僧俗差別

時代遅れの日顕宗の僧俗差別観
宗開両祖は「僧俗は平等」と御教示
自ら邪義を証明する学会の御書引用
学会引用の『弟子分帳』にも僧俗の区分は明らか
日顕宗の邪義「僧俗師弟義」
「住職をいばらしてはならない」

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日顕宗には「僧が上、俗は下」という封建的な、抜きがたい僧俗差別観がはびこっている。
これは信仰における僧俗の平等を説かれた大聖人、日興上人の精神をゆがめる大謗法の邪
義である。

時代遅れの日顕宗の僧俗差別観

今回の宗門問題では、日顕宗の救いがたい僧俗差別観があらわになった。
◆
「僧俗には大聖人の仏法に即した本来的な差別が存するのは当然であります」
                   (平成3年1月12日付 学会に送られた藤本総
監文書)
「本質的に僧俗平等、僧俗対等などと主張することは、信徒として仏法の位階をわきまえ
ない大増上慢者と断ぜざるをえません」(同前)
「あたかも僧俗がまったく対等の立場にあるように言うのは、信徒としての節度・礼節を
わきまえず、僧俗の秩序を失うものである」
               (平成2年12月16日付 学会に送られた宗門の「お尋
ね」文書)
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【創価学会に対する破折】

すべてにそなわる差別・平等の二面性

 人間社会のみならず、この世に存在する一切のものに、現象的な差別観と普遍的な平等観の両面があることは、誰もが知っています。

 法華経の「諸法実相」という経文も、事相差別の諸法と平等真理の実相という、二面の関係をいい表わしたものです。
この平等と差別の二面性は、信仰の世界においても、また僧侶と信徒の関係の上においても当然あります。

 ところが、創価学会は、宗門で発表した文書や言葉のなかから、むりやり差別に関する部分のみをとり上げて、あたかも僧侶が宗教的権威を振りかざし、信徒の上に君臨しているように印象づけています。

 ここで学会は、藤本総監の名のもとで宗門から創価学会に送った『宗務院よりの指摘』と『お尋ね文書』を挙げていますが、引用している部分は明らかな切り文です。
引用の文書では、妙法の御本尊に向かって唱題する信仰の上においては僧侶も信徒も平等であるが、現実的な信仰活動上の化儀においては僧俗の立て分けは厳然と定められていることが述べられています。

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【文 証】

『涅槃経』
■「内には弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」(新編七九〇�n)

『日興遺誡置文』
■「若輩たりと雖も高位の檀那より末座に居くべからざる事」(新編一八八五�n)

『化儀抄』日有上人
■「貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」(聖典九七三�n)

『お尋ね文書』
■「御本尊を拝する姿においては、一応平等でありますが、そこには当然僧俗の区別があり、礼儀をわきまえなければなりません」(大日蓮号外 平成三年一月二五日付 二七�n)

『宗務院よりの指摘』
■「『化儀抄』でいう信心の意味するところは、妙法の御本尊に向かって本門の題目を唱えるところ、すなわち九界即仏界という本因妙成仏の義をいうのでありまして、そこには当然僧俗の差別はなく、平等であります。
しかし、『化儀抄』の」『然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか』との仰せは、明らかに平等の中にも上下の差別があることを示されたものであります。
したがって、その外の一切の信仰活動上の化儀について、平等であるという御指南ではありません」(大日蓮号外 平成三年一月二五日付 一〇八�n)

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宗開両祖は「僧俗は平等」と御教示
しかし、大聖人の御書には僧俗差別の依文は一切なく、僧俗の平等を説かれるのみである。
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【創価学会に対する破折】

「御書には僧俗の平等を説かれるのみ」とは誑惑の虚言

 創価学会は、��日蓮大聖人の御書に僧俗差別の依文は一切ない�≠ネどといっていますが、僧侶と信徒に本質的な差別があるなどと大聖人が仰せられるはずはありませんし、宗門においてもそのようなことをいったことはありません。

 日蓮大聖人が「僧俗の平等を説かれるのみである」という創価学会の主張は、会員をたぶらかす邪義です。

 大聖人は、信徒の新池左衛門尉に与えられた書状のなかで、

■「末代の衆生は法門を少分こゝろえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。(中略)何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし」(新編一四六一�n)

と仰せられ、法華経を受持する信徒の立場として、正法の僧侶を敬うことが大切であるとご教示されています。
ここにも信仰活動における化儀の上から、僧侶と信徒の立場の違いをはっきりと説き明かされています。

 また、『出家功徳御書』には、

■「されば其の身は無智無行にもあれ、かみをそり、袈裟をかくる形には天魔も恐れをなすと見えたり。(中略)出家と成る事は我が身助かるのみならず、親をも助け、上無量の父母まで助かる功徳あり。されば人身をうくること難く、人身をうけても出家と成ること尤も難し」(新編一三七一�n)

