▼ 2018/08/09 22:33

貴方、私の論じた内容を理解出来てないでしょう!!

ここまで酷いとは思いませんでした!

なんか阿呆臭くなって来ましたよ…(*^^*)

有耶無耶にするのは辞めましょう。

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●↑ そうですか。。。。
貴君は、折角一生懸命書いたんだから、私にかまってもらえないと寂しいようなので、では可愛そうだから切り刻んでいきますかね。

あまりに幼稚な内容なので少々辟易してますが。。。


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▼ 回答A 2018/08/08 21:18



貴方は…

『そもそも、「血脈における総別の二義」が全く分かってないからこのような痴言を吐けるんですね。 御書を拝してみましょう。』 

と【建治二年の曽谷殿御返事 】 を引いて解説をしましたが…

●ここで、曽谷殿御返事の御文を改めて引用します。

『日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、既に上行菩薩・釈迦如来より妙法の智水を受けて末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給う是れ智慧の義なり、釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う、然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む、又是には総別の二義あり、総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず、輪廻生死のもといたらん、例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は、全く弥陀・薬師に遇て成仏せず。譬えば大海の水を家内へくみ来らんには、家内の者皆縁をふるべきなり。然れども汲み来るところの大海の一滴を閣きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり大愚癡なり。法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいな?
?べし』

◆まずこの御文の意ですが、元々は貴方が述べた【血脈の総別の二義??】なるを示されたものでは無かったはずです。

◆本来の総別の二義とは…
大聖人様が【経・釈(天台・妙楽の三大部)】を通して、法華経本門に於ける、【釈尊の付嘱の儀式】に【総付嘱】と【別付嘱】がある事を示され…
この【総・別】を弁えず※1【根源の師】を間違えたら【成仏】は叶わず…
※2【生死輪廻】を繰り返す【因】となる事を示されているのでは無かったのですか?

※1【根源の師】
@総付嘱⇒今日(こんにち)の声聞(舎利弗等)にとっては、大通智勝仏の第十六王子である釈尊。
〈今日=釈尊在世の事を指します〉

A別付嘱⇒末法の衆生にとっては、上行菩薩。
文底顕本すれば久遠元初の自受用報身即ち大聖人様。

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● ↑ ここの 総付嘱 の意義は誤釈ですね。
しかし、今回の本題と関係ないので、詳述しません。

貴君は 総付嘱 別付嘱 意義が分かっていない。

とだけ指摘しておきましょう。

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※2【生死輪廻】

業のままに生まれ業のままに死する、六道を輪廻する。

◆【釈尊の付嘱の儀式】

?別付嘱⇒神力品に於ける、本化上行菩薩への結要付嘱(本尊付嘱)の事。
★付嘱の法体⇒四句の要法に結ばれた、寿量品文底の本門の本尊
★時⇒末法
★機⇒末法の衆生の為

?総付嘱⇒嘱累品に於ける、本化・迹化・他方の無量の菩薩へ、爾前を含む一切経を付嘱した事。
★付嘱の法体⇒文上の法華経及び前後の
爾前経・涅槃経等を含む一切経
★時⇒正像ニ千年
★機⇒熟脱の衆生の為

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● ↑ここはほぼこれで宜しいでしょう。

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▼ 貴方の解釈が、今の宗門公式なんですか?


お答え下さい。
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↑ 公式見解ですね。 だったらどうします?

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創価学会のいうことはこんなに間違っている  日蓮正宗宗務院発行


創価学会の邪説―――――――――――――――――――――――――――――――――――+

Q&A

法主には別しての血脈?

Q 「総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん」(御書1055n)とあり、別しての血脈を相承した法主に背くと成仏できないのではないか。

A この御文の趣旨は、そうではなく、この次下にある通り、成仏に導いてくれる根源の師を忘れてはいけない≠ニいう御指南です。ここで大聖人は、「但し師なりとも誤りある者をば捨つべし」(同n)と、その師に仏法上の誤りがあれば、捨てよと厳しく御教示されています。

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《P.117〜120》

【創価学会に対する破折】

「総別の二義」とは血脈相伝のこと、「誤りある」師とは法主に背く者 

 ここで創価学会は、『曾谷殿御返事』の「総別の二義少しも相そむけば……」の「総別の二義」が、「信心の血脈」と「唯授一人の血脈」を指したものではなく、「成仏に導いてくれる根源の師を忘れてはいけないという」意味であるといっています。

