南無妙法蓮華経 日蓮 となぜ認められるのか

@ 左右に離れていた、「日蓮」の御名と御花押が中央、南無妙法蓮華経の直下に寄り、一体化していく。

A 「日蓮」の御名と御花押が、年次と共に、大きく認められる。

善徳仏

●大聖人様御所顕の御本尊中の記銘に「仏滅後二千二百二十余年」と「三十余年」と両様あられる理由。

本日より数回にわたり「保田妙本寺所蔵 末法万年救護の大本尊」を御法主日顕上人猊下の御説法で破折してまいります。

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霊宝虫払大法要

        御法主日顕上人猊下御説法

               観心本尊抄

                         4月6日 於 御影堂


 『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』にのたまわく

「伝教大師日本にして末法の始を記して云く『代を語れば像の終り末の初・地を尋れば唐の東・羯の西・人を原れば則ち五濁の生・闘諍の時なり経に云く猶多怨嫉・ 況滅度後と此の言良とに以有るなり』此の釈に闘諍の時と云云、今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり、此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ此の本尊有さず、日本国の上宮・四天王寺を建立して未だ時来らざれば阿弥陀・他方を以て本尊と為す、聖武天皇・東大寺を建立す、華厳経の教主なり、未だ法華経の実義を顕さず、伝教大師粗法華経の実義を顕示す然りと雖も時未だ来らざるの故に東方の鵝王を建立して本門の四菩   薩を顕わさず、所詮地涌千界の為に此れを譲り与え給う故なり」(全集二五四n)
                           (題 目 三 唱)

 本日は、恒例の総本山御霊宝虫払大法会を奉修いたしましたところ、法華講総講頭・池田大作先生はじめ大講頭各位、全国の創価学会ならびに法華講代表信徒各位には多数御参詣になり、当夜の御書講にも代表各位が出席せられ、賑々しく奉修いたすことは、まことに喜びに堪えないところであります。

 本夕は、ただいま拝読の『観心本尊抄』の一節について、その関連する大聖人御化導の深義を中心に、異解を牒しつつ、少々申し述べる次第であります。

 この御文は本尊抄の末尾における文底下種三段中の流通分であり、地涌千界が末法に必ず出現することを明かす下、仏と人師の予言を挙げて問答し、まさに今末法闘諍の時であることをかかげ示すとともに、所弘の本門の本尊を釈される文であります。

 まず、拝読の文を初めより拝しますと、伝教大師の『守護国界章』の文を引かれ、その「闘諍の時」という文を的拠として、これを当時の日本国大国難の現証に引き当て給うのであります。いわゆる「自界叛逆・西海侵逼の二難」であります。

大聖人は文応元年、すなわち、この時より十二年前に時の幕府へ宛てた諌暁の書、『立正安国論』に薬師経等の三災七難中、五難までは、こもごも惹起しているが、自界叛逆・他国侵逼の二難はいまだ起こらず、この二難が謗法の咎によって必ず起こらんことを警告あそばされたのであります。それより十一年を経た文永九年二月、鎌倉において評定衆・名越時章、教時が、また京都六波羅の探題・北条時輔が謀叛の咎をもって誅せられるという自界叛逆の難が的中しました。越えて翌文永十年四月二十五日、この『観心本尊抄』が著されたのであります。

 しかして、次の文永十一年十月、蒙古軍は壱岐・対馬に来攻し、次いで筑前に上陸したのでありますが、大風によって兵船二百余艘が沈没しました。また、その七年後の弘安四年五月より六月に再び蒙古が対馬・長門国へ来襲しましたが、やはり大風によって元軍が壊滅したことは歴史の示すとおりであります。

 したがって、本尊抄に「今の自界叛逆・西海侵逼の二難」と挙げ給ううち、一の自界叛逆の難は既に顕れ、二の西海侵逼の難はいまだ顕れざるその中間の時でありますから、この「今」という字義は仏智の明鑑により、文永九年より現在そして未来二回にわたって他国侵逼の難が起こった弘安四年までの時期全体を含めて現在の形で仰せられたのであります。したがって、この本尊抄述作の時に西海侵逼の難はまだ起こっていないから、「今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり」と現在形に読むのは誤りなどという説は、大聖人の仏智冥鑑の三世にわたり給うを信じない者の謗言であります。

 要するに、この「今」とは、国家存亡の一大事の時期が、まさに現在来ておるぞと指示あそばす意であります。そこで、その「今」の字を受けている次の文の「此の時」とは、仏意により国家存亡の時期が未来数カ年にわたるということを明らかに鑑じ給う上で「此の時」と仰せになったのであることを、まず述べておく次第であります。

 さて、この拝読の御文の中心眼目は、第一に

  「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」の文であり、次に「伝教大師(乃至)東方の鵝王を建立して本門の四菩薩を顕わさず、所詮地涌千界の  為に此れを譲り与え給う故なり」
の文における「本門の四菩薩」の義を正しく解することが必要であると思います。

