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    国府尼御前御書 文永一一年六月一六日  五三歳

 阿仏御房の尼ごぜん(御前)よりぜに(銭)三百文。同心なれば此の文(ふみ)を二人して人によ(読)ませてき(聞)こしめせ。
 単衣(ひとえぎぬ)一領、佐渡国(さどのくに)より甲斐国(かいのくに)波木井の郷の内の深山まで送り給(た)び候ひ了(おわ)んぬ。
法華経第四法師品に云はく「人有って仏道を求めて一劫(いっこう)の中に於て合掌して我が前に在って無数(むしゅ)の偈(げ)を以て讃(ほ)めん。是の讃仏(さんぶつ)に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復(また)彼に過ぎん」等云云。
文の心は、釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりとと(説)かれて候。
まこと(実)しからぬ事にては候へども、仏の金言にて候へば疑ふべきにあらず。
其の上妙楽大師と申す人、此の経文を重ねてやわ(和)らげて云はく「若(も)し毀謗(きぼう)せん者は頭(こうべ)七分に破(わ)れ、若し供養せん者は福十号に過ぎん」等云云。

釈迦には仏陀であることを意味する阿羅漢、辟支仏、如来、等正覚などいくつもの尊称がある。そのうち、以下の10種がとくに十号(じゅうごう, epithets for the Buddha)と言われる。

  1. 如来(にょらい、tath?gata)[1] - 真実のままに現れて真実を人々に示す者、真実の世界に至り、また真実の世界から来られし者を如去如来という。如来は向下利他の意となり、この二語にて仏の無住涅槃(涅槃に止まざる)を顕す。しかして如去如来は、如来と略称された。[要出典]
  2. 応供(おうぐ、arhat)[1] - 尊敬を受くるに足る者をいう。音写して阿羅漢。至心という訳もある。[2]
  3. 正遍知(しょうへんち、samyaksambuddha)[1] - 一切智を具し一切法を了知する者。宇宙のあまねく物事、現象について正しく知る者をいう。[要出典]
  4. 明行足(みょうぎょうそく、vidy?cara?asa?panna)[1] - 大智度論』に依れば、明とは宿命・天眼・漏尽の過去現在未来の三明、行とは身口意の三業、足とは本願と修行を円満具足することで、したがって三明と三業を具足する者をいう。『涅槃経』に依れば、明とは無上正遍知(悟り)、行足とは脚足の意で、戒定慧の三学を指す。仏は三学の脚足によって悟りを得るから明行足という。[要出典]
  5. 善逝(ぜんぜい、sugata)[1] - 智慧によって迷妄を断じ世間を出た者。好去、妙住ともいう。善く因より果に逝きて還らぬという意味で、無量の智慧で諸の煩悩を断尽し世間を脱出した者をいう。[要出典]
  6. 世間解(せけんげ、lokavid)[1] - 世間・出世間における因果の理を解了する者。仏は世間の有情をよく了解することからいう。[要出典]
  7. 無上士(むじょうし、anuttra)[1] - 惑業が断じつくされて世界の第一人者となれる者。仏は衆生の中において最も尊き無上の大士なる意であるからいう。『涅槃経』では「仏は無上士とも名付け、三宝中においては仏こそ最も尊上となす」と説く。[要出典]
  8. 調御丈夫(じょうごじょうぶ、puru?adamyas?rathi)[1] - 御者が馬を調御するように、衆生を調伏制御して悟りに至らせる者。仏は大慈大悲を以て衆生に対し、あるいは軟語、あるいは苦切語・雑語を用いて調御し、時に応じて機根気類を見て与え、正道を失わしめない者であるという意。[要出典]
  9. 天人師(てんにんし、??st? devamanu?y?n??) - 天人の師となる者。仏は正法を以て人間・天上の者を教導するから天人教師、すなわち天人師という。[要出典]
  10. 世尊(ぶつせそん、buddho bhagav?n)[1] - 煩悩を滅し、無明を断尽し、自ら悟り、他者を悟らせる者。真実なる幸福者。仏は仏陀の略で智者・覚者の意、世尊とはあらゆる功徳を円満に具備して、よく世間を利益し、世に尊重せらるるとの意で、世において最も尊いから仏世尊という。[要出典]


