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■ 顕正会・創価の葬式では、地獄行き

● お葬式は、どうやってやるんですか?

▼ 儀典部の人(在家)が来て執行します。

人死すれば魂去り、其の身に鬼神入れ替はりて子孫を亡ず。

餓鬼(がき)といふは我をくらふといふ是なり。智者あって法華経を読誦して骨の魂となせば、死人の身は人身、心は法身(ほっしん)。生身得忍(しょうじんとくにん)といへる法門是なり。華厳・方等・般若の円をさとれる智者は、死人の骨を生身得忍と成す。涅槃経に「身は人身なりと雖も心は仏心に同ず」といへるは是なり。生身得忍の現証は純陀(じゅんだ)なり。

法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、彼の魂を変じて仏意と成す。成仏是なり。即身の二字は色法、成仏の二字は心法、死人の色心を変じて無始の妙境妙智と成す。是則ち即身成仏なり。
(木絵二像開眼の事 文永九年 五一歳 638)


葬儀を 法華を悟れる智者 がしなかったら、死骨もしくは、遺体に鬼神が入り込んで、子孫を滅ぼす。という意義。

→ 顕正会職員・創価儀典部の老人が 法華を悟れる智者、となぜ言えるのか? → んな訳ないでしょう!

→ 法華を悟れる智者 とは 別しては日蓮大聖人 → 日興上人 → 唯授一人 血脈相承 の御法主上人 → 

                   総じては 御法主上人から免許を戴いた 御僧侶

→ 法華を悟れる智者 → 御法主上人の書写された正統な導師曼荼羅

→ 顕正会・創価同士葬 などは 死骨・遺体に鬼神が入り込んで、故人は地獄の苦しみ。 遺族・子孫は必ず衰退し、滅びていく。

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想定反論


▼ そんなことより、広宣流布 国立戒壇が大事!

■ 夫(それ)以(おもん)みれば日蓮幼少の時より仏法を学し候ひしが、念願すらく、人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚(なお)譬(たと)へにあらず。かしこ(賢)きも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし (妙法尼御前御返事 弘安三年七月一四日 五九歳 1482) 

■ 即身成仏と申す法門は、世(よ)流布(るふ)の学者は皆一大事とたしなみ申す事にて候ぞ。就中(なかんずく)予が門弟は万事をさ(差)しを(置)きて此の一事に心を留むべきなり。建長五年より今弘安三年に至るまで二十七年の間、在々処々にして申し宣(の)べたる法門繁多なりといへども、所詮は只此の一途なり。
(妙一女御返事    弘安三年一〇月五日  五九歳 1498)

● 即身成仏できない仏法をどんなに「広宣流布」しても、全く無意味。どころか有害・猛毒。国家の迷惑。

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▼ 大聖人が、「葬儀を僧侶がしろ。」などとは言っていない。

■ 今常忍貴辺(きへん)は末代の愚者にして見思未断(けんじみだん)の凡夫なり。
身は俗に非ず道に非ず禿居士(とくこじ)
(※1)。
心は善に非ず悪に非ず羝羊(ていよう)のみ。
然(しか)りと雖(いえど)も一人の悲母(ひも)堂(どう)に有り。
朝(あした)に出でて主君に詣で、夕に入りて私宅に返る。
営む所は悲母の為、存する所は孝心のみ。
而(しか)るに去月下旬の比(ころ)、生死の理(ことわり)を示さんが為に黄泉の道に趣(おもむ)く。
此に貴辺と歎いて云はく、

「齢(よわい)既に九旬に及ぶ。
子を留めて親の去ること次第たりと雖も、倩(つらつら)事の心を案ずるに、去りて後は来たるべからず、何れの月日をか期(ご)せん。
二母国に無し、今より後誰をか拝すべき。」

離別忍び難きの間、舎利(しゃり)を頚(くび)に懸(か)け、足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。(※2)
其の中間往復千里に及ぶ。
国々皆飢饉(ききん)して山野に盗賊(とうぞく)充満し、宿々(しゅくしゅく)糧米(ろうまい)乏少(ぼうしょう)なり。
我が身贏弱(るいじゃく)にして所従亡きが若(ごと)く牛馬(ごめ)合期(ごうご)せず。
峨々(がが)たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。
高山に登れば頭(こうべ)天にx(う)ち、幽谷(ゆうこく)に下れば足雲を踏む。
鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。
眼眩(くるめ)き足冷ゆ。
羅什(らじゅう)三蔵の葱嶺(そうれい)、役(えん)の優婆塞(うばそく)が大峰も只今なりと云云。

 然(しか)る後深洞(しんどう)に尋ね入りて一菴室(あんしつ)を見るに、法華読誦(どくじゅ)の音(こえ)青天に響き、一乗談義の言山中に聞こゆ。
案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌(がっしょう)して両眼を開き、尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽(たちま)ちに息(や)む。
我が頭(こうべ)は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。
譬へば種子(たね)と菓子(このみ)と身と影との如し。
教主釈尊の成道は浄飯(じょうぼん)・摩耶(まや)の得道、吉占師子(きっせんしし)・青提女(しょうだいにょ)・目・尊者(もっけんそんじゃ)は同時の成仏なり。
是(か)くの如く観ずる時無始(むし)の業障(ごうしょう)忽ちに消え、心性(しんしょう)の妙蓮忽ちに開き給ふか。
然(しか)る後、随分に仏事を為(な)し事故無く還(かえ)り給ふ云云。恐々謹言。
富木入道殿 (忘持経事  建治二年三月三〇日  五五歳 957)

※1 半僧半俗 であるにもかかわらず、わざわざ身延の大聖人の元へ遺骨を奉じて参詣した。
※2 亡くなられたのが、2月下旬 富木殿が無事に帰宅されたのを確認されたのが3月30日前 

2月下旬母入寂 → 富木 → 身延 → 帰宅 → 無事を報告のお手紙が身延へ → 大聖人上記お手紙をお認め 3月30日
道中の行程 身延での法要(おそらく正式な初七日法要もされたのではなかろうか) などを勘案すると


→ 母が亡くなってまず仮に荼毘に付し、その直後、身延を目指した、と推定される。

→ 葬儀を大聖人様もしくは大聖人代行の御僧侶に執り行っていただいた。と考えられる。

→ もし、葬儀を僧侶が行う必要がなければ、なぜわざわざ遠路はるばる、千葉中山の地から身延まで行く必要があったのか?

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▲宗祖御遷化記録  弘安五年十月十六日 執筆日興花押 1864

→ 大聖人の御葬儀は、在家がしたのか?

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●59『興門宗致則』富士本日奘編・日亨上人校訂

「所詮大強盛の信力を以て欲心余念を絶し偏に下種の三宝を祈るべし。一人の霊魂引導の事は容易にあらず。最も貴重なるものなり。故に老若男女貴賎上下を択ばず引導するものは時の住持に限るべし



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