 しかし、このご文は直前の「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別の二義あり」を受けたものであり、血脈相伝についての「総別の二義」であることは明白です。

 血脈における「総別の二義」とは、いうまでもなく、総じての血脈である「信心の血脈」と、別しての血脈である「唯授一人の血脈」を指していることは、日応上人をはじめとする歴代上人のご指南に明らかです。

 この「総別の二義」を解釈するにあたって、前文を覆いかくし、単に「成仏に導いてくれる根源の師を忘れてはいけない」としか理解できない創価学会の愚かさは、救い難いものです。

 また、学会が引用したご文の後段には、「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。又捨てざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべきなり」とあります。

 ここに示される「根源の師」とは、末法の衆生が「智慧の水を受けた」根源の師、すなわち一往上行菩薩、再往ご本仏日蓮大聖人であり、このご本仏大聖人を根本として、その血脈相伝の上から、その時その時の衆生に「智慧の水」を流れかよわす御法主上人を指しているのです。

したがって、「但し師なりとも誤りある者をば捨つべし」の「師」とは、「根源の師」であるご本仏日蓮大聖人およびその血脈相伝につらなる歴代上人のことではありません。
なぜなら、日蓮大聖人が「根源の師」であるご自分や日興上人、またそのご正嫡を「捨つべし」と仰せられるわけがないからです。

 ここでいう「師」とは、それぞれの衆生が分々の立場で師と仰いでいる者を指しており、そこに誤りがあるならば、「世間仏法の道理」によって捨てるか否かを判断せよ、といわれたものにほかならないのです。

 この文意を拝するならば、現在においては、世間・仏法の道理に背き、会員を悪道に導く池田大作こそ捨てられるべき師≠ノあたるのです。(本書155nを参照)

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【文 証】

『曾谷殿御返事』
「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん。(中略)法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。又捨てざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべきなり」(新編一〇三九n)

引用以上

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◆『日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、既に上行菩薩・釈迦如来より妙法の智水を受けて末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給う是れ智慧の義なり、釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う、然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む』

この段は…
大聖人様が【外用の御立場】の上から、御自身が【上行菩薩その人・或いは上行菩薩の御使い】でも無いが…
然れども【上行菩薩】に【別付嘱された法体】を【上行菩薩出現までの先序として】あらあら弘めているのである。と仰せになり…
智慧の枯れ果てた【末法の衆生】の為に、既に【上行菩薩】が【釈尊】より譲り与えられた※【妙法の智水】を【上行菩薩】が流れ通わして下さる。
然るに【この法門】=【御内証で云えば三大秘法】を大聖人様が弘めている。
と仰せになったのです。

※【妙法の智水】=境智のニ法の智慧の水=御内証より拝せば、久遠元初より已来(このかた)大聖人様が御所持になられている、寿量品の文底秘沈の大法。

つまり…
外用【上行菩薩】の御再誕が【大聖人様御自身】である事を間接的に示され、その御内証は【久遠元初の自受用身】である事をお示しになられている段です。

◆『又是には総別の二義あり、総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず、輪廻生死のもといたらん、例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は、全く弥陀・薬師に遇て成仏せず。譬えば大海の水を家内へくみ来らんには、家内の者皆縁をふるべきなり。然れども汲み来るところの大海の一滴を閣きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり大愚癡なり』

この段は…
釈尊の付嘱に【総付嘱】と【別付嘱】の二義があり、これを弁えなければ成仏は思いもよらず【生死輪廻の因】となる。
例えば、三千塵点劫に於いて【大通仏の第十六王子】の【釈尊】に下種された【今日の声聞】は、阿弥陀如来や薬師如来に遇っても成仏出来ない。
釈尊在世【今日の声聞】にとっての【根源の師】である釈尊から、その種を熟され脱せられなければ、成仏はできない。
その種・熟・脱の因縁の理を【大海の水】の譬えを以て示されているのです。

◆『法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし』

この段は…
法華経の【大海の智慧の水】を受け継いだ【根源の師】を忘れて、余所に心を移してしまったら、必ず【生死輪廻】禍(わざわい)を招く。
即ち【末法の本未有善の衆生】に於いては【根源の師】=【上行菩薩】顕本して【久遠元初の自受用身】の御再誕【日蓮大聖人様】を忘れて、他仏に心を移してはならない事を御示しです。

??????????????????
貴方の解説は【釈尊の付属の総別のニ義】を【歴代貫主絶対論】にすり替えたものではないでしょうか?

