学会の邪難
日顕の「ニセ三宝論」
創価学会も僧宝の一分
悩乱した日顕の自語相違
法主批判は、三宝破壊か?
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
▼日顕の「ニセ三宝論」
日顕は三宝の本義をゆがめ、次のように語っている。
◆
「創価学会が、時の法主を『尊信の対象ではない』などと貶めることは、三宝一体の深義
を指南された大聖人、日興上人に背く大謗法、と言うべきなのです」(平成9年8月 第46
回全国教師講習会)
尊信の対象は日興上人お一人
ここで日顕は法主も尊信、つまり信仰の対象だと、とんでもない邪義を唱えている。しか
し、日蓮正宗において尊信の対象としての僧宝は、日寛上人が「久遠元初の僧宝とは即ち
是れ開山上人なり」(当流行事抄)と仰せのように、あくまで日興上人ただお一人である。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
【創価学会に対する破折】
「尊信」の意味について
創価学会では、日顕上人が「時の法主を『尊信の対象ではない』などと貶めることは、三宝一体の深義を指南された大聖人、日興上人に背く大謗法、というべきなのです」とご指南された言葉を強引に歪曲して、「法主も尊信、つまり信仰の対象」である、と仰せられたかのようにいっています。
しかし、この日顕上人のお言葉は、宗祖大聖人以来、唯授一人の血脈を承継される歴代上人は内証の上において三宝一体のご境界であり、時の大導師として尊崇されるべきお立場であるにもかかわらず、これを無慚にも「尊信の対象ではない」といい放つ慢心の創価学会を厳しく戒めたご指南なのです。
��法主を尊信せよ�≠ニ強要したものではありません。
まして��法主を信仰の対象である�≠ニ仰せられてはいないのです。
学会では「尊信の対象」をただちに「信仰の対象」と解釈していますが、「尊信」には、
�@ 尊んで信頼すること、
�A 尊んで信仰すること、
の意味があります。
日蓮正宗における「信仰の対象」は、『日蓮正宗宗制』第三条に「宗祖日蓮立教開宗の本義たる弘安二年の戒壇の本尊を信仰の主体とし」と明らかに定められていますから、本門戒壇の大御本尊が「信仰の対象」であることは論をまちません。
このような日蓮正宗の基本的な教義を知っている人ならば、「法主上人を尊信する」という場合の「尊信」は、大聖人のご内証を受けられ御本尊を書写される御法主上人に対して、尊敬の念をもって随順する、という意味に理解することはきわめて当然です。
「法主も信仰の対象」などという創価学会の解釈は、悪意に満ちた曲解か、あるいはあきれるほどの低能ぶりをさらけ出しているというほかはありません。
次に、学会では日蓮正宗における僧宝は「日興上人ただお一人」にかぎると主張していますが、この考えは日蓮正宗の教義の一部分のみを強調したものであり、これをもって歴代上人は尊信の対象にならないとする主張は、明らかな邪義です。
日蓮正宗の教義に明かされる三宝は大きく分けて、
�@一体三宝、
�A別体三宝、
�B住持三宝
の三つの意義をもって拝することができます。
それらについては、次に簡単な説明を加え、文証を挙げておきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
�@一体三宝(内証)
末法出現の仏・法・僧は、内証においてはともに久遠元初の三宝であり、大御本尊と一体のものと拝する三宝。
『真言見聞』
■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(新編六〇八�n)
『三宝抄』日寛上人
■「問う、三宝に勝劣有りや。答う、此れ須く分別すべし、若し内体に約さば実に是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり、故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足を方に円仏と名づくと云うなり。
亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也」(歴全四―三九二�n)
『弁惑観心抄』日応上人