とあり、出家となる身は形の上においても在家と異なり、また我が身の得道と衆生済度という意義においても僧侶は在家と異なりがあることをご教示されています。

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【文 証】

『諸人御返事』
■「所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合はせ是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等、出家は主上・上皇の師と為り、在家は左右の臣下に列ならん」(新編一二一一�n)

【創価学会が主張していた文証】

『池田大作発言』 
★「僧宝とは、今日においては日興上人より唯授一人の法脈を受けられた御法主上人猊下であられる。また、御僧侶は全部猊下の弟子である。法類である。ゆえに、いかなる理由があるにせよ、我々はご僧侶を大切にしなければならない」(聖教新聞 昭和五三年二月二六日付)

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「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしう(主)と
こそ仏は御らん候らめ」(御書1134�n)

「法師品には若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給いて僧も俗も尼も女も一句をも人
にかたらん人は如来の使と見えたり」(同1448�n)
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【創価学会に対する破折】

自ら邪義を証明する学会の御書引用

 ここで創価学会は、『四条金吾殿女房御返事』と『椎地四郎殿御書』を引用していますが、これらのご文は、妙法を信仰し、弘通・折伏に励む者は、総じて等しく「一切衆生の主」であり「如来の使い」であるとのご教示であって、僧侶と信徒がまったく平等であることの文証ではありません。

 むしろ、この『椎地四郎殿御書』には引用文に続いて、

■「貴辺すでに俗なり。善男子の人なるべし。此の経を一文一句なりとも聴聞して神にそめん人は、生死の大海を渡るべき船なるべし」(新編一五五五�n)

とあり、日蓮大聖人は椎地殿が在家信徒として法華経の法門を聴聞することが大切である旨のご教示をされています。

 この御書に「一文一句なりとも聴聞して」とありますが、聴聞すべき説法の講師が誰であるか記されておりません。
しかし、「貴辺すでに俗なり」とのお言葉や、当時大聖人の門弟が各地に派遣されて信徒教導にあたっていた背景などから、駿河の国駿東地方に在住していた椎地殿はじめ周辺の信徒に対して説法講話をしたのは、大聖人の門弟(僧侶)であったことが容易に推察できます。

 創価学会教宣部がせっかく見つけた「僧俗平等論」の御書の文証が、実は僧侶と信徒の筋目と、その役割を明確に立て分けられたご教示だったというわけです。

【大聖人門弟が各地信徒の教導にあたっていた文証】

『弁殿尼御前御書』
■「(※佐渡の大聖人より鎌倉の弁阿闍梨日昭に対して)弁殿に申す。大師講ををこなうべし。大師とてまいらせて候。三郎左衛門尉殿に候文のなかに、涅槃経の後分二巻、文句五の本末、授決集の抄の上巻等、御随身あるべし」(新編六八七�n)

『六郎次郎殿御返事』(富士加島在住信徒)
■「明日三位房をつかはすべく候。その時、委細に申すべく候」(新編一一〇三�n)

『千日尼御前御返事』(佐渡在住信徒)
■「法華経十巻をくりまいらせ候。日蓮がこいしくをはせん時は学乗房によませて御ちゃうもんあるべし」(新編一二五三�n)

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また、日興上人の「弟子分帳」には、弟子の寂日坊(僧侶)を「日興第一の弟子」と記さ
れているが、俗弟子(在家)の南条時光も同じく「日興第一の弟子」と記され、全く僧俗
の差別を設けられていない。
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【創価学会に対する破折】

学会引用の『弟子分帳』にも僧俗の区分は明らか

 ここでも創価学会は、自ら引用した文証で、自分たちの主張が邪義であることを証明しています。

 学会は、日興上人が書き記された『弟子分帳』(弟子分本尊目録)をもって、「僧俗平等論」の証拠にしようとしていますが、この『弟子分帳』は、冒頭、本弟子六人を筆頭に僧
侶の弟子分が記された上で、「次に俗弟子分」「次に女人弟子分」「次に在家人弟子分」という順序で構成されており、明らかに日興上人が僧俗の区別をつけていたことがわかります。

この日興上人のご記述を見ても、「全く僧俗の差別を設けられていない」などという創価学会のいい分が、宗祖日蓮大聖人・第二祖日興上人の御意に背いていることは明らかです。

 ちなみに、創価学会が発行した『新版仏教哲学大辞典』にも『弟子分帳』について、その内容が「弟子分、俗弟子分、女人弟子分、在家弟子分」に区別されている旨の説明があります。

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日顕宗の邪義「僧俗師弟義」
日顕宗は��僧侶は師、信徒は弟子�≠ニいう、いわゆる「僧俗師弟義」を主張し、僧侶によ
る信徒支配を正当化している。ここでは本来直結であるはずの「御本尊」と「信徒」との
中間に「僧侶」が介在し、信徒の祈りを僧侶が取り次ぐという、ゆがんだ信仰観になって
いる。

