登山

会員の登山参詣を阻止する学会指導
法華経の敵に供養すれば無間地獄に
学会員の真心で始まった登山会
大石寺に参詣すれば謗法与同で罰を
家庭の御本尊は大御本尊と同じ功徳
大御本尊を拝さないと成仏できないか
「特定の場所」が「浄土」ではない

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日顕宗は、登山会の参加者不足に悩み、卑劣にも学会員にまで登山の勧誘にくる。「大石寺
は霊山浄土」などと言葉巧みに誘うが、大謗法を犯す日顕宗の魔山に登山すれば、功徳ど
ころか罰を受けることは大聖人の御聖訓に照らして明白である。
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【創価学会に対する破折】

会員の登山参詣を阻止する学会指導

 創価学会では、日蓮正宗が「登山会の参加者不足に悩み、卑劣にも学会員にまで登山の勧誘にくる」といっていますが、これは宗門僧俗による学会員への折伏を「勧誘」という言葉にすり替えて脱会を防ごうとしているのです。

 宗祖日蓮大聖人のご魂魄まします総本山富士大石寺を「魔山」と誹謗する創価学会の心根が哀れです。

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法華経の敵に供養すれば無間地獄に

現在の大石寺は、大謗法を繰り返す日顕という法滅の妖怪が住む��魔山�≠ナある。法華経
の敵である日顕宗に供養して登山すれば、謗法への供養となり無間地獄に堕ちる。
           ◆
「法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば必ず無間地獄に堕つ」(御書1133�n)
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【創価学会に対する破折】

大石寺は昔も今も清浄

 大石寺は、過去も現在も仏法の根本である本門戒壇の大御本尊を厳護し、血脈付法の御法主上人がまします仏法の根本霊場に変わりはありません。

 日寛上人は『文底秘沈抄』に、総本山大石寺を本山と仰ぐべき理由として、

  一、富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に
  二、迹門を以て本門に例するが故に
  三、本門大戒壇の霊場なるが故に
  四、末法万年の総貫首の所栖なるが故に
  五、一閻浮提の座主の所住なるが故に

という五義を挙げられています。
現在においても、この五義はすべて総本山大石寺に脈々と息づき、伝えられています。

 この霊場の座主たる唯授一人の血脈を所持される御法主上人が「法華経の敵」のはずはありません。
逆に正法である日蓮正宗を誹謗する学会こそ大謗法であり、「法華経の敵」です。

 学会のいう「法滅の妖怪」「魔山」との口ぎたない誹謗は、池田創価学会の本性を如実に物語るものです。

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【文 証】

『真言見聞』
■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(新編六〇八�n)

『新池御書』
■「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(新編一四五七�n)

『五人所破抄』日興上人
■「富士とは郡の号、即ち大日蓮華山と称す。爰に知んぬ、先師自然の名号と妙法蓮華の経題と山州共に相応す、弘通此の地に在るなり」(新編一八七八�n)

『日寛上人御詠の詞書』
■「されば諸天も石劫打やめて嫡々付法の三大秘法のたたせ給ふ大いしの寺を守らせ給へ」(日寛上人伝九二�n)

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学会員の真心で始まった登山会

大石寺への月例登山会は、戸田第二代会長の発意により、創価学会によって昭和27年(1982
年)10月から始まった。当時、本山が経済的に疲弊しきっており、宗内にあった大石寺を
観光寺院化しようとする動きを憂慮された戸田会長が、大聖人の精神を断絶させないため
に開始されたのである。平成3年(1991年)までに実に七千万人(累計)が参詣している
が、宗門はその功績すら一顧だにしようとしない非人道教団である。
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【創価学会に対する破折】

自らの謗法で登山できなくなった池田学会

 学会の登山会が戸田城聖二代会長の発意で開始されたのは事実ですが、それは「大聖人の精神を断絶させないため」などというおおげさな理由ではなく、学会員の信心倍増と諸願成就を願ってのことであり、さらには、根本の霊場である大石寺を外護し興隆させようという、戸田会長の正法護持の精神によるものです。

 戸田会長は
★「御本山へ尽くすことはあたりまえのことなんだからね。それが自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない」
と指導しています。
現在の池田創価学会のように「学会の真心で始まった登山会」などと自慢し、また「宗門はその功績すら一顧だにしようとしない非人道教団」などと誹謗するようでは、戸田会長の指導にあるように、信者の資格はなく、破門されて当然です。