■「夫れ当家所立下種の三宝は久遠元初無作本有の妙法蓮華経より唯我与我の師現はれて事行の信心を顕示し末法但妄の衆生を救済し玉ふ者なれは漫荼羅一幅に三宝を具するは則ち合帰の事相にして別体の三宝は則ち妙法の漫荼羅より開発したる事相なり」(二〇四�n)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
�A別体三宝(外用)
末法における仏宝は宗祖日蓮大聖人、法宝は本門戒壇の大御本尊、僧宝は唯授一人血脈付法の日興上人と、形式の上から立て分けて拝する三宝。
『三宝抄』日寛上人
■「若し外相に約さば任運勝劣あり。所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す故也。故に法宝を以て中央に安置し、仏及び僧を以て左右に安置するなり」(歴全四―三九三�n)
『弁惑観心抄』日応上人
■「大漫荼羅一幅に於て三宝を具足するを以て別体住持二種の三宝必要なしと云はば三宝に開合あるの義を弁へざるが故なり。(中略)別体の三宝は則ち妙法の漫荼羅より開発したる事相なり、故に一体三宝も別体三宝も其実体一にして只開合の異なるのみ」(二〇四�n)
『日蓮正宗宗規』第四条
■「本宗は、大漫荼羅を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝とし、血脈付法の日興上人を僧宝とする」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
�B住持三宝(化導)
文底下種の三宝を令法久住せしめ、末法万年の衆生を済度する意義から拝する三宝。歴代上人はすべて僧宝として尊信される。
『三宝抄』日寛上人
■「付属伝授は即ち是れ僧宝なり」(歴全四―三六五�n)
■「金口相承即是僧宝也」(歴全四―三七二�n)
『当家三衣抄』日寛上人
■「南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて、唯当に南無妙法蓮華経と称え、乃ち一子を過ごすべし」(六巻抄二二五�n)
『日顕上人お言葉』
■「仏法が住していく姿の中においては、『住持』という形の上からの三宝が必要となってまいります。
これは、日有上人の百二十一カ条からなる『化儀抄』の中において、
『手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし』
という御文がございます。
すなわち、日興上人から日目上人へ、日目上人から日道上人、日行上人と代々、付嘱によって伝わるところに、大聖人様以来の御本仏の御魂が、もぬけられておるのであ
る」(大日蓮 平成三年九月号六七�n)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【文 証】
『日蓮正宗宗制』第三条
「宗祖日蓮立教開宗の本義たる弘安二年の戒壇の本尊を信仰の主体とし」
【法主上人が大導師であるという文証】
『百六箇抄』
■「日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(新編一七〇二�n)
『日興遺誡置文』
■「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事」(新編一八八五�n)
『有師化儀抄註解』日亨上人
■「然るに本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り授与せらるる人は信行不退の決定者に限る」(富要一―一一二�n)
『日蓮正宗宗規』第十五条
■「管長は、(中略)教義に関して正否を裁定する」
【創価学会が主張していた文証】
『巻頭言・講義集』池田大作
★「あくまでも師匠は日蓮大聖人様即御本尊様です。それから『遣使還告』あそばされる代々の御法主上人猊下です。われわれはぜんぶその弟子です」(三―一一三�n)
『広布と人生を語る』池田大作
★「御法主上人猊下お一人が仏法の師でいらっしゃるのだ」(三―九八�n)
【創価学会への質問】
○創価学会では、「尊信」の意味を「信仰」としか理解できないのですか。
○かつて池田大作は御法主上人を尊信し、「仏宝の師」と仰いでいましたが、これをもって、あなたは池田が御法主上人を「信仰の対象」としていたというのですか。
○文証で引いた昔の学会の指導は邪義ですか?
