神札問題
神札の受諾と法主の焼死
御書の御文の削除
観念文の神道風の改変
宗門の戦争協力
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宗門の謗法容認
神札の受諾と法主の焼死
昭和18年(1943年)6月、宗門は、当局から各家庭に配布されていた天照太神の神札を
受けることを決断。牧口会長、戸田理事長らを本山に呼び、二上人立ち会いのもとで神札
を受けるよう申し渡すが、牧口会長は断固として拒否。その直後、学会幹部の逮捕投獄と
なる。
一方、宗門は本山書院のほか全末寺の庫裏等に神札をまつる指示を出し、謗法の坂道を
転げ落ちていった。仏法の因果は厳しく、昭和20年(1945年)6月17日、時の第62世
法主・日恭が焼死するという厳罰が下ったのである。
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【創価学会に対する破折】
混乱の時代、正法を守り抜いた宗門
第二次世界大戦が始まる頃、日本は次第に戦時体制が強化され、軍部や政府の干渉によって、日蓮門下を一つの教団に統合するという「日蓮宗統合問題」が起こりました。
宗門は身延派日蓮宗などと合同するか、あるいは解散するかという窮地に陥りましたが、時の御法主日恭上人は、自ら断固として身延派との合同を拒否し、単立の認可を勝ち取りました。
これによって本門戒壇の大御本尊と血脈の尊厳が守られたのです。
またこの頃、軍部主導の政府は、国家神道化を強力に推し進め、仏教各宗派に対しても神道の行事を国家行事として強制してきました。
宗門においても、言論統制の厳しい状況のもと、無用な混乱をさけるために強制的な当局の命令を形式的にそのまま宗内に伝達していました。
このような異常な状況のなかで、神札問題が起きました。
その神札問題とは、政府が国家統制のために国民に配布した「天照太神」と印刷された紙片を宗内の僧俗が受け取るか否かというものです。
この問題に対する宗門の対応について、日達上人は後に、次のような回顧談をされています。
■「このとき、宗門としても神札を祀るなんてことはできないからね、一応うけるだけうけ取って、住職の部屋のすみでも置いておこうという話になったわけです」(日達上人全
集一―五―六四六�n)
宗門は無用の軋れきによって国家権力が大御本尊と御法主上人におよぶことに配慮し、さらには信徒の身の安全を思い、信徒に対して、配られた神札は一応、受け取っておくよう指示しました。
これは謗法厳誡の宗門として、苦慮の末、断腸の思いで下した結論でした。
当時、学会でも、各理事・各支部長宛に、戸田城外(城聖)理事長の名前をもって『通諜』という文書が出され、神札を粗末に扱わないよう指導したのです。
終戦直前の昭和二十年六月、大石寺の客殿は不慮の火災にあい、時の御法主日恭上人は一国謗法の責任と宗内僧俗の一切の最終的責任を一身に負われ、法衣をまとい御宝蔵にまします大御本尊を遥拝しつつ、火災のなかで覚悟のご遷化を遂げられました。
このご遷化について、後代の部外者が悪意をもって非難することもありましたが、一国の平和を願い、令法久住・広宣流布をご祈念されておられた日恭上人の深く尊いお心をも知らず、勝手な憶測をもって「厳罰」などと誹謗することは許されません。
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【文 証】
【合同問題に関する文証】
『人間革命』池田大作
★「猊下は、お一人で文部省を訪れた。身延との合同問題が、国家権力の強圧の下に、実行に移されるばかりになっていた。
猊下は、単身、当局に向かって『合同、不承知』をば厳然と宣言して帰られたのである。
――日蓮大聖人の、正法正義を継承する本宗は、断じて、邪法邪義たる身延をはじめ、いかなる宗とも、絶対に合同はせぬ――と。
その毅然たる態度、迫力に、役人は驚いた。
なおも猊下は、――たとい今、頸を切られてここに死すとも合同せず――と叫ばれて、ここに正宗の法水を護り抜かれて帰られた。
じつに、日蓮大聖人の、幕府権力に対決した時のお姿が、そのまま拝されるのである」(一―二六七�n)
【神札問題に関する文証】
『日達上人全集』
■「総本山において、天照大神のお札を貼ったことは一度もありません。
(中略)
別に我々がその天照大神のお札を拝んだことなどありもしない。
