学会の「本尊観」を破折する

御本尊が「信徒脅迫の道具」とは学会の虚言
謗法者に本尊下付を停止するのは当然
宗門から「御本尊授与の資格が消滅した」という珍説
『ニセ本尊』授与の決議は学会幹部と離脱僧の猿芝居
無許可で作製した『ニセ本尊』は堕獄の因
御本尊授与の大権は「金口相承の法主」に限る
本尊の開眼は金口相承、極意の相伝による
末寺での本尊下付は法主の許可による総本山の代行
『ニセ本尊』が大謗法であることは明白
作り話で個人攻撃に終始する学会
「教学的」にも「歴史的」にも本尊の開眼は重要
本尊開眼の大事は大聖人以来の伝統
末寺での御形木印刷は総本山のお取り次ぎ
信用できない離脱僧のよた話
日寛上人書写の御本尊
消えぬ会員の疑惑、『ニセ本尊』
本尊義に邪説連発の学会会長
邪教の徒による御本尊の相貌論議
日寛上人の「授与書き」を削除した創価学会
個人授与の御本尊を御形木御本尊として流布するのはおかしい
「登山参詣しなくとも功徳がある」とは、学会のまやかし

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創価学会の邪説

�C御本尊

大聖人が一切衆生のために顕わされた御本尊を、日顕宗では学会員への御本尊下付の停止
など、信徒を脅す「道具」として使うという大謗法を犯してきた。いま平成の宗教改革の
なかで日寛上人の御本尊が出現し、真実の民衆仏法の夜明けが始まったのである。
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【創価学会に対する破折】

御本尊が「信徒脅迫の道具」とは学会の虚言

 本門戒壇の大御本尊は、一閻浮提総与の御本尊と申し上げ、そのご内証を書写し、授与する大権は、御法主上人のみにあることは宗門七百年の厳然たる鉄則です。
 たしかに御本尊は一切衆生の成仏のために顕わされましたが、だからといって創価学会でいうように、衆生が勝手に御本尊を印刷したり下付してよいという文証も道理もまったくありません。
まして宗門が信徒を脅す道具として御本尊を使ったなどとは悪意に満ちたいいがかりにすぎません。

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日寛上人の御本尊授与の経過

�@御本尊下付を停止した日顕宗
平成3年(1991年)11月、日顕宗は学会への破門通告と同時に、学会員に対する御本尊下
付を停止した。日顕は宗内に、今後は法華講員または直属信徒にならねば御本尊を下付し
ないので、これを拒否する学会員には各家庭の御本尊の返却を迫るように、との非道極ま
る指示を出した。
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【創価学会に対する破折】

謗法者に本尊下付を停止するのは当然

 御本尊を下付するか否かは、血脈付法の御法主上人の権限です。
御法主上人や宗門を攻撃し、謗法を重ねる創価学会員は、日蓮正宗の信徒としての信心を失った人々ですから、このような者にご本仏大聖人のご魂魄である御本尊を下付しないのは当然です。

 日蓮大聖人は、謗法の心を改めない大尼御前が御本尊を願い出たとき、その考えの誤りを指摘し、御本尊を下付されませんでした。
創価学会員に御本尊を下付しないのは、「信徒支配の手段」や「信徒を脅す道具」などではなく、「謗法者には御本仏の御当体たる御本尊を下付しない」という宗門古来の教義信条に基づいた適正な措置なのです。

なお、創価学会では、日顕上人が全創価学会員の御本尊を返却させるように指示をだしたといっていますが、それは事実と違います。
日顕上人は、日蓮正宗の信心をやめたいと申し出る創価学会員がいた場合について、
■「『あなたがそのようにおっしゃるならば離檀届けをきちんと書いて、その上で御本尊を御返納ください』ということを冷静に言ってください」(大日蓮 平成四年一月号七九�n)
と仰せられ、さらに、
■「あくまで慈悲の気持ちを忘れずに、冷静沈着にきちんと対応していただきたい」(同)
とご指南されたのです。

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【文 証】

『新尼御前御返事』
■「(※大尼御前は)日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために、此の御本尊をわたし奉るならば、十羅刹定んで偏頗の法師とをぼしめされなん。
又経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮偏頗はなけれども、尼御前我が身のとがをばしらせ給はずしてうらみさせ給はんずらん」(新編七六五�n)

『有師化儀抄註解』日亨上人
■「曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり、(中略)本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り授与せらるる人は信行不退の決定者に限る」(富要一―一一二�n)

【創価学会が主張していた文証】
『日蓮大聖人御書講義』創価学会版
★「仏法の道理のうえから不信退転の人には、御本尊の授与はできない」(新尼御前御返事講義・一四―四三四�n)

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�A血脈断絶で御本尊授与の資格が消滅

つまり日顕宗は、大聖人が民衆救済のために顕わされた御本尊を信徒脅迫の��踏み絵�≠ノ
するという、宗門史上未曾有の大謗法を犯したのである。もはや日顕宗には血脈相承の根
本である「信心の血脈」は断絶し、ここに大聖人以来続いてきた御本尊授与の資格は消滅
したのである。
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【創価学会に対する破折】

宗門から「御本尊授与の資格が消滅した」という珍説

 この創価学会のいい分を整理すると、

�@宗門は御本尊を信徒脅迫の踏み絵にするという謗法を犯した 
→�A血脈相承の根本である「信心の血脈」が断絶した 
→�B御本尊授与の資格が消滅した、
ということになります。

