御法主日顕上人猊下お言葉
全国教師指導会の砌
平成三年一月六日
於 総本山大客殿
ただいまは、総監、教学部長からそれぞれの趣旨において話がありました。
最近、色々な面で宗門と学会とが不協和音以上の残念な形が起こってきております。
これは、やはり組織の一番根本の中心者が起こしておるところと私は思います。
そこから、組織を非常に巧みに活用しながら、また、聖教新聞等の武器を使いながら、だんだんと末端にまでその徹底を図っておるようであります。
どうぞ、やりたいことは勝手にやってもらえばいいと思うのです。
ただし、それが本当の仏法の正義か否かということが問題である。
どんなことをやってみても、本当の正義に逆らっておれば、必ず間違ったことは間違った結果として出てくるものと私は確信しておりますから、今、どのようなことを騒ぎ、やっておっても、私の気持ちは冷静でありまして、そこに不安感とか、そういうものは本当に全くないのであります。
とにかく正しいことを正しく行っていくことが大事である。
ただ、それにつけても特に私が常に心を痛めておるところは、そのようなことをただ上から聞くだけで、どう判断していいのか、ただおろおろとわけが解らないでいるであろう、今まで真心をもってお寺へも参詣していた人達の信心であります。
この人達の信心は本当に僧侶が、何とか正しい方向に導いていただきたい。
そして組織の上から流されてくる誤った、曲がった色々な指示に対して、正法正義の正しい信心を忘れないで、どこまでも信者としての行学、信行に勤めていただきたい。
その人達の信心の尊さが永続されることを日夜、心から祈念をしておるものであります。
どうぞ皆さん方も、お寺に来る人達の尊い信心を少しでも正しい方向に向かって目を見開かせ、もし間違ったことを聞いて、それに執われておる人があれば、その目を見開かせるような努力をし、また、惑っておる人には力づけて、この信心を絶対に捨てることのないように励ましていってもらいたいと思うのであります。
先程から色々と説明があり、聞いておりましたけれども、具体的な問題については、まだ私からも皆さん方に対して言いたいことがたくさんあるのです。
しかし、そのようなことについては、今日は私は触れません。
ただ、このような問題は、ただ現在の状況だけを見ておりますと、やはりそこに何かわけの解らないものが出てくると思うのです。
例えば、先程からの話によっても、名誉会長が色々な面で私を批判したり、宗門を軽視したりということが、最近、特に激しくなってきておるということですが、皆さんは聞いていて、「それが唐突として起こってきたということになるのだろうか」「その原因は何なのだろう」ということが、あまりはっきりしないと思うのです。
どうしてこのようなことが起こってきたのかということであります。
これについての私の見解を一往、ここに申し述べて、今日、お集まりいただいた皆さん方の信心、乃至学解の上からの良識に訴えて、お考えをいただきたいと思うのです。
それは、非常に大事な宗門の教義、信条の根本である三大秘法の意義、内容に関すること、それと正本堂との関係が一番根本になっておるような感じがいたしております。申すまでもなく、大聖人様の血脈相承の一つの顕れた相伝の形として『一期弘法抄』という御書があります。
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、
国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべ
きのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり」
(全集一六〇〇n)
これは、根本的な大聖人様から日興上人への御付嘱の文であります。
特にこの中で大事なことは、「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」という所です。
たしかに戒壇建立の条件であります。
この文を今日的な意味において、どのように拝するかということが、やはり非常に大事なことなのです。
それからもう一つは『三大秘法抄』の戒壇の文であります。
御承知のように大聖人様は、宗旨建立の時から南無妙法蓮華経をもって三大秘法を一切衆生に弘通あそばされた。
そして三類の強敵が起こって法華経の身読をあそばされ、その佐渡の時期から特に本尊をお示しになり、ですから『観心本尊抄』等の御指南も拝せられるわけで、そこから本尊の顕示が始まり、そして弘安二年十月十二日の戒壇の御本尊様の御顕発となるのです。
それと同時に、日本乃至世界を真に救うべく御遺命あそばされたのが、その戒壇の御本尊様を安置しての戒壇の建立ということでありました。
これが先程の『一期弘法抄』の御文でもある。
その『三大秘法抄』に初めて戒壇というものの相貌を明らかに示されたのです。
あの四百余編の御書の中で戒壇の相貌をはっきりお示しになったのは、皆さんも御承知のとおり『三大秘法抄』だけであります。
いわゆる
「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有
徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して
霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒
法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝
釈等も来下してV給うべき戒壇なり」(同一〇二二n)
という御文であります。
この御文を戒壇建立のはっきりした条件として、我々は昔から拝してきたのであります。
しかし、正本堂建立において日達上人が池田名誉会長に対して「会長、もう広宣流布だな」と、ある時、おっしゃった。
それを受けて池田名誉会長は「もう広宣流布なのだ」と、いわゆる「本門戒壇建立の時なのだ」と信じた(昭和四十三年十月、正本堂建立着工式の挨拶)のであります。
しかし、日達上人のお言葉はもっと広い意味での「広宣流布」ということをおっしゃったと私は思います。
ですからその後の御指南等においても、明らかに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇が正本堂であるということは、そのものズバリの形でおっしゃってはいないと思うのであります。(ただし、その後猊下より「昭和四十三年十月以前に、正本堂につき『三大秘法抄』『一期弘法抄』の御文意を挙げての日達上人のお言葉があったので訂正する」旨、仰せ出だされました。)
その後、色々な問題も起こりましたが、結局それによって、当時としての在り方でしたけれども、宗門として一つの定義(日達上人御指南)が出来ました。
これは皆さんも承知のとおり
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり」(昭和四十七年四月二十八日・日達上人全集二輯一巻―三n)
というものでした。
これは、『一期弘法抄』等の「意義を含む」ということは、その意義の全体が現れたということではないのが明らかであります。
ですから、まだその意義の全体が現れるかなり手前の形において、分々の上においての意義が現れたということです。
また、その次の文にも「現時における」ということが示されておりますから、この文も『三大秘法抄』『一期弘法抄』それ自体の全体の意義が現れた、そのものの戒壇として正本堂があるのではないということであります。
それから次に
「即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」(同n)
という文がまた続いています。
これも「たるべき」ということは、皆さんも文法は御承知でしょうから私が言うまでもないが、「たる」とは相応とか、ふさわしいとか、それに当たるという意味であります。
「べき」ということは、推量の助動詞でありますから、したがって推し量るということなのです。
考えれば、ということであります。
それはそのまま、予想であります。
あらかじめ思うということです。
予想はすなわち予定ということにもなります。
将来こうなりたい、したい、そのような意味であります。
したがって「予定は未定にして確定にあらず、しばしば変更することあり」という文もあります。
ですから一往、そうは思っても、将来において変わる場合もある。
よく日達上人も「不毛の論」ということをおっしゃったことがありました。
「そのような先のことは判らないから、一往、今は『その意義はある』ということを言うけれども、しかし将来のことは判りはしない。
あるいはもっと大きなものが必要になるかもしれないではないか」ということを、皆さんも聞かれたことがあるでしょう。
ですから、あくまで「そのものズバリの戒壇ではない」と私達は考えております。
だから私は登座以来、この問題についてはひとことも触れませんでした。
これは、私が色々な考えをもって、「こういうことは簡単に触れるべきものではない」と思いまして、ですから今までの私の十一年間のあらゆる所における発言において、この問題に関して、はっきりと触れた所は一ヵ所もないはずであります。
今日、初めてここで申し上げるのです。
けれども、この問題に関して池田名誉会長は、昭和四十三年の正本堂着工大法要の時に『三大秘法抄』の文を引き、
「この法華本門の戒壇たる正本堂」(大日蓮二七三号巻頭)
とはっきり言っております。
すなわちこれは『三大秘法抄』の戒壇がそのまま正本堂であるということを言ったのであります。
そのほかの所においても、ほぼそれと同じような意味において述べております。
先程申しました、信徒一切を含めての宗門の公式発表である
「正本堂は現時における事の戒壇」
という意味と非常に違っておるのであります。
皆さん方は、正本堂が本当に『三大秘法抄』『一期弘法抄』のそのものズバリの戒壇なのだと思いますか。
大聖人の御指南にあるところのそのような状況、そのような大聖人の御聖意がはっきりそのまま正本堂に具わっておると思われる人は遠慮なく手を挙げてみてください。
あとで「駄目だ」などと言っては駄目ですよ――。
では一人も思っていないわけですね。
そう思ってもいいのですか。(ハイッ。)返事がありましたね。
それならば、皆さん方がどのように考えていらっしゃるかは知りませんが、これは実に重大なことです。
大聖人様の三大秘法は、御本仏様の一切衆生救済の、実に根本の、厳として犯すべからざる大法で、これは御仏意によるものである。
そのさらに一番の元が戒壇の大御本尊様と戒壇建立ということなのです。
したがって『一期弘法抄』『三大秘法抄』における戒壇建立の御文は御本仏様の御指南であり、我々は、あくまで信に基づいてその御文を拝し、弘通の姿をもって、その御仏意の顕現を図るべきであります。
ですから、先程申したところの正本堂に関する宗門の
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇な
り。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」
という決定の前に、「おれは偉いから、これはこうなのだ」というようなことを、ある一人の信徒の方が確定してしまい、発言してしまったということは、言い過ぎでありますから、これははっきりと反省しなければならない。
また、訂正しなければならないと思います。
ところが今日に至るまで、本人がそれに対する反省も、また訂正も全然ありません。
我々は、「自分はこれだけの立場(正本堂建立発願者)にあるのだから、大聖人の仏法はこうだ」と言い切るというようなことは、やはり仏法上、心して考えなければならない問題だと思うのであります。
仏法に対するこのような考え方、このような体質、大聖人様の一番根本である戒壇の御文に対して、「これはこうなのだ」と言い切るような、またそれに対して、あとにおいて違った決定がなされたにもかかわらず、反省が全くないような形が厳として存在しておるのであります。
また、最近の問題を論ずるときに、前の五十二年・五十三年路線と比べて、それに対して「反省がない」とか「今、やはり同じだ」とか、色々な声を我々はよく聞きますけれど
も、では五十二年路線がどうして起こったのかという、その元を皆さんは考えたことがありますか。
私は、先程の正本堂に関する定義を、色々な問題の経過において日達上人がお示しになったことに対して、「法華本門の戒壇たる正本堂」と論じた気持ちにおいて、そこにかなりの齟齬があったために、それに対して必然的に起こってきた日達上人に対する不信感からの、日達上人や宗門に対する批判等が五十二年路線だったと思うのであります。
ですから、もっと元があるのです。
それで、あの問題が起こり、日達上人に対しても随分ひどいことを色々と言っております。
私もそれを聞いたことがあります。
皆さん方も分々に聞かれているでしょう。
文献に残っておるものもあればないものもたくさんあるでしょうが、そのような形の中で推移しましたが、結局、当時の状況上、宗門から種々たしなめられて、それまでに池田名誉会長が発言したりしたことが間違ったことであるということを御自分でも認めざるをえなくなり、あの「お詫び登山」があったり、その他様々な形での反省をして「二度とこのようなことがないようにする」ということを誓われたのであります。
しかし、それから十年間たちまして、今日、何か私どもが解らない間にどんどんと宗門に対する批判、また法主批判のような形が進んできて、先程の説明にあったような姿が現れてきておるということなのです。
これは全部を達観してみると、やはり「自分は大聖人の仏法を全部、把んでいるのだ、だから私は『法華本門の戒壇たる正本堂』と言ったのだ」と言えるような考え、また今日においても「これからの広宣流布は法主の指示・指南を受ける必要もなく、意見を聞く必要もない。
全部、自分が把んでいるのだ。
自分が一番偉いのだから、自分の考えにおいて広宣流布をしていくのだ」ということが、やはり元になっているのであります。
そのようなところから、対話もない形もあります。
また聞こうとする考え方もないようなお方でもあるようですから、したがってそのような面から見ると、宗門が何か、おもしろくないというようなことに、結局はなってきているのではないかと思います。
この膨大な信徒の数、また最近は何か非常に財務等も強調されているようでありまして、その中に色々な社会的問題があることも噂で多少聞いておりますが、とにかく非常に大きな組織が形作られておる。
このままで行けば、そのような中に宗門は巻き込まれてしまうような形で、正しいことも何も言えなくなり、一切が在家の人の指示・指南に基づいて動くというようなことになってしまうのではないかと思うのであります。
私は、実はこの問題について、この間の一一・一六のきちんとした完全なテープが二本も手に入って、それらの内容を聞いた時に、「大聖人様や日興上人様のお心において、果たして我々がそのようなことを黙視していいのだろうか」と随分考えたのです。
また、それからでも本当に打ち返し打ち返し考えた上で、幹部の人とよく話し合いをしまして、やはり「このようなことをこのまま何も言わないで見過ごしていくことはよくないのではないか」という結論に到達したのであります。
我々は正しい仏法をどこまでも命懸けで護らなければならない、そして未来万代に正しい法を広宣流布していかなければならないのであります。
その気持ちの上から、ここに「お尋ね」という文書を学会へ出すことに踏み切ったのであります。