 謗法を犯し、自ら大石寺参詣の道を断った池田創価学会は、会員の成仏と幸せを念じて、登山会をはじめた戸田会長の意志に背いています。

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【文 証】

『戸田城聖全集』
■「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。
今後も、できるだけ多くの会員を登山させるよう、計画を立てたいと思っている」(三―四九〇�n)

■「御本山へ尽くすことはあたりまえのことなんだからね。それが自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない」(四―二三七�n)

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学会指導より

大石寺に参詣すれば謗法与同で罰を

今日、大石寺に参詣すれば、功徳どころか、大聖人の御叱りを受けて、罰を受けるだけで
ある。
一閻浮提総与の大御本尊が、信仰の根本であることは、少しも変わりはない。しかし、大
御本
尊に御目通りするために日顕に供養することは、日顕の謗法を容認することになる。謗法
の僧
を支えれば、同じ罪を得てしまう。「与同罪」といって、いわば共犯者になるのである。謗
法
に与同して、大御本尊に御目通りしても、��仏敵と戦わず、かえって供養するとは何ごと
か��
と、大聖人から厳しく叱責されることになる。
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【創価学会に対する破折】

大石寺誹謗の学会にこそ大聖人のご叱責が

 戒壇の大御本尊は成仏の根源であり、御開扉を受けて罰が当たることはありません。
 戸田会長は、会員に対して、
 ★「御法主上人猊下をとおして大御本尊を拝しますれば、かならず功徳が出る」
と指導しています。

 宗祖大聖人以来の唯授一人の血脈を承継あそばされる御法主上人猊下を誹毀讒謗し、本門戒壇の大御本尊まします総本山大石寺への参詣を卑しめる池田創価学会こそ、仏法を破壊する恩知らずとして「大聖人から厳しく叱責される」ことは間違いありません。

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【文 証】

『四条金吾殿御返事』
■「仏菩薩の住み給ふ功徳聚の砌なり。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし。然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし」(新編一五〇二�n)

『寿量品談義』日寛上人
■「金口の相承と申して一器の水を一器に瀉すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり。(中略)既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ」(富要一〇―一三一�n)

【創価学会が主張していた文証】

『広布と人生を語る』池田大作
★「日蓮大聖人の御魂は、多宝富士大日蓮華山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊に御留めおかれているのである」(三―二四六�n)

『人間革命』池田大作
★「真の仏教はどこにあるのかといえば――結論して言えば、富士の麓の大石寺という寺に、七百年間、法灯連綿と伝わっている日蓮正宗だ」(八―一四七�n)

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家庭の御本尊は大御本尊と同じ功徳

戒壇の大御本尊を直接、拝さないと信心がないとか、成仏できないかのように言う人間が
いる。もちろん、破折するまでもない邪論であり、暴論である。各家庭の御本尊は、大御
本尊と一体の、分身散体の御本尊であられる。功徳もまったく同じである。
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【創価学会に対する破折】

学会員所持の本尊には功徳がない

 ここで創価学会が主張する、「戒壇の大御本尊を直接、拝さないと信心がないとか、成仏できないかのように言う人間」とは、いったい誰のことでしょう。
宗門内の僧侶も信徒も、そのようなことはいっておりません。

ただし、創価学会のように戒壇の大御本尊を信じているといいながら、大御本尊まします総本山を誹謗し、大御本尊への参詣を否定するならば、それはもはや日蓮正宗の信仰ではなく、成仏も功徳もありえません。

 また学会では、「各家庭の御本尊は、大御本尊と一体」だといっていますが、大御本尊のご内証を唯授一人の血脈相伝によって、御法主上人がご書写されたのが「各家庭の御本尊」であり、この「各家庭の御本尊」は、本門戒壇の大御本尊を恋慕渇仰し、唯授一人の血脈相承に随順する心をもって信行礼拝するとき、はじめて「大御本尊と一体」の功徳を顕わすのです。

したがって、虚偽ねつ造による悪宣伝を真に受けて、日蓮正宗の教えに離反し、大御本尊へのお目通りを拒否する創価学会員が、いかに家庭の本尊を拝んでも功徳があるわけはありません。