このウソをもととした、脈絡のない学会の主張は無意味というほかはありません。

 �@の宗門が御本尊を「信徒脅迫の踏み絵」に利用したということはまったくのいいがかりです。これは前項で述べたとおりです(本書175�n)。 
 �Aの血脈相承の根本が「信心の血脈」であるという学会の主張は、日蓮正宗の教義ではありません。
 かつて日顕上人は、
■「日蓮日興唯授一人の相伝血脈は、その信心において万人に通ずるのであり、かかる信心の血脈が正法の僧俗一切の行学の根底であります」(大日蓮 昭和六二年五月号四二�n)
とご指南されましたが、このご指南においても日蓮大聖人より代々の御法主上人に伝えられる「唯授一人の相伝血脈」と「僧俗一切の行学の根底」である信心の血脈との区分を明確に示されています。

 すなわち、
「信心の血脈」は正法を信ずる僧俗すべてに通ずる血脈であって、
「血脈相承の根本」は御法主上人のみに伝えられる唯授一人の相伝血脈なのです。

また、創価学会では宗門に「信心の血脈」が断絶したといいますが、戒壇の大御本尊を信心修行の根本法体と仰ぎ、大聖人以来の血脈相承に随順する宗門僧俗こそ、まさしく「信心の血脈」につらなる信仰者というべきです。

 �Bの御本尊授与の資格についても、もともと御本尊授与は唯授一人の血脈を継承される御法主上人の権能であって、謗法の徒と化した創価学会員に対する御本尊下付を停止したからといって、その資格が消滅するなどということは絶対にないのです。

創価学会員に御本尊下付を停止したから、御本尊授与の資格が消滅したなどといういい分は古今未曾有の珍説です。
これに加えて、宗門から本尊授与の資格が消滅したので、新たに創価学会にその資格が生じたなどということになれば、これこそデタラメきわまる愚論です。

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【文 証】
『百六箇抄』
■「白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。
上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(新編一七〇二�n)

『日淳上人全集』
■「『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』と仰せられた血脈は脈絡のことで、即ち信心がなければ脈絡は成り立たないとの御意であらせられ(中略)血液があり、脈絡があってその上に相承ということができるのである。」(一四四二�n)

■「信心血脈は付嘱相承の場合問題ではない」(一四四四�n)

『日顕上人御講義』
■「その信心の形は、いわゆる大聖人様から日興上人、日目上人と血脈の上において正しく御本尊の深義が伝えられておるのであり、法体の相承、さらに言うなれば金口嫡々血脈相承という意義、さらに法門の相承、そしてそれらの上において信心の血脈における信心の成仏ということが存するのです。」(偽造本尊義を破す六七�n)

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�B真の和合僧団による授与は御仏意

平成5年(1993年)10月、創価学会は日寛上人御書写の御本尊を御形木御本尊として会員
への授与を開始した。これは栃木・浄圓寺の成田宣道住職の申し出により、日蓮正宗改革
同盟・青年僧侶改革同盟の決議を行い、学会の総務会等の正当な決議を経て、真の和合僧
団である学会が授与することを決定したもの。これこそ御本仏日蓮大聖人の御仏意のしか
らしむるところである。
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『ニセ本尊』授与の決議は学会幹部と離脱僧の猿芝居

 学会では��自分たちが真の和合僧団だから、本尊を授与できる�≠ニ主張しますが、日蓮正宗においては御本尊の授与に関する権能は御法主上人のみが有するものです。「和合僧団だから」という条件で御本尊授与の資格があるという主張は、日蓮大聖人の教えにもありませんし、日蓮正宗の教義でもありません。
まして数々の社会問題を起こし、唯授一人の血脈を否定する非法の衆たる創価学会が、「真の和合僧団」などでないことは明らかです。

 また『ニセ本尊』授与は、日蓮正宗改革同盟・青年僧侶改革同盟の決議によったそうですが、これらの構成員は、日蓮正宗となんら関係のない離脱僧・邪宗僧です。

 さらに「学会の総務会等の正当な決議を経て」などといっていますが、これらは日蓮正宗の教義に違背する「不当な決議」、もっとわかりやすくいえば『ニセ本尊』を正当化するための猿芝居です。
このような謗法の団体・創価学会の幹部とえたいの知れない離脱僧による謀議は、神聖な御本尊に関する「授与する人は金口相承の法主に限る」との伝統法義に背き、「御本仏日蓮大聖人の御仏意」に反逆する大謗法罪にあたります。

 創価学会のいう「これこそ御本仏日蓮大聖人の御仏意のしからしむるところである」などという自賛の我見は、愚劣の一言に尽きます。

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【文 証】

【御法主上人に背く者は非法の衆である文証】

『身延山付嘱書』
■「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」(新編一六七五�n)

【御法主上人に随順すべき文証】

『弁惑観心抄』日応上人
■「法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈附法の大導師と云ふへし」(二一
一�n)

『日達上人全集』
■「管領というのは管は筒、筒の流れを伝えて行く、代々の法主がこれを伝えて行くのであります。
(中略)管領して、その大聖人の仏法を治めていく、よく受取って治めていく、
すなわち管領という意味を持っていくのである。統べ治める、そして統治をしていく」(二―五―四五〇�n)

『日顕上人御指南』
■「法主の心に背いて唱える題目は、功徳がありません」(大日蓮 昭和五五年八月号一六�n)