ところがそれに対して、先程も出たような形で恬として全く反省の色のない、しかもあとから返事は来たけれども、その時は全く回答もよこさず、全く捏造の意義を含めた九項目を提示し質問してきました。
このような形は、全く反省の色もなければ、誠意もないという上から、かねての懸案の法華講本部役員の問題に関する「宗規」の改正にも踏み切ったのであります。
これは、けっして我々が理由なくわがまま勝手に、無慈悲にやったのではないのであって、正法を正しく護っていくために、どうしてもこの際は、お互いに立ち上がって、きち
んとした筋道をとっていこうということを考えた次第であります。
これから、非常に厳しいこと、大変なこと、様々なことが起こってくると思います。
大聖人様のこのようなお言葉があります。
「結句は一人になりて日本国に流浪すべきみにて候」(同九六四n)
私は、この御文を拝した時に涙が出たのであります。
私もまた、その覚悟は持っております。
あくまで正しく、私一人になっても法を護ってまいります。
どうぞ、皆さん方の信心でこの問題を考えて、正しい正宗の僧侶として、この難局を乗り切るように頑張ってもらいたいと思います。
(文責・編集室)
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御法主日顕上人猊下お言葉
教師指導会の砌
平成三年一月十日
於 総本山大書院
ただいまは、藤本総監、大村教学部長が、それぞれ今回の問題に関する趣旨を概略、述べたようであります。
しかし、何といっても時間も限られておりまするし、その要点を取って述べたと思いますが、例えば九項目という問題は、こちらからの「お尋ね」ということに対して、全くその返答をしないで、逆に学会から九項目の詰問書を突き付けてきたということで、このこと自体が信徒としての信仰の本義を忘れた、高ぶったところの慢心そのものの姿であると思うのでありますが、それについての内容も二点程に絞って述べたようであります。
しかし、そのほかの色々な詰問についても、やはり九項目自体が全部、向こうの独断、偏見によっておるのでありますから、是非、皆さん方は向こうの九項目と、それに対するこちらのきちんとした正しい回答をよく読んでいただきたいと思います。
そうすれば、今の説明に加えて、またさらにその内容を熟知されることであると思います。
それから、今、教学部長が言ったことの中で、時間がないために、内容について簡略にしたところがありまして、私のことですから少し補足しておきます。
それは教学部長の話の総代の件で、私は一般論として「近頃、『寺院にお参りするな』というような指導をしている風潮があるのではないのですか」ということをたしかに申しました。
その時は、私が一人で、名誉会長ならびに秋谷会長二人の目通りでしたから、この二人に対してそのことを言いました。
それからもう一つは、その時までにあちらこちらから、色々と信者から手紙が来ておりましたことで、それは特に七月でしたから、その前から学会の組織の中で色々と言われておったところの財務の募金の問題です。
この財務については、昔の五十二年路線の時の反省である六・三〇において、「学会で広布のために集める財務などは、けっして御供養ではない、信徒の立場においては御供養という名前で徴収することはいけない」という意味のことがありまして、それは学会が十年前に確認しておるところであります。
ですから、「今後はそのようなことはいたしません、言いません」ということになっておりました。
ところが、それが最近において名誉会長の指導として、「『御供養』と言って何が悪いのだ」「今年は『御供養』と言って集めていいのだ」というような指導があったという手紙が私の所へ来ておったのです。
そのような手紙が来ているけれども、実否が判らないから、私は名誉会長に対して「あなたはこのようなことを今年は言っていませんか」と、これはこの件として聞いたのです。
そのような形で私は二つの質問をした。
それを向こうは一つにしまして、つまり捏造と、さらにねじ曲げですが、そこにさらに私はひとことも言っていない総代というものを持ってきて入れて、それで私が名誉会長に対して、「ある総代に対してあんたはそう言ったではないか」というように言ったとしておるのであります。
私はそのようなことは本当に言っていないのですけれども、それをそのように造り上げて、捏造して言ってきておるのです。
それが九項目の中の一つなのです。
それを今、教学部長が言ったのだけれども、私がたしかに名誉会長に指摘したのは、「財務のことに関して、あなたが『御供養でいいのだ、御供養と言って何が悪いのだ』ということを言っているという投書が色々と来ているが、どうなのですか、これはいけないはずですね」ということです。
この件に関しては「そのようなことは言っていません」と、このように言っておりました。
ともかく、そのような状況だったのです。
それについて今度は、「その総代の名前は何というのですか」等の、実に言い掛かりもはなはだしい三カ条の質問をし、さらに「そのようなことを一宗の法主が、事実を確かめもせず簡単に言ってもいいのですか」と非難してきたのです。
きちんと読んだ人はお判りでしょうが、向こうの質問状の中に入っているはずです。
あれを見て、私も本当に嫌になりました。
あのような汚いやり方で捏造して、私は不徳な人間ではあるけれども、管長の立場にある者をそのようにやりこめて、しかもそれのみならず、こちらの返答も待たずに、そのような捏造の質問書をどんどん聖教新聞で流して、それで肝心のこちらの正しい回答は、ほとんど出してはいないのです。
本当に卑怯であり、卑劣なやり方なのです。
また、そればかりでなく、九項目全部がそうです。
あの九項目の最後の所などは、こちらがちょっと質問したことに対して、あまりにひどい書き方です。
寺院建立に関してのことで、言葉は丁寧ですが、実にえげつない言い方で、「契約ではないのだから文句などを言うな」「こちらが御供養することを、おまえさん達は有り難く受けていればいいのだ」というような内容です。
だから、それに対してこちらの答えとしてはっきり、
「宗門としては真の御供養の精神に基づいて、寺院を建立していくつもりであります。
本年末をもって、総本山開創七百年も終了いたしますので、これを機会に、これまで
記念事業として行われてきた二百箇寺建立寄進は、学会が言われるように、『もとも
と契約のようなものではありません』ので、三重県白山町の仏徳寺を最後として、平
成三年以降、残りの八九箇寺については、寄進を辞退いたしたいと存じます」
とはっきり書いてあります。
それも読んでいない人もいるのかもしれないけれども、読めばはっきり判るはずです。
これは大事なことですから、やはりきちんと克明に全部読んでいただきたい。
それで、向こうが皆さんの所へも色々と押し寄せてきているらしいが、そのようなときに、特に「学会がこれ程の広宣流布をしたのではないですか」「正本堂を建立し、様々なことをしたのは全部、学会ではないですか」ということを言って、「それをこのようなことをするのはひどい」と言っておるようですが、やはりこれは日達上人の言葉にもあるように、「広宣流布、広宣流布と言っても、間違った考え方によって広宣流布しても、そのようなものは本当の広宣流布ではないのです」という一言で、そのような問題はきちんと片が付くはずであります。
また、「これ程やったのは池田名誉会長ではないですか」とも言っておるようです。
そのようなことをやった人が、いわゆる全学会員から本当に仰がれているような人が僧俗のけじめを忘れて、法主を、管長を侮蔑し、宗門を軽蔑し、まるで「自分達が偉いのだ」というような考え方で色々なことを言う。
それも衛星同時放送で、百以上もある会場へ衛星から中継するわけです。
あのやり方も本当におかしいのです。
全部の会場でテープの持ち込みを禁止するのです。
日蓮大聖人様の仏法を正しく弘め、示していく、そのようなスピーチなり、会合において、何のためにテープレコーダーの持ち込みを禁止する必要があるでしょうか。
宗門においては、その頃は私はまだお山へ来ていませんでしたが、昔、十年程前の特殊な会合においては、特に必要があり、その時だけでありましたが、たしかにそのようなことが一遍か二遍あったことは記憶する。
しかし、それ以外では、昔からそうであるけれども、日達上人も、誰が何を録ろうと、そのようなことは何もお構いなさらなかった。
それが当たり前の姿であります。
私も十年間ずっとそうです。
「今日はテープを持っているか検査しろ」などと言ったことは一遍もありません。
あのようなことは、むしろ因循姑息な姿です。
それを実際にやっているのです。
そうして自分の口につくままに宗門の批判や何かを色々と言っておいて、聖教新聞に載せるときには、それを全部取ってしまって一往、問題のない形にする。
それでも何か色々と少し感ずるものはあるけれども、とにかく、問題のない形にして新聞に出しているのです。
しかし、実際は数十万人というような人々が頻繁にそれを聞いていますから、それを聞くことによってどんどんと「坊さんはそのようなものか」「そのような状態なのか」と洗
脳されていって、「坊さんというものは大したものじゃない」という以上に、軽蔑してもいいような存在になってきつつあると、私は本当に前から感じておったのです。
そこへ特に今回、このようなはっきりしたテープを入手しましたので、「これはもう、いつまでも放置しておくべきではない」と決意し、宗務院の人達と相談した上で、このテープをはっきり採り上げて、創価学会に対して釈明を求める形をとっていったわけであります。
また、その間における色々な経過の中で、どうにも反省の色がなく、まじめに回答する意思がないという背景から、先程の総監からの話にもあったように、十二月の二十五日に宗会を招集し、二十七日に開会してかねて懸案の「宗規」の一部改正をし、また、それに基づいての附則を設けて、現在の総講頭、大講頭は全員、そこに地位を喪失したという形になったのであります。
要するに、そのような経過から、「学会がこうしたのではないか、ああしたのではないか、だから名誉会長に大功績があるのではないか」と言ってきますが、「それだけのことをした、影響すこぶる甚大である名誉会長が、そのような変なことを言われることこそ実に困ることである。
何百万の信徒がそのような話の影響を受けて、信仰の本筋を違えていったら、どういうことになりますか」と皆さん、言ってください。
大功績のある方だから、信徒に与える悪影響がさらに非常に大きいということを、むしろ逆にこちらからはっきり指摘していってもらいたいと思うのです。
たしかに創価学会が牧口先生の提唱によって始まって、そして特に戸田先生が命懸けで折伏の指揮を執られました。
私が若い頃、一時、戸田先生と少し誤解があって、その誤解が解けたあと、「一杯飲もう」ということになり、二人きりでお酒を飲んだことがあります。
あの人はまた強いから、いくらでも飲んだし、随分たくさん飲みました。
私も飲みましたが、結局、その間に色々と話すことは「本当に広宣流布のために命を捨てている」ということ、また当時の御法主猊下は日昇上人でしたので、「私は日昇上人を日本国の国師とするように仏法を顕揚したい」という切々たる気持ちを、酒を飲みながら語っておられました。
そのほか二時間も様々な話もしましたが、私はやはり戸田先生は本当に命懸けで、自分というものを忘れてやられた方だと思います。
また、あの方一代で百万世帯になんなんとするあれだけの組織を作り上げられたわけですから、たしかに権謀においてものすごいものがあり、策略という面では大抵の人間は手玉に取るぐらいで、色々な面でたいへん頭が良かったけれども、ただその芯に、「命を捨てても法を守ろう、法を弘めよう」という気持ちがあったように私は思っております。
今の池田名誉会長が、「全然違うような人だ」と私は敢えて言いたくないが、最近の言動をみると、何か自分中心ということが仏法の上からの基本になっているように思えてならないのであります。
創価学会の中にも色々な流れがありました。
戸田二代会長の頃は、やはり大聖人の仏法、御書のあらゆる御聖文を基本として、
「道理証文よりも現証にはすぎず」(全集一四六八n)
あるいは「折伏正軌」という意義を中心根本に立てて、そしてどんどん折伏をされたわけです。
その没後、しばらくの間は、たしかに池田三代会長もその路線において、あの八百万世帯までいかれたのであります。
まことにそれは尊い姿であった。
だからといって、それからあとにおいて、何を言ってもいいのだということにはならないのです。
かえってそのような功績のある池田名誉会長がいい加減な、おかしなことを言うならば、その悪影響はたいへん大きいということを考えなければならないのです。
また、この中にも創価学会の折伏によって信徒になり、さらに発心して僧侶になった人が大勢いる。
けれども、皆さん方にはそこで考えてもらいたいことがあります。
それは、創価学会が興ってきたのも、やはり日蓮大聖人の仏法の本義を伝えるところの総本山大石寺の大法護持の姿、本門戒壇の大御本尊様と御歴代上人の護法がおわしましたればこそでありますから、常にそこが基本でなければならないということであります。
故に僧侶として師子身中の虫になることは、地獄に堕ちることである。
是非、この点は考えていただきたい。
そこをはっきり言っておきます。
それから、これは一月六日にも言ったことですが、どうも池田名誉会長は、随分前から、仏法を御自分の考えを中心として解釈し述べておりまして、それによって大きな問題が起こっておると思います。
それは正本堂の意義についてであります。
昭和四十三年に着工大法要という法要が行われた。
その時において池田名誉会長は『三大秘法抄』の戒壇の文を引いて、
「この法華本門の戒壇たる正本堂」(大日蓮二七三号巻頭)
ということをはっきり言っております。
したがって、『三大秘法抄』に示されたところの戒壇が、直ちにこの正本堂であるという意味において述べています。
最近の者は知らないと思うけれども、その頃の記録に明らかである。
それから、昭和四十二年、三年、四年、五年、六年と、昭和四十七年の落慶法要に至る間、正本堂の工事が進捗するにしたがって、それぞれの段階において色々な名称による、その意義に則った法要が毎年十月に行われておる。
その時の名誉会長の発言においても、それに類するような発言がされ、現在、残っております。
たしかにその頃、日達上人も、「会長、もう広宣流布だな」ということをおっしゃった。
しかし「広宣流布だな」ということは、大聖人の御遺命が達成したという言葉ではないのです。
それはその後における日達上人の種々の御指南からも明らかである。
(ただし、その後猊下より「昭和四十三年十月以前に、正本堂につき『三大秘法抄』『一期弘法抄』の御文意を挙げての日達上人のお言葉があったので訂正する」旨、仰せ出だされました。)
それを池田名誉会長は「我が意を得たり」とばかりに、広宣流布達成と考えたのであります。
すなわち『三大秘法抄』を挙げて「この法華本門の戒壇たる正本堂」と言ったことが、それをそのまま表しておるわけであります。
その当時は、私達もそのような空気の中に巻き込まれてしまって、たしかに私も藤本総監も、ズバリとは言っていないが、それに近いようなことを実際に言っており、『大日蓮』にきちんと残っている。
今、それは大いに反省しております。
しかし、その時はそのような空気が宗門を巻き込んでいった。