 さて、初めの文は、本宗と他門においてその読み方、したがってまた解釈が全く異なっております。

本宗では、古来「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊」と読むのであります。この文字の配列からして、本来「本門の釈尊を脇士と為す」と読むのが漢文上の無理のない読み方であり、また、その前例として本尊抄の前文には「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す」(全集二四八n)

とあり、いずれも「脇士と為す」と読むことは、既に全体的に確定しております。したがって、漢文体の文字の配列文例が全く同一である以上、「脇士と為す」と読むことが妥当であります。まして、宗祖大聖人が「当身の大事」とのたまいし本尊抄の大切な文について、かく読むべしという読み方の配慮をなされていないはずはなく、いま挙げた前文の例によるも宗祖大聖人の御意は明らかに拝察し得るのであります。しかも、この読み方の意義が、御相伝の深義に契合し、また、前文の本尊抄に明かし給う未曾有の本尊の当体、当相と合致する以上、まさしくこれは「脇士と為す」と読むべきであります。

 しからば、この文意はいかなることを示されているかについて、これを正しく拝するならば、実に重々の大事がこの文に含まれていることを知らねばなりません。

 まず、この本尊抄において、在世に本門寿量の肝要を仏が地涌菩薩に付嘱することを示し、さらに、この付嘱を受けて地涌千界が必ず末法に出現することを重々にわたって示しきたるところ、まさに自界叛逆・西海侵逼の二難至る時において地涌千界が現実の歴史上に出現することを述べ給うのであります。

しかし、本尊抄においては、本文中に日蓮の御名は一カ所もなく、常に大法を末法に弘める大人格を「地涌千界」と示されております。これ末法流布の大本尊は、付嘱の筋道に基づいて顕現されるべき意義によるのであります。 一方、『開目抄』には、末法の真の法華経の行者として日蓮の御名を各所に示し給うも、末法に出現する意味での地涌千界ないし上行菩薩等の文旨は全く見当たりません。

これ末法の主師親三徳の本仏は日蓮の御名で出世し給うことの意義によるのであります。

 しかし、相互の関連はあります。すなわち、『開目抄』に示される前代未聞の法華経の行者・日蓮は、まさに結要付嘱の人たる上行菩薩であり、『観心本尊抄』に指摘せられる末法出現の地涌千界とは、その中心的大人格が日蓮であることを、両々相まって示し給う深い配慮であることは疑いを容れないのであります。すなわち、これ一つには、凡夫の日蓮が上行菩薩であることは容易に弟子達にも述べ難い重大事であったからであります。


要するに、本尊抄の右文における「地涌千界出現」とは、真の法華経の行者・日蓮のことなるぞとの大確信があってこそ、その出現を明確に示された所以があります。

 次に「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」の文は、本尊抄の前文に遺付の本尊の相貌を示される文として「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩云云」(同二四七n)

の文を受けるものであります。この御文は『諸法実相抄』の「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」                                (同一三五八n)
等の御文意、さらに『総勘文抄』『当体義抄』等の久遠当初の凡夫即極の本仏、本法を示し給う意より拝するとき、そこに二筋の大事なる意が存するのであります。

 その第一の意は、遺付の本尊の相貌を示す文に明らかな如く、久遠元初の本仏、本師のまします有縁の娑婆即寂光の国土の上に、宝塔の実体たる南無妙法蓮華経を示されるところが大切な所以であります。経文においては示されていない南無妙法蓮華経の当体こそ、無始の色心妙境妙智、境智冥合の尊体であります。

したがって、文の如くこの中央の妙法蓮華経の脇士は釈迦・多宝であり、釈迦・多宝の脇士は上行等の四菩薩であり、文殊・弥勒等はその四菩薩の眷属として末座に居し給うのであります。この釈迦・多宝が、まさしく本門の釈迦・多宝であることは、上行等の四菩薩が脇士であることからも明らかであり、したがって、この本尊の相貌こそ本門の釈尊を脇士となす本尊であります。

 さて、次の第二の意は、本門の釈迦・多宝を脇士とする妙法蓮華経の当体は、単なる法のみの存在ではなく、その妙法と一体なる人格的実在が存するのであります。
 『御義口伝』の
  「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり(乃至)無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うな  り、寿量品の事の三大事とは是なり」(同七五二n)

との御文の義理よりするならば、まさしく久遠の本尊の実体たる妙法を所持あそばす方は、上行日蓮の御当体であらせられるのであります。以上よりして、地涌千界出現して顕し給う本尊とは、本門の釈尊を脇士とする本尊であることが明らかであります。