■「法主の指南に背いて唱える題目は功徳がない」(大日蓮 昭和五六年九月号五一�n)

【ニセ本尊に関する文証】
『日顕上人御講義』
■「『ニセ本尊』の申し出は、創価学会に対して成田宣道が平成五年六月六日にしております。
一方、平成四年十一月十二日に日蓮正宗を離脱して以来、浄圓寺はもう既に実質的に総本山大石寺の末寺ではなくなっているのです。
また、成田宣道なる者も、大石寺末の僧侶でもなければ、日蓮正宗の僧侶でもなくなっておるわけです。
(中略)邪宗の坊主が勝手に学会へ申し入れたことであり、血脈伝承の総本山の全く関知しない非合理な『ニセ本尊』であると言えます」(偽造本尊義を破す二二�n)

【創価学会が主張していた文証】

『広布と人生を語る』池田大作
★「法水瀉瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(八―二二八�n)

【創価学会員への質問】

○日蓮正宗から破門され、唯授一人の血脈から離れた創価学会員に「信心の血脈」は流れていませんね。

・流れていない……信心の血脈の流れないところには成仏も功徳もありません。
謗法の集団と化した創価学会から一日も早く脱会し、正法を護持する日蓮正宗に帰依しなさい。

・流れている……創価学会が会員に対しておこなってきた、「(※生死一大事血脈抄の)御文は、別しての『法体の血脈』を大前提として、総じての『信心の血脈』について述べ
られたもの」という指導と食い違っていますね。

○『日興遺誡置文』に「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事」(新編一八八五�n)とありますが、離脱僧や学会幹部によるなんの根拠もない決議は、仏法に相違する「衆義」ですね。

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御形木御本尊

歴代法主が書写した御本尊を版木に刻み、または写真製版等にして印刷された御本尊を「御
形木御本尊」と呼ぶ。もちろん元の御本尊と功徳にまったく違いはない。
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【創価学会に対する破折】

無許可で作製した『ニセ本尊』は堕獄の因

時の御法主上人の許可もなくご開眼もされていない『ニセ本尊』は、「元の御本尊と功徳にまったく違いはない」どころか、「元の御本尊」を書写された日寛上人の御意に背く堕地獄の印刷物にすぎません。

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【文 証】

『日顕上人御講義』
■「資格のない者が、勝手に血脈上の本尊を印刷、配布するは、つまり授与するのは血脈相伝の仏法上の道義に反します。
すなわち、非道の『ニセ本尊』である」(偽造本尊義を破す一七〇�n)

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日顕宗の��ニセ本尊�♂]々なる妄言を破す

日顕宗は、学会による御本尊授与に嫉妬の炎を燃やし、「ニセ本尊だから功徳がない」など
と妄言を吐いているが、これはとんでもない暴論。

破折�@ 法主の許可は? 必要なし
日顕宗は、学会から授与される御本尊には「法主の許可がないから功徳がない」と言って
いるが、御本尊授与には法主の許可は不要である。御形木御本尊は、宗門でも、各末寺に
おいて独自の判断で印刷し、信徒に授与されてきた歴史がある。いわんや信心の血脈が断
絶した謗法法主の許可など、必要なはずがない。
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【創価学会に対する破折】

御本尊授与の大権は「金口相承の法主」に限る

 創価学会は、宗門が創価学会作製の『ニセ本尊』に功徳がないと指摘していることに対して「妄言」「暴論」といっていますが、『ニセ本尊』に功徳がないのは、適言であり正論
です。

 御本尊授与に関して学会では、「法主の許可は不要」といっていますが、日蓮正宗において、御本尊にかかわる一切の権能は唯授一人の血脈・法体相承を受けられた御法主上人のみに限られます。
これは宗祖大聖人以来、未来永劫にわたる不変の鉄則です。

 日亨上人の『有師化儀抄註解』に、

■「曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり、(中略)宗祖は濫に曼荼羅を授与し給はず・開山は曼荼羅転授に就いても之を鄭重になし給ひ、尊師は宗門未有の弘通者なれども自ら曼荼羅を書写せず、(中略)然るに本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り授与せらるる人は信行不退の決定者に限る」

とご教示のように、御本尊の書写・授与は、時の御法主上人によっておこなわれる最も重要な化儀なのです。

 したがって、歴代上人ご書写の御本尊を形木にお作りし、授与する場合であっても、御本尊に関する一切の権能を持つ、時の御法主上人の許可のもとにおこなわれなければならないことは明白です。

 また学会は、「宗門でも、各末寺において独自の判断で印刷し、信徒に授与」してきたといいますが、末寺において御本尊を形木にお作り申し上げてきたのも、御本尊を授与してきたのも、すべて御法主上人の命を受け、ご許可をいただいて代行申し上げてきたものであり、日蓮正宗本来の血脈相伝を根本とした師弟相対の化儀・化法にのっとったものです。

 その深い意義と伝統を知らずして、「独自の判断で印刷し、信徒に授与してきた」などという創価学会は、仏法に暗い無知愚迷の徒輩です。

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【文 証】

『本因妙抄』
■「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり」(新編一六八四�n)

『有師化儀抄註解』日亨上人
■「曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり、(中略)宗祖は濫に曼荼羅を授与し給はず・開山は曼荼羅転授に就いても之を鄭重になし給ひ、尊師は宗門未有の弘通者なれども自ら曼荼羅を書写せず、(中略)然るに本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り授与せらるる人は信行不退の決定者に限る」(富要一―一一二�n)