また、実際その中(※軍部が強制的に使用していた書院)へ入って見たこともない。
入れてくれもしない。
まあ借家同然で、借家として貸したんだから向こうの権利である。
そういうような状態であって、決して我々が天照大神のお札を祭ったとか、拝んだとかいうことは、事実無根であります。
(中略)決して天照大神のお札を祭ったこともなければ、またそういう社を造ったこともない。
また、間違ってそういうことをするのを、これを謗法といって、大聖人、日興上人、日目上人の歴代において少しもそういう謗法を、本宗においてはしたこともないし、もちろん信者にそういうことを勧めたこともない」(二―五―六〇七〜六〇九�n)
【日恭上人御遷化に関する文証】
『日恭上人遺弟の追臆談』
■「大奥二階の内仏安置の部屋の処に、上人が、お姿の上体を御宝蔵の方向に向かわれ、お頭は大腿部の間にお俯せになり、『覚悟の死』と思われるお姿で御遷化されておいでになった。
この時、私は『もし御前様が避難しようと思えば、寝室の隣の部屋(内仏様御安置)に行くことが出来たくらいなのだから、北側のベランダのある部屋に御宝蔵側はガラス戸と欄干があり、そこから空襲時の用意に常備してあった非常梯子を使って避難出来たのに』
と思った。
しかし、今にして思うと、上人は当時の幾つかの決意を覚悟するものがあったと拝するのである」(大日蓮 平成六年九月号八五�n)
【創価学会が主張していた文証】
『人間革命』池田大作
★「焼けただれた管長室には、第六十二世日恭猊下が、おいたわしくも、身を火焔に自ら焼き、端座したままの姿であられたのである。
しかも、正装であり、袈裟をかけた、お姿である。
そして、一閻浮提総与の大御本尊を、御安置した、御宝蔵の方に向かっていた。
猊下はお逃げになることは、いくらでも出来たのである。
その証拠に、数百人の罹災者のなかで、負傷者は一名もなかった。
客殿の、焼亡とともに、何故に、吾が身をみずからお焼きになったのか――凡庸の推察は、差し控えなければならない」(一―二六六�n)
『大白蓮華』
★「日蓮正宗の歴史をふりかえってみたとき、日目上人以後、大御本尊守護のきびしい時代に入ったと推察できる。
六百余年の歳月の流れの中には、直接間接にわたって、さまざまな事件、問題が起こり世の遷り変わりに影響されたり、法統をゆするような嵐にまきこまれたこともある。
しかし、いかなることがあったにもせよ、日蓮大聖人以来、六十六世の日達上人猊下にいたるまで、唯授一人の血脈相承によって、法統連綿と清浄に大御本尊が受け継がれてきたことは、不思議なことであり、大聖人の仏法の偉大さに胸うたれるばかりである」(昭和四〇年一〇月号五六�n)
【参 考】
『通諜』戸田城外(城聖)
★「学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと(中略)皇
大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱いな
き様充分注意すること」(昭和一八年六月二五日付)
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御書の御文の削除
昭和16年(1941年)9月、宗門は御書の御文14カ所の削除を命ずる通達を出した。これ
は�@大聖人が自らを御本仏と宣言された箇所�A天照太神に関する記述�B国主に言及された
箇所など、天皇、国家神道への不敬にあたる恐れのある表現をすべて削除したのである。
主な削除箇所
「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(御書974�n)
「天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重けれども梵釈・日月・四天に対すれば小
神ぞかし」(同919�n)
「此の日本国の一切衆生のためには釈迦仏は主なり師なり親なり、天神七代・地神五代・
人王九十代の神と王とすら猶釈迦仏の所従なり」(同1410�n)
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【創価学会に対する破折】
徹底した軍部の言論統制
創価学会は、宗門が御書のご文を削除したと非難していますが、宗門はきびしい言論統制のなかで、御書要文集の一部のご文にかぎって、法話・講演での引用を控えるよう通達したのであり、御書の改変をしたのではありません。