釈の心は、末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり。
又濁世(じょくせ)に法華経の行者のあらんを留難(るなん)をなさん人々は頭七分にわ(破)るべしと云云。

 夫(それ)日蓮は日本第一のゑせ(似非)者なり。其の故は天神七代※1はさてをきぬ。地神五代※2又はかりがたし。
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※1日本神話で、天地開闢のとき生成した七柱の神。また、その時代。「古事記」では国之常立神(くにのとこたちのかみ)、豊雲野神、宇比地邇神(ういじにのかみ)・須比智邇神(すいじにのかみ)、角杙神(つのぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)、意富斗能地神(おおとのじのかみ)・大斗乃弁神(おおとのべのかみ)、於母陀流神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)の七代。「日本書紀」では国常立尊(くにのとこたちのみこと)国狭槌尊(くにのさつちのみこと)豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、?土煮尊(ういじにのみこと)・沙土煮尊(すいじにのみこと)大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)、面足尊(おもだるのみこと)惶根尊(かしこねのみこと)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)の七代。神世七代(かみよななよ)
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※2天神七代に続き、神武天皇以前に日本を治めた5柱の神の時代。すなわち、天照大神天忍穂耳尊?(あまのおしほみみのみこと)?瓊瓊杵尊?(ににぎのみこと)?彦火火出見尊?(ひこほほでみのみこと)???草葺不合尊?(うがやふきあえずのみこと)?の5代。
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人王始まりて神武※3より当今まで九十代、欽明※4より七百余年が間、世間につけ仏法によせても日蓮ほどあま(遍)ねく人にあだ(怨)まれたる者候はず。
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※3
神武天皇(じんむてんのう、旧字体神武天皇庚午1月1日[1] - 神武天皇76年3月11日[2])は、初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日[2])とされる日本神話(『古事記』・『日本書紀』(記紀))上の伝説上の人物である[注 2][3]

彦火火出見[2](ひこほほでみ)、あるいは狭野[1](さの、さぬ)。『日本書紀』記載の名称は神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)。

天照大御神の五世孫であり、高御産巣日神の五世の外孫と『古事記』『日本書紀』に記述されている。奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服(神武東征)。遷都した畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)にて即位して日本国を建国したと言われる伝説上の人物。

実在性の詳細は初期天皇の実在性を参照。

略歴[編集]

天孫(天照大御神の孫。皇孫(高皇産霊尊の外孫)ともいう)・瓊瓊杵尊[注 3]の曽孫。彦波瀲武??草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)と玉依姫(たまよりびめ)の第四子。『日本書紀』神代第十一段の第三の一書では第三子とし、第四の一書は第二子とする。兄に彦五瀬命稲飯命三毛入野命がいる。稲飯命は新羅王の祖ともされる。

『日本書紀』によると庚午[注 1](『本朝皇胤紹運録』によると1月1日庚辰の日)に筑紫日向で誕生。15歳で立太子[注 4]吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。45歳時に兄や子を集め東征を開始。日向から宇佐安芸国吉備国難波国河内国紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。そして事代主神大物主神)の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とし、翌年に即位して初代天皇になる。『日本書紀』に基づく明治時代の計算によると即位日は西暦紀元前660年2月11日。皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命との間には神八井耳命(かんやいみみ)、神渟名川耳尊(かんぬなかわみみ、綏靖天皇)を儲ける。神武天皇76年に崩御
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※4
欽明天皇(きんめいてんのう、509年継体天皇3年〉 - 571年5月24日〈欽明天皇32年4月15日[1])は、日本の第29代天皇(在位:539年12月30日?〈宣化天皇4年12月5日〉 - 571年5月24日?〈欽明天皇32年4月15日〉)。

事績[編集]

即位[編集]