『日顕上人御講義』
■「末寺が、ある時期に弘通教化の上の必要上、形木本尊を下附したことはありますけれども、それはすべて、総本山法主の許可を受けているわけであり、法主に背いて形木を出したことなど、絶対にないのです。
また、これは宗門全体が、その中心たる血脈相伝を拝受する上で、本宗の寺院僧侶たる正式の承認を受けている立場で行っているのである。
きちんとした寺で、きちんとした住職が、しかも管長の承認を受けてそこに住し法を弘通しておる住職が、その責任の上において法主の許可を得て行っておるわけですから、なんらの問題もないのであります。
それを、このようなことを言って、何か宗門の過去の在り方が、いかにも自分達の『ニセ本尊』と同じなんだという言い方をしようとしておるのは、全くの欺瞞であります」(偽造本尊義を破す二三�n)

【創価学会が主張していた文証】

『戸田城聖全集』
★「ここにおいて、法主上人よりご印可を得て、常住御本尊様のおさげ渡しを願い、永劫の信心を決意する」(一―七一�n)

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破折�A 御本尊の開眼は? 必要なし

日顕宗は、「法主による御本尊の開眼がないから功徳がない」と言っているが、過去に法主
が御形木御本尊を開眼したという事実はむしろ少ない。昭和50年代まで宗門の御形木御本
尊を一手に印刷し、全国の末寺に発送してきた東京・法道院でも一切開眼されていない。
また御書にも、開眼しないと御本尊に功徳がないという御文はどこにもない。
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【創価学会に対する破折】

本尊の開眼は金口相承、極意の相伝による

 学会では「御本尊の開眼は必要なし」と声高に主張していますが、総本山第二十二世日俊上人は、

■「開眼と云うは、眼を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益も無く用も無し」

と、開眼の意義と必要性をご指南されています。

 日蓮大聖人は『本尊問答抄』に

■「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」

と説かれ、『四条金吾釈迦仏供養事』には

■「此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり
(中略)此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」

と説いて、開眼にかかわる甚深の意義をご教示されています。

 第二十六世日寛上人の『観心本尊抄文段』には

■「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。(中略)当に知
るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云」

とあり、草木成仏は一念三千の仏種によること、そして御本尊の全体も一念三千の仏種の開眼によってはじめて生身の仏となる旨を明確にご指南されています。

 さらに、第三十一世日因上人は、御消息に

■「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」

と仰せられ、また、第五十六世日応上人は

■「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」

と説かれているように、本宗における御本尊の開眼は、唯授一人の「極意の相伝」によることが明らかです。

 なお、このほかの開眼に関する学会の疑難は、次の項で破折します(本書200〜205�n参
照)。

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【文 証】

『本尊問答抄』
■「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(新編一二七五�n)

『四条金吾釈迦仏供養事』
■「此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。(中略)此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」(新編九九三�n)

『本門如来寿量品廿三座』日俊上人
■「開眼と云うは、眼を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益も無く用も無し」(歴全三―三�n)

『観心本尊抄文段』日寛上人
■「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。(中略)当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云」(文段集四七〇�n)

『日因上人御消息』
■「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」

『法之道』日応上人
■「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教二七―四七四�n)

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破折�B 本山からの下付は? 必要なし

日顕宗は、「本山から下付されていない御本尊だから功徳がない」と言っているが、本山を
通さず末寺で直接印刷・下付された御本尊は数多い。有力末寺では有縁の法主の御本尊を
形木にして授与していた。
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【創価学会に対する破折】

末寺での本尊下付は法主の許可による総本山の代行

本宗の御本尊は、すべて御法主上人のご書写によるものであり、総本山から下付されます。

 これは、本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承を根本とする本宗の教義信仰からいって当然のことです。
日蓮正宗という和合僧団は、この大御本尊と唯授一人の血脈という、ご本仏日蓮大聖人の仏法の一切が厳然とまします富士大石寺を総本山と仰ぎ、そこを中心として師弟相対にのっとった正しい末寺と僧侶、さらに清浄にして正統な信徒によって形成されています。

 ここに一貫して流れるものこそ、大御本尊と血脈相承を根本とした師弟相対の信仰であり、信心の血脈なのです。
まさしく日興上人が仰せられた、

■ 「この法門は師弟子をたゞして、仏になる法門にて候なり」(歴全一―一八二�n)

のご教示をそのまま実践している真の和合僧団、それが日蓮正宗です。
この日蓮正宗の総本山につらなる末寺は、戒壇の大御本尊のお写しをご安置申し上げ、御法主上人の御意を体し、総本山の出城として、一切の宗教活動をおこなうために設けられた信心修行の道場なのです。

 したがって、総本山の意を受けて運営される末寺において、御本尊のお取り扱いは、古来もっとも重大なことであり、御形木御本尊に関しても��本山を通さずに直接印刷・下付�≠キることはありません。
かつて一時期、宗門においては種々の事情によって、末寺で印刷された御形木御本尊を直接信徒に下付したこともありましたが、これは総本山の許可、すなわち御法主上人の允可を受けておこなわれてきたことであり、師弟相対の筋目に基づいた正当な行為です。

 末寺における印刷・下付という表面的な姿のみをとり上げて、��総本山を通していない�≠ネどという見方は、日蓮正宗本来の、総本山と末寺のつながりにかかわる、深い意義を知らない部外者の勝手な憶測にすぎず、浅見というべきです。