 しかるに、古来、不相伝家においては、すべてこの文を「本門の釈尊の脇士と為り」と読むのであります。すると、前述の前例の文にも反し、また、能弘の人と、所弘の法に解釈上混乱が起こります。これは、すべて大聖人の仏法の帰趨を仏像造立という一点に執着するために、大聖人が大慈大悲の上から五重の相対の深意を通して示し給う、究極の御本意を蔑ろにするからにほかなりません。

 つまり、御文の「地涌千界出現して」というその地涌千界とは、在世の本門虚空会における地涌の菩薩でもなく、また妙法の当体たる遺付の本尊の本仏一念所具の十界互具における本化菩薩界でもなく、実に末法現実の歴史的段階に出現される地涌千界であることは、この文および本尊抄一巻の大旨、前後の文に明らかです。

しかるに、この地涌千界が本門の釈尊の脇士となり、一閻浮提第一の本尊を立てるとなると、現実の肉体を持って出現した地涌千界が、堂に安置される本門の釈尊のわきへノコノコと入って脇士となるという珍妙きわまる本尊、否、造像不可能な本尊となります。また、現実に世に出現される地涌千界が、はたして上行菩薩等の名称を表に名乗られたかといえば、その事実はありません。

したがって、不相伝家のいう如き一尊四士、すなわち釈尊像の左右に上行等の四菩薩を安置する形をもって本門の本尊の体相とし、その四菩薩を末法出現の地涌千界であるというならば、本尊を能く顕す人である末法出現の地涌千界と、顕されるところの本門の本尊中の四菩薩の名前、体相は異なるものとなりますから、「地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為る」という読み方による文相には自ら反することになります。

 さらに、一尊四士の本尊を主張しても、宗祖大聖人は御一代において、全く自ら一尊四士を造られていないのであります。したがって、強いて一尊四士だというも「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」というあの力強い宣言は、全く有名無実の空言となります。もって、この御文を「本門の釈尊の脇士と為り」と読む読み方、およびその解釈が全く聖意に反する不当なものであることが明らかであります。

 さて、このついでに本尊抄に「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」と仰せられ、初めに拝読した文に「本門の四菩薩」とある意義について、ただ一言述べることにいたします。 この四菩薩とは「本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮」の意であり、一往、外用の辺では上行菩薩の再誕日蓮、内証の辺では本地自受用の再誕日蓮大聖人を表されております。いわゆる、塔中の妙法蓮華経が本尊の正体であり、人即法の本尊を示されるに対し、四大菩薩とは法即人の本尊を明かされるのであります。
 

けっして在世の四大菩薩の像を末法に造立することではありません。この辺からも内証、外用の両面の意義を弁えることが肝要であります。すなわち、大聖人の深い相伝法門においては、御書の深意を究極の仏意において締めくくる要点として、内証と外用の立て分けがあります。

 まず、宗祖大聖人の御化導における外用とは、法華経の霊山、虚空の会座において末法の一切衆生のため、釈尊は上行菩薩を呼び出して、結要の大法を付嘱し末法の弘通を委ねられ、地涌の上首・上行菩薩は、まさに末法に日蓮大聖人として出現し、法華経の文々句句をお読みあそばされ、上行菩薩の再誕なることを実証して有縁の弟子檀那にその意義を示されました。いわゆる結要付嘱による筋道であって、末法出現の日蓮大聖人が仏勅使たる上行菩薩の再誕であるという次第であります。

そこに教相上の付嘱の大事による手続きがあり、その上からは上行菩薩は釈尊のお弟子であり、お使いの立場であります。これが外用の法門であります。

 次に、内証という意義においては『観心本尊抄』に
  「所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず(乃至)地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せし  め給う」(同二五〇n)

と、内証の御義を一言示されております。その内証の寿量品の意義とは『三大秘法抄』に  「今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事  なり」(同一〇二三n)
と説かれた三大秘法の当体たる御振る舞いであり、その所行については、同抄の冒頭に「釈尊初成道より(乃至)涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処  の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(同一〇二一n)

と、久遠五百塵点劫の当初、釈尊が初めて実相を発得し、これを三大秘法の当体、当相において振る舞われた本仏の行そのものであることを明らかに御指南であります。その他、御一代の御書の深意を拝するも、すべて、このところへ一切の法門が趣向されているのであります。

 いわゆる、内証とは、付嘱の手続きより一歩立ち入ってその付嘱の法体と、これを弘通あそばされる日蓮大聖人の深い証悟におわしますのであり、これを大聖人がどのように末法一切衆生救済のため根本的境界とされて示し給うかを拝すべきであります。

 これは、前述の『三大秘法抄』の文においてもその要旨が拝せられますが、さらには師弟相対して相伝する血脈の深義において厳として存するのであり、すなわち、日興上人以下、その時代、時代における血脈付法の先師上人の指南が存する所以であります。