適当過ぎて、何回読んでも意味が分かりません!!


http://toyoda.tv/kensyoeigo10.htm

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● ↑ まさに附文・一往の辺しか読めない、いや附文・一往の辺ですら正確に読めていない 愚見・幼見・痴見 の典型 まさに サンプル 生きた標本 ですね。

これを破折する意味で多くの文証を挙げておったであろうが。

やはりそれで↑ このような浅薄な愚釈など一発で吹き飛ぶ訳です。

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文証

■ 仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。(四恩抄 弘長二年一月一六日 四一歳 269) 

 
この御文を貴君の”怪釈”で会通できますかね?
やってごらん?おそらく噴飯モノの”沈””怪”答が来ることであろう。

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■ 末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。(四恩抄 弘長二年一月一六日 四一歳 269)

まさに貴君は仏・法・僧の三宝の恩を報じてない。なので、、、

■ 華厳経に云はく「恩を知らざる者は多く横死(おうし)に遭(あ)ふ」(四条金吾釈迦仏供養事      建治二年七月一五日  五五歳 994)

このように、横死に遭うぞ!と大聖人様はお叱りだぞ。
大事故・大怪我・大病に重々お気をつけ遊ばせ。

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■ 凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(真言見聞 文永九年七月 五一歳 608)

貴君は御法主上人を謗るが故に 謗法 である。 

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■ 修学解了の受職の比丘は仏位に同じ。是即ち如来の使ひなればなり。(得受職人功徳法門抄 文永九年四月一五日 五一歳 589)

ここも意を拝すれば、唯授一人・血脈相承の御法主上人はその内証は仏の位と等しい。日蓮大聖人からのお使いである。  

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■ 一 日蓮己証の事(1854)
 仰せに云はく、寿量品の南無妙法蓮華経是なり。地涌(じゆ)千界の出現、末代当今の別付嘱の妙法蓮華経の五字を、一閻浮提(えんぶだい)の一切衆生に取り次ぎ給ふべき仏の勅使上行菩薩なり云云。取り次ぎとは、取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取り玉ふ。さて上行菩薩又末法当今の衆生に取り次ぎ玉へり。是を取り次ぐとは云ふなり。広くは末法万年の取り次ぎ取り次ぎなり。是を無令(むりょう)断絶とは説かれたり。又結要(けっちょう)の五字とも申すなり云云。上行菩薩取り次ぎの秘法は所謂南無妙法蓮華経是なり云云。(御講聞書    弘安三年五月 
二八日  五九歳

この御文、まさに総別の二義を鮮明に御説きである。

「末代当今の別付嘱の妙法蓮華経の五字を、一閻浮提(えんぶだい)の一切衆生に取り次ぎ給ふべき仏の勅使上行菩薩なり」

別付嘱  「釈尊より上行菩薩の手へ取り玉ふ」
総付嘱  「上行菩薩又末法当今の衆生に取り次ぎ玉へり。」

「広くは末法万年の取り次ぎ取り次ぎなり。是を無令(むりょう)断絶とは説かれたり。又結要(けっちょう)の五字とも申すなり」

これまさに、日蓮大聖人→日興上人→日目上人・・・・と次第して 「取り次ぎ取り次ぎ」(=唯授一人・血脈相承)して 「無令(むりょう)断絶」 断絶せしむること無けん と未来永劫に繋がっていく。 という義である。
それまさに 結要付嘱=別付嘱=唯授一人・血脈相承 である。と。

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■ 「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(御本尊七箇之相承 聖典三七九n)

代代の聖人悉く日蓮なり  これも百六箇抄の義と同義である。

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■ 本山の住持の当職(末寺も此に准ず)は三世諸仏高祖開山三祖の唯一の代表者なれば・仏祖も殊に現住を敬重し給ふが故に供養の一切の酒を当住持が始らるゝは勿論の事にて・即宗開三祖が自ら受け給ふ姿なり (日亨上人 富要1-145)

■ 先師先師は過去して残る所は当住持計なる故なり、住持の見玉ふ処が諸仏聖者の見玉ふ所なり。(同1-146)

■ 住持の上人は高開三祖等次第に過去し給へる後の現存者なるを以て・現住即高開三の代表にして・現住の見る(施物を)所は仏聖人の見給ふ処なる故云々 (同1-146)

まさに現御法主上人の御内証に日蓮大聖人・日興上人・日目上人の御内証が相伝・伝持されている。という文意ではないか。

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● 今回 更に特別大サービスで大量の御文証を付け加えておきましょう。
この全ての文証に反論してみなさい。
頑張れよ!

