▼ 試練と忍従の歴史 での言い訳

 ここで「客殿の奥深く戒壇の御本尊を安置申し上げる」という「本宗相伝」の趣旨について説明しなければならないが、この意味については、細井管長自ら、昭和三十四年に解説されているので、そのままここに引用する。

 「広宣流布を待ってはじめて本門寺を建立、戒壇の大御本尊を安置し奉って事の戒壇建立という事になるのでございます。
それまでは戒壇の御本尊をおしまい申し固く護る。
先師方が客殿の後の奥深くに戒壇の御本尊をお護り申すという事を仰せられて居ります。
我が本山の先師方のこれが心でございまして、客殿の後に奥深く戒壇の御本尊を蔵し奉る、しまっておく、広宣流布の暁迄はしまっておくということになる。

 …戒壇の御本尊はどこまでも蔵の中にあるのでございます。
誰がみても今の奉安殿は外から見ても立派である。
然し戒壇の御本尊様のまわりを御覧なさい、石である。
石で囲ってあるきりで蔵ではないか、そこに何を供えてあるか。
‥…奉安殿の中に樒がありますか、ないじゃあないですか、…‥その樒は客殿にあります。
客殿に皆様が勤行において二回目に唱える奉安殿に向って遥拝する、あそこに樒がある。

 だからこれを以て推して行くと、戒壇の御本尊はどこまでも蔵の中にしまってある。
蔵してあって拝むのは外から遥拝する。
ただ特別に内拝の為にそば迄行って拝めるというのである。

 だから今度はその戒壇の御本尊のお出ましを願って始めてそこに本門寺の戒壇建立と云う事が出来上るのでございます。
お出ましは先程から申す所のいわゆる広宣流布の暁である
(大日蓮三十四年九月号)

 これで明瞭である。池田がなんといおうと、細井管長は、本宗の相伝に則って、正本堂を大客殿の奥深く位置させることにより、正本堂を広布の時を待つ蔵、すなわち大御宝蔵の意味を持たせたかったのであろう。
これが猊下の本意であったことは間違いない。

 しかし一方には池田大作の 「猊下の御説法に基く」旨の、正本堂を御遺命の戒壇とする歪曲があり、管長はこれも黙認していた。
管長はまさに両義を存していたのである。

ちなみに、昭和四十五年以降は池田の圧力に全面屈伏、正義は滅して悪義だけが残ったが、少なくともこの時点では両義並存であった。

 妙信講が正本堂の御供養に参加することを打ち出したのは、このような時であった。

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● では、浅井はこう言っている
● しかし一方には池田大作の 「猊下の御説法に基く」旨の、正本堂を御遺命の戒壇とする歪曲があり、管長はこれも黙認していた。
管長はまさに両義を存していたのである。

ちなみに、昭和四十五年以降は池田の圧力に全面屈伏、正義は滅して悪義だけが残ったが、少なくともこの時点では両義並存であった。

 妙信講が正本堂の御供養に参加することを打ち出したのは、このような時であった。
● 両義併存ならば その片方の義は謗法であろう!その謗法と併存している状況でそこへ供養するのは謗法与同ではないか!
● 謗法発言を黙認していたということは謗法与同であろう。ならばなぜそこへ供養したのだ!