 要するに、霊鷲山において口決相承せられた上行菩薩として、仏勅使としての手続きは外用でありますが、その付嘱の法体たる妙法の五字七字の名・体・宗・用、あるいは境・智・行・位においては、末法出現の大聖人の御境界がそのまま久遠の当初の仏、本因元初の釈尊の所行と全く等しいことを明らかに示されております。

故に、凡夫の日蓮より上行菩薩としての本地を顕すのは一往であり、外用であって、再往の内証においては、久遠元初の一迷先達の本仏としての日蓮であることを顕し給うのであります。
その御内証は、各御書にも分々にお示しでありますが、特に大聖人が末法の一切衆生即身成仏のためお示しあそばされた御内証の相貌とは、実に御本尊の「南無妙法蓮華経 日蓮」とお示しの御当体であります。
人を離れて法なく、法を離れて人なく、人即法・法即人、人法一箇のところに無限の宇宙法界の理義を含み給うが故に、我等凡夫にとって即身成仏の大直道となるのであります。

 しかし、この日蓮御名に南無妙法蓮華経が具わり、また、妙法の五字七字はこれを所持し給う日蓮大聖人の御当体たる、人即法・法即人の内証を御本尊として顕し給うのは、佐渡以降に始められた御本尊のすべてに顕されてはおりません。
すなわち、上行菩薩の御自覚は既に宗旨建立にあり、久遠元初自受用報身の内証は竜の口発迹顕本に究竟し給うも、これを御化導の上の御本尊に顕し給うにおいては、おのずから時期によって順序階梯が存するのであります。

 今、端的にいえば、佐渡より身延に入られて、文永十一年、十二年、建治二年ごろまでの御本尊は、外用の上の意義を表となし、内証の当体を直ちに顕されていないのであります。
建治三年より弘安に至り、特に弘安以降において如実に南無妙法蓮華経の中央直下に日蓮の御名、御花押をお示しあそばされ、その上から御本尊の当体、当相に重大なる整足が拝される御本尊においてこそ、外用を撤廃して直ちに内証の本仏の当体を示し給うのであります。

それ以前の御本尊は、中央の七字に対し御名、御花押が左右にはなはだしく片寄って書かれており、これはいまだ根本妙法蓮華を所持し証得あそばした法界ただ一人の本仏御境界を直ちに顕されず、釈尊の脱益仏法の範囲に由来する仏勅使としての義を残し給うのであります。


故に、これらの御本尊を未究竟と申し上げるのであり、その代表的な意味で、この時期における当分の化導の意義を顕されたのが、千葉県保田妙本寺所蔵の通称万年救護、いわゆる文永十一年十二月御所顕の御本尊であります。この御本尊において、大聖人が文応元年、『立正安国論』の呈上以来、警醒予言あそばされたところの自叛・他逼の二難のうち、自界叛逆は既に起こるも、残る一難たる他国侵逼の難がまさに十四年目に至って実現し、予言が実証されたことに由来して、まず御自身が上行菩薩の出現であることを顕示せられたのであります。

しかし、いまだ御化導の上の究竟・本懐の時至らざる故に、ひとまず教相上の付嘱の意義による上行菩薩の出現を示し、外用の上より本尊の顕示をなされたのであります。

 したがって、右御本尊には前に述ぶる如く、最も中心たるべき日蓮御名は小さく右の傍にあり、御花押はこれも小さく左傍に離れ、妙法即法界の全体を所有あそばされる当体蓮華仏たる御徳を直ちに顕されておりません。また、これら未究竟の時期の御本尊に通じて拝される東方善徳仏と十方分身諸仏がやはり示されてあることも、釈尊の文上の仏法の範囲綱格によられたものであります。

その理由は、善徳仏が釈尊の分身以外の余仏であることにより文上の仏身を顕し給うのであります。

 しかるに、弘安以降の御正意の御本尊では、善徳仏と十方分身仏、また、ごく稀に存する胎蔵・金剛両界の大日如来等はことごとく、一幅の例外もなく削除されております。この正しい理由は、寿量文底本仏が無作三身如来であり、文上有作色形の仏の化導領域を撤廃して、そのすべてを包摂する法界遍満の内証を示し給うにあります。いわゆる、日輪が出ずればもろもろの星がその光を失う如く、文底本仏の無限の光明体徳を釈迦・多宝以下、本有の十界互具の相をもって、元初本仏の一念の相貌として示し給うのが内証究竟の御本尊の体相であります。

 しかるに、旧国柱会系の某学者は、その派で推測的に立てる佐渡始顕の本尊に善徳仏等が記してある関係上、この形を御本尊の基本図式であるとし、弘安以降、善徳仏等が削除されたのは、大聖人が十界の本門の仏像本尊を立てるため、その模式の簡要化を意図されたのであるなどと全く見当違いの謬論を述べております。これは大聖人の正意の本尊が本門の仏像造立だと執着する造像家の迷見による苦しい会通以外のなにものでもありません。 以上、要するに、通称万年救護本尊が、いまだ未究竟の領域にあることが明らかであります。