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●17「当家相承の事、全く他家に於て知らざる法門なり。大聖人より相伝の分は日興一人なり。之に依って今に相伝絶えず、云々 延宝九年八月十二日      日精花押」

●17『富士門家中見聞』日精上人
「御上洛の刻み、法を日道に付嘱す、所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり。総じて之れを謂えば内用外用金口の知識なり、別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり、甚深の血脈なり、其の器に非ざれば伝えず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付嘱す。爰に知りぬ、大石寺を日道に付嘱することを。後来の衆徒疑滞を残す莫かれ」(聖典六九五n)

■●26【当家三衣抄】(六巻抄二二五n)
南無仏・南無法・南無僧とは、(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫主、開山付法南無日興上人、南無一閻浮提座主、伝法日目上人、嫡々付法歴代の諸師。此の如き三宝を一心に之を念じて唯当に南無妙法蓮華経と称し乃ち一子を過ごすべし云々。

■●26 僧宝は久遠元初結要付属の所受の人なり。久遠は今日今日は久遠なり。三宝抄 

●26『文底秘沈抄』日寛上人
今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや」(六巻抄六六n)

■●26『三宝抄』日寛上人
付属伝授は即ち是れ僧宝なり。世人此の宝を知らざること譬えば卞(べん)和らか璞(あらたま)の如し云々。(夜光の珠は磨かざれば 石瓦なり磨は珠なり。歴全4-365)

■●26 金言とは金口相承即是れ僧宝なり 三宝抄 歴全4-372

■▲「結要付属豈僧宝に非ずや」(六巻抄
 三二三n)

■●26『三宝抄』日寛上人
「然れば則ち吾が日興上人嫡々写瓶の御弟子なる事分明なり。故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。爾来日目日道代々咸く是れ僧宝なり、

■▲26久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり、仏恩甚深にして法恩も無量なり。然りと雖も若し之れを伝えずんば則ち末代今時の我等衆生、曷ぞ比の大法を信受することを得んや、豈開山上人の結要伝授の功に非ずや、然れば則ち末法出現の三宝は其の体最も明らかなり」(聖典九五〇頁)『当流行事抄』

■▲「所謂僧宝とは日興上人を首と為す、是れ則ち秘法伝授の御弟子なるが故なり」 僧宝は第二十六世日寛上人


▲65日淳上人が
仏教は必ず相伝による」(日淳上人全集七四四n)

●26『三宝抄』日寛上人
「問う、三宝に勝劣有りや。「答う、此れ須く分別すべし、若し内体に約さば実に是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり、故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足を方に円仏と名づくと云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也。
若し外相に約さば任運勝劣あり。所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す故也。故に法宝を以て中央に安置し、仏及び僧を以て左右に安置するなり」(歴全四―三九三n)

●26『抜書雑々集』日寛上人(左京日教師「類聚翰集私」・富要二―三〇九頁の文を引用)
「日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ギに仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り信心異他なく尋便来帰咸使見之す、何ぞ末代の我等三十二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ、
尋いで便(すなわ)ち来り帰って咸(ことごと)く之に見(まみ)え使(し)む

▲26「此の経は相伝に有らざれば知り難し」文。また云く「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」如説修行抄筆記

●31『日因上人御消息』
日興上人已下代々も亦爾なり、内証に順ずる則んば仏宝なり、外用に順ずれば則ち僧宝なり」(妙喜寺文書)

●56『弁惑観心抄』日応上人211
唯授一人嫡々血脈相承にも別付総付の二箇あり。
別付と者(は)則ち法体相承にして総付者法門相承なり、
而して法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈附法の大導師と云ふへし。