まして、『ニセ本尊』などは「本尊」ともいえない魔の産物であり、論外です。

 日蓮正宗の信仰をしていると称する者が、いかなる理由があるにせよ、怨念や嫌悪感によって��総本山大石寺への参詣�≠ニ��大御本尊へのお目通り�≠�拒否することは、信仰の上で致命的な過ちを犯していることを知らなければなりません。

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【文 証】

『文底秘沈抄』日寛上人
■「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れな り」(六巻抄六八�n)

『観心本尊抄文段』日寛上人
■「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(文段集四五二�n)

『法華取要抄文段』日寛上人
■「一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。
然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり」(文段集六〇一�n)

【創価学会が主張していた文証】

『大白蓮華』
★「大海の水と小さな器の水とでは、同じ海水であっても違うように、本門戒壇の大御本尊は無量無辺の大海の水であり、末法万年の外未来までも流れる一切大衆の信仰の根源であり、功徳の本源であります。
私たちが家庭へ頂いて一家で信心している御本尊とはその意義が異なるのです」(昭和三二年四月号三一�n)

『広布と人生を語る』池田大作
★「日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。
また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。
外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。
法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(八―二二八�n)

【創価学会員への質問】

○ 創価学会でいうように、「家庭の御本尊」はすべて大御本尊と同じ功徳があるというならば、「家庭の御本尊」を拝んでいる顕正会や正信会の者も成仏できるというのですか。

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大御本尊を拝さないと成仏できないか

大聖人は、一度も直接会ったことのない松野殿という信徒に心から激励されている=(御
書1379�n)「大聖人にお会いしていない」とは、大聖人御入滅後の今でいえば、御本尊を
直接拝したことがないということに当たろう。もちろん大御本尊も拝したことがない人の
ことである。しかし、大聖人は「直接お会いしていないにもかかわらず、信心されるとは、
何と素晴らしいことか。必ず成仏されますよ」と仰せなのである。大切なのは心である。「た
だ心こそ大切」(同1192�n)なのである。形のうえで、大聖人に会った、会わない、御本
尊を直接に拝した、拝さない――それで成仏が決まるのではない。いわんや、大石寺に来
なければ信心がないなどと主張するのは、大聖人の御言葉と正反対であり、御本仏即大御
本尊への敵対である。大御本尊に敵対しながら、大御本尊を拝しても功徳があるわけがな
い。
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【創価学会に対する破折】

『松野殿御消息』を曲解する創価学会

 宗門では、「大御本尊を拝さないと成仏できない」とか、「大石寺に来なければ信心がない」などとはいっていません。
大石寺への参詣を否定し、総本山大石寺を侮蔑する輩が成仏などかなうはずがないといっているだけです。

創価学会は、大石寺にまします大御本尊へのお目通りを否定するために、『松野殿御消息』を引用していますが、この御書は、面識のなかった松野殿からの御供養の品々に対する大聖人の御礼の書状であり、そこには法華経を信ずることの大切さと、正法の功徳の大なることが懇切に教示されています。

 しかし、この御書のどこにも、創価学会が主張するような、��日蓮のもとに来なくてもよい�≠ニか��本寺へは来るな�≠ネどということは書かれていません。

 この御書のほかにも、まだ面識のない信徒への書状は数多くありますが、これらの御書をもって登山参詣を否定する証拠にする創価学会の神経と信仰は、完全に狂っているとしかいいようがありません。

 なお、この御書を著わされた二年後の松野殿への書状には、松野殿が大聖人のもとに参詣されたことが記述されています。

 また、『四条金吾殿御返事』の「ただ心こそ大切なれ」のご文を引いていますが、このご文にいう「心」は、その後にある「強盛に信力をいだし給ふべし」「深く信心をとり給へ」
と仰せの信心を指しているのです。

 日蓮大聖人の仏法においては、本門戒壇の大御本尊を根本尊崇の法体と仰ぎ、血脈継承の御法主上人のご指南に随順してはじめて正しい信心になるのです。

 したがって、信仰に励む僧俗が日蓮大聖人をお慕いし、大御本尊様へのお目通りを願って総本山へ参詣することが、「心こそ大切なれ」とのご教示を正しく実践する原点なのです。