 しかるに、この保田妙本寺の本尊が、他の本尊の如く一定した讃文でなく、特殊な讃文が拝せられるためか、この御本尊が大聖人の出世の本懐かの如き錯覚を抱いて、種々の迷見を述ぶる雑音が、わずかながら存するようであります。その者どもは、また当然のこととして大聖人の御正意を曲解し、誹謗に当たる言辞を連ねるに至ります。したがって、いま、同本尊の讃文の正しい拝し方についても、このさい一言触れておく次第であります。 その讃文とは「大覚世尊御入滅後二千二百二十余年を経歴す、爾りと雖も月漢日三カ国之間未だ此の大本尊有さず、或いは知って之を弘めず、或いは之を知らず、我が慈父仏智を以て之を隠し留め末代の為に之を残す、後五百歳之時上行菩薩世に出現して始めて之を弘  宣す」と、首題の右下より真下へ、さらに左下に至るまで長く書き記されてあります。

この御文について文章、文体を強いて曲折し、牽強付会の読み方をもって釈尊に当たる文を大聖人に取り違える者がありますが、これは過の咎であります。また、上行菩薩出現の文の表面だけを見て、大聖人一期究竟の御化導の内証を信ぜず、教相に執われる古来の不相伝の者を不及の咎ありというべきであります。

 この御文は、前来述ぶる如く、一往教相上の付嘱の意義を依りどころとし、外用の立場で上行菩薩の出現を宣言あそばす文であります。故に、その文意とは「大覚世尊」すなわち釈尊が入滅されて二千二百二十余年を経たが、三カ国の間にいまだこの本尊なく、あるいは人師のなかにこれを知っていても弘めない正師もあり、また知らない者もある。我が慈父釈尊は、寿量品においてこの大本尊を説き出されたが、上行等の菩薩にのみ付して、その意義に暗い滅後の衆生にはこれを隠し留められ、特に末法の衆生のためにこれを残されたのである。しかるに、末法後五百歳の時、上行菩薩が現実にこの世に出現して始めてこれを弘宣するのである、との意であります。この文におけるかぎりは、このように読むのが正しいと信じます。

 それは、大聖人の内証の本地を御本尊に顕し給う時がいまだ至らざる故に、釈尊の弟子・上行菩薩たる外用の立場を取り給う故であります。したがって、この文は素直に「我が慈父」と読むのが当然であり、この慈父とは、この文においては釈尊のこと、すなわち法華本門文上の釈尊を志し給うことが当然であります。それは、この御本尊がいまだ未究竟の本尊だからであります。

 しかるに、最近、なにやら内証も外用も判らぬ者が物知り顔に、「我が慈父」と読むのは誤りで、「我れ慈父」と読むべきであり、それは、この慈父とは大聖人が御自身のことを示されたものだと、まことに珍無類な解釈を行っているとか聞きました。「我が慈父仏智を以て之を隠し留め末代の為に之を残す」の文からしても、この慈父とは、いったん隠し留めて末代のためにこれを残されたのであるから、直接、末代に出現される方ではあり得ません。したがって、大聖人が御自身を指されたものでないことは、だれが見ても明らかであります。これは、この文におけるかぎり釈尊のことを示されているのであります。

次に、この本尊の讃文に「此の大本尊云云」とありますが、他のすべての大曼荼羅の讃文には「大曼荼羅」とあるから、この本尊のみが大聖人の無上・本懐の本尊だという論議も全くの素人の見解であります。大聖人は、すべての御書において御本尊即大曼荼羅、大曼荼羅即御本尊の義をもってお示しであります。また、日興上人以下の御指南もその如くであります。したがって、讃文に「大本尊」とあるから、特別の本尊であるなどの理由は全くありません。むしろ、逆に、後に述べる理由によってこの妙本寺の本尊やその模刻の本尊は、大聖人一期御化導中では未究竟の重であることが明らかであります。

 また、別の解釈では、四大天王の用きは汚れた者を近寄らせぬことで、四天王が存在する本尊は、当然、一閻浮提総与とならないなどといい、この妙本寺の御本尊に四天王が書かれていないのは、信・不信を問わず全世界の人に与えた意義を顕すものであるという説に至っては、全く荒唐無稽であります。信・不信を問わずに与えるなどということは、一閻浮提総与の意義を曲解するもので、大聖人の御法門には存在しません。

 また、この年代の多くの本尊において四天王は書かれていないのであります。これは初期の御図顕を意味し、当然、未究竟であります。究竟の御本尊には四天王が逆に備わるのであります。自受用の一身・一念が法界に遍満するなかに、おのずから具わる四天王の妙法および行者守護の用きを示し給うのであります。