そのような経過の中で大事なことは池田大作名誉会長が、大聖人の御遺命の達成であるという意味で、正本堂を『三大秘法抄』の戒壇であると指名したことであります。(傍線部分は、お言葉では「一番の元」となっていたが、猊下より訂正する旨、仰せ出だされました。)
しかし、名誉会長がそのように思って言ったにもかかわらず、その後の経過において日達上人が
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇な
り」(昭和四十七年四月二十八日・日達上人全集二輯一巻―三n)
と仰せになられた。
「意義を含む」ということは、それだけの広布の実績という上において意義は含んでおるけれども、そのものとしての戒壇ではなく、現在の時におけるところの「事の戒壇」であるということです。
この事の戒壇の解釈も、皆さんも知っておるとおり、日達上人は、その後において「本門戒壇の大御本尊様のおわします所が事の戒壇である」と仰せになられました。
だから大聖人が『三大秘法抄』『一期弘法抄』で「事の戒法」と仰せられた、終極究竟の意義における事の戒壇ではないということなのです。
それから、さらに日達上人は
「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」(同n)
ということを仰せになっておられます。
この「たるべき」の「べき」は、推量の意味に使われる助動詞であります。
推量ということは「推し量る」ということですから、現在、そうでないから推し量るのです。
そこには、それが「正本堂であってほしい」という願い、あるいは「現在は、そのようになると考えていい」というような意味も、たしかに当時の考え方としては含まれていた。
しかしまた、そのような意味もたしかにありましたが、推量はすなわち、予想、予定ということにもなる。
「予定は未定にして確定にあらず、しばしば変更することあり」という言葉もあるように、やはり、日達上人が定義され、決められたことは、要するに「正本堂は直ちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ということではない」ということであります。
大聖人様の『一期弘法抄』のお言葉は
「国主此の法を立てらるれば云云」(全集一六〇〇n)
という、わずかなお言葉ですけれども、本門戒壇建立を一切衆生の成仏得道のための大仏法の究極の道とするという意味ですから、大変な御文なのです。
ですから、『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇が出来たということは、大聖人が一切衆生救済という大慈悲の根本においてお示しになった、本門戒壇という我々に与えられた大理想が終わってしまったということになるわけですから、あとは池田名誉会長の考えでやっていくということになる。
そのようなことになるでしょう。
そのような一つの図式が出来ているということをよく考えてみなければならないと思うのであります。
だから、私どもは一時、そのような考え方に多少、引き込まれたけれども、その後においての色々な事情の中で、日達上人が今のような意義内容の定義にされたわけです。
しかし、池田名誉会長はもともと「こうだ」と言い切っていますから、おもしろくないわけです。
そこから日達上人に対する不信の気持ちが起こったのです。
私は、あの当時の宗務役員として、その経過や色々な過程から、このことを深く感じておるものであります。
おもしろくないから「宗門に難癖をつけてやろう」、まして「我々はこれだけのことをやったではないか」という、慢心・傲慢がありますから、あの当時、色々なことを言ってきたのです。
「仏法史観を語る」というような論文を書いたり、あるいは「御歴代の観念文のあとに歴代会長を入れろ」といって突き付けてきたり、事実、そのような観念文を作ってきました。要するに、今考えれば、本当に驕りとしか思えないようなことまで言ってきている。
そのほかにもまだ、多々あるでしょう。
そのようなことにより、色々な問題が起こったことは事実であり、それらについて当時、一部僧侶が決起した意味もあります。
それらの全体を大きなお心の上から、全部を含んで日達上人が御指南をされて、創価学会が最終的に「これでは仕方がない」ということでお詫びをして、「お詫び登山」等の色々な形があり、それで六・三〇、一一・七の色々な意味の反省というものが文書で作られて、それを会員に回して徹底させたというけれども、実質的には効果的な反省があまりなかったというような話も当時ありました。
しかし、ともかく日達上人が、昭和五十四年の五月三日の創価学会の総会の時に、このような問題の一切を「学会がすべて誤りを正し、誤りを今後しない」という、そのような
条件のもとに「創価学会が今後とも、宗門の信徒団体としてやっていくように」というお言葉をもって大慈悲の収束があったわけであります。
私は登座して基本的にそれをお受けしましたけれども、「正信会」という者どもは、一口に言えば勢いがついてしまったものだから、どうにも止まらなかった意味もあるのです。
私達も、また宗務院当局も何とかして、これをやめさせようと思った。
だから、何とかして思いとどまってもらいたいと、第五回の檀徒大会の時には、その中心者十人に対して私が実際に書いた手紙を送ったこともある。
ところが、それを聞かずに遂行したわけだ。
この中にもその時、出た人がいるだろう。
だから、やむをえず、その時は一往、軽い処分をしたのです。
ところがその軽い処分を不服として、正信会の一部の者どもが結束して、今度は私を訴えるというような形が出てきてしまった。
しかも法主の血脈を疑って訴えるということですから、この内容については話にならない。
本当に断腸の思いであったけれども、その時に擯斥処分にしたのであります。
そのような経過がありまして、池田名誉会長が、形式的には秋谷会長が中心者であるけれども、ともかく、それらの人達が「お詫び登山」の趣旨に則って、あくまでその反省のもとにやってきてくれるものと思っていたわけであります。
また、彼等が自ら反省したという証拠も色々と残っております。
例えば、戸田先生の二十三回忌の時に発表した池田名誉会長の「恩師の二十三回忌に思う」というようなこと、それから、亡くなった北条第四代会長が創価学会として発表したものに実にはっきりと残っております。
また『大白蓮華』に載せられた教材の中には「三宝を敬う」ということがある。
法主のみならず、法主によって袈裟・衣を授けられた僧侶までが三宝の一分であり、これを尊敬し尊重し、供養していかなければならないということをはっきり言っております。それはみんな文献に残っています。
それにもかかわらず、最近、また何か変なふうになってきてしまったわけです。
それは、一貫して見ると、全部、池田名誉会長の仏法に対する考え方が元になっているように思うのであります。
一番最初の正本堂の意義付けも、それから五十二年路線もそのとおりであり、さらに今度は、本当か嘘かは知らないけれども、「五十二年路線で揚げ足を取られ失敗したから、今度は絶対に揚げ足を取られない」というように言っているという噂を漏れ聞きましたが、そのようなつもりで、絶対に尻尾を掴まえられないように会員全部を洗脳しつつ、それで自分の手下にして、宗門もその中に巻き込んでしまおうと考えているらしいのです。
本当はこのような流れなのです。
みんな、この辺をよく考えてもらいたい。
はっきり言えば、「法主は本尊書写係、法要係の長」ぐらいのところで、一切が創価学会の傘下に入るような形で、創価学会の顔色を見なければ何も言えないというような状態になったら、私は本当に大聖人様や御先師に申しわけないと思うのです。
皆さんにそこを解っていただきたい。
たとえ将来、本山の参詣者がなくなって、粥をすするようなことがあっても、私は正義は正義として立てていこうと思って、今回、この問題に踏み切ったわけである。
是非、その根本的なところから考えていただいて、今後、宗門の僧侶として、宗務院の指示によって、きちんとした根本信念を持って、堂々と相手の誤りは誤りとして正し、また僧侶が無道であるとか非道であるというようなことも当然、彼等は言ってくるであろうから、その辺もよくわきまえつつ、正しく振る舞って、そして、「あの人達全部を、その堕ち込んだ執着から解き放し、大慈悲をもって正しい信心の眼を開かせよう」という気持ちで、大慈悲の言葉をもって対処していくことが大切と思うのであります。
しかし、その者達は徒党を組んで、その非常に大きな組織を活用した形で、我々にあること、ないことを言って誹謗するかもしれない。
しかし、我々はそれに耐えてどこまでも正しい立場で、その人達を救っていこうという慈悲をもって前進していくことが肝要であると思うのであります。
以上、色々と言ったけれども、意のあるところを取っていただいて、是非、今後の前進と精進をお願いしたいと思います。
(文責・編集室)
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御法主日顕上人猊下御指南
去る一月六日及び一月十日、全国教師指導会における、御法主日顕上人猊下の御指南について、二月二十八日付をもって、秋谷栄之助会長外十二名より、猊下に対し奉り、不遜なる「お伺い書」が提出され、しかも日限を切って回答を要求するなど、およそ本宗信徒とは考えられない行為に出ていることは、まことに遺憾にたえません。
しかしながら、御法主上人には、大慈大悲の御教導を垂れ給い、別紙御指南の書面を認められ、これを送達するよう御下命がありましたので、お送りいたします。
貴殿等には、謹んでこの御指南を拝し、信心をもって了解し奉るよう望みます。
平成三年三月九日
日蓮正宗総監 藤本日潤
創価学会名誉会長
池田大作殿
同会会長
秋谷栄之助殿
今般、私の一月六日、同十日の全国教師指導会における発言を訂正したことなどについて、創価学会の秋谷会長外十二名の連名による質問がありました。
これは、本書が当方に到着した三月一日の一日前、二月二十八日付の聖教新聞に、すでに掲載されるという、早急な形で一般に発表されました。
よって、ここに一文を草し、この件の質問に対する回答、並びに宗内僧俗に対する教示とします。
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去る一月六日の全国教師指導会での発言中、日達上人のお言葉に関する訂正は、
「日達上人のお言葉はもっと広い意味での『広宣流布』ということをおっしゃったと私は思います。
ですからその後の御指南等においても、明らかに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇が正本堂であるということは、そのものズバリの形でおっしゃってはいないと思うのであります。」
と述べたことについて、
「昭和四十三年十月以前に、正本堂につき『三大秘法抄』『一期弘法抄』の御文意を挙げての日達上人のお言葉があったので訂正する」(「昭和四十三年十月」とは、池田名誉会長が着工大法要で『三大秘法抄』の戒壇の文を引いて正本堂と指定した時期)
と、『大日蓮』(本宗機関紙)の本年二月号に掲載したものです。
訂正における日達上人のお言葉とは、次の三文に該当します。
第一は、昭和四十年二月十六日、第一回正本堂建設委員会の砌のお言葉で、
「大聖人より日興上人への二箇の相承に『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のためへの偉大なるご遺訓であります。」
と、『一期弘法付嘱書』の文を挙げられ、この御文が、ただちに正本堂であるとは仰せでないが、戒壇の大御本尊安置のことと正本堂の関係が述べられています。
第二は、昭和四十年十月十七日、創価学会本部幹部会の砌、
「ただいまお聞きのとおり、だれも想像しなかったほどの多額の御供養をお受けいたしました。
広宣流布達成のための、大折伏の大将である池田会長が、宗祖日蓮大聖人の『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』のご遺言にまかせ、戒壇の大御本尊様安置の正本堂建立を発願せられ、学会の皆さんに建立御供養を発願せられて、このりっぱなる成果となったのでございます。」
と仰せられています。
第三は、昭和四十三年一月号の『大白蓮華』に、
「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります。」
と言われ、正本堂について、『一期弘法抄』『三大秘法抄』の一部分の文の上に、その意義を顕わされています。
したがって、私は謹んで前述のごとく訂正したのです。
また、その後、日達上人が昭和四十七年四月二十八日に示された訓諭中の定義は、正本堂がその時、ただちに『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇ではなく、その意義を含むものと改訂あそばされたことが明らかです。
つぎに、一月十日の教師指導会での発言中の私の訂正とは、
「その時はそのような空気が宗門を巻き込んでいった。そのような経過の中で大事なことは池田大作名誉会長が、大聖人の御遺命の達成であるという意味で、正本堂を
『三大秘法抄』の戒壇であると指名したことであります。(傍線部分は、お言葉では『一番の元』となっていたが、猊下より訂正する旨、仰せ出だされました。)」
との『大日蓮』掲載の部分です。
「一番の元」の語は、つぎに続く言葉に対して不適切であったので、右のように訂正したのです。
これらの訂正の意味は、日達上人の前掲の三文が、池田名誉会長の昭和四十三年着工大法要の時の発言以前に、やはり『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を示されているということにあります。
しかし、池田大作氏と同様の決定的お言葉ではない、と信ずるものです。
まず、前述第一の文は、そのあとの流れからも正本堂が『一期弘法抄』の意義をもつというお示しであります。
第二の文は、『一期弘法抄』の戒壇建立の文を引かれ、その「ご遺言にまかせ」との仰せです。
これも「まかせ」の意は、「その尊高かつ広大な意に従い」と拝されるので、その意義を示される一環のお言葉です。
つぎに、第三の文の中の「大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり」の「大聖人の御本意が定まる」とは、大聖人の大慈大悲の御心は、一切衆生が正法を受持することにあり、しかるに多くの信徒が輩出して相当の広布の相がみなぎるとき、大聖人が定めし御満足あそばすであろう意義をこのように述べられ、信徒を激励されたお言葉です。
また、「教化の儀式も定まり」とは、大聖人の御本意の語に準じて、その御化導の意義を述べられたと拝されます。
つぎの、「王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」の「王仏冥合」とは、発願主池田会長一人の財力で建てるのではなく、八百万の信徒の和合の浄財であることを、「王」が「民衆」に当たる今日の解釈の上から、かく示されたものであります。
故に、これもただちに『三大秘法抄』の戒壇を必ずしも示されたのではなく、その意義を述べられたのです。
以上のように拝すると、日達上人の御文意は、『一期弘法抄』『三大秘法抄』の一部を挙げられつつも、ただちにその戒壇を仰せられたというよりも、その正本堂に関する意義を述べられているのです。