又法門総付は宗祖開山の弟子旦那たりし者一人として之を受けさるはなし。
蓋し法門総付のみを受けたる者は遂には所信の法体に迷惑して己義を捏造し宗祖開山の正義に違背す、(中略)

吾大石寺は宗祖開山より唯授一人法体別付の血脈を紹継するを以て、五十有余代の今日に至るも所信の法体確立して、毫(いささか)も異議を構へたる者一人もなし
而して別付の法体と者(は)則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是なり、
故に開山上人より目師への付属書に云く「日興宛身所給弘安二年大本尊日目授与之」云々、
此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり。
此金口嫡々相承を受けされは決して本尊の書冩をなすこと能はす、
(中略)
仮令広布の時といへとも別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非す、
況や今日、該抄(引用者注※百六箇抄・本因妙抄)を世上に伝播せしむるか如きは無論唯授一人の別付相承に非すして法門総付の相承なること顕然なり


●56「辨惑観心抄」日応上人219
此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝るものなり之を真の唯授一人と云ふ、(中略)故に予は断言す。汝等か山は不相伝なり無血脈なりと宜しく猛省すへし。

●「一、吾本山大石寺ハ血脈相承ナルモノハ元ヨリ唯授一人ニ限ルモノニシテ断シテ二三アルニアラス。
故ニ開山日興ハ是を日目ニ附シ、日目ハ是ヲ日道ニ附シ、金口嫡々附嘱相承シテ、五十有余代ノ今日マテ毫も末だ乱ルゝナシト為ス
」(法之道・研究教学二七―三一n)

●「此ノ金口ノ血脈コソ唯仏与仏ノ秘法ニシテ、独リ時ノ貫首ノ掌握セル所ナリ。
是レニハ数種アリ。
又数箇ノ條目アリトイヘトモ、其ノ中、一種ノ金口血脈ニハ宗祖己心ノ秘妙ヲ垂示シ、一切衆生成仏ヲ所期スル本尊ノ活眼タル極意ノ相伝アリ。
又師資相承ノ如キハ宗祖直授ノ禁誡ニシテ、令法久住ノ基礎タリ。
是レ等ヲ此レ唯授一人金□嫡々血脈相承ト云フ也」
「同四七四n」

▲56日応上人
「当宗に於て授与する処の御本尊は一切衆生に下し置かれたる此の御本尊の御内証を代々の貫主職一器の水を一器に写すが如く直授相伝の旨を以て之を写し奉り授与せしむる事なれば各のその持仏堂に向かっても「直ちに此の御本尊を拝し奉る事よ」と相心得へ受持信行する時にはその処直に戒壇の霊地、事の寂光土なる程に臨終の夕までも此の御本尊を忘れ奉らざる様に致さるべきなり、爾れば則ち即身成仏は決定疑ひなきなり。」(本門戒壇本尊縁由 一九n)

●59『有師化儀抄註解』日亨上人
「再往末法に於いて義釈を為さば・此仏と云ふも此菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり」(富要一―一一七n)

●59『有師化儀抄註解』日亨上人(1-160)
貫主上人は本仏の代官にもあり・又本仏の義にもあり・口づから命を発したる仁なれば、御前に復命せんこと亦勿論なり、

●富士派に於ては古往今来化儀化法秋毫も乱れず、殊に宗旨の本源基礎確立して宗祖以来歴世之れを紹隆し始終一貫未だ曽て微塵も異義を雑へたる事あらざるは実に是れ宗祖の正統血脈相承を紹継せる現証にして祖書経巻を解決するに純潔正確宗祖の正意本懐を顕彰し各派に独歩超出せる所以の者も亦之れ血脈相承あるが故なり。

若し経巻のみを見て以て仏法の本旨を解決するを得ば、法然にまれ弘法にまれ、其の他禅律真言浄土等各宗派の祖師等も宣示顕説の法華経を読みて其の本旨を解決悟了すべきに、然らずして却て己義を立て僻解を生ぜしは要するに血脈相承なきの現証にして顕本徒亦此れと同一般なり、斯くの如く事実現証の抹殺すべからざるに於ては顕本の所謂経巻相承なる者は到底宗祖の正意を得たる者に非ず、抑も顕本は単に経巻相承の下に宗義を立つるが故に異端百出曲解続起し弥よ邪岐に迷ふ、固より当然のみ、蓋し顕本の所謂経巻相承なるものは私に云ふ所の経巻相承なる事は日什が宗祖滅後数十年の後始めて日什的法義を唱導せるを以ても之れを知るを得べし、故に宗旨の根帯は宗祖の本懐に基くに非ずして、日什が僻案附会の曲義を根本とす、換言すれば顕本は根幹枝葉果共に宗祖の本懐より生じたるには非ず、唯名を借り祖書を盗用せるに過ぎず、是れを以て其末流の輩異解を生じ己々の私義を主張し現今の紊乱を致す豈に怪むに足らんや。