 また、『観心本尊抄』の御本尊の相貌を明かされる文をもって例証とし、妙本寺の御本尊やその彫刻の本尊に鬼子母神、十羅刹女および四悪趣が書かれていないのは、一閻浮提第一の本尊である証拠の如くいいなしているかのことを聞きますが、これも全く一知半解の粗言であります。

 本尊抄の御本尊の相貌は、妙法蓮華経を御本尊の主体として顕されるところに主意があり、十界互具の相貌は仏界と菩薩界をもって代表せしめられているのであって、けっして十界の意義がないのではありません。また、妙本寺の御本尊自体、迦葉、舎利弗、日・月天を顕示せられ、本尊抄の御文とは必ずしも同一ではなく、したがって、直ちに本尊抄の御本尊相貌の文がその御本尊の根拠とはなり得ません。また、大聖人御本尊中において文永年間にはこの四悪趣を略された本尊は実に多いのであり、けっして文永十一年十二月の妙本寺の本尊のみではありません。

 大聖人が御本尊において、根本の日蓮の御当体に首題も釈迦・多宝も、ないし十界の聖衆もすべて具わり、本有の尊形を示し給うことは、一切衆生救済の大慈大悲とその活用を顕し給うのであります。故に、弘安究竟の本尊においてこそ十界のすべてを顕し給うことを正意とあそばす意義が存するのであります。

したがって、文永十一年七月二十五日の御本尊に「天熱提婆達多」を連ね給うのは、ただ一幅の例外ですが、弘安二年三月の日目上人へ授与の御本尊より以降に提婆達多を列記し始め給うことは、十界の衆生残りなく救済する大慈大悲の顕発であり、すなわち、また本門の戒徳が法界に遍満する三大秘法の整足が拝せられるのであります。故に、文永十一年の妙本寺の御本尊は、この辺からも、かえって十界不具足の未究竟であることが明らかであります。

 次に、妙本寺格護の右御本尊が「仏滅後二千二百二十余年云云」と仏滅讃文について示されるのは、この時期の御本尊として、すなわち弘安元年以前である点において未究竟と拝されるのであります。
これについては詳しく申し上げると長くなりますので省略いたしますが、文永十二年卯月の御本尊に例外的に「仏滅度後二千二百三十余年」とあるのは、釈尊の迹門の三徳密表寿量の意義を、大聖人がその御内証より観ぜられたからであり、また、弘安元年以降に、この年が大聖人の基本算定で二千二百二十七年以降にもかかわらず、「三十余年」と示された御本尊があるのは、弘安元年以降に至って、大聖人が本門寿量品の仏身を御自身の文底内証より観ぜられて御本尊を顕されたことを意味し、そこに究竟の意義があります。

 そこで、また弘安元年以降の御本尊において、特に首題の真下に十界の全体を掌握し給う日蓮の御文字ならびに御判が拝され、善徳、十方分身等の余仏が除かれ、弘安二年三月以降は、霊山不在の提婆達多までが大慈悲の光明に照らされて本門の釈尊以下、完全な十界本有の相を表し、特に弘安以後、御判形が整って閻浮提の衆生救済の義を顕され、もって文上教相外用の意義を廃して、寿量文底の本仏・久遠元初の自受用身の内証を本尊の当体に顕すという、究竟の体相が成就されたのであります。

 これに対し、文永十一年十二月の御本尊は、御化導上の一往の重要な節を表す有意義な御本尊ではあっても、大聖人の本懐究竟の御本尊でないことは以上述ぶる如くであり、すなわち、内証本懐の究竟を示し給う御本尊の体相としては、いまだ整っておられないのであります。したがって、これをさらに模刻した本尊が同様に大聖人の真実・本懐でないことも自明の理であります。

 以上、「本門の釈尊を脇士と為す」との文の元意を概略において述べた次第であります。

次に「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」の文について略して申し述べます。

 一閻浮提第一の本尊とは、大聖人御一代の重要な御書を拝するかぎり、三大秘法を整足せられた意義をもつ本尊であります。仏像論者は、本門の戒壇とは仏像造立をもって本尊とすることなりと固執しておりますが、大聖人の御正意を相伝の上から拝するとき、妙法曼荼羅本尊をもって正意とすることが明らかであり、御書の真義もそこに存するのであります。

 ちなみに寸言すれば、三位日順師の『本門心底抄』の文における「仏像を安置することは本尊の図の如し」(富要二―三四n)

とは、師の表白文における本尊観が大曼荼羅本尊の総体即日蓮大聖人との信解であることからも、また、その著『観心本尊抄見聞』の「聖人は造仏の為の出世には無し本尊を顕んが為なり」(同二―九二n)