しかるに、池田大作氏の昭和四十三年の着工大法要の言は、後に挙げますが、『三大秘法抄』の「霊山浄土に似たらん」以下の全文を挙げ、続いて「この法華本門の戒壇たる正本堂」云々として、その事の戒法の戒壇が、まさに正本堂そのものであると、明々白々に示されています。
故に、私の「日達上人に前掲の文があった」として訂正したその趣意は、池田氏の言と同等の意、あるいはそれ以上の表現がなされているというのではなく、『三大秘法抄』
『一期弘法抄』の意義を述べられている文があったという意味の訂正なのです。
したがって、時期的な点(三大秘法抄を使って正本堂を意義づけした最初である)ということに対する訂正以外に、その内容についても訂正されたとの前提に立つ質問、
掾u名誉会長の挨拶が独断であるとの断定は間違いではないか」
栫u一番の元の人はだれか」
氈u名誉会長の慢心の表れであるとの論拠が崩れるのではないか」
「今日の宗門・学会問題の根本原因もなくなってしまうのではないか」
。「一月六日、十日のご説法の部分的撤回が妥当ではないか」
等の論難は、全く当たらないのであります。
ただ、「一番の元」との語について、「(その)ような経過の中で大事なこと(は)」と訂正しましたが、私の感じている当時の事態をやや明確にする上から、あえて言うならば、確かに正本堂の意義を『三大秘法抄』『一期弘法抄』に御遺命の戒壇とただちに関連づけての発言は、池田会長が最初ではないかも知れませんが、当時の創価学会大幹部が、二代会長戸田城聖先生の逝去後も広布の情熱をたぎらせ、「広宣流布は学会の手で」の合言葉、及び「日達上人の達は達成の意だから、日達上人の代に広布の達成を」という言葉や意識で、広布の実証を示そうと意気込んでいたことは事実です。
それは、昭和三十九年四月の大客殿落慶法要における池田会長の、
「三大秘法抄≠ノ『時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり』との大聖人の御聖訓がございます。
その時がついにやってきたとの感を深める者は、私ひとりではないと信じます。」
との挨拶や、昭和四十年元旦の、
「(正本堂の御供養は)けっしてむりはせず、真心の御供養を日蓮大聖人様即日達上人猊下に差し上げましょう。
(乃至)日蓮大聖人様のご予言、そして日興上人様のご構想が、日達猊下の時代にぜんぶ達成なされると思われます。
じつに、名前におふさわしき日達上人であられます。」
との発言、また昭和四十年七月の、
「日達猊下のいらっしゃるあいだになんとか達成したい。これが私の精神であります。」
等の発言をみれば、当時明らかに池田氏をはじめとする学会側に「大聖人の御遺命の達成」という意識があったことは否めないと思います。
しかして、そのような意識の中から、池田名誉会長の慢心が強まり、それが正本堂問題、昭和五十二年路線の逸脱、そして今回の問題を生んだ根源となっていると思います。
それはつぎに挙げるような事柄からも明らかであります。
まず昭和三十九年六月三十日、東京台東体育館における学生部第七回総会の講演で、池田会長は、
「戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。
実質は全民衆が全大衆がしあわせになることであります。
その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。
したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます。」
と述べられています。
いやしくも正宗信徒の身として、もっとも大事大切な御遺命である戒壇のことをこのように下すことは、まさに大聖人軽視、三大秘法軽視の最たるものです。
この発言は、まさに大聖人一期の御化導の究極たる『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇の御文に対する冒涜であり、三大秘法破壊につながる重大なる教義逸脱というべきです。
このような慢心が、つぎの正本堂の事柄に影響を及ぼしたと思います。
そして、昭和四十三年の着工大法要の時の挨拶として、池田氏は、
「日蓮大聖人の三大秘法抄のご遺命にいわく『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懴悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してみ給うべき戒壇なり』云々。
この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要」
と述べ、まことにはっきりと『三大秘法抄』の戒壇そのものが、ただちに正本堂であることを宣言されました。
この表明は、前掲の日達上人が大聖人の御遺命に関する意義を述べられたと拝される御指南の三文より、その表現相において一段と明確になっております。
そして、日達上人は前三文に関しても、昭和四十七年四月二十八日の訓諭において、明らかに正本堂がただちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ではなく、その意義を含むのであることを示されました。
すなわち、前のお言葉を改訂あそばされたのです。
これを基準とするとき、最初の発言が誰方であるかということとは関係なく、着工大法要の際の池田氏の言葉は誤りですから、正本堂建立発願者という責任ある立場からも、その後において自ら進んで大聖人様に対し奉り、誤りの言そのものをただちにお詫び申し上げ、それを宗内一般に公表すべきだと思います。
これこそ大聖人の御遺命の重大さを正しく拝する信仰ある者の行為と信じます。
もっとも先に挙げた戒壇に対する、池田氏の台東体育館におけるあの軽侮に満ちた発言より推測すれば、そんなことはどうでもよいと考えているのかも知れませんが、厳正な大聖人の仏法よりすれば、そのような無慚な考え並びに訂正されないこと自体、正直捨方便の姿ではないのです。
故に、私は教師指導会においてそれを指摘したのです。
もちろん私はそれが道理と思いますので、当然のこととして何ら池田氏に陳謝する必要は認めません。
それのみならず、池田氏が、その期に及んでもと思われるようなときに、まだ正本堂が御遺命の戒壇であると執われ、大聖人の御本意に背く意識をお持ちであったことを証する事例があります。
昭和四十七年の四月、既に日達上人の訓諭による正本堂の定義が決定したあとの、同年十月の落慶法要の時、池田氏は法要が終って下山する信徒に、幹部を通じて、七百年前の大聖人の御遺命が、ここに達成された旨の言葉を伝えさせたのです。
このように、池田氏は日達上人の御指南に、あえて背くことを物ともせず、正本堂は御遺命の戒壇という意識に執われ、その落慶が御遺命の達成であると深く執着していたと思われます。
つぎに、訓諭中の正本堂の定義に関する非難について回答します。
先にその文を挙げます。
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。」
この文中の前文は、正本堂が『一期弘法付嘱書』と『三大秘法抄』の意義を含む現時における事の戒壇ということであり、この「意義を含む」とは全面的に意義が顕われたということでなく、まだ広布の進展が部分的であることを示すものです。
したがって、正本堂に戒壇の御本尊を安置するという意味はあっても、ただちに『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇としての達成ではなく、現在の時において本門戒壇の大御本尊まします堂であるから、事の戒壇と称するとの意です。
後の文は、正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂ということで、そこに正本堂が広布の暁において本門寺の戒壇となると確定する意味をもつか否かについて申します。
この「たるべき」の「たる」とは、体言につく場合に、確かに断定の助動詞の連体形でありました。
しかし、「たり(たる)」で終っているのなら、確かに断定の意味に限定されますが、下に「べし(べき)」の助動詞がつくことにより、「べし」のもつ様々な広い意味に解釈されることになります。
「べき」の語は、推量の助動詞としての広い用法があります。
『日本国語大辞典』によれば、
その第一はよろしい状態として是認する意を表わすもの。
その中で
揩モさわしいとして適当であるという判断、
椏桝Rのこととしての義務の判断、
汨シ人の行為に関して勧誘又は命令を表わす。
その第二は確信をもってある事態の存在や実現を推量し、また予定することを表わす。
その中で
搴゚く事態の起こることを予想する意、
梔唐ュ見えないところで進んでいる事態の断定を表わす、
沛ォ来事態の実現を予定する意、
自己の行動に関し、強い意志を表わす。
その第三はすることができる、できそうだとの可能の判断を表わす等があります。
そのほか、角川『新版古語辞典』では、
@確信ある推測を表わす、
A予想の意を表わす、
B予定の意を表わす、
C当然の意を表わす、
D必要、義務の意を表わす、
E適当の意を表わす、
F強い勧誘、押しつけの意を表わす、
G決意を表わす、
H可能性があると推定する意を表わす等があります。
したがって、その微細な表現や意味は、諸説紛々としています。
このような場合、その意義の決定は、その一文一文の状況、すなわちその前後の文の意味合いによって、「たるべき」の意が種々に異なるのです。
しかるに、学会では、自ら「当然、推量、可能、命令、意志・決意」の五意があるというにもかかわらず、訓諭の「たるべき」と二箇相承の「たるべき」について、何の根拠も示さずに同意義であるかのように論じています。
すなわち、「猊下のように、あやふやな未定の意も含んだ『べき』と拝したならば、たとえば、次の身延相承書、池上相承書の二箇相承に記されている『たるべき』は、いかに拝さなければならないのでしょうか。……
この両書は……未定・変更の可能性を含んだ推量であるはずがありません。
……猊下のご説法のように解することは、到底、不可能であると思いますが……」と述べることは、全く事物の分別がついていない論難です。
両相承は師資相承の書であり、大聖人より日興上人への命令、すなわち前述の日本国語大辞典の用例中、第一の氓ノ当たるので、大聖人、日興上人の伝法の深義に約して、絶対的命令の意味があるのです。
しかし、訓諭の「べき」の用例は、正本堂の意義についての、教えさとす文であり、種々の用例の中で、そのいずれに当たるかは、あくまで前後の文意によることです。
とくにこの場合は「広宣流布の暁」及び『一期弘法抄』の文義による
「本門寺戒壇」という重大性に基づく未来の広布の様相に引き当てて深く考えなければならないと思います。
所詮、御仏意による広布は未来のことであるから、広布達成の時、本門寺の戒壇となるか否かは、予定であるから、また未定の意もあると達観すべきであると信じます。
このことは、さらに後に結論的に述べます。
つぎに、
ヨ従前の御発言との矛盾、自語相違
ラ日達上人の御指南との矛盾
という題、及び論旨に対し、申し述べます。
右の中で、まず私が教学部長の時、昭和四十七年三月二十六日の総本山における指導会で、訓諭の基となる宗門公式見解を発表した内容を挙げて、それを今回の発言と比べて矛盾するものであり、自語相違と述べられております。
私としては、そのことは全て承知の上で教師指導会における発言をしたのです。
なぜならば、宗祖大聖人の御遺命の戒壇の重要性を考えるとき、本当の戒壇の正義に立ち還ることが、仏子としてもっとも大切であると思うからです。
顧みれば、あの当時、正本堂を何とか御遺命の戒壇として意義づけようとする池田会長と学会大幹部の強力な働きかけや、妙信講の捨て身の抗議があり、その間にあって宗門においても、正本堂の意義がいろいろ考えられました。
そうした中で、三月二十六日の宗門公式見解を教学部長より発表する仕儀となりました。
教学部長としての私は、その時その時を忠実にと思い、御奉公をしたつもりでありました。
しかし、今顧みれば、あの時の
「正本堂は広宣流布の時に『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となる」
という趣旨の教学部見解は、宗祖大聖人の御遺命たる本門戒壇の正義よりみれば、適当でなかったと思います。
それが、日達上人の、
「昭和四十年二月十六日の私が申しました言葉の意味とピタリと合っておるわけで、それを判り易く要約すれば、こうなるのでございます。」
という御指南と一体のものとはいえ、その背景には、正本堂建立発願主を含む創価学会の強力な意義づけに関する主張があったことを、今にして思うものです。
したがって、私は、日達上人の御本意は、むしろそこにあらせられず、異なった趣意があることを、昭和四十五年時の御説法に拝するものです。
すなわち、
「有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから私は未来の大理想として信じ奉るのであります。」
(昭和四十五年四月六日・御霊宝虫払会御書講)
「いつ本門寺という名前に変るのが至当か、広宣流布の時即ち三大秘法抄に依る戒壇建立した暁に変るべきと解釈していいか、と云う、こういう質問でございます。
誠にその通りと返事をする他はありません。
(乃至)理想としての三大秘法が完成して戒壇が出来た時に本門寺と名前を変える。
最もそれで宜しいと私は思います。」
(昭和四十五年五月三十日・寺族同心会質問会の砌)
「戒壇の御本尊在ます所は、即ち事の戒壇である。
究極を言えば三大秘法抄或は一期弘法抄の戒壇で勿論事の戒壇であるけれども、そこにまつる処の御本尊が今此処にある此の御本尊様は戒壇の御本尊である。
故に此の御本尊在す所がこれ事の戒壇である。
それが御宝蔵であっても、奉安殿であっても、正本堂であっても、或はもっと立派なものができるかも知れない。
出来たとしても、此の御本尊まします所は事の戒壇である」(同前)
「三大秘法抄並びに一期弘法抄に申される処の戒壇の御本尊は未来のことである。
現在我々はそれは大理想として置いて、現実に於いて我々の今戒壇の大御本尊在ます処が事の戒壇である(乃至)
天母ヶ原に建とうがどこに建とうが、その時に天皇陛下が建てるかどうか知らないけれども、広宣流布が完結した時建つと云う事は大理想として留め、現実の戒壇の御本尊を御宝蔵からお出ましになって奉安殿にある。
更にお出ましになって正本堂にあれば実に有難いのである。
だから戒壇の御本尊在す処は真実にお題目を唱えて行かなければならないと云うことを申すのでございます。」(同前)
以上、日達上人の御指南は、正本堂をそのまま広宣流布時の即ち『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇と決定されてはいないし、その時はむしろ別に建つこともありうるという趣意すら窺えます。
そして、私はここに日達上人の御真意があらせられたことを、常日頃の謦咳に接したこととも併せて、かく信ずるものです。
信の一字をもって『三大秘法抄』『一期弘法抄』を拝し奉る以上、先に掲げた日達上人の昭和四十五年四月六日の虫払会御書講の御指南こそ、宗門僧俗の根本的信念であります。
すなわち、未来の広布の暁がいつになるかは未定ですから、正本堂の建物がそうであるかないかを現在において断定することも、またできない道理です。
故に、日達上人は、昭和四十九年十一月十七日の、創価学会第三十七回本部総会の講演で、
