金原氏の言
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大石寺板曼荼羅の讃文の配置は宗祖らしからぬもので、「経」字の踏張りヒゲと判形との空間に無理に押しこんだ感があり、闊達な常の書法とは趣を異にしている。
左右の明王は宗祖のそれとは幾分趣が異なっている。ことに、愛染明王は全くこの時期の宗祖の文字とは見えない。
本尊相貌の外に(四大天の外に)大きく余白を取って授与書き・腰書きを記している例は、大石寺板曼荼羅の他にはない。
板曼荼羅の図顕年月とされる「弘安二年十月十二日」には太歳が記されていない。年号の明記された宗祖文字曼荼羅で「太歳」がないものは一体も確認されておらず、大きな不審点である。
明王も宗祖の書体とはかなり趣を異にしている。
などと主張している。
これは「戒壇の大御本尊が出世の本懐であって特別な存在である」ということの一端を図らずも証明している、とも言える。
以下論証しよう。
大聖人の「出世の本懐」とは何か
これについては既に論考し結論を得ている。
日蓮大聖人 出世の本懐とは何か
結論 弘安二年十月十二日御図顕の戒壇の大御本尊である。
とすれば、特別の御本尊であるから、他の御本尊と違っていても当然と考えられる。
その根拠
■ 仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。(聖人御難事
弘安二年一〇月一日 五八歳 1397)
釈尊の出世の本懐は法華経
その法華経の位置付けは
「已今当(いこんとう)の三説超過」
■「我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり(中略)我が所説の経典、無量千万億にして、已(すで)に説き、今説き、当(まさ)に説かん。而(しか)も其(そ)の中に於て、此(こ)の法華経、最も為(こ)れ難信難解なり」(『法華経』法師品第十)
天台大師は『法華文句』巻八上で、難信難解(=最為第一)を次のように解釈している。
■〔経は法華を歎じて、已今当の外に在りとす〕
「已に説き」とは42年間の方便教のことであり、
「今説き」とは開経の無量義経であり、
「当に説かん」とは、法華経の後に説く結経の普賢経(ふげんぎょう)と、そして『涅槃経』
法華経は已説・今説・当説として挙げた諸経とは異なる、特別の位置を占めるという教判である。
ここから導き出されるのは、釈尊の出世の本懐が法華経であり、
大聖人出世の本懐は戒壇の大御本尊である。
釈尊の「已今当」を大聖人の御化導にあえて相対するならば、
● 已説 弘安元年以前
(日寛上人 ■ 弘安元年已後、究竟の極説なり。(日寛上人 観心本尊抄文段 197)
日顕上人 ■ 弘安元年以降の御本尊において、特に首題の真下に十界の全体を掌握し給う日蓮の御文字ならびに御判が拝され、善徳、十方分身等の余仏が除かれ、(御虫払法要御説法)
● 今説 弘安元年〜弘安二年十月まで
(日顕上人 ■ 弘安二年三月以降は、霊山不在の提婆達多までが大慈悲の光明に照らされて本門の釈尊以下、完全な十界本有の相を表し、
特に弘安以後、御判形が整って閻浮提の衆生救済の義を顕され、もって文上教相外用の意義を廃して、寿量文底の本仏・久遠元初の自受用身の内証を本尊の当体に顕すという、究竟の体相が成就された
● 当説 弘安二年十月十二日以降 出世の本懐成就以降
(日寛上人 ■ 就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。
となり、日蓮大聖人の出世の本懐である弘安二年の戒壇の大御本尊は、已説 今説 当説に超過する御本尊である、ということ。
であるならば、大聖人御図顕の全ての御本尊と相違点があって至極当然となる。
金原氏は御相貌を詳細に調べることで図らずもその一端を証明してくれた。ともいえる。