との文意からも、仏像とは釈尊の仏像でなく大聖人の御影を志されたことが明らかであります。

 大聖人の御化導は、妙法大曼荼羅本尊の上の三大秘法の整足においてその御正意が確立あそばされるのであります。そこで、いわゆる本尊については本仏・大聖人の随自意の境智でありますが、戒壇の大事は下種本仏の衆生化導の意義においても明らかな如く、「一心欲見仏 不自惜身命」の不退転の信者、行者の輩出を待って、初めて本門戒の意義が充実するのであります。

 そこで、この「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」との御文は、当然、一期御化導中の未来のある時期を指されたものでありますが、そこには三つの条件の整備があって初めて、大聖人がその大事を決定され給う深意が存するのであります。

 その第一は、この本尊抄の文の如く自界叛逆・西海侵逼の二難の惹起であります。これは謗法により三災七難興起するという経文の証明であり、また、不思議な安国論以来の予言の実証であり、また、万代にわたる国家民衆救済の根本理念たる未曾有の大法が出現せんとする現証であります。故に、大聖人は本尊抄述作時にいまだ起こっていない西海侵逼の難が、未来六、七年にわたって必ず起こるという大確信により、侵逼の予言とともに本尊建立の予言をあそばしたのであります。

 第二には、大聖人の大慈悲における甚深の御内証を御化導の上に顕さなければならないのでありますが、その顕示の時期が問題であります。それは万年の御化導のため、方便を捨てて如実に即身成仏の大直道たる御内証を御本尊に顕し給うための御振る舞い・御所作の究竟であり、したがってまた、御本尊御顕示の充実であります。これは前来述ぶる如く、弘安に入って初めてその御究竟がおわしますのであります。

 第三には、大聖人の所化の僧俗において、経文の「一心欲見仏 不自惜身命」を身に当てて読み、謗法を厳誡し、閻浮第一の法華経の行者・日蓮大聖人に続く信心修行が現れてこそ、その万年広布、人類救済のための根本たるべき大本尊の戒壇の意義が明らかとなるのであります。

 そして、建治より弘安にかけて二祖日興上人の直接の指揮による富士南麓の弘教はめざましく、邪宗の徒の怨嫉するところとなり、ついに弘安二年九月の稲刈りに端を発した熱原の法難が惹起いたしました。この難において、熱原の烈士三人をはじめ十数人の信徒の示した不自惜身命の信心と行動を深く叡感あそばされ、その究極の意義を鑑みられた大聖人は、同年十月十二日、本門本尊のなかにおいて特別に事の戒壇の意義をもつ御本尊、万年の一切衆生救済のため根源の法体たる大本尊を顕されました。以上述ぶる如く、大聖人出世の本懐たる戒壇の本尊は、以上の三義が事実の上に顕れて初めて究竟し給う本尊であり、一期御化導中の妙中の妙、究竟中の究竟たる御本尊であります。

 さて『観心本尊抄』の「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」とは、この大本尊を建立して一期の本懐を遂げ給うための予言として、本尊の正義開顕の重要書たる本尊抄にまず述べおかれたのであります。

 この大御本尊の究極の深意たる凡夫即極・即身成仏の大利益は、妙法当体蓮華の実証として、今日、日本ないし全世界の人々の真剣な受持信行によって体験され、正法広布の相はいよいよ明らかに現れております。
 日蓮正宗の僧俗は、この大法を護持弘通のため、また邪義破折のため、一層一致団結して精進することが肝要と存じます。
 本日は、これをもって失礼いたします。

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大聖人は御書の中にはっきりと仏滅年代を示されているのです。
すなわち、『波木井三郎殿御返事』が文永十年で仏滅後二千二百二十二年、それから建治二年が仏滅後二千二百二十五年、それから弘安元年が仏滅後二千二百二十七年というようにきちんとした形になっているのです。ですから弘安元年が二千二百二十七年であるとお考えになっておられたのは絶対に間違いないことなのです。
 それにもかかわらず、文永十二年四月の五幅と弘安元年以降の御本尊の讃文に「二千二百三十余年の間、一閻浮提の内、未曽有の大漫荼羅也」とお示しになり、また弘安元年の御書に、
「仏滅度後すでに二千二百三十余年になり候」(新編1249頁)
とお示しになられているのです。

 その所以について、昨年の講義で私が申し上げましたことは、文永十二年の御本尊の場合、大聖人様は、法華経の会座に出現した妙法の宝塔を拝されて「三十余年」と特にお示しになっておるということであります。
これはやはり、その時詳しく申したように、年次計算の意義が弘安以後の場合と同じく合致します。

 つまり、釈尊は七十二歳より八年間にわたって法華経二十八品を説き、八十歳にして入滅されましたので、二十八品を八年で割りますと、1年間に大体、三品半ずつ説いたことになります。
そして宝塔品は第十一ですから、三年目の終わりに説いたことになり、この時点は入滅の年より逆算して六年前になります。
したがって、そこを起点とすると、大聖人様の基本算定として仏滅後二千二百二十四年となる文永十二年が二千二百三十年となります。
それ以降、宝塔が住在するので、その深意を明鑑されためどをこの時におかれ、文永十二年の御本尊に「三十余年」とお書きになる趣意がそこに立つわけです。
ただし、宝塔は法の開顕であり、その永遠の実在における人の開顕、すなわち寿量品がいまだ説かれていないので、それ以降の本尊が再び、二千二百「二十余年」に戻られたのであります。