これは、無用の軋れきから大御本尊と唯授一人の血脈を守るための一時的な措置であり、これによって宗義が変わったわけではなく、謗法を容認したわけでもありません。
むしろ正法護持のために苦心された先達をののしり、御書を切り文して大聖人のご真意をねじ曲げる創価学会こそ大謗法の集団なのです。
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【参 考】
『日達上人全集』
■「このとき(※戦時中の神札問題のとき)は、御遺文集の不敬にわたる箇所を、みんなふせろという命令も出ましたからね。
幸い本宗ではそのとき御書を発刊してなかったから問題がなかったが、ひどい弾圧ですよ」(一―五―六四六�n)
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観念文の神道風の改変
昭和16年(1941年)8月、宗門は勤行の観念文を改変する通達を出した。これは「皇祖
天照太神」「皇宗神武天皇」「皇国」など皇国史観の用語に満ち満ちた神道風の観念文に改
変してしまったのである。
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【創価学会に対する破折】
諸天供養の観念文の一部変更について
創価学会は、宗門が初座の観念文を「皇祖天照太神」「皇宗神武天皇」「皇国」などの用語をもって神道風に改変したと非難しています。
宗門が観念文を変更したのは、天皇統治の意識を高揚する当時の風潮にしたがわざるを得なかった背景によるもので、諸天に法味を捧げるという本来の意義に変化はありません。
学会が「神道風」といっている「皇祖」「皇宗」とは、ともに天皇家の先祖という意味で、「神道風」というほどのものではありません。
『神国王御書』には、
■「国主をたづぬれば(中略)地神五代の第一は天照大神、(中略)人王は大体百代なるべきか。其の第一の王は神武天皇」(新編一二九六�n)
とあり、日蓮大聖人も天照大神、神武天皇を天皇家の祖先とされており、ここをもって初座の観念文に、形容を冠してその名を挙げたのです。
また、「皇国」の用語は御書にはありませんが、我が国においては古来、天皇の祖先が神であるとされていたことから、御書に見られる「神国」の意義に通じます。
当時は欽定憲法のもとに天皇が日本の元首であり、「天皇の統治する国」という意味で、日本を「皇国」と称したのです。
創価学会は、宗門が当時の皇国史観を積極的に受け入れ、本宗の教義に反して、初座の観念文を全面的に改変したかのようにいっていますが、従来の観念文の一部を変更しただけであり、それも大聖人の仏法に反するようなものではありません。
なお、宗門が「天皇家の先祖」を表わす用語を用いたり、当時の憲法にしたがった表現をしただけで、あたかも謗法に与同したかのように「神道風」などと非難する創価学会は、宗門を怨嫉するあまり日本語本来の意味さえも見失い、きわめて物わかりが悪い状態に陥っています。
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【文 証】
【天照大神に関する文証】
『秋元御書』
■「先づ五節供の次第を案ずるに、妙法蓮華経の五字の次第の祭りなり。正月は妙の一字のまつり、天照太神を歳の神とす。三月三日は法の一字のまつりなり、辰を以て神とす。
五月五日は蓮の一字のまつりなり、午を以て神とす。七月七日は華の一字の祭りなり、申を以て神とす。九月九日は経の一字のまつり、戌を以て神とす。此くの如く心得て、南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ。『現世安穏後生善処』疑ひなかるべし」(新編三三四�n)
『下山御消息』
■「教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち、十巻共に引き散らして散々に踏みたりし大禍は、現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ。日本守護の天照太神・正八幡等もいかでかかゝる国をばたすけ給ふべき」(新編一一五九�n)
【神武天皇に関する文証】
『御義口伝』
■「人王の始めは神武天皇なり。神武天皇は地神五代の第五の鵜萱葺不合尊の御子なり。