継体天皇手白香皇女仁賢天皇皇女・雄略天皇外孫)との間の息子である。父親の継体天皇は第15代とされる応神天皇から分かれ地方に土着した傍系の出自であった。継体は大王位を継承するに際し、先々代仁賢天皇の手白香皇女を皇后に迎え入れている。継体天皇は即位までの妃との間に他に沢山の子がいたが、嫡子は直系の手白香皇女との間の皇子であるこの広庭とされた。宣化天皇が崩御した時に、広庭は先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を次の大王として推薦したが、彼女は辞退して広庭を推薦し、まだ若い広庭が539年(宣化天皇4年12月5日)に即位した(欽明天皇)。欽明は応神の男系血統と、仁徳天皇以来の王朝の血統を継承したとされ、現皇統へと続く祖となった。

なお、大王が皇女を大后(皇后)に立てるという流れは、欽明が即位するまでに大王となった庶兄の宣化天皇安閑天皇でも、それぞれ継体に続いて手白香皇女の姉妹を大后に迎え入れ、さらに欽明自身も石姫皇女を大后に迎えており、維持されている。仁徳天皇を唯一の例外とするこの流れは、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた。

なお、記録上の即位年の不整合から、継体から欽明の即位までになんらかの政変があったのではとする仮説がある(後述)。

大臣・大連[編集]

大伴金村物部尾輿大連とし、蘇我稲目宿禰大臣としたが、直後の540年(欽明天皇元年)大伴金村は失脚する。これにより物部氏蘇我氏の二極体制ができあがるが、特に蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛小姉君を妃とし、敏達天皇崩御後、彼女らの間にもうけた用明天皇以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族である、甥の押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年皇位につき、蘇我氏の全盛期が築かれる。ただ、当時は親子よりも兄弟の継承が一般的であった。

任那[編集]

百済の聖明王とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌漢城を放棄、さらに554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年に任那を滅ぼしてしまう。これに激怒した欽明天皇[注 1]562年(欽明天皇23年)に新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する[注 2]。同年高句麗にも軍を送っている。「三国史記」では554年に似た記述が存在する。

なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であるという記載が「日本書紀」にある。

欽明と蘇我氏は、伽耶諸国に対する軍事外交権を百済に委任する代わりに大陸の文物の献上を約束させ、それによって権力を強化しようとした。

欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら崩御したという。第一皇子の箭田珠勝大兄皇子はすでに552年に薨去していたため、554年に立太子させた渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)が即位した。

[編集]

日本書紀」の「」の漢字の初出は欽明天皇十四年六月の条である。 「十四年(中略)六月。遣内臣〈闕名。〉使於百濟。仍賜良馬二疋。同船二隻。弓五十張。箭五十具。勅云。所請軍者。隨王所須。別勅醫博士。易博士。暦博士等。宜依番上下。今上件色人正當相代年月。宜付還使相代。又卜書。暦本種種藥物可付送。」 なお、「古事記」に「」の漢字は一切記されない。

即位年をめぐる議論[編集]

前述通り「日本書紀」によれば、欽明天皇は庶兄・宣化天皇が崩御したのちに即位したとされているが、同書の紀年には幾つかの矛盾が見られ、それを解決するための議論がいくつか提示されてきた。

まず、平子鐸嶺は父の継体天皇の没年を「古事記」の527年(丁未年4月9日)とし、その後2年ずつ安閑・宣化が在位して、「日本書紀」での継体の没年(継体天皇廿五年春二月丁未)にあたる531年に欽明天皇が即位したと主張した。これにたいして喜田貞吉は欽明の即位年は531年という点では同意するが、彼の即位を認めなかった勢力が3年後の534年に安閑を擁立、彼は1年で崩御したが、続いて宣化を擁立する等欽明朝と安閑・宣化朝は一時並立し、宣化の崩御により解消されたと主張した。林屋辰三郎も大筋では喜田説に同意するが、継体は暗殺されたと主張した。

また、水野祐白崎昭一郎は継体の没年については平子説に同意するが、水野はその後は安閑が8年間在位し、535年に欽明が即位、宣化は架空の人物と見なし、白崎は安閑の在位は4年でその後はさらに4年宣化・欽明両朝が並立したとみなした。

これに対して黒岩重吾は「日本書紀」継体天皇廿五年での「百済本記」引用「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞?城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」天皇および太子、皇子が同時に死んだという記述等を根拠にそれぞれ実際には即位していない安閑・宣化は暗殺・軟禁され、大伴金村は任那4県を賄賂と引き換えに割譲したことではなく、彼ら庶兄を推したために後継者争いに敗れて失脚したと主張した。