 これは、日寛上人の『観心本尊抄文段』に弘安元年の御本尊の「三十余年」とある意義についての御指南に、文永十二年の場合をさらに補足したものであります。
その弘安元年の場合も日寛上人様は、大聖人が寿量品から算定せられたから、二千二百二十七年に四年を足す故に「三十余年」とお書きになったということだけをおっしゃっておられます。
しかし、ここに深い法義が秘められているのです。
私は、この寿量品から算定したということは大変なことだと思うのです。

 ここで、改めて「仏滅」という語の意味を考えてみてください。
仏滅というのは仏様が亡くなった年ということであります。
そして、寿量品に説かれている仏様の姿は「非滅現滅 非生現生」です。
「現有滅不滅」、すなわち滅を現じ、不滅を現じて、法・報・応三身の永遠常住の体と用を示されたということであります。
すなわち、仏滅は通常、応身の滅であるが、法華円教の三身相即と、寿量品でその永遠常住の滅不滅を示す意味こそ、御本尊の示し給う妙法に共なる仏滅なのです。

 ですから、その寿量品を起点として算定された「仏滅後二千二百三十余年」を讃文に示されているということは、寿量品におけるところの滅不滅の意味においてお示しになったと拝さねばなりません。
つまり、釈尊の肉身が滅したということよりも、むしろ肉身の元である三世常住の御本仏の滅不滅の上の仏滅年代であるということなのです。
それを「二千二百三十余年」とお示しになったのです。


 日寛上人がこの意義をはっきりと仰せになっていないのは、後世の末弟子が時に応じた上から、その深義を拝するようにということだと信じます。
 そのように拝すれば、寿量品からの算定ということは、そのまま仏の常住の命を示されたということであり、またさらに大聖人様の付嘱の意義から拝するならば、寿量品の文上ではなく、さらに文底の仏の本有常住の滅不滅をお示しになったということであります。
そこにこそ、弘安年間に入って「二千二百三十余年」とお書きあそばきれている意義があるわけです。

 しかし、確認の意味で申し上げておきますが、日寛上人は結論として、
「弘安元年已後、究竟の極説なり。」(日寛上人御書文段197頁)
とおっしゃっております。そこを間違えてはいけないのです。
したがって、御本尊の讃文に「二十余年」と示されているから究竟でないとか、「三十余年」と示されているから究竟であると考えるのは大きな誤りです。
弘安元年から深義の仏滅讃文をお示しになっているから、その弘安以降における大聖人の御境智に約して、本懐究竟であるということをおっしゃっているのです。

 だから弘安以降において「二千二百二十余年」と「三十余年」の御本尊がおわしますけれども、これは本懐究竟後の御本尊であるから、両方ともその意味で同じ意義があるのです。
つまり、本懐究竟後においては、それが肉身すなわち応身からの算定である「二十余年」というお示しであっても、また報身からの「三十余年」の表示でも、共にそれは文底の上からの仏の境界における一身即三身・三身即一身の滅不滅の当体という意味を持つから、単にインド出現の釈尊がそのまま八十年の施化において亡くなったというような小乗仏の応身の滅度を意味するのではないのです。

 したがって、直ちに寿量品を拝することを表す意味での「三十余年」も、その御境界の上から示された三身相即中の応身、すなわち肉体が滅したという意味での「二十余年」もこれはどちらも文底常住の三身相即に約する仏身の御入滅ですから、それは滅にして不滅、不滅にして滅なのです。
したがって弘安以降の御本尊様においては、「二千二百二十余年」とお示しの御本尊も「三十余年」とお示しの御本尊も常住の仏身に即する滅不滅をお示しになっていらっしゃるのでありますから、そこに勝劣はないのであります。

 そのような点から拝すると、三大秘法の内証は法身・報身・応身の三身相即の本門下種の本仏の常住であり、その御当体における三大秘法が末法に出現されるわけですから、それは釈尊の一代の化導のすべてを含み、乃至三世十方の諸仏の化導のすべても含んでおるのであります。

 したがって、釈尊の出現や化導はその仏様の中の一分でありますから、大乗非仏説のように釈尊を根本とすることは誤りであり、かえって、常住の本仏より釈尊の化導の位置が定まるのです。
故に、非仏説などによって常住無始の寿量品の仏の根拠が崩れるようなことはないのです。
むしろ寿量品の仏の用きの一分の中において、娑婆往来八千遍とも言われる一々の仏の出現が存するわけであります。