   日顕宗「僧侶による取り次ぎ」
     御本尊―僧侶―信徒

   大聖人の本義「御本尊直結」
     御本尊―信徒
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【創価学会に対する破折】

創価学会こそゆがんだ��俗俗師弟義��

 日蓮大聖人の御書や歴代上人のご指南を拝すると、僧俗のけじめがはっきりとつけられています。

 もとより、本宗の僧俗は、すべてご本仏日蓮大聖人を根本の師匠と仰ぎ、大聖人滅後においては、日興上人をはじめとする唯授一人血脈付法の御法主上人を大導師と仰いで信仰していくことは当然です。

 また、本宗の檀信徒が御法主上人より任命を受けた所属寺院の住職・主管の指導のもとに信仰の増進をはかることも、師弟相対の法門を重んずる本宗においては当然のことです。

 学会でいう、いわゆる「僧俗師弟義」などという言葉は、宗門においてはありませんし、「僧侶による信徒支配」などという発想は、創価学会の無知からくる「ゆがんだ信仰観」です。

 なお、本宗の教義信仰に基づく本来の師弟相対の真義を見失い、池田大作と会員との間にのみ師弟相対を立てる創価学会こそ、ゆがんだ��俗俗師弟義�≠ノ毒された集団というべきです。

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【文 証】

『松野殿御返事』
■「法師品には『人有って八十億劫の間、無量の宝を尽くして仏を供養し奉らん功徳よりも、法華経を説かん僧を供養して、後に須臾の間も此の経の法門を聴聞する事あらば、我大なる利益功徳を得べしと悦ぶべし』と見えたり」(新編一〇四七�n)

『法華初心成仏抄』
■「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」(新編一三一四�n)

『佐渡国法華講衆御返事』日興上人
■「この法門は、師弟子をたゞして仏になり候。師弟子だにもちがい候へば、おなじ法華をたもちまいらせて候へども、無間地獄におち候。(中略)案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、これは聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これが大謗法にて候なり」(歴全一―一八三〜一八四�n)

『日淳上人全集』
■「当門に於ては、講頭並に講中の役員は決して教師の意味を含むではいない筈であります」(七二〇�n)

【創価学会が主張していた文証】

『広布と人生を語る』池田大作
★「法灯連綿と七百三十年のあいだ、厳護されてきた法水は、御当代御法主日顕上人猊下に受け継がれておられる。御法主上人の御説法を拝しながら正しく信行に邁進しゆくことが大切なのである」(三―二九七�n)

『聖教新聞』
★「よき法とは、いうまでもなく、末法の法華経たる三大秘法の大仏法であります。
よき師とは、末法の御本仏日蓮大聖人であらせられ、また代々の血脈付法の御法主上人猊下であると拝するのであります。私ども創価学会は、よき檀那の立場でなくてはなりません」(昭和五三年一一月八日付)

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「住職をいばらしてはならない」
戸田第二代会長は坊主のもつ信徒蔑視の体質を早くから見抜いておられ、「住職をいばらし
てはならない」と厳しく指導されている。
◆
「御住職をいばらしてはなりません。お世話をもうしあげ、お寺の御奉公はとうぜんであ
るけれども、むかしから悪いくせがある。坊さんは、信者を家来か召使のごとく思う悪い
くせがある」(昭和29年12月15日 群馬県高崎市・勝妙寺入仏式)
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【創価学会に対する破折】

戸田会長も「僧侶が将校、信徒は兵隊」と指導

 戸田二代会長は、この時の指導のなか、

★「今後は私のいうことを忘れずにいてほしいのは、信心を基調にして、折伏することと、お寺を大事にすることと、御本山へ尽くすことはあたりまえのことなんだからね。それが自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない」
とも、
★「弟子檀那と申しまして、御僧侶方が将校でありますれば、われわれは兵隊であります」
ともいっています。

 この戸田会長の言葉にも、僧侶と信徒との、仏法上の立場の違いがはっきりと表われています。

 なお、戸田会長が心配していたように、以前は宗内に、信徒にいばり散らしたり、道念微弱にして行体不良の僧侶もいましたが、これらの者は正信会問題や学会問題が起きるたびに、次々と離脱・退転し、現在は御法主日顕上人のご指南のもとに道念篤き僧侶が信徒とともに、唱題・折伏に精進しています。
まさしく宗門は大御本尊の大きな功徳に包まれ、僧俗和合の麗しき姿をもって前進しているのです。

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【文証】

『広布と人生を語る』池田大作
★「近年、御宗門においても、御法主上人猊下に師敵対する徒輩がでた。彼らは擯斥された。愚見するに、それは、富士の清流をますます浄化していくにちがいない」(三―九六�n)