これらのうち、並立説については史料的根拠に乏しい事等を理由に反対する意見もあるが、もし書紀・水野説以外のいずれかが正しければ、欽明天皇は現在の皇室から少なくとも遡れる継体以降の歴代天皇では昭和・明治に次いで3番目に長く在位したことになる。しかし、いずれも推測の域を出ないのが現状である[注 3]

なお、宣化の娘で欽明の正妃である石姫皇女は、欽明即位以前から正妃となっているため、恐らく継体期から安閑・宣化→欽明と継承されることは確定しており、継体期から欽明期の混乱は、「安閑・宣化対欽明」ではなく、物部麁鹿火の妻の発言に窺えるように、「大伴氏物部氏」が元にあったと考えられ、また、中立かつ葛城氏の地位を継ぐ蘇我氏はその争いの最中に台頭できたとする説も存在する。

仏教公伝[編集]

552年(欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来したのが日本への本格的な仏教伝来とされる。

欽明天皇は仏教の可否について群臣に問うた時、神道勢力である物部尾輿中臣鎌子らは反対した。一方、蘇我稲目は、西国では皆が仏教を信じているので日本もそうするべきだと主張し仏教への帰依を表明したため、欽明天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸をとして仏像を拝んだが、その後に疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだとして寺を焼き仏像を難波の堀江に捨てた。この宗教対立は子(物部守屋蘇我馬子)の代にも収まらず、用明天皇の後継者を巡る争いで守屋が滅ぼされるまで続いた。

皇居[編集]

磯城島金刺宮の碑

都は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋・外山)。「古事記」に「師木島大宮」とある[注 4]

2010年6月3日奈良県立橿原考古学研究所桜井市にある脇本遺跡にて大型建物跡などが出土したと発表。6世紀後半から7世紀にかけてのものであるため、欽明天皇の宮殿ではないかと推測されている[3]

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)は、宮内庁により奈良県高市郡明日香村大字平田にある檜隈坂合陵(桧隈坂合陵:ひのくまのさかあいのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「梅山古墳(平田梅山古墳)」で、墳丘長140メートルの前方後円墳である。

古事記」には記載なし。「日本書紀」「延喜式」には「檜隈坂合陵」とある。比定には、橿原市見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)とする説もある。なお、檜隈坂合陵には後に612年(推古天皇20年)に堅塩媛が改葬されている。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

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守屋(もりや)が寺塔をやきし、清盛入道が東大寺・興福寺を失ひし、彼等が一類は彼がにくまず。
将門(まさかど)貞(さだ)たう(任)が朝敵となりし、伝教大師の七寺にあだ(怨)まれし、彼等もいまだ日本一州の比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の四衆にはにくまれず。
日蓮は父母・兄弟・師匠・同法(朋)・上一人・下万民一人ももれず、父母のかたき(敵)のごとく、謀反(むほん)強盗にもすぐれて、人ごとにあだ(怨)をなすなり。
されば或時は数百人にの(詈)られ、或時は数千人にとりこめられて刀杖(とうじょう)の大難にあう。所をを(追)われ国を出ださる。結句は国主より御勘気二度、一度は伊豆の国、今度は佐渡の島なり。されば身命をつ(継)ぐべきかんて(糧)もなし、形体を隠(かく)すべき藤の衣ももたず、北海の島にはな(放)たれしかば、彼の国の道俗は相州の男女よりもあだ(怨)をなしき。野中にすてられて、雪にはだへ(肌)をまじえ、くさ(草)をつ(摘)みて命をさヽ(支)えたりき。
彼の蘇武(そぶ)※5が胡(こ)国に十九年雪を食ふて世をわたりし、季陵(りりょう)※6が北海に六箇年がんくつ(岩窟)にせめられし、我は身にてしられぬ。これはひとえに我が身には失(とが)なし。日本国をたすけんとをもひしゆへなり。
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蘇 武(そ ぶ、紀元前140年頃? - 紀元前60年)は、前漢の人。子卿京兆尹杜陵県の出身。父は衛尉の蘇建。兄の蘇嘉、弟の蘇賢の3兄弟で、他に妹が2人いた。漢で結婚した妻との間に蘇元と娘2人がおり、匈奴での妻と蘇通国を儲けた。