蓋し相承に経巻あり血脈あり、就中血脈相承を最とする所以は経巻相承と云ひ師資相承と称するも皆血脈相承に附随含有せらる、故に富士派に於て血脈相承と云ふは主要なるを以てのゆへにして敢て師資経巻の相承なきに非ず、総て此れ等の相承は宗祖より歴世之れを招隆せらるるなり、彼の顕本の所謂経巻相承なる自己勝手に名称せるものとは其の轍を異にせるなり。

而して富士派は血脈相承ある故に師弟相資け法統一系連綿紹隆し血脈相承ある故に経巻の正意を誤らず微塵の異解なく宗旨の本源確立し宗門の基礎鞏固に万古に渉つて変ぜず各宗派に卓絶し鎮へに法威を輝す所以は則ち宗祖正統血脈相承を特有せるを以てなり、
然るに日什の濁流を汲むの徒之れを羨望するの余り終に嫉妬貪婪の邪心を起し非望を覬覦す、恰も将門が擬宮を猿島に造り皇室を窺うの反逆と何ぞ異ならん。

倩ら阿部師の論旨と本多の論旨とを対照し孰れか宗祖の本懐に適ふや否やは正確なる道理文証現証に依るに加くはなし、
蓋し法論当日満場大多数の聴衆が阿部師の論旨に感動賛成を表し拍手喝采せるは正に是れ同師の論旨が此三者の方軌に依て弁ぜられ、本多の論旨顕本の所立が邪にして富士派の法義が正なりと判定せるに外ならざるべし、
依て読者も亦此の正確なる標準に憑り此書を看ば両者の邪正是非を知ること掌中の菴羅菓を見るよりも容易に明かならん、
故に予輩編者は喋々冗言をなさず。余は有識具眼者の判定に一任せんのみ、之れを結論となすと爾か云ふ。

●65『日淳上人全集』
「大聖人様が『血脈の次第日蓮日興』と仰せ遊ばされてございますが、今日その血脈を承継致しましてただ感激に打たれる所でございます」(一八四n)

●65『日淳上人全集』 194
真に大聖人様から日興上人様への御相伝、日興上人様から日目上人様への御相伝、仏法の要を尽して御相伝あそばされてありまする。
実に尊い所と拝する所であり、我が日蓮正宗は、この相承の家にありまして、この大聖人の尊い教を七百年の間一糸乱れず今日に伝へて居る次第でございまする。

で私共は未熟でありましても宗開両祖、歴代上人の御跡を継ぎまして仏法の正統の家にあるのでございますから、この身の有難さをつくづく思いまして信心に励まねばならないと強く考へる次第でありまする。

●65『日淳上人全集』1442
生死一大事血脈鈔に於て「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」と仰せられた血脈は脈絡のことで、即ち信心がなければ脈絡は成り立たないとの御意であらせられ「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」とは血液たる仏法を御指し遊ばされてをることは、御文によって明らかである。
血液があり、脈絡があってその上に相承ということができるのである。

その相承に師資相承、経巻相承之れに内証相承、外用相承があって此れ等の相承が具はって完全に相承の義が成り立つのである。
仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱されることを恐れるからであって、即ち魔族が仏法を破るからである。
そのため展転相承を厳にして、それを確実に証明し給ふのである。

大聖人の御あとはどうであらせられるかと拝すれば、直弟子中日興上人を御選び遊ばされ、一切大衆の大導師として一期の弘法をご付嘱遊ばされ、弘法抄を以てその事を証明遊ばされたのである。
御文中「血脈の次第日蓮・日興」とあらせられるのは大聖人の正統を決定し給ふためであって、付嘱相承師資相承等の一切の相承のことが此の御文によって立証されておるのである。
しかしてそのあとのことは日興上人を師と仰ぎ師弟相対して相承し給ひ、大衆は各々また師弟相対して相承してゆくのが仏法の道である。