 宗門が、創価学会発行の本尊を『ニセ本尊』と断定する理由の一つとして、「総本山から下付されたものでない」ことを挙げていますが、これは単に「総本山から直接下付された本尊ではない」という意味ではありません。

それは『ニセ本尊』が、師弟相対の筋目も信心の血脈もない謗法集団の手によって、総本山を無視し、御法主上人の御意に反逆して勝手に印刷された物という理由によるのです。

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【文 証】

『日蓮正宗教師必携』
■「寺院・教会は仏祖三宝の所有であり、住職・主管または檀信徒のものではない。
すなわち、 住職・主管は、法主上人の命を受けて寺院・教会を管理し、寺務を執行するのである」(一�n)

『日達上人全集』
■「小さいながらも初めてここに立派なお寺が建立せられたのでございます。
また、ご本山に安置し奉るところの弘安二年の末法総与の戒壇の大御本尊のお写しがここに安置し奉っておるのであります」(二―七―三〇四�n)

『日顕上人お言葉』
■「日蓮正宗の末寺は、大聖人様の仏法を根本とし、その地方その地方の信仰の中心道場として、宗門の化儀、化法を護り伝えるところに、その意義があるのであります。故に日蓮大聖人の仏法においては、根本的なところでその化儀・化法が確立されてこそはじめて、末法万年にわたって正しく伝わっていくということを深く考えることが、大事であります」(大日蓮 昭和五六年二月号五四�n)

『日顕上人御講義』
■「大切なのは、いかに方法等に変化があっても、一貫して総本山の血脈法主の指示乃至、許可によるところの本寺と末寺の関係が厳として存在したということであり、この中心の在り方には絶対に変化がない。また、その上からの御形木下附であります」(偽造本尊義を破す三一�n)

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ニセ本尊論に根拠なし

結論として「ニセ本尊論」には教義の裏付けなどまったくないことが明らか。要するに日
顕が言いたいのは「法主の俺を通せ!」というヤクザまがいの縄張り意識であり、信徒が
自由に生き生きと信仰することが日顕は妬ましくて仕方がないのである。
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【創価学会に対する破折】

『ニセ本尊』が大謗法であることは明白

創価学会は「結論として『ニセ本尊論』には教義の裏付けなどまったくないことが明らか」などと、勝手な盲断を下していますが、宗門が、学会発行の偽造漫荼羅を『ニセ本尊』
であるとするのは、

�@御法主上人の許可がない、
�A総本山からの下付ではない、
�B学会が勝手に作ったもの、

という仏法の道理に基づいた理由によるのです。
これは、学会がいうような「縄張り意識」や「妬み」などの感情ではなく、伝統教義に裏付けられた理論的・客観的な根拠によるものです。

 なお、創価学会では「信徒が自由に生き生きと信仰すること」が正しい信仰の姿であると考えているようですが、これは宗祖大聖人の教判や仏法の規範から逸脱した、衆生の己心を中心とした無節操な考えです。
まして日顕上人が邪教と化した集団の徒輩を、今さら妬んだりするわけがありません。

 勝手な想像で「法主の俺を通せ! というヤクザまがいの縄張り意識」などと決めつけるところに、創価学会の「ヤクザまがいの縄張り意識」がでているのです。

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日顕の御本尊書写のデタラメな姿

日顕の奧番など、本山での実態をつぶさに目撃した人たちによれば、日顕の御本尊書写の
デタラメな姿はとても信徒に見せられないものだという。こんな日顕にとても「法主の許
可」を云々できる資格などない。

●落語テープを聴きながら書写
「私は自分の目を疑いました。何と猊下(=日顕)は、机の上にテープレコーダーを置き、
カセットテープを並べ、落語を聴きながら御本尊を書いていたのです。私を見上げた猊下
は、驚いて、すぐさまテープレコーダーのスイッチを切り、『何だ! きさま!』と、殴り
かからんばかりに怒鳴りつけたのです」(日顕の奧番経験者の証言)

●御本尊を書きかけのまま昼寝
「(御本尊の)中央の題目と四天王のほか、わずかばかりが書かれただけで、下の方が真っ
白なまま、まさに��未完成�≠フ御本尊でした。私は、トイレにでも行っているのかと思い、
しばらくその部屋で待っていましたが、猊下は一向に戻ってきません。そこで、まさかと
思いながらも寝室の前に行くと、いつも使っていない時には開いている寝室のドアが閉ま
っているのです。そうです。猊下は、御本尊を書きかけたまま昼寝をしていたのです」(同)

●文字が抜けていてもそのまま放置
「猊下の御本尊に対するいい加減さは、宗内では有名です。ある信徒の常住御本尊の讃文
の『未曾有大漫荼羅也』の文字が抜けていることがありました。それを報告したら、日顕
は『本人は気づいているのか。気づいていないのなら、そのまま知らん顔しとけ』と面倒
臭そうに言っただけで、それっきりです」(改革同盟僧侶の証言)
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【創価学会に対する破折】

作り話で個人攻撃に終始する学会

 ここで「デタラメな姿」といっていることは、すべて「デタラメ」です。
おそらくこれらは、仏道修行に耐えられず退転還俗した者や創価学会の魔手に取り込まれた離脱僧による作り話でしょう。

 常日頃、御本尊に対する深い尊崇のお心と、厳格な姿勢を示しておられる日顕上人を知る者にとっては、到底、まともに取り合うような話ではありません。
むしろ、このような卑劣な作り話で御法主上人に対する個人攻撃をし、ひいては御本尊のご威光をもおとしめる創価学会の悪業は重大です。