生涯[編集]

父の任子で郎となり、侍中などを務める。

天漢元年(紀元前100年)、蘇武は中郎将として匈奴への使者に任じられる。副使は張勝で、常恵らが付き従った。そのころ、単于の下にいる漢の降将の虞常が、匈奴の?王と共謀して、同じく匈奴に降って重用されていた衛律を殺し、単于の母を脅迫して漢に帰ろうと画策した。両名は張勝にこの話を持ちかけ、張勝はこれを許し援助した。しかし虞常・?王は失敗して単于がこの件を知り、蘇武を尋問しようとした。蘇武は自決を図ったが衛律の手当てによって一命を取り留めた。単于は彼を脅して匈奴に帰順させようとしたが、蘇武が拒んだため、常恵らと共に抑留された。

彼は穴倉に飲食物も無く捨て置かれたが、雪を齧り節の飾りについている毛を食べて生き長らえた。やがて、蘇武は北海(現在のバイカル湖)のほとりに移されたが、匈奴から「オスの羊が乳を出したら帰してやる」と言われてしまう。彼はそこで、野鼠の穴を掘り、草の実を食うなどの辛酸をなめたが、単于の弟に気に入られて援助を受けて生き長らえ、匈奴に屈することがなかった。

ある時、蘇武とかつて共に侍中を務めた仲であり、今では匈奴に降って厚遇されていた李陵が降伏するよう説得してきたが、蘇武は屈しなかった。それからというもの、李陵は陰ながら蘇武を援助し続けた。

匈奴は漢に対して蘇武は死んだと言っていたが、抑留19年目、漢の武帝が亡くなり、昭帝が匈奴と和親し使節を派遣した時に、常恵によって蘇武が生存していることが発覚し、そこでようやく単于から帰国の許可が出た。

始元6年(紀元前81年)に彼は漢に帰還し、典属国を拝命した。母は死んでおり、妻は既に他の者に嫁いでいた。後に、蘇武の子の蘇元が反乱を企んだ上官桀らに連座して処刑され、上官桀や桑弘羊と仲が良かった蘇武も逮捕されそうになったが、霍光がやめさせ、免官だけで済まされた。

宣帝擁立に関与し、関内侯の位を賜り、張安世の薦めにより右曹・典属国に返り咲いた。神爵2年(紀元前60年)、蘇武は80歳余りの高齢で亡くなった。

死ぬ以前、宣帝は蘇武が子の蘇元を失っていることを哀れみ、匈奴で軟禁された時に匈奴の女性との間に生まれた子の蘇通国を漢に呼び寄せて郎とした。また、麒麟閣には宣帝の名臣たちと並んで蘇武の像が描かれた。

後世[編集]

蘇武の事跡等に関しては『漢書』蘇武伝がある他に、『文選』に李陵が蘇武に与えた詩3首と蘇武に答えた書と共に、蘇武の詩が4首収められている。蘇武と李陵の贈答の詩については、南宋厳羽が記した『滄浪詩話』に「五言詩は李陵・蘇武に起こる」と記されている。中島敦の小説『李陵』にも蘇武が描写されている。

ただし、蘇武・李陵の詩が後世の仮託であるという説も有力である。古くは劉?文心雕龍』明詩に、五言詩は前漢には存在せず、李陵の詩といわれているものは後代の作品ではないかと言っている。また蘇軾「答劉?書」は、蘇武の詩にある「俯観流」の語が長安で書かれた詩にふさわしくないとして、後世の作品だと断じている。洪邁容斎随筆』は李陵の詩の中に恵帝の諱である「盈」の字が出てくることから、武帝の時代の作品ではありえないとしている。
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李 陵(り りょう、? - 紀元前74年)は、前漢軍人。字は少卿。匈奴を相手に勇戦しながらも敗北して抑留され、以降匈奴の地で生涯を終えた。