○あなたは僧宝に内証、外用、化導の立て分けがあることを知っていますか。
・知っている…御法主上人が僧宝に入ることを認めますね。
・知らない……本宗の正しい三宝義をわきまえなければ、成仏はかないませんよ。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
▼これに対し、歴代法主以下、門下僧俗一同は、仏法を伝持し弘通する意義において次のよ
うに「僧宝の一分」となる。
◆
「予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」
「然れば則ち吾が日興上人は嫡々写瓶の御弟子なること分明なり。故に末法下種の僧宝と
仰ぐなり。爾来日目日道代々ことど(ママ)とく是れ僧宝なり、及び門流の大衆亦爾なり」(日
寛上人「三宝抄」)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
【創価学会に対する破折】
「門流の大衆」も「僧宝の一分」について
創価学会では「歴代法主以下、門下僧俗一同は、仏法を伝持し弘通する意義において次のように『僧宝の一分』となる」といって、日寛上人の『三宝抄』を引用しています。
ここで学会は��歴代法主が僧宝ならば、伝持弘通の上では学会員も僧宝だ�≠ニいいたいようです。
僧宝の意義について広義に解釈すれば、たしかに仏法を弘通する本宗の僧俗はすべて僧宝の一分に入りますが、
『三宝抄』には「日目日道代々咸く是れ僧宝なり」と仰せられ、その後に「及び門流の大衆亦爾なり」とひとつの区切りをつけられています。
この区切りをつけられた日寛上人の御意を、同じ三宝に関する『当家三衣抄』のご教示をもって拝すれば、日興上人以下の歴代上人と門流の大衆との間には「能化」と「所化」という立場の違いが厳然とあることがわかります。
なお、僧宝の意義を広義に解釈して、「門流の大衆」も僧宝の一分であることは日寛上人のご指南のとおりですが、仏教においては「大衆」という用語は、一般に比丘(僧侶)の集団を意味することから、在家を含まない意味に用いられています。
邪教の徒である創価学会員が、「門流の大衆」に入るなどということは絶対にありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【文 証】
『三宝抄』日寛上人
■「然れば則ち吾が日興上人嫡々写瓶の御弟子なる事分明なり。故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。
爾来日目日道代々咸く是れ僧宝なり、及び門流の大衆亦爾なり云云」(歴全四―三九〇�n)
『当家三衣抄』日寛上人
■「南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて、唯当に南無妙法蓮華経と称え、乃ち一子を過ごすべし」(六巻抄二二五�n)
【創価学会が主張していた文証】
『特別学習会テキスト』創価学会発行
★「『僧宝』とは正宗においては第二祖日興上人のことであり、また第三代会長も発言しているごとく、唯授一人の血脈をうけられた御法主上人猊下であらせられます。
従ってこの正宗教義の根本となる僧宝と、信心実践面での和合僧ということについては、絶対に混同するようなことがあってはなりません。
また、広義においても、学会を『僧宝』という言い方はしてはならないことであります」(四一�n)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
▼悩乱した日顕の自語相違
日顕もかつては宗門の伝統法義にのっとり「法主は僧宝以下の立場」と言っており、自語
相違した現在の姿は悩乱した堕地獄そのものである。
◆
「歴代法主は僧宝以下の立場であって、それを軽々しく仏様だ、仏様だというような表現
は、少し言い過ぎであると私は思っております」(昭和58年3月 第4回非教師指導会)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
【創価学会に対する破折】
「歴代法主は僧宝以下の立場」を悪用する学会の主張
ここでも創価学会は、日顕上人が「法主は僧宝以下」といわれたお言葉を��歴代の法主は僧宝に入らない�∞�尊信の対象ではない�≠ニの意味に曲解し、「自語相違」「悩乱」と誹謗しています。
しかし、日顕上人のお言葉の前後を拝するならば、��歴代法主は、仏宝・法宝ではなく、あくまでも日興上人を随一とする僧宝の立場である�≠ニの意味であることは明らかです。
一般に「僧宝以下」という場合、僧宝を含む意味と、含まない意味の二通りが考えられますが、本宗の教義信仰の上からは、歴代法主上人が日興上人を随一とする僧宝につらなるお立場であることは疑う余地がありません。
「日興上人以下の歴代上人」という表現は、宗門において数多く用いられますが、この場合、日興上人は当然、歴代上人に含まれるではありませんか。
また、もし日興上人お一人が僧宝であり、日目上人以下の歴代上人は僧宝に入らないというならば、日興上人をもって「僧宝の随一」と表現されるわけがないのです。
したがって日顕上人のお言葉は、歴代法主上人は宗祖日蓮大聖人の仏法を護持継承される僧宝として衆生が信順すべきお立場である、との本宗の教義に基づくご教示であり、それは昔も今も一貫しており、「自語相違」などは一切ありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【文 証】
『日顕上人お言葉』
■「基本においては、日興上人をもって僧宝の随一として拝するわけであります。
そういうところからするならば、歴代法主は僧宝以下の立場であって、それを軽々しく仏様だ、仏様だというような表現は、少し言い過ぎであると私は思っております。
仏様という意味は、あくまで御本尊の御内証のうえにおいての、二にして不二の境地のみを申し上げていくのであって、それ以外に、例えば宗門を統率するうえにおいて色々な指導をするとか、その他色々な意味で振る舞い、行うことについて一々、仏果のところであるとか仏様のところであるとか、因に対する果であるとか、そういう難しいことをいう必要はないのです」(大日蓮 昭和五八年五月号九〇�n)
【創価学会への質問】
○昔の指導と「自語相違」した現在の池田大作こそ、悩乱した堕地獄そのものではないですか。
○「歴代の御法主上人のご内証は、日蓮大聖人と日興上人の唯我与我の御境地をそのまま伝持せられている」(聖教新聞 昭和五四年六月二日付)という考えをあなたは認めますか。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
Q&A
法主批判は、三宝破壊か?