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【文 証】

『松野殿御返事』
■「山中のすまゐ思ひ遣らせ給ふて、雪の中ふみ分けて御訪ひ候事、御志定めて法華経・十羅刹も知ろし食し候らん」(新編一二〇〇�n)

『千日尼御前御返事』
■「佐渡の国より此の国までは山海を隔てゝ千里に及び候に、女人の御身として法華経を志しましますによりて、年々に夫を御使ひとして御訪ひあり。定めて法華経・釈迦・多
宝・十方の諸仏、其の御心をしろしめすらん」(新編一二九〇�n)

『南条殿御返事』
■「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん。彼の中天竺の無熱池に臨みし悩者が、心中の熱気を除愈して充満其願如清涼池とうそぶきしも、彼此異なりといへども、其の意は争でか替はるべき。彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり。参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし」(新編一五六九�n)

【創価学会が主張していた文証】

『折伏教典』
★「富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」(三一四�n)

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「特定の場所」が「浄土」ではない

御書にはまた、「法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや」
(同72�n)と。――法華経を修行する人のいるところを浄土と思いなさい。どうして、わ
ずらわしく、別の場所を求める必要があろうか。必要はないのである。――浄土といって
も、どこか特定の場所ではない。妙法の行者、広宣流布の行者が活躍しているところ――
そこが真の浄土なのである。「どうして、わずわらしく、他の場所を求めるのか。そんな必
要はない」と仰せである。ゆえに、「大石寺に行かなければ成仏できない」と言うのは、御
書に背く邪義である。
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【創価学会に対する破折】

西方極楽浄土と大石寺を同一視する珍説

 ここでも創価学会は、『守護国家論』の一節を曲解して、大石寺に行く「必要はない」ということの文証にしていますが、このご文は、西方極楽浄土を説く念仏に対して、法華経では娑婆世界がそのまま浄土であると説いているものです。

 したがって、これは「浄土」について法華経と念仏を対比しているご文です。
このなかで、日蓮大聖人が浄土と規定された「法華経修行の者の所住の処」を創価学会では、「妙法の行者、広宣流布の行者が活躍しているところ」であって、「特定の場所」すなわち大石寺ではないかのようにいっています。

 文中の「法華経修行の者の所住の処」について、日寛上人は、『末法相応抄』に、

■「南条抄二十二に云わく『教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。斯かる不思議なる法華経の行者の住処なれば、争でか霊山浄土に劣るべき』云云。蓮師豈寂光土に居するに非ずや」(六巻抄一五三�n)

と仰せられ、法華経の行者とは日蓮大聖人であり、その所住の処が常寂光土であると指南されています。
また、この学会が引用したご文の「他処」とは西方極楽浄土を指していることは明らかですが、これをなんと学会では、総本山大石寺に結びつけて解釈しているのです。
こんな珍奇な解釈は前代未聞です。

 『文底秘沈抄』には、

■「問う、霊山浄土に似たらん最勝の地とは何処を指すとせんや。答う、応に是れ富士山なるべし、故に富士山に於て本門の戒壇之れを建立すべきなり」(六巻抄六一�n)

と教示されています。
これら日寛上人のご教示を拝するならば、真の浄土とは、邪教の徒と化した創価学会員がうごめいている場所ではなく、末法のご本仏・法華経の行者日蓮大聖人の住まわれるところ、すなわち本門戒壇の大御本尊がご安置されている場所であることは明白です。

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【文 証】

『文底秘沈抄』日寛上人
■「然るに三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処貴しとは是れなり」(六巻抄六四�n)

『寿量品談義』日寛上人
■「廿四代金口の相承と申して一器の水を一器に瀉すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり。未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ」(富要一〇―一三一�n)

【創価学会への質問】

○創価学会では、��真の浄土とは、広宣流布の行者が活躍する場所であって、「他処」とか「特定の場所」にあたる大石寺には参詣する必要がない�≠ニいうことですが、もともと総本山参詣は必要ないものだったのですか。

・「参詣する必要がない」とはいっていない……言葉尻ではなく、学会の主張を総合的に見て、必要か否かを質問しているのです。
・必要はない……戸田会長や池田大作の指導はウソだったのですね。
・必要だ…………創価学会にいるならば、大御本尊へのお目通りは生涯できませんよ。