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【文 証】

『日顕上人御講義』
■「いわゆる離脱僧の逆僧どもの言っておる『ステテコ姿』などということが一切、嘘であり、誹謗であると、はっきり言っておきます」(偽造本尊義を破す六六�n)

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�D開眼

日顕宗では「御本尊には法主による開眼が必要だ」と、難クセをつけているが、教学的に
みても、歴史的にみても、これにはまったく根拠がない。御本尊の仏力、法力は、ひとえ
に私たちの信心によって顕現するのである。
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【創価学会に対する破折】

「教学的」にも「歴史的」にも本尊の開眼は重要

 御本尊の開眼が必要なこと、開眼には重大な教義的意義があることは先に論証したとおりです(本書190�n参照)。

 学会では「御本尊の仏力、法力はひとえに私たちの信心によって顕現する」といっていますが、��信心があれば誰にでも御本尊の開眼ができる�≠ニいう意味でこのような表現をするならば、それは本宗の教義に違背する邪義です。

 まして邪教創価学会の者たちの「信心」は、はじめからすべてが狂っているのですから、今さら仏力、法力の顕現はもちろん、本尊の開眼ができるなどとは戯言にすぎません。

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◆御書には「法主の開眼」など一切ない

大聖人は、法主による御本尊の開眼など、御書において一言も仰せになっていない。むし
ろ真言密教を例にあげ、「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり」(御書1145
�n)と、開眼は法華経の力によるべきであると強調されている。私たちが信心をもって拝
していけば、特別な開眼の儀式など一切必要ない。
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【創価学会に対する破折】

本尊開眼の大事は大聖人以来の伝統

 宗祖大聖人が、ご存命中に書き著わされた御書のなかに、第二祖日興上人以下の「法主による御本尊の開眼」などの記述がないのは当然です。
寝ぼけたことをいうにもほどがあります。

 また、大聖人が開眼にかかわるご教示をされた御書は何編かありますが、それらを拝しても、開眼の意義とその必要性を説示されていることは間違いありません。
恐れ多いことですが、御本尊のご書写や開眼にかかわるご教示は、唯授一人の相伝であり、宗祖大聖人以来、歴代上人のご記述においても数少ないのは当然です。

 しかし、そのなかで、第三十一世日因上人、第五十六世日応上人等のご教示において、御法主上人による御本尊の開眼が本宗教義の枢要であることが明かされています。

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【文 証】

『真間釈迦仏御供養逐状』
■「仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給ひ候へ」(新編四二六�n)

『木絵二像開眼の事』
■「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し」(新編六三八�n)

『四条金吾釈迦仏供養事』
■「此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり(中略)此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」(新編九九三�n)

『本尊問答抄』
■「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(新編一二七五�n)

『日因上人御消息』
■「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」

『法之道』日応上人
■「金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教二七―四七四�n)

『日顕上人御講義』
■「総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。
この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。
また、創価学会がいくら歯ぎしりしようとも、譲座本尊の本義による代々の法主の仏法伝承の位は、厳然たる事実なのです。
そして、これは法主の権限ですから、『教師必携』に書くべき事柄ではない」(偽造本尊義を破す五九�n)

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◆「本山ですべて開眼」は真っ赤なウソ

日顕および日顕宗は「すべて御本尊は本山で開眼してきた」とヌケヌケと語っているが、
これは次のように真っ赤なウソである。

�@戦後〜昭和50年代
末寺で一括印刷、そのまま全国へ発送
宗門の御形木御本尊の印刷等は、すべて東京の法道院という末寺で行われ、末寺の注文に
応じて全国に発送されていた。ここでは印刷後、表装、箱詰めされて発送されるまでの間、
本山にも運ばれることなく、もちろん法主による開眼も一切されていなかった。
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【創価学会に対する破折】

末寺での御形木印刷は総本山のお取り次ぎ

 創価学会は、「御形木御本尊の印刷等はすべて東京の法道院という末寺で行われ……」と非難していますが、この件に関して日顕上人は、

■「以前に法道院より各末寺が送付を受けた御形木御本尊について『開眼がない』と推測しているのですけれども、当時の法道院主管の早瀬道応師、のちの日慈上人は、総本山の法主の許可によって、当時の形においてお取り次ぎをしていたのです。
故に総本山の正しい化儀に、なんら反していないのであります」(偽造本尊義を破す六二�n)

とご指南されています。

 「本山に運ばれることなく、もちろん法主による開眼も一切されていなかった」との非難については、前項で破折しています(本書193�n)。

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�A昭和54年以降

本山移管以後も御形木御本尊の開眼なし
本山内事部に御本尊を担当する部署が設置され、業務が本山に移管されてからも、勤めて
いた僧侶によれば、「御形木御本尊の場合、表装の前にも後にも、法主・日顕が祈念などす
ることなどなく、末寺に発送していた」
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【創価学会に対する破折】

信用できない離脱僧のよた話

 これも事実とは異なった、離脱僧による悪質な作り話です。

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【文 証】

『日顕上人御講義』
■「師僧背逆の離脱謗法僧どもが『御本尊の祈念を、我々が見たことがないから、そういうことはなかった』などと言っておるようですが、法主自らの権限事項をそんな小僧ど
もに教える必要もない。
私は今も所化・小僧に対して『今日はこうこうで、こういうことをしているんだ』などということを、ひとことも言ったことはありません。
だから、あの離脱僧どもは何も知らないでいたわけです。
それで今になって、『開眼はなかった』などと創価学会の者どもに言ったりしているらしいけれども、そんなものは問題になりません。
あるいは、創価学会に習った虚偽策謀の言とも言えましょう」(偽造本尊義を破す五九�n)