匈奴に善戦する[編集]

祖父の李広文帝景帝武帝に仕えた悲運の将軍として知られた人物であり、父の李当戸は武帝の寵臣であった韓嫣を殴打した剛直の士であった。父の李当戸は彼が生まれる数か月前に早世し、李陵は李当戸の遺腹の子である。

紀元前99年天漢2年)、騎都尉に任命された李陵は武帝の命により弐師将軍李広利の軍を助けるために五千の歩兵を率いて出陣した。しかし合流前に単于が率いる匈奴の本隊三万と遭遇し戦闘に入る。李陵軍は獅子奮迅の働きを見せ、六倍の相手に一歩も引かず八日間にわたって激戦を繰り広げ、匈奴の兵一万を討ち取った。そのことを部下の陳歩楽を遣わして、武帝に報告させた。だが、さすがに李陵軍も矢尽き刀折れ、やむなく降伏した。

李陵が匈奴に降伏したとの報告を聞いた武帝は激怒し、郎中に任命されていた陳歩楽を問詰し、陳歩楽は自決した。群臣も武帝に迎合して李陵は罰せられて当然だと言い立てた。その中で司馬遷だけが李陵の勇戦と無実を訴えたが、武帝は李広利を誹るものとして司馬遷を投獄し、後に宮刑に処した。

匈奴の右校王として[編集]

李陵の才能と人柄を気に入った且?侯単于は李陵に部下になるように勧めるが李陵は断っていた。しばらくしてから武帝は後悔し、李陵の残部に褒美を与え、公孫敖に命じて李陵を迎える。しかしこの計画は失敗した。逆に公孫敖は匈奴の捕虜から「李将軍」が匈奴に漢の軍略を教えていることを聞いた。武帝は激怒し、李陵の妻子をはじめ、母・兄と兄の一家らは謀叛の罪により連座して死刑となった。実情を知らない隴西の民は李氏一族を憐れみ、潔く戦死せずに家族を巻き添えにする李陵のことを恥じいて忌み嫌ったという。しかし本当の「李将軍」とは、李陵より先に匈奴に帰順した漢人の李緒という将軍のことであった。

漢の使者からこのことを聞いて李陵は一族の非業の死に嘆き悲しみ、その李緒を自ら殺害した。そのため大閼氏(且?侯単于の母)は怒って李陵を殺害しようと計画した。且?侯単于は李陵を北方に匿った。大閼氏の死後、李陵は内地に戻り、後に且?侯単于の娘を娶って、その間に子を儲けた。彼は単于からの頼みで匈奴の右校王となり、数々の武勲を立て、紀元前74年に没した。

匈奴の王女との間に儲けた李陵の子は、呼韓邪単于の時代に、別の単于を立てて呼韓邪単于に叛き、呼韓邪単于によって処刑されている。

かつて匈奴へ使節として赴いた人物の中で、李陵とは対照的に漢に忠節を貫く頑な態度を取ったのが、かつて李陵とともに侍中として武帝の側仕えをした蘇武であった。李陵は節を全うしようとする蘇武を陰から助けている。
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 しかるに尼ごぜん(御前)並びに入道殿は彼の国に有る時は人め(目)ををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせ(責)めをもはヾ(憚)からず、身にもかわ(代)らんとせし人々なり。さればつら(辛)かりし国なれども、そ(剃)りたるかみ(髪)をうしろ(後)へひかれ、すヽ(進)むあし(足)もかへりしぞかし。いかなる過去のえん(縁)にてやありけんと、をぼつかなかりしに、又いつしかこれまでさしも大事なるわが夫(おとこ)を御つか(使)いにてつか(遣)わされて候。ゆめ(夢)か、まぼろし(幻)か、尼ごぜん(御前)の御すがた(姿)をばみ(見)まいらせ候はねども、心をばこれにとこそをぼへ候へ。日蓮こい(恋)しくをはせば、常に出づる日、ゆうべ(夕)にい(出)づる月ををが(拝)ませ給へ。いつとなく日月にかげ(影)をう(浮)かぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
 六月十六日             日  蓮 花押
さど(佐渡)の国のこう(国府)の尼御前