「今、深くこれを思うに、日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目、南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてまつることができたとき、そのときこそ日本国一国は広宣流布したと申し上げるべきことであると、思うのであります。
この時には我が大石寺は、僧侶の指導者たち、信徒の指導者たち、相寄り相談のうえ、大聖人ご遺命の富士山本門寺と改称することもありうると、信ずるのであります。」
と述べられました。
この文を広宣流布の目安として拝察するとき、まことに容易でない内容を含んでいます。
今日の日本人口一億二千万以上の三分の一とは四千万以上であり、このように大勢の純真確実な信心をもった人々が戒壇の大御本尊へ参詣することを考えたとき、また今日の広布の現状より考えて、純真にして確実な四千万人信徒の折伏達成の時期に思いをいたすとき、それらの推測に付随する様々な事情よりして、正本堂を、その時の戒壇として今から断定することは難しいであろうと思います。
したがって、一部建立発願者及びその他の関係者が、御遺命の戒壇であるように願うという願望は自由であるが、尊厳なる大聖人の御遺命に対すれば、その戒壇たる決定は未来における未定のこととして、御仏意に任せ奉ることが僧俗信仰の基本であると信じます。
要するに、本仏大聖人の最後究竟の御指南たる『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇は、凡眼凡智をもって断定し、執着すべきでなく、ひたすら御仏意に任せ、その御遺命の尊高にして絶大なる仏力法力を仰いで信じ奉り、その実現に邁進することこそ、本因妙仏法を信ずる真の仏子であります。
その上から、日達上人の訓諭中の正本堂の定義の文については、左のように補足して拝すべきと思います。
「正本堂は、広布の進展の相よりして、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含むものであり、本門戒壇の大御本尊が安置される故に、現時における事の戒壇である。
そして、広宣流布の暁には本門寺と改称され、御遺命の戒壇となることの願望を込めつつも、一切は純真なる信心をもって、御仏意にその未来を委ね奉り、事の広布並びに懴悔滅罪を祈念するところの大殿堂である。」
という見解が適切と信ずるものです。
宗祖大聖人は、その御一期の大事、御化導の究極として、『三大秘法抄』『一期弘法抄』に、御遺命の完結、広宣流布の大目標をお示しあそばされたのです。
我々は、その大慈大悲を拝し、真の仏子として、自行化他、随力弘通、もってひたすら御遺命達成の大目標へ向かって進むべきであります。
更に、正本堂の意義に関し、述べておくことがあります。
それは、日達上人より池田大作氏に授与された賞与御本尊のことです。
その脇書には、
「賞本門事戒壇正本堂建立 昭和四十九年一月二日」
と認められ、更に池田氏の強い要望があって認められたと記憶する裏書に、
「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 昭和四十九年九月二十日
総本山六十六世 日達 在判」
とあります。
脇書の中の「事の戒壇」とは、前来述べる日達上人御指南のごとく、現時における事の戒壇であり、したがってその意味は本門戒壇の大御本尊を正本堂へ奉安する故です。また、裏書では、一往『三大秘法抄』の事の戒壇のようにも取れますが、「準じて」の字よりすれば、やはりただちにそのものを表わす意ではないと拝します。
この「準じて」とは、特に日達上人の御意志として書かれたのです。
辞書によれば、この「準」の字の意には、たいらか、のり、ならう、なぞらう、のっとる、ひとしい、おしはかる等があり、
更に准と擬の字に通じるとあります。
したがって、この文字の最も通常的用法では、ならう、なぞらう、であり、すなわち本物に準ずる、あるいは似つかわしい、似ているとの解釈が一般的であります。
故に、この文は、「正しく三大秘法抄の戒壇になぞらえて建立する」との意味です。
つまり、「準」の字は、やはりそのものが将来、ただちに『三大秘法抄』の戒壇となるとは断定できないことを示されたものと拝します。
その理由として、もし正本堂が広宣流布の暁に、ただちに『三大秘法抄』の戒壇となると思われたならば、特に「なぞらう」「似つかわしい」等の意味をもつ「準」の字をわざわざお書き入れになるはずがなく、
「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の将来における事の戒壇として建立されたことを証明する本尊也」
と認められたと思います。
以上、正本堂の意義に関し、一宗を教導する法主として申し述べ、教示とします。
なお、最後にリにおいて、池田名誉会長が、昭和四十三年十月、「本門の戒壇たる正本堂」と明言したことに対して、未だに訂正も反省もないと要求するのは、筋が通らないと主張していますが、このことは、すでに本書五頁において指摘済みです。
昭和四十七年四月の訓諭によって、正本堂落慶法要の直前、和泉理事長が『聖教新聞』紙上に訂正発表をした理由を、よく考えるべきであります。(注・「本書五頁」は、当号20、21nに相当する。)
全ては、時日の経過によって風化させてしまえばよいと考え、他人の真摯な反省も茶番劇と嗤う無慚さを憐れむものであります。
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御法主日顕上人猊下御講義 第53回全国教師講習会の砌
事の戒壇の本義について
平成16年8月26日(於総本山大講堂)
本年度の私の講義内容については、昨年に引き続いて『百六箇対見之記』に関してお話ししようと考えていたのであります。
けれども、ここにおいでになる皆さんのなかには最近、若い人も非常に増えてきておりますし、宗門の終戦以来の流れとか歴史というようなことに、直接的には当たっていない人も多いと思いますので、けじめをつけるという意味からも、今年は『百六箇対見之記』の講習をやめまして、大聖人様の御法門のなかの特に「戒壇」ということについてお話ししたいと思います。
この戒壇ということの内容は、実際問題の上において色々と表れてきて、その後の色々な経過の形があって、そのなかから現在の宗門の姿があるわけです。
この戒壇の意義においては、例えば、正本堂が解体されてなくなったから、それで戒壇の意義は全くなくなったなどと言うのはとんでもない話で、大聖人様の三大秘法の教えは未来永劫に、我々がこれを拝しつつ、実践をしていかなければならないのであります。
その面からも、いわゆる大聖人様の一期の御化導を拝するなかで、戒壇ということに関しての終戦後の流れのなかから、特に若い人は色々と知らない人もかなりあると思うのです。
そういうことも考えながら、申し述べてみたいと思います。
まず、大聖人様の一期の御化導における肝要は三大秘法でありますが、このうちで宗旨建立以来、自らもお唱えあそばされ、衆生をも導かれたのが本門の題目であります。さらに、本門の題目の上からの法華経を身に当ててお振る舞いあそばすところの在り方から、それが佐渡における本尊の開顕となるのであります。
そして最後に戒壇という御指南があるのですが、そもそも大聖人様が三大秘法の名目を明らかにお示しになったのは、佐渡からお帰りになって身延に入られ、直ちに御著作になった『法華取要抄』であり、そこにおいて初めて、「本門の本尊と戒壇と題目」(御書736ページ)という名目を顕されたのであります。
もっとも、その前に『法華行者値難事』の追申において、ややそれに近い、三大秘法の内容と思われる御指南がありますが、これはあくまで追申でありますから、正規の著述という上からは、まだ本門の三大秘法の名目をはっきり示されていないのです。
つまり『開目抄』にも『観心本尊抄』にも示されていないのであり、これをはっきり顕されるのが『法華取要抄』であります。
もちろん、三大秘法のなかの特に本尊の人本尊、法本尊の意義については、既に佐渡の国で開観両抄ほか、様々な重大御書のなかにお示しになっておるのですが、ただ三大秘法中の戒壇ということに関しては具体的には何もないのです。
しかし、また一期の御化導から拝しますと、大聖人様が21歳の時に、一番最初に著作されたのが『戒体即身成仏義』であり、戒についてお示しになっているのであります。
これには実に不思議な意味を感ずるのです。
そのすぐあとに『戒法門』の御法門もありますが、これはもう少し一般的な意味を持っておるのであり、そのあとはほとんどが、戒定慧のうちの定慧の法門が芯になって、ずっとお示しになっておると思われます。
しかるに戒壇については、今言いました『法華取要抄』以降において、本門の本尊・戒壇・題目という三大秘法の名目を挙げられた御指南があります。
ところが『法華取要抄』にも、さらには三大秘法のうちの本尊と題目の内容をはっきり述べられた『報恩抄』においても、ただ、「本門の戒壇」(同1036ページ)とお示しになっているだけで、戒壇の内容については全くお示しになっておられません。
弘安に入って『本門戒体抄』という御書があるけれども、これは受戒のほうからの本門の意義を戒体として述べられておるわけですから、直ちに戒壇ということの御指南ではなく、それとはまた少し違うのです。
もちろん戒壇で戒を受けるわけだから、当然、関係はあるけれども、特に戒壇そのものの法門という意味ではないのです。
また、『教行証御書』は建治3年にお示しの御書ですが、これは良観が特に戒ということを言っておるので、その良観を破折し、対応する意味から、大聖人様の御化導中の戒ということをおっしゃっております。
特に、有名な「金剛宝器戒」の御文を示されて、本門の妙法蓮華経の戒が最高の戒であるということが述べられておるのであります。
しかしこれは受持即持戒ということからして、定慧の二法が広まれば、受持即持戒が本門の法体の上に、その功徳が明らかに成ぜられるのです。
したがって、その意味からは、戒法を受持する場所がそのまま戒壇であると拝せられるのであります。
ところが、大聖人様は個人個人の成仏ということだけでなく、法界一切衆生の成仏という上から、当時の在り方として、南都六宗の時には聖武天皇と鑑真和尚、それから桓武天皇と伝教大師というような意味をさらに進めたところの、本門における国主と僧侶との上からの教導においての戒壇の在り方を示されておるのであります。
そこで戒壇ということが、ほかの本尊や題目と違う意味は、特に大聖人様の御法門においては「事相」ということが存するのであります。
文永10年7月6日の『富木殿御返事』のなかに、元は漢文でありますが、
■ 「伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす。但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕はせり。事相たる故に一重の大難之有るか」(同679ページ)
という御文があります。
これは伝教大師のことを示されておる御文ですが、この前の文とあとの文は、ともに大聖人様御自身の御弘通の上からの妙法蓮華経の御法門をお示しになっており、この御文はそれらに挟まれているのです。
なぜ、ここで唐突に伝教大師に関する文が出てくるのかということは、この文を拝してみると、その意義を拝する拝し方に、ある深さを感ずるのです。
すなわち、この御文は漢文のため、「伝教大師」と「御本意」の送りがなについては、今までに色々な付け方がありました。
古いところで『高祖遺文録』は「伝教大師御本意円宗ヲ…」とあって、「師」と「意」の下の送りがなはありません。
日蓮宗の『昭和定本』と宗門の『昭和新定』は「伝教大師御本意ノ…」となっており、「師」の下の送りがなは付けていないのです。
『縮冊遺文』は「伝教大師ノ御本意ノ…」と両所が「ノ」になっており、また創価学会から出した堀日亨上人の『御書全集』も、初めは「伝教大師の御本意の」となっておりましたが、のちに「伝教大師は」と改めております。
つまり前後の文との関連から「伝教大師の御本意の円宗を…」と読むと、「大聖人様が、伝教大師の御本意であったところの円宗を日本に弘めんとされた」という意味で、大聖人様のお立場にも通ずる意味をおっしゃっておるようにも取れるわけです。
ところが「伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす」ということになると、これは、前後は大聖人様御自身の弘通のことをおっしゃっておるけれども、この部分だけはあくまで伝教大師のことを特別に挙げられていることになります。
宗門で出しておる信徒用の御書、いわゆる『平成新編御書』のなかでは、ここは「伝教大師は」と変えてあります。
これでもよいとは思いますが、私としては『昭和新定』『昭和定本』と同じく、むしろ「伝教大師御本意の円宗を日本に弘めんとす」というように、「伝教大師」のあとには「の」も「は」も付けない読み方もよいのではないかと思うのです。
これならば、伝教大師が弘められ、また日蓮がこの意義をもって三大秘法の上の戒の法門を弘めるのである、という両方の意味に取れるのでよいのではないかと拝するわけであります。
それはともかく、私がここで何を言わんとしているかというと、ここの御文に「事相たる故に一重の大難之有るか」ということをおっしゃっておるのです。
たしかに、皆さんも御承知のように、戒壇は事相であります。
事ということは、実際の問題なのです。
現在、ありとあらゆる宗旨の著述が無量無数にありますが、それがどんなに難しい法門でも、また広く深い法門でも、法門の法理というのはみんな、内容的には定と慧になるのです。
それに対して、戒の本義を具体的に顕そうとすると、これは事相ということになるから、実際の問題なのです。
ただ単に口で言うだけなら、どんなことでも言えます。
まことに逆しまなことを、さも本当のような形で言うことだって、理屈としては、言えるわけです。
しかし、実際に戒を顕すということにおいては、事相という実際の問題としてのこととなりますが、いい加減なことでは済まされない、つまり、はっきりとした形でなければならないということであります。
例えば、御承知のように、伝教大師は迹門の戒壇を建立しようとして勅許を願ったけれども、当時は国主である天皇の許しがなければ、そういう戒壇を建てることができなかったのであり、したがって、南都六宗の反対に遭って、在世中には結局、建立できなかった。
そして伝教大師の滅後、天長4(827)年、第53代淳和天皇の時に、伝教大師の弟子の義真が叡山の座主として、やっと大乗円頓戒壇を建立できたということであります。
それより前に出来た
小乗の三戒壇は、
第45代聖武天皇の勅によって東大寺の戒壇が建立され、
また天平宝字5(761)年に、第47代淳仁天皇の勅によって建立された下野の薬師寺と筑紫の観世音寺の戒壇、
これを天下の三戒壇と言ったわけです。
もちろん、これは一番最初に日本国に出来た、国で定めた戒壇であります。
さて、大聖人様が戒壇ということをはっきりおっしゃったのは『三大秘法抄』の、
■ 「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて云云」(同1595ページ)
という有名な御文です。
この所に「王法仏法に冥じ、仏法王法に合」するというところからの王法と仏法の関係が、はっきり述べられておるわけです。
もう一つは『一期弘法抄』で、