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日寛上人書写の御本尊
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日寛上人書写の御本尊について

【創価学会に対する破折】

日寛上人の名をかたる『ニセ本尊』

 学会の「日寛上人書写の御本尊」などという表題は、いかにも日寛上人が書写された御本尊を論じているように思わせますが、その内容は創価学会の『ニセ本尊』に関するものです。

 したがって、正しくは「創価学会作製の『ニセ本尊』について」というべきです。

 学会は、総本山大石寺第二十六世日寛上人のお名前を、会員を誑惑する表題に悪用しているのです。

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秋谷会長と語る 友の質問にこたえて(平成6年5月21日付より)
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【創価学会に対する破折】

消えぬ会員の疑惑、『ニセ本尊』

 上記の「平成6年5月21日」という日付けからすると、五年以上も前に発表した弁解を、また持ち出さなければならないほど、今なお創価学会の会員には『ニセ本尊』に対する疑惑と不安がつきまとっているようです。

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 ――日寛上人書写の御本尊の相貌について、十界の衆生が代表しか挙げられていないの
は何か意味があるのでしょうか。

 会長 大御本尊を書写した御本尊は、どの御本尊も大御本尊と同じ功徳があります。前
にも申し上げた通り、拝む側の信心が大事なのであり、��観心の本尊�≠ニいわれるゆえん
です。
 日寛上人が「妙法蓮華経の五字は本尊の正体なり」と述べているように、あくまで、御
本尊の根本は中央の首題の「南無妙法蓮華経 日蓮」です。そのうえで、御本尊にしたた
められている左右の十界の衆生は、御書に「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形とな
る」(御書1243�n)と仰せのように、妙法に照らされた本有の十界を顕しているのです。
 したがって、必ずしも十界の衆生が全部書写されていなくても、十界全体を代表してい
るのですから、本有の十界という法理を表していることは変わりがないのです。
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【創価学会に対する破折】

本尊義に邪説連発の学会会長

 会長の説明では、「大御本尊を書写した御本尊は、どの御本尊も大御本尊と同じ功徳があります」とのことですが、これでは言葉が足りません。

 この場合、正しくは��御法主上人によって書写され、開眼された御本尊ならば、どの御本尊も大御本尊と同じ功徳があります。
ただし、書写された日寛上人のご教示に背き、ご当代法主上人の許可もなく、謗法の輩によって勝手に印刷された『ニセ本尊』には、功徳がありません��
というべきです。

 また、学会では、「拝む側の信心が大事なのであり、��観心の本尊�≠ニいわれるゆえんです」といいますが、これは「信心に御本尊が具わる」(聖教新聞 平成五年九月九日付)という発想と同一のものです。
これは日蓮大聖人の一身のご当体にまします御本尊よりも、迷いの凡夫である自分たちの妄心を中心と考える本末転倒の邪義です。

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 ――他にも十界をすべて挙げられていない御本尊はあるのでしょうか。

 会長 十界の相貌の代表しか挙げられていない書写の例としては、他にも日興上人や日
目上人が書写された御本尊があります。また、草創期に流布した日寛上人の御本尊の相貌
も、現在授与されている日寛上人の御本尊と全く同じです。
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【創価学会に対する破折】

邪教の徒による御本尊の相貌論議

宗門では、日寛上人ご書写の御本尊に十界の聖衆が整足されていないことを理由に創価学会発行の漫荼羅を『ニセ本尊』と指摘しているのでありません。

 血脈相承となんのかかわりもない謗法者が、御本尊の相貌をとやかくいうことは厳に慎むべきです。

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 ――よく分かりました。次に、脇書きについて、御本尊に授与者の名前が記されていた
り、特別な脇書きが書かれているのはどういう意味があるのでしょうか。

 会長 脇書きそのものは、御本尊そのものの相貌とは別次元のものです。日興上人が「富
士一跡門徒存知の事」で述べられているように、御本尊の願主の名が記されているのは、
その強盛の信心を顕彰し、後代に伝えるためです。したがって、あくまでも信心の問題で
あり、脇書きが御本尊の相貌に含まれるわけではありません。
 創価学会常住の御本尊には日昇上人が「大法弘通慈折広宣流布大願成就」と脇書きを記
されました。私どもはその誓願のまま戦ってきた。御本尊に「広宣流布」とあってもだれ
も戦わなければ「大願成就」とならない。やはり、大切なのは、御本尊を拝する側が、ど
う受け止め、どう戦うかという信心ではないでしょうか。
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【創価学会に対する破折】

日寛上人の「授与書き」を削除した創価学会

ここでは、創価学会が浄圓寺所蔵の日寛上人書写の御本尊を勝手に複製印刷するにあたり、御本尊に書かれていた
「下野国小薬邑本如山浄圓寺大行阿闍梨本證坊日證授与之」
という授与書きを抹消したことについて、正しくは「授与書き」というべきであるのに、わざと「脇書き」という広い意味の言葉にすり替えて、デタラメな弁解をしています。