内証の上には大聖人の御弟子であることは勿論である。といって内証のみに執して、師弟の関係を整へることが最も大事であって此れを無視するところに聖祖門下の混乱があり、魔の所行が起ってくるのである。

高田氏は「智学氏が大聖人の滅後六百年の断絃(げん)を継がせ給ふ」といってをるが、師弟相承の証明もなく、その法門に於ても相承のあとが全くないのである。
高田氏はいふであろう、「法華経と御書六十余巻を手に握って立つるところで文証此れにあり」と、(中略)
大聖人が「経を手に握らない法門は信ずるな」と仰せられしは「仮令師資相承があると言っても経文にないことは信ずるな」との聖訓であらせられる。

経文や御書そのものを手にすればそれによって相承があるといふのではない。
御書には「此経は相伝に非ずんば知りがたし」と仰せられて居る。(中略)信心血脈は付嘱相承の場合問題ではない。
法華一会の時一切の菩薩や人天の方々を、「止みなん善男子」といって制止し給ひ、上行菩薩に付嘱し給ひしは、信心の有る無しにより給ひしものか。(中略)また大聖人が「仏法―最大深秘の正法」と仰せ給ふ秘法、また「末法には持ち難し」と仰せ給ふ大法を唯信心だけで付嘱相承し給ふと考へるのは迂愚の骨頂ではないか。
そういう?倒(てんどう)の考へ方によって仏法の混乱があり、魔が跋扈するのである。


●65『日淳上人全集』
「(※高田聖泉は『興尊雪寃録』で)「此の血脈を伝持するものは信心血脈である」と、かくいって「今我々が大聖人を慈父と仰ぎ南無妙法蓮華経と唱ふるものが信心血脈を相承するもの」であるとし、「日蓮正宗の唯授一人の相承などある筈がない、それは『隠し食い相承』であり、また顕本法華宗の経巻相承は『土足相承』である」と田中智学氏の言葉を借りて評してをる。
(中略)御書を引いて内証相承、外用相承を説き師資、経巻、血脈等の相承を説き乍ら結局は信心血脈のみを立てることにして其の他を否定するといふことになつてをる。
此れは国柱会の血脈を立てやうとするあまり、かような珍説を主張することになったと思はれる」(一四四一〜一四四二n)

●65日淳上人猊下
仏法において正法が混乱しないように相承の道を立てて明かにされているのであります。それでこの相承の跡を尋ねていけば正しい仏法か、間違った仏法かを知ることができるのであります。

仏法に於ては正法が混乱をしないやうに相承の道を立て明らかにされてあるのであります。
それで此の相承とは相ひ承けるといふことで師の道をその通り承け継ぐことであります。

それで此れを師資相承と申します。既に師の道を承け継ぐのでありますから必らず師の証明がなければなりません。
弟子が勝手に承継したといってもそれは相承ではないのであります。

また世間では仏書を読んで悟ったといって師弟といふことを考へない人がありますが、それは仏法の正しい道ではないのであります。
昔経巻相承といふことをいって法華経を読んで仏法を相承したと主張した顕本法華宗の祖である日什といふ人がありますが、此れは自分勝手にいふことで法華経の中には日什といふ人に相承したといふ証明はないのであります。

仏法に於ては師資相承がなければいけないのであります。

また信心相承などといって信心を以て相承したなどといふ人がありますが、信心は仏法の基盤でありますが、相承はその上に於ける仏法の承継の問題であります。

●65『日淳上人全集』聖典相伝部に寄せて
「申す迄もなく御相伝となりますれば直接御指南の金口嫡々の御相承や宗門の上の御教示等重々あらせられると拝しますが、それは御法主上人として大事大切でありまして、一般の僧侶や信徒としては御法主上人に随順し奉ることによって、自ら受けることができるのであります。
それ故此には従来拝読を許されてをる御相伝書を挙ぐるに止めたのでありまして、此れを以て全部であると速断してはならないのであります」(一一五〇n)

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● ↑ これらの文証により、今回の駄文における貴君の痴言は全く通用しない。


さあ、反論、大変だぞ〜〜〜。