■ 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同1675ページ)
というなかに「国主」という語があるのですが、今まで言ったように、小乗の戒壇、大乗円頓の戒壇は国主の、つまりその当時としての国主は天皇だったわけですから、天皇の勅命があって初めて建てることができたという意味があります。
日本史における政権の変遷と「国立戒壇」思想の発生
鎌倉時代には、やはりそのような在り方の上から当然、戒壇を勝手に造るということはできない意味もあったし、また当時は、天皇が政治をするのではなく、鎌倉幕府というのが存在したのです。
その上から、当時は特に将軍の副申書というような形もあったようでありますが、『三大秘法抄』においては、「勅宣並びに御教書」(同1595ページ)ということをおっしゃっておるわけです。
要するに、天皇が定めているところの法の処置乃至、裁断という意味を含めての王法ということ、あるいは国主ということをおっしゃっておると思うのであります。
それから時代がだんだんと移り変わってきて、明治維新になったのです。
そして明治22年2月11日に憲法が発布されたのでありますが、これは欽定憲法、いわゆる天皇の命令によって決められた憲法なのです。
徳川時代には幕府が決めたことがあり、またさらに藩が自分に都合のよいような意味でその国々ごとに法令を作って、色々な実情において国民生活は縛られていた面が非常に多かったわけであります。
しかし明治に入って、いわゆる自由民権という考え方等も色々あり、自由ということが非常にはっきりしたわけです。
まず明治憲法では居住と移転の自由というのがあります。
これは、どこに住んでもよいということで、それ以前は、どこかに勝手に住むことは浮浪者か、あるいは旅人のような者でなければできなかったということもあります。
また信書の秘密の自由があり、所有権の自由があります。
そして一番大事なのが、信教の自由ということが明治欽定憲法では示されておるのです。
何を信じてもよい。
昔は寺請制度というのがあり、その寺ごとに人別帳があるものだから、そこから離れて勝手に宗旨を変えることが不自由だったのです。
そういうような意味からも、明治の憲法において信教の自由が謳われたというところに、「自分は今まで念仏を信仰したけれども、今度は南無妙法蓮華経を信仰しよう」ということが自由にできるようになったのです。
そういう点では、明治の憲法が非常によい意味があったわけです。
故に、法難ということもなくなったのです。
徳川時代には、宗門でもたくさんの法難がありました。
これはみんな、信教の自由がそれぞれの藩のなかにおいて閉ざされていたということから来ているのです。
そのほかにも言論の自由、著作の自由、印刷発行の自由、集合の自由、結社の自由と、みんなも知っているだろうけれども、こういう自由が欽定憲法においてはっきり示されて、明治以降の民権の意味がある程度、謳われたわけであります。
そして戦後の日本国憲法、いわゆる新憲法が昭和21年11月3日に公布されました。
この時に改正された新憲法と明治憲法との一番違うところというのは、明治憲法では天皇主権であり、国民に自由はあったけれども、あくまで天皇が主権であるという次第でありました。
ところが新憲法のほうでは、国民に主権があるということになったのです。
そこに大きな違いがある。
さて、こういうことが今まで宗門のなかで色々と論議されてきた戒壇に関する考え方に、非常に大きな影響を与えておるのです。
すなわち「国立戒壇」という語がありますが、この国立戒壇という考え方は天皇主権という明治憲法が背景になっているのであります。
天皇主権ですから、もし天皇がその気になって、私はこの信仰をするということになれば、国教にすることだって可能だったかも知れません。
実際にはならなかったから、そういうことになったときに、どういうようなことが起こるか判りませんが、あるいはずいぶん反対も起こり、大変なことにもなったかも知れないけれども、一往、制度の上では天皇主権だから、それができないとは言えないのです。
実行しようとすれば、できる可能性が充分あったわけだから、そういうことのなかから、天皇の法華信仰によって皆帰妙法が日本国に行える可能性はあった。
そこで、これを言ったのが、国立戒壇という語であります。
これを、浅井昭衛が指導するところの妙信講・顕正会においては、徹底して国立戒壇を言っているのです。
彼らは絶対に国立戒壇でなければ、大聖人様の仏法に照らして間違っているのだと言うのです。
そこで、こういうことは若い人も割に知らない意味もあるのではないかと思い、今回、これについて話をしようと思ったのであります。
この国立戒壇という名称は、日達上人もこの問題が起こってからずいぶんたくさん、ありとあらゆる機会におっしゃって御指南あそばされましたが、要するに、大聖人様の御書のなかに直接に国立戒壇という語はどこにもないのです。
ただ最後の『一期弘法抄』において、「国主此の法を立てらるれば」という御文があります。
この「国主」の語には人格的な意味があるが、国の上から人格的な意味を示すと、結局、天皇になるのであり、だから国が立てるというのと、国主が立てるということは、実には意味が違ってくるのです。
むしろ、あの御文から拝するならば、「国立」でなく「国主立」と言うほうが、内容的には適切ではないかという意味もあります。
まして、その後において宗門の御先師の方々が大聖人様の三大秘法の御法門について色々な面から述べられておるけれども、「国立」という語をおっしゃった方は、明治以前は一人もないのです。
今も文庫に御先師の文献がたくさんあるけれども、どこを探しても、御先師が「国立」ということをおっしゃっておる文はありません。
これは要するに、明治14年4月に田中智学が国柱会の元となる結社を作ったのですが、これが日蓮宗から出て在家仏教的な形から大聖人様の仏法の一分を宣揚しようとしたわけです。
そこで明治36年に講義をした『本化妙宗式目』という書があり、そのなかに、「宗旨三秘」を説くなかの「第六科・戒壇の事理」という内容があるのです。
その第一項が「即是道場理壇」で、第二項には「勅命国立事壇」というのがあって、理壇と事壇、いわゆる事壇のほうは「事の戒法」と言われるところの『三大秘法抄』の勅宣での意義を取ったのでしょう。
それが勅命であり、国立戒壇だということを初めて言ったのです。
そして、そこには事壇の出来る条件として、まず大詔が喚発されると言うのです。
つまり天皇の勅令が発せられると、一国が同帰になる。
つまり、ありとあらゆる宗旨がいっぱいあるけれども、この意見からするならば、一国がことごとく妙法に帰する。
しかも政教一致であると標榜しておるのであります。
さらに国家の統一を中心として、その一大勢力を作って世界の思想・宗教を妙法化せしめるということを言っておるのです。
そういう意味から、国柱会が初めて、国立戒壇という語を言い出したわけであります。
それでは我が宗門でも国立戒壇ということを言っていたかというと、国柱会の田中よりあとで、やはりおっしゃっているのです。
前述のように明治に田中智学が言い出しましたが、そのあと大正年間においては、例えば日柱上人も当時の出版文書に色々と大聖人様の御法門を述べられたけれども、そのなかには見当たらないのです。
また日応上人の文中にも拝することができないと思われます。
これは実を言うと、昭和になってから出てくるのです。
このいきさつというのは、当時、田中智学が国柱会の前に標榜していた蓮華会というのがあって、それと宗門の御先師の方とが法論をしたのです。
『富士宗学要集』にはその顛末が載っていますので、読んだ人もあるでしょう。
ずいぶん往復の問答があるのです。
私も若いころに読んだけれども、その内容はほとんど本尊論で、戒壇論には全く触れられていないのです。
けれども、それからずっとあとの昭和になってから、また他門との問答があったのです。
その問答のなかで、「国立戒壇では何を御本尊にするのだ」という内容になった時に、向こうは「その時になって決めればよいのだ」などと色々なことを言ったのですが、こちらはきちんと「国立戒壇というものはとにかく、正規の戒壇を国家において造るときには、本門戒壇の御本尊様を安置しなければならない」ということを述べて、その論議の時に向こうが国立戒壇ということを言ったわけなのです。
その論議においては、国立戒壇という名称に主眼があったのではなくて、御本尊をどうするかということが、その内容だったのだけれども、向こうがその意味において使うたものを、こちらも使ってしまったわけです。
そういうことから、宗門のなかでも国立戒壇という名称の使用が出てきたわけであります。
そこで、少なくとも昭和20年の終戦以前は、要するに欽定憲法だったわけですから、あくまで天皇主権なのです。
したがって、国立戒壇ということを論ずるには、どうしても天皇の許可を得るということが一番の根本・中心になるということの考え方だったのです。
そのような状況のなかで、国立戒壇ということは、宗門では日淳上人が28歳の時におっしゃっております。
だから当然、御登座になるずっと前の、まだ若い青年僧侶のころのことで、御登座されてからおっしゃっているということではないのです。
ただ、そのような在り方のなかで、向こうがまず国立戒壇ということを御本尊に関してのなかで言ったから、こちらもそれに対応した形で国立戒壇という言葉を使ったというようなことだと思われます。
さて次に、総本山第59世日亨上人は昭和4年に書かれた『富士大石寺案内』において、戒壇は国立戒壇であるということを、はっきりおっしゃっております。
もちろん昭和4年ですから当然、欽定憲法下における天皇の裁可による国立であるということをお考えになっていたと思うのです。
ところが、それから時代が進んで終戦後には、先程も言ったような形での新憲法が公布になり、国民主権となるわけです。
それと同時に、今度の新憲法においては、明治欽定憲法でははっきりしていなかった政教分離ということが、憲法第二十条ではっきり示されているのです。
政教分離だから、政治の上からは絶対に、宗教に関与してはならない。
そして宗教もまた、政治を利用してはならない。
政治と宗教は全く別個のものとして、はっきり切り離さなければならないということが今の憲法なのです。
それからいくと、国民主権になっているのだから、田中智学が言ったような形での戒壇建立のため、天皇が裁可・決定するということは絶対にできないわけで、やはりこれは国民の総意でなければならないということになります。
それからもう一つは、政教分離ですから、国教にするというようなことは、今の憲法下においては絶対にできないのです。
ただ浅井は、みんなが信仰するようになれば、その時に憲法を改正すればよいというようなことを言っているようです。
もちろん、そのようになれば憲法改正ということも理論的にできないことはないでしょうけれども、しかし、その元として、「国が立てる」というところの「国」というものが、「王法」ということの解釈から言って、はたしてどうなのかという問題があるのです。
この王法ということについては、あとからも出てくるけれども、浅井の問題や色々なことがあって、『三大秘法抄』の王法をどのように考えればよいか、宗門でも色々な解釈をしたのです。
浅井は、王法というのはあくまで国の統治主権であり、その統治主権においてこの王法があって、それと仏法とが一つになるということだと言うのです。
ところが、民衆立を主張し、正本堂を事の戒壇、御遺命の戒壇というところにまで持っていこうとした池田大作の間違った野心からすると、それでは絶対に困るのです。
だから王法は、政治や経済・教育など、国民生活全般のありとあらゆるものを含んだ内容だというようなことを言っているわけだ。
要するに、それは必ずしも天皇によるのではないということです。
また実際に、この憲法が出来た以上は、天皇の力ということでは絶対にできない。
それも憲法が改正されて昔のようになれば別だけれども、現在はそういう次第であります。
そこでおもしろいのは、戸田城聖という創価学会第2代会長になった人がいました。
この創価学会というのは、そもそも牧口初代会長が創価教育学会というものを初めに作ったのです。
それが戦後において宗教法人を取得して、創価学会という宗教法人の形になったわけです。
その前は創価教育学会という一つの集まりで、別に法人でもなければ宗教的なものでもなかったのです。
ただ、その考え方が、利・善・美という哲学だったのです。
とにかく牧口さんは非常にまじめな人で、戦前において自分でかなり折伏をしたのです。
つまり牧口さんは『大善生活実証録』というものも出して、大善ということは日蓮大聖人の仏法だというようなことでやっていました。
そして皆さんも知っているとおり、昭和18年に特高警察に捕まって、そのあと獄中で亡くなったわけです。
その後、牧口さんの最大の弟子であると同時に理解者でもあり、跡を継いだのが戸田城聖という人で、昔は城外といって、城聖と言い出したのは少しあとからです。
あの人も捕まって牢屋に入っていたのだけれども、終戦直前に解放されて出てきたわけであります。
そして昭和25年11月12日の創価学会第5回総会の時、「国立戒壇」を仏勅であると初めて述べた記録があります。
次は昭和26年5月3日、常泉寺で創価学会の会長就任式があり、この時にはこういうことを言っているのです。
「牧口先生は、謹厳実直な方で、わたくしとは性格が正反対で、夜なかにいたるまで先頭に立って折伏をつづけられ、会員は後の方で、ヤアヤアと掛け声ばかりであった」(戸田城聖先生講演集上51ページ)
つまり牧口さんは御自分でどんどん折伏をやるから、会員は後ろのほうで掛け声をかけていて、あまり折伏をやらなかったというような意味です。
そして、この次に言っているのがおもしろいのですが、
「わたくしは、先生とは反対に、後に立って、みなさんを指揮し、広宣流布に邁進したい」(同ページ)
だから私は、自分よりおまえさん達に折伏をやらせるということを、ここで言っているのです。
ところが、その次に、
「天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く、御教書を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、ひとりひとりが邪教と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに、御本尊様を持たせることだ。
こうすることによって、はじめて国立の戒壇ができるのである」(同ページ)
と言っている。
これは昭和26年だから戦後のことですので、当然、戸田さんは新憲法の意味を知っていて、その上から言ったことだと思うのであります。
だから、ここでの方法論としては戦後の憲法の内容を言っているわけなのです。
けれども、昔から来たところの国立という、田中智学が言い出した名称だけは一人歩きしているような形で存在していたわけです。
また、そのころ国立戒壇ということは、日亨上人が昭和25年に学会の書物のなかでお書きになっております。
特に26年5月3日に戸田城聖氏が、今挙げた国立戒壇に関する発言をしたけれども、その内容は、昔のような天皇主権による天皇の許可ということではもちろんなく、国民の一人ひとりが主権であるという背景からの折伏ということを言っているのであります。
この辺は時代が違ってきているわけてす。
それから次に、26年には、日亨上人が『大白蓮華』に載った『富士日興上人詳伝』のなかで、国立戒壇とお書きになっておる。
