはならない。」
比丘たちは答えた。
「バラモンよ、私たちは、目の前に見えるものを捨てて、後に実を結ぶものを追っているのではありません。
後に実を結ぶものを捨てて、目の前に見えるものを追っているのです。
バラモンよ、世尊は、欲楽は後に実を結び、多くの苦しみと悩みをもたらし、その過患はさらに大きいと説かれました。
この法は、今この世で確かめられ、時を待たず、来て見よと招き、自ら実践でき、賢者が自ら知るものです。」
こう言われると、悪しき魔は頭を振り、舌を出し、眉間に三本のしわを寄せ、杖に寄りかかって去っていった。
比丘たちが世尊にこのことを報告すると、世尊は言われた。
「比丘たちよ、あれはバラモンではなかった。お前たちを惑わしに来た悪しき魔であった。」