Q 学会は、僧宝である時の法主を批判しているから三宝破壊ではないか。
A 学会が日顕を破折しているのは、謗法厳誡の宗開両祖の御精神にのっとり仏法破壊の天
魔を責めているのです。日興遺誡置文には、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構
えば之を用う可からざる事」(御書1618�n)とあり、法主といえども大聖人の仏法に違背
する人間は厳しく破折すべきであると仰せです。間違った法主をただしていくことは三宝
破壊どころか、大聖人の仏法を守ることになるのです。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
【創価学会に対する破折】
御法主上人への誹謗は明らかな三宝破壊
結論からいえば、時の御法主上人は僧宝であり、一宗を統括する貫首(指導者)であることは今まで述べてきたとおりです。
御法主上人は日蓮大聖人、日興上人の教えをそのまま受け継いでおられるのですから、御法主上人を批判し、誹謗することは仏法破壊の大謗法にあたることは明白です。
なお、学会の回答は『日興遺誡置文』を悪用したものであり、かつて宗門から破門された正信会や顕正会の徒輩が、御法主上人を攻撃したときの主張とまったく同じです。正法から退転した者たちは、いつの時代も、決まってこのご文を引き合いに出すのです。
日蓮正宗の仏法を信仰する人は、生涯いかなることがあっても、「時の貫首たりと雖も……」のご文を振りかざして、時の御法主上人を誹謗するような、みじめな境界には堕ちたくないものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【文 証】
『日興遺誡置文』
■「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事」(新編一八八五�n)
『日達上人全集』
■「『日蓮正宗宗規』に、��管長は法門の正邪を決定する�≠ニいう意味のことが明らかに載っております。そのとおりであります。血脈を受けてその法門に従って、そして法門の正邪を決めるのは貫首ではないですか。だから、貫首が己義を構えると考える人はとんでもない考えの人です。それでは血脈相承を受けてない人ということになってしまいます。
血脈相承によってご法門を解釈していくのでありますから、少しも己義を構えるということはないわけであります。大聖人の教えのとおりにやっていくのでありますから」(二―七
―三四二�n)
【創価学会が主張していた文証】
『広布と人生を語る』池田大作
★「日蓮正宗の僧俗であるならば、絶対に御法主上人猊下に随順すべきである。
それに反して、随順せず、いな、弓をひく行為をする僧や俗は、もはや日蓮正宗とはいえない。
私どもは無数の讒言や画策をうけながらも、一貫して総本山を外護したてまつり、御法主上人猊下に随順してまいった。
これが真実の信心であるからだ。
それを、増上慢と権威とエゴと野望のために踏みにじっていく僧俗は、まったく信心の二字のなき徒輩であり、もはやそれは、日蓮大聖人の『広宣流布をせよ』との御遺命に反した邪信の徒と断ずるほかないのである。
皆さまは絶対に、それらを恐れたり、また、騙されたり攪乱されてはならない」(二―三七�n)
★「七百星霜、法灯は連綿として謗法厳戒の御掟を貫き、一点の濁りもなく唯授一人の血脈法水は、嫡々の御歴代御法主上人によって伝持せられてまいりました」(六―一二�n)