 ここで学会は明らかに、日寛上人が甚深の意義をもってしたためられた「授与書き」を軽んじています。

 第五十九世日亨上人は『有師化儀抄註解』に、
■「当流にては対境の本尊を授与せられ示書中の人とならざれば・信心決定即身成仏と云ふこと能はざるなり、故に宗祖は濫に曼荼羅を授与し給はず」(富要一―一一二�n)
と仰せられ、御本尊に認められる「授与書き」に重要な意義があることを教示されています。

 また、授与書きが「強盛の信心を顕彰し、後代に伝えるため」といっていますが、これも素人まるだしの短見です。
さらに、「脇書きそのものは、御本尊そのものの相貌とは別次元のもの」とのいい分も、御本尊の本義を知らない慢心者の虚言です。

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 ――日顕宗では、個人授与の御本尊を御形木御本尊として流布するのはおかしいなどと
言っています。

 会長 それでは、授与者名の入った御本尊は、その人にしか功徳がでないのか、という
ことになってしまいます(笑い)。こんな愚かな論議を平気ですること自体、大聖人の仏法
を知らず、御本尊まで独占物と考える日顕宗が頭破作七分の証拠です。
 御本尊はあくまで「一閻浮提の一切衆生の本尊」です。この一閻浮提総与の御本尊を、
仏子脅迫の道具にしてきた日顕こそ、御本尊否定の極悪の大邪師にほかなりません。
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【創価学会に対する破折】

苦しまぎれ!『ニセ本尊』正当化の珍問答

 ここで学会は、『ニセ本尊』に対する宗門からの糾弾を、授与者の問題にすり替えて正当化しようとしています。

 まず学会は、宗門があたかも『ニセ本尊』を、「授与者名の入った個人授与の本尊だから、形木にしても功徳はない」と非難したかのような質問をつくり、それに対して「授与者名の入った御本尊は、その人にしか功徳がでないのか」と勝手な反論をしています。
それは暗に、個人授与の本尊を印刷したものでも功徳はある、だから��会員が拝んでもだいじょうぶ�≠ニ答えているのす。

 宗門が学会作製のものを『ニセ本尊』と指摘するのは、御法主上人の允可も受けず、総本山からの下付でもなく、勝手に作製したからなのであって、学会がすり替えているような授与者名の有無や、個人授与か否かとか、功徳の有無を基準にしているのではありません。
まさしく苦しまぎれのすり替えといい逃れで固めた珍問答というべきです。

会長自ら「授与者名の入った御本尊は、その人にしか功徳がでないのか」などと、あたかも授与者名の入った本尊でも功徳が「でる」ようにいいながら、実際は本證坊日證師への授与書きを抹消して印刷・販売するという明らかな矛盾を犯しています。

 また、宗門が「一閻浮提総与の御本尊」を独占しているように非難しています。
ここで学会は「一閻浮提総与」の意味を、世界中の衆生に与えられたもの、すなわち衆生に所有権があると理解しているようですが、それは大きな間違いです。
本門戒壇の大御本尊を「一閻浮提総与の御本尊」と申し上げる意味は、一切衆生が救われるべき根本の法体ということであって、それは宗祖日蓮大聖人から、第二祖日興上人・日目上人と、代々の御法主上人に相承伝授されているのです。

 これを唯授一人の血脈相承とも、法体相承とも申し上げ、この相承を受けられた御法主上人のみに御本尊にかかわる一切の権能が具わっているのです。
 したがって、いかに本宗の御本尊はすべて「一閻浮提総与の御本尊」をご書写申し上げたものであるといっても、謗法者や仏法を破壊する邪教集団の輩にまで、みだりに下付しないのは当然です。

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 ――その日顕宗では、各家庭に安置している御本尊は、大御本尊の写しなのだから、大
御本尊を直接、拝さなければ大御本尊根本とはいえない、などと言っています。

 会長 そんな邪義は、御書のどこにもない。日寛上人も「戒壇の本尊を書写してこれを
掛け奉る処の山々、寺々、家々は皆これ道理の戒壇なり。当に知るべし、『是の処は即ち是
れ道場』等云云」と明確に述べています。大御本尊を書写した御本尊を拝するところは、
そのまま即身成仏の道場であり、霊山浄土です。
 むしろ、日顕および日顕宗の僧侶が大御本尊と間近に接していても、広宣流布を忘れ、
堕落し放蕩三昧している姿こそ、大御本尊を離れ地獄に堕していくことになるのです。成
仏は大御本尊との「距離」ではありません。やはり、大切なのは信心です。
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【創価学会に対する破折】

「登山参詣しなくとも功徳がある」とは、学会のまやかし

 ここでは、自らの謗法によって、大御本尊へのお目通りができなくなった創価学会が、会員をたぶらかすために、見苦しい屁理屈を並べています。

 本門戒壇の大御本尊まします総本山大石寺に参詣したいとの願望は、清純な信仰者ならば誰もが抱く当然の宗教的感情です。
会員にこの感情を起こさせないために、日寛上人の『報恩抄文段』を引用して、
��書写の御本尊が安置される所はすべて戒壇である、だから総本山に登山しなくてもよい�≠ニの邪見を述べていますが、この日寛上人のご教示は、時至って本門戒壇の大御本尊が安置される「事の戒壇」に対して、「義の戒壇」を明かしたご文であって、総本山へ参詣しなくてもよいと仰せられたご文ではありません。

 日寛上人のこのご文を引用するならば、「道理の戒壇」という言葉の意味を「明確に述べ」なければいけません。