此の葺不合尊は豊玉姫の子なり。此の豊玉姫は沙竭羅竜王の女なり。八歳の竜女の姉なり。
然る間先祖は法華経の行者なり。甚深甚深云云」(新編一七五九�n)
【皇国(神国)に関する文証】
『月水御書』
■「但し日本国は神国なり。此の国の習ひとして、仏菩薩の垂迹不思議に経論にあいに(相似)ぬ事も多く侍るに、是をそむけば現に当罰あり。委細に経論を勘へ見るに、仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当たれり」(新編三〇四�n)
『北条時宗への御状』
■「夫此の国は神国なり。神は非礼を稟けたまはず。天神七代・地神五代の神々、其の外諸天善神等は、一乗擁護の神明なり。然も法華経を以て食と為し、正直を以て力と為す。
法華経に云はく『諸仏救世者は大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に、無量の神力を現ず』と」(新編三七一�n)
『日目上人申状』
■「我が朝は是れ神州なり」(聖典五七〇�n)
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宗門の戦争協力
戦前戦中の宗門は、戦勝祈願、金属供出など積極的に戦争協力を図っていった。戦後、多
くの団体が過去の戦争協力に対して謝罪しているにもかかわらず、宗門は現在までまった
く反省の弁すら表明していない。
戦勝祈願の祈念法要
毎月8日の開戦詔勅の日には法主以下の本山僧侶が大東亜戦争完遂の戦勝祈願の祈念法要
を開いていた。昭和19年(1944年)には宗門二大行事のひとつである虫払いを中止し、
戦勝祈願の勤行・唱題会を開催。
日恭法主「敵米英の撃滅を」
昭和18年(1943年)山本五十六司令長官の国葬に参列した日恭法主は「私達は正義に刃
向かふ敵米英を撃滅する迄、この山本魂を心としてしっかり銃後を護らなければ、元帥の
英霊にむくいることにならない」との決意を静岡新聞で披瀝。
「一発でも多くの弾丸を」と金属供出
戦争末期になると宗門は、軍部からの要請に積極的に応じ、本山の仏具や木材などを提供。
昭和18年(1943年)9月の臨時宗会では回収対象でもない銅板屋根を「一発でも多くの
弾を前線へ」と自発的に供出決定。
寺院施設を率先して開放
昭和18年(1943年)6月、宗門は本山書院などを開放して勤労訓練所として、毎月二百
人の「応徴戦士」を受け入れ、当局から「郡下における寺院開放の先鞭」と評価された。
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【創価学会に対する破折】
「宗門は戦争に協力」との非難は無責任な中傷
創価学会は、戦時中における宗門の軍部への協力をとりあげて、宗門が積極的に戦争に加担したかのように主張していますが、これは一部分の姿のみをとり上げた的はずれの非難です。
宗門は、戦争そのものが本来、宗祖大聖人のご教示である「兵革の災い」、すなわち悪しき不幸な状態であると考えていたことは、間違いない事実です。
一国が狂ったように軍国主義にそまっていくなか、表面的に協力せざるを得ないこともありましたが、それらはすべて、未来広布を慮り、時の軍部の圧力や外敵から仏法の根幹である本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈を守り抜くためでした。
宗門は、戦中戦後を通じて戦争によって莫大な被害がありました。
当局からの干渉による身延との合同問題をはじめ、軍部の強制による堂宇の貸与と仏具の供出、徴兵による宗勢の衰退、それらのなかで終戦間際には客殿の焼失、さらには一国の謗法と宗門僧俗の一切の責任を負われた御法主日恭上人の覚悟のご遷化という痛恨の悲劇があり、戦後は農地解放令によって境内地の大半を没収されました。没収された規模は全国の寺院のなかで大石寺が最も大きなものでした。
御法主上人自らの覚悟のご遷化と、宗門の僧俗が味わった辛く悲しい体験から、宗門の僧俗は誰ひとりとして戦争を憎まない人はいないのです。
このなかから生まれた反戦と平和への思いは、安易な「反省の弁」などおよびもつかないほど重いものであり、再び戦火の悲劇をくり返さないためにも、真の世界平和実現のため、宗内僧俗は正法興隆・広宣流布を目指して日夜精進を続けているのです。
この宗門僧俗を憎み、妬んで、卑劣な手段をもって妨害しているのが池田大作率いる邪教創価学会なのです。