また戸田氏は、このあとも講演や論文で6回ほども国立戒壇に言及しております。
また昭和30年に初めて国立戒壇の語を池田大作が言い、31年4月1日には時を同じくして戸田城聖氏と池田大作が国立戒壇に言及しておるのであります。
さらに31年の5月1日と5月3日に、戸田・池田両名がそれぞれ述べている。
そして昭和31年8月、31年11月、32年6月1日に、戸田城聖氏が国立戒壇の意義を述べておるけれども、先程も言いましたように、大聖人の仰せの戒壇についての見方として国立と言うけれども、名前だけなのです。
既に戦後の創価学会の再建の時に、天皇陛下の建立ではないということを言っているのであり、ただ国立という名称だけがずっと使われていたのです。
また32年12月16日に池田大作がやはりこれを言っておりますが、これもおそらく戸田氏の考え方に基づいて、池田も当然、天皇のことではないという意味で言っていたわけであります。
それで33年4月2日に戸田城聖氏が亡くなって、33年4月3日には池田大作が国立戒壇という上から不開門を開くのだということを言っているのです。
そして33年5月1日、33年5月18日、33年12月7日と、ずっとこの国立戒壇ということを言っておるのであります。
この間、宗門の方はあまりおっしゃっておらないけれども、34年1月1日に日淳上人が新年の挨拶のなかでおっしゃっております。
それから34年1月1日に池田大作は国立戒壇を言っておるけれども、これも一人ひとりの納得の戒壇であり、国教ということではないと述べておるのです。
これは戸田氏の考え方をそのまま受けておると思われます。
そして34年6月4日、ここでは国立戒壇建立のための選挙戦に勝利した旨を称揚しています。
さらに35年1月1日には日達上人がやはり国立戒壇ということをおっしゃっておる。
日達上人はあまり国立戒壇ということをおっしゃっていないのだが、この35年1月1日の時に初めて、国立戒壇を標榜されておるのです。
でも、こういうのはおもしろいもので、国立戒壇の名称は田中智学が言い出して、先程も言いましたように天皇主権のもとの内容だったのですが、戦後においてはそうではなくて、民衆の上からの国立という形で、ずっと名称だけが一人歩きしてきたということであります。
それから35年6月1日に女子青年部共同研究、36年4月6日には日達上人がまたおっしゃっておる。
あとは、小泉隆とか秋谷城永とかが色々と言っておるわけですが、そういう形であります。
次に、正本堂ということが、これは解体されているけれども、やはり一つの流れとしてあるわけです。
皆さん、正本堂の名称は一体どこから来ておると思いますか。
これは、まず『百六箇抄』に、
■ 「下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書1699ページ)
という御文がある。
この御指南が、宗門においては戒壇建立に関する一つの基本をなしておると思うのです。
これは日淳上人や日達上人の御指南もありましたが、叡山とは全く違っておる意味があるのです。
叡山の場合は根本中堂というのが中心にあり、あれが本堂で、戒壇堂は別なのてす。
根本中堂よりもずっと小さいもので、それが僧侶が受戒する所であります。
南都の小乗の戒壇に対する大乗円頓の戒壇と言っても、そういう意味での特別な戒壇堂というのがあったのです。
ところが、この『百六箇抄』の御文からすれば、「三箇の秘法」だから、これは戒壇も当然、含むわけです。
また、その戒壇は「富士山本門寺の本堂なり」ということだから、本堂がそのまま戒壇であるということ、要するに、これは事の戒法ということがそのまま戒壇の意義を持つことの上からも、根本の御本尊様がおわしますところの本堂がそのまま戒壇の堂であるということです。
それが「富士山本門寺の本堂なり」という御指南で、これが『百六箇抄』にあるのであります。
けれども、これはまだ本堂であって「正」が付いていないのです。
どこで正が付いたかというと、これが実は日淳上人なのです。
「そんなことはありませんよ、もっと前にありますよ」という人がありましたら、私の間違いということで指摘してください。
だけれども、色々と調べた結果、30年10月に日淳上人がおっしゃられたのが初めだと思うのです。
これは当時、高田聖泉という人が『興尊雪冤録』というのを出して、宗門の在り方やなんかを色々と間違って書いたのです。
そのなかでは「本門戒壇の大御本尊は戒壇院の本尊だ」というように、叡山の在り方を中心に考えたのだろうが、あくまで戒壇ということからすれば戒壇院だと誤解して言っております。
つまり先程言った、直ちに本堂という考え方がないから、そのように考えたと思うのですが、そういう意味で日淳上人がこの『興尊雪冤録』を破折している文章のなかに初めて「正本堂」という言葉が出てくるのです。
そこで私が思うには、根本の『百六箇抄』の「富士山本門寺の本堂なり」という御文からいくと、本堂にはそのまま正しい御本尊を安置するという上において「正」という字を付けるべきであると日淳上人がお考えになり、正本堂という名称としてお示しになったのが一番最初だと思われるのであります。
ところが、おもしろいのは、戸田城聖氏の著述はたくさん残っているが、その著述のなかで、正本堂ということは1ヶ所も出てこないのです。
全然、どこにもないのです。
だけれども、池田大作は戸田先生の遺言として正本堂を造りなさいと言われたということを言っているわけだ。
これは、池田は色々とうそを、言う人ですから、うその点も多々あるかとも思うのだけれども、私の推測なのだが、その流れから言えば、やはりこのところはそう言われたという意味もあったのかなと思うのです。
なにも池田だからといって必ずしも全部うそだと、私は絶対に言いません。
だから、そういう面も多少あったのではないかと思うのです。
それというのも、これはどうかとも思うのだが、池田が日記を書いていて、この日記というのが「正本堂」が出てくる池田の一番最初になるのです。
もちろん日記などというものは、文章を作っておいて「この日のものだ」と言えばそれでよいのだから、あとからいくらでも作れるかも知れないけれども、とにかく、昭和32年10月12日の池田の日記に、「広布の総仕上げの、第一歩たる、正本堂」(若き日の日記4―54ページ)というのが出てくる。
これは一往、あとから出版されてはいるけれども、公的なところで言っているわけではないし、どうも私には眉唾のように思えるのだが…。
また同じく昭和33年7月31日の日記にも、池田大作は、「七年後……大客殿建立。また七年後…正本堂の建設」(同5―35ページ)ということを書いてあるのだが、これもどうも、あとから書いたのではないかと、直感的には感じられる。
しかし、けっしてそう断定はしません。
ただ、実際に言ったのは34年1月1日に池田大作が、国立戒壇建立の時には正本堂が出来て、戒壇の大御本尊様が奉安殿より正本堂へお出ましになるということを、はっきり言っている次第であります。
さらに34年8月9日にも、正本堂へ大御本尊様がお出ましということを言っている。
このような意味で正本堂ということを言いながら、奉安殿が出来たあと、この大講堂が出来たこともあり、そのあとは大客殿と正本堂を造りなさいということを戸田氏が言ったと言っているわけです。
そして34年11月17日には、日淳上人が御遷化あそばされました。
それから35年4月4日に初めて、さっき述べたように、戸田城聖氏の遺言で正本堂を造れと言われたと、池田大作が言うのです。
だから昭和32年の池田の日記からすると、日淳上人が初めて正本堂と言い出されたのが30年だから、かなり時間が短いと言える。
しかし、日淳上人が戸田氏と色々な面で話をされていたことは当時、私達もたしかに目にしておりますから、したがって、日淳上人がこの戒壇の問題について、その時は正本堂として建立すべきというように戸田氏に言われたことも、あるいはあったのではないかと思うのです。
そのようなことから、戸田氏がそのことを池田に遺言したというような経過があったとも思われます。
ところが、この正本堂に関しては、遺言で造れと言われたと言い出したのが35年4月4日で、35年5月3日には池田大作が第3代会長に就任しているわけです。
さらに女子青年部が共同研究をしたこともあったりと、池田も正本堂ということを既に、かなり言っておりました。
しかし37年9月1日に、今でもまだ学会の幹部でいる森田一哉というのが、当時の宗門の庶務部長である早瀬日慈上人に、正本堂とは一体どういうことですかと聞いているのです。
その時に早瀬庶務部長は「これはあくまで御法主上人猊下の御胸中におわしますことである。我々が簡単に話をすることではない」というような意味の返答をされています。
これは当然のことであります。
つまり、このころ学会の幹部達は正本堂の名称について、あまりはっきりしていなかったとも思われるのです。
そして39年5月3日、大客殿が出来る年ですが、池田大作がまた、この7年間で正本堂を建てよというのが戸田氏の遺言だと発言します。
つまり、あとの7年ということは昭和46年になるわけで、それを目指して正本堂を造れということが戸田先生の遺言だと言っているのです。
ところが、40年2月16日に第1回の正本堂建設委員会があったのですが、それまでの間、日達上人は正本堂ということを全然おっしゃっていないのです。
また、この会合でも、池田が色々なことを言い、戸田氏の遺言であるということも言っているけれども、日達上人はこの点については非常に慎重を期せられたと思うのであります。
そのようなことで、40年2月16日の正本堂建設委員会の挨拶のなかで、日達上人は、
■ 「池田会長の意志により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います」(大日蓮・昭和40年3月号9ページ)
と、正本堂という言葉を初めて使われて、しかもそれを寄進すると言うから受けると言われたのです。
このお言葉は、そのあとずっと長い文が続くのだけれども、今は省略します。
しかし、日達上人はこの挨拶のなかで、「正本堂」という言葉を12回ほどもおっしゃっているのです。
そして、正本堂の寄進を受けるという意味から、正本堂の色々な在り方を初めて述べられておるわけだが、今この御文を拝してみても、この時に特に正本堂が大聖人様の御遺命の戒壇であるというような、はっきりとした意義を示すお言葉があったとは、私には思えない。
だが学会では、日達上人が第1回正本堂建設委員会で、正本堂が実質的な戒壇だということをおっしゃったと言っているのです。
しかし、あの文を拝すると、はたしてそこまで言えるかと思うのです。
そのお言葉のなかではほかにも、例えば、まだ謗法の者が多いから蔵の形にするとか、色々な意味のことをおっしゃっているのですが、とにかく、日達上人が正本堂という名称をはっきり示されたのは、正本堂を寄進したいという池田の言葉を受ける形でおっしゃったように拝せられるのです。
そして、それまでの間、自ら先に正本堂ということをおっしゃってはいない。
そういう在り方があったわけであります。
さらにこれ以後は、正本堂という言葉は宗門のあらゆる所で、色々な文献、色々な発言に無量無数に出てくるのであります。
さて、戸田氏は昭和30年3月25日には、当時、宗会議長だった市川真道さんへ奉安殿と大客殿の建立寄進を誓願しております。
その後、戸田さんは亡くなるまで、ずっと国立戒壇と言ってはいるけれども、国主というのはあくまで民衆であり、日本中の人なのだと言っておりました。
これはたしかに憲法が昭和22年以降そうなっておりますから、そのことを言っておるわけです。
そして39年4月1日に池田が初めて、『三大秘法抄』の事の戒壇の時が来たということを言っておる。
さらにその次の日には「本門の時代」ということを言い出したのですが、これは記憶のある人もいるでしょう。
また「化儀の広宣流布」「王仏冥合達成の総仕上げの戦い」ということも言い出しています。
同年6月30日には、おもしろいことを言っている。
これも本当かうそかは判らないのだが、本尊流布は豆腐で、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと、戸田先生が何度もおっしゃったと言うのです。
これはもし、言ったとすれば、戸田氏は、昔だったら天皇が一人信仰して、その力で一国全部を信仰させればよいのだけれども、現在の主権在民の上からすれば国民全体が信仰しなければならない。
そうなると、どうしても本尊流布が大事になるということから、本尊流布が豆腐なのだという意味のことを言ったのかも知れない。
したがって、むしろ内容的には、本尊を流布してみんなが幸せになるのが豆腐であって、それに対して戒壇建立はその結果であるから、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと言ったのかも知れません。
戸田さんは色々な面で意表をついたことを言う人だから、例えば「我々は車引きだ」と言ったこともある。
我々は折伏した人を引いて御本尊様のもとに御案内するのだというようなことを言ったかと思うと、今度は「御本尊様は幸福製造機だ」と言ったこともありました。
みんなも覚えがあるでしょう。
とにかく色々なことを言う人でした。
けれども信心は、池田とはもう一つ違った深さがあったと、私は確信しています。
さて、豆腐とおからの話を受けて、池田は、戒壇建立はほんの形式で、石碑のようなものだと言って、さらに、
「したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえない」(聖教新聞・昭和39年7月2日付)
と、そこまで戒壇建立をさげすんで言っているのです。
そうかと思うと、その次からは戒壇建立に執われて、「本門戒壇建立成就は三千年仏教史の最重要の時」等と言い、大聖人様の御遺命が達成される意味を諸所に言い出し、そこにたいへん執われていたのです。
そこで昭和40年1月1日に日達上人がおっしゃっておりますが、池田がしょっちゅう利用して使っていた言葉がある。
それは日達上人が池田に「もう広宣流布だな」ということをおっしゃったというのです。
これはおそらく、おっしゃったでしょう。
けれども私は、日達上人がそのようにおっしゃったのは、いわゆる大聖人様の御遺命が全部、達成するという意味ではなく、大略的な意味からだと思うのです。
それはたしかに、あのころは折伏が進み、信徒の増加が著しかった形の上からの在り方、そして折伏の指揮を執っておる池田会長に対する苦労を労う意味、また今後の激励の意味も含めて、そのようなことをおっしゃったと思うのです。
それを池田は「日達上人がこうおっしゃったんですから…」と、その言葉をとっこに取って、それをさらに強い意味において色々な面で利用したのであります。
例えば、先程言った第1回正本堂建設委員会の日達上人のお言葉ですが、これを、
「日達上人猊下から、正本堂の建立は実質的な戒壇建立と同じ意義をもつ旨の重大なお話があった」(同・昭和40年2月20日付)
というように、聖教新聞で発表しているのです。
それから、正本堂建設委員会で作った「御供養趣意書」においても、
「かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになった」(大日蓮・昭和40年5月号14ページ)
と書いて、聖教新聞に載せてある。
この「実質的な戒壇建立」もそうであるが、「広宣流布の達成」というところからも、これらの言は、日達上人の第1回正本堂建設委員会のお言葉には発見できず、既に広布達成という考え方が先走った在り方として出てきておるのであります。
そこで40年4月6日には、宗門でも大石菊寿さんが、
「正本堂は、実質において、まさに本門戒旦堂の建立となった」(同・昭和40年9月号18ページ)
と述べている。
ここにそのお弟子方もいるだろうが、この方は福岡の霑妙寺の住職を長い間されていた方で、百日説法をするというぐらい、お説法が実に熱心な方でありました。
病気になってからも必ず説法したということも聞いているように、とにかくお説法を一生懸命なさる方だったのです。
それで私が登座してから大石菊寿さんを能化に昇進させたのですが、その時に常に説法していた方であったから「常説院」と院号を付けたのです。
そうしたら、私は日号を知らなかったのですが、大石さんの日号が「日法」だったのです。
院号と日号の意味がぴたりと一致し、うまくできているものだと思いましたが、それはともかく、大石師の例からしても、宗門の全体が学会のそのような考えの在り方に、ずっと引きずられていったような意味があるのです。
これに対して、(※今の顕正会の)浅井はこの当時、40年5月25日には、千載一遇の時だから全講を挙げて御供養するということを言っております。
現在、浅井があのように言っているけれども、矛盾点があるのです。
一つは昭和61年8月に、
「昭和四十年の御供養趣意書の当時は、まだ誑惑が顕著でなく、少なくとも管長猊下は一言も正本堂を御遺命の事の戒壇などとは言わず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調された故に御供養に参加したのだ(取意)」(冨士・昭和61年8月号53ページ)
と言っているのです。
また事実、先程も言ったように、第1回正本堂建設委員会における日達上人のお言葉をずっと拝見してみると、広宣流布の上に信徒が非常に増えたことからこのような堂を造るという意味の御指南ではもちろんあるけれども、それが直ちに御遺命の戒壇というようにおっしゃっているとは、私にはどうも感じられないのです。
ところが、昭和52年8月には逆に、
「昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において日達上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされた」(同・昭和52年8月号6ページ)
ということで、攻撃しているのであります。
そうすると、同じお言葉に対して、片方ではこのようなことは言っていないと言っていて、もう片方では、そのようなことを言っていると攻撃しているのだから、浅井が口からでまかせを言っていると言えるぐらい、全く反対のことを言っているのです。
それはともかく、日達上人もこれからあとの御発言のなかでは、創価学会が広宣流布に向かって進んでいく姿、また正本堂を御供養するという姿を御覧あそばされて、その意義の上から、大聖人の御遺命の戒壇建設の方向に向かって進んでおるというような意味での色々なお言葉が拝せられるわけであります。
それを浅井は取り上げて、最後は日達上人もが御遺命違背の法主だということを言って、ついでに私のことも徹底的に悪口を言っているのです。
最近、浅井が出した本でも、日達上人の悪口をさんざん言ったあと、また私の悪口を言っているのですが、この当時、浅井の問題に関連した形で宗門と学会とが、日達上人の御指南を承りつつ、どうしてもやらざるをえなかったのが正本堂の意義付けということでありました。
私は当時、教学部長をしていたものだから結局、このことについて私が書くことになってしまい、昭和47年に『国立戒壇論の誤りについて』という本を出版したのです。
また、そのあとさらに、これは少しあとになるが、51年に『本門事の戒壇の本義』というものを、内容的にはやや共通しているものがありますが、出版しました。
しかし、これらは全部、正本堂に関連していることであり、その理由があって書いたのです。
つまり正本堂の意義付けを含め、田中智学と瓜二つの浅井の考え方を破り、また本来の在り方をも示しつつ、さらに創価学会の考え方の行き過ぎをもやや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。
このなかで、47年の『国立戒壇論の誤りについて』を読んだ人は手を挙げてみなさい。
一往、4分の1ぐらいの人が読んでいるようだね。
では次に、51年に出版した『本門事の戒壇の本義』を読んだ人は手を挙げてください。
これは、なお少ないようです。
なぜ、このようなことを私が言っているのかというと、現在、私が一往こうして当職を汚させていただいておることもあるので、教学部長時代とはいえ、書いた二書のなかにはどうしても当時、創価学会が正本堂の意義付けに狂奔し、その関係者からの強力な要請もあって、本来の趣旨からすれば行き過ぎが何点かあったようにも、今となっては思うのです。
これらはあとで触れますが、これらに関しては日達上人も池田創価学会の強引な姿勢と、その一方での広布前進の相より慰撫と激励にたいへん苦心をされた結果、縦容のお言葉も拝せられるのです。
そのころ池田は、正本堂が御遺命の戒壇で、御遺命の達成であると、そのものずばり言っておりました。
学会のほうでは正本堂が『三大秘法抄』の戒壇そのものであると言っていたのです。
それに対して、浅井から色々と横槍がたくさん出てきたのですが、この時、浅井は一往、捨て身の考え方で抗議したということは、言えると思います。
しかし、その色々な面において、国立戒壇ということを言い出しているわけで、その浅井の国立戒壇の主張は何かと言えば、先程言った田中智学の内容なのです。
たしかに明治欽定憲法の時代だったならば、そういう可能性もあっただろうけれども、今の憲法下では絶対にありえないことです。
まして天皇の国事というのは憲法の上に決まっていて、その天皇がなさることには、様々な書類に押印するなど、その上からのもちろん権力もあるだろうけれども、こと宗教に関する限りにおいては全然、決定の権限がない。
政教分離がきちんと決まっているのだから、そういうことは、今の憲法下においては絶対に無理なのです。
なおかつ、浅井が言っていることは『本化妙宗式目』にある内容、つまり勅命の国立戒壇であります。
それは結局、どうしてできるかと浅井に言わせれば、憲法を改正すればよいのだと言うのですが、現実問題として今日の日本乃至世界の実情を見るに、簡単に憲法を改正することはできない。
それはむしろ時代に逆行という批難から、正しい布教の妨げになるとも考えられます。
しかし彼は、あくまでそういうことを言っておるのであります。
そこで少し話を戻して、昭和41年に池田が、
「本門の戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上、達成される」(日蓮大聖人御書十大部講義1―1057ページ)
と言っているが、先程までは「実質的」と言っていた言葉が、ここで初めて「事実上」という言葉に変わっており、これからあとはずっと「事実上」ということになるのです。
「実質的」ということの意味よりも、「事実」ということのほうが、なお強い意味があると思って使ったのでしょう。
その意味が、この41年7月の池田の言葉から出てきておるのであります。
さらに42年1月にも、
「事実上の本門戒壇である正本堂の起工式」(大白蓮華・昭和42年1月号14ページ)
と言っている。
そして、1月2日に出されたものには、学会の教学部が「正本堂建立により、三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられ、これが化儀の広布の実現である」というようなことを言っているのですが、これもまた言い過ぎた言葉です。
この「三大秘法抄に予言されたとおりの相貌」というのは『事相』なのであります。
先程も言いましたように、「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持つ」というのが事相であるにもかかわらず、正本堂がその相貌を具えた戒壇であると言い、また、それによって化儀の広布の実現であると、はっきり言いきってしまっておるのです。
また昭和42年5月3日にも池田が、
「正本堂は(中略)事実上の本門戒壇」(大日蓮・昭和42年6月号13ページ)
であると言い、また、
「正本堂完成により、三大秘法が、ここにいちおう、成就したものといえる」(同17ページ)
とも言っている。「いちおう」ならば「成就」などと、くだらないことを言わないほうがよいのだが、ずるいことに「いちおう、成就した」などと言っておるのです。
また池田は、日達上人のお言葉をとっこに取って(※とっこにとる= 言質(げんち)にとる。)、6月1日に、
「先日、猊下は『宗門はまさしく広宣流布だよ』と、満足そうなお顔で申されました」(同・昭和42年7月号12ページ)
ということをずけずけと言って、日達上人のせいにしている。
そのあとも、妙信講と学会との論議のような形においては、あのころ観妙院日慈上人が総監であり、私が教学部長で、この2人がその間に入って、さんざん立ち会ったことがあるのです。
その時でも、学会はずるいことに、「日達上人がおっしゃっているのだ」などと言って、とにかく猊下を障壁にする癖がある。
これは本当にそうです。
そういうように、「猊下と言えば文句は言えないだろう」というのが学会の考え方だったのです。
これもまた、激励と慰撫の大きなお心からのお言葉を、とっこに取り上げて、日達上人が「宗門はまさしく広宣流布だ」とおっしゃった、などと言っているわけであります。
次に、7月11日には日達上人も、「全民衆による戒壇の建立」という趣旨のことをおっしゃっている。
これは、現在の憲法下ですから当然のお言葉でしょう。
そして9月12日には、
「成仏の根本である本門の戒壇が建立せられる」(同・昭和43年2月号11ページ)
ということをおっしゃっております。
これは「成仏の根本」ということの上からの「本門の戒壇」との仰せですが、戒壇という意味は、その前やあとに付く言葉によって色々に解釈できるわけです。
「本当の御遺命の戒壇」「最終の本門戒壇」と言う場合とは意味が違うでしょう。
我々日蓮正宗は迹門ではなく、本門の教義なのですから、「本門の戒壇」と言っても、それが直ちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』に示される御遺命の最終戒壇だということではない意味もあります。
おそらく日達上人は、そのような意味において仰せになっていると拝するのであります。
ただ、42年10月1日に、学会の教学部長であった小平芳平が、「正本堂は事実上の本門戒壇であり、『三大秘法抄』における戒壇の全文が事実となって現れる」という趣旨のことを言っている。
そして「あとは、不開門を開くまで」、つまり儀式はもう少しあとだということでごまかしているのです。
この「不開門を開く」ということは池田も盛んに言っていたが、「正本堂は戒壇そのものであり、ただ儀式を行うまでは、もう少し期間があるのだ」というような意味で、なんとかうまくごまかしていたのであります。
ともかく学会は、本当に汚くて、ずるいのです。
ところが42年11月、これは「載せるから何か書け」と言われたのです。
それで高木伝道房、私、藤本栄道房、椎名法英房、大村寿顕房、菅野慈雲房等が書いているのですけれども、これが当時の空気に飲まれてしまっていて、だいたいそういう流れの上から発言をしてしまっているのです。
空気というものは恐ろしいものですが、あのころはそういうものが色々とあったのです。
それから今の富士学林長の八木信瑩房も、
「正本堂建立の意義は、真の世界平和を建立する根本道場である(取意)」(大白蓮華・昭和43年9月号99ページ)
と、これはなかなか、あのころとしてはうまいことを、言っていると思います。
次は、43年10月12日の正本堂着工大法要における池田大作の言葉です。
この大法要において、池田が、「三大秘法抄のご遺命にいわく」(大日蓮・昭和43年11月号巻頭グラビア)として、
「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり」(御書1595ページ)
の御文を全部挙げて、
「この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要」(大日蓮・昭和43年11月号巻頭グラビア)
ということを言っている。
ですから、正本堂がまさしく『三大秘法抄』に示される戒壇だと言っているのです。
これは私が平成3年にも指摘したところですが、池田本人がこれだけ言っているのだから、和泉覚達に文書を作らせて対応させるのではなく、反省するなら本人がはっきりすべきだということを言ったのである。
あれは学会問題が起きたての時だけれども、そういうことが色々とありました。
そこで日達上人は、正本堂は総講頭である池田が発願主になっていますから、それにより本門戒壇がまさに立たんとしている、ということを言われているけれども、そこまでのことなのです。
さらに妙信講に対しては「国立戒壇とか国教というようなことは御書に全くない」との旨を仰せであります。
ここでまた、浅井が昭和45年3月25日に、宗務院に対して、第1回正本堂建設委員会での日達上人のお言葉について、
「いま猊下の御説法をつぶさに拝し奉るに『事の戒壇』なる文字はもとより、その義・意すら見られない。
いやむしろ、よくよく拝せば否定すらしておられる」(冨士・昭和50年3月号30ページ)
と言い、したがって「当局は正本堂を事の戒壇と承認するや否や」ということを、言うのであります。
そこで、45年4月6日の虫払大法会における『三大秘法抄』の戒壇についての御説法があるのですが、これは日達上人の御本意をお示しになったものだと、私は思うのであります。
虫払大法会の説法ですから長い御説法でしたけれども、趣意は「『三大秘法抄』の戒壇は御本仏のお言葉であるから、私は未来の大理想として信じ奉る」ということをおっしゃっておるのです。
要するに「未来の大理想」だから、御遺命の戒壇は未来のことだということです。
そこで、これは先程言い損ねてしまいましたが、正本堂がそのものずばりの御遺命の戒壇か、そうではないのかということが一つの問題なのです。
学会は妙信講の攻撃をうまくかわすため、今はまだ、そうではないと言うのです。
ただ、このところがおもしろいのですが、今はそうではないけれども、将来その時が来れば、その建物になる。
つまり結局のところ、正本堂自体は将来において『三大秘法抄』『一期弘法抄』の建物となるということです。
それ以前には、正本堂はまさに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇そのものずばりでなければならないと、学会の教学部も池田自身も言っていたのですが、この時点で学会は一往、そこまでは譲ったのです。
だが、色々な面で引っ込んではきたけれども、最後の不開門を開く時、つまり儀式の時とか、あるいは本門寺に改称する時には、やはり正本堂自体が『一期弘法抄』の戒壇になる建物であるということは絶対に譲れない、というのが学会の方針だったのであります。
けれども一往、今はまだ、その意義を含んでおるというような在り方なのです。
しかし、私どもはそうではなく、日達上人の御説法を拝すると、未来の大理想として信じ奉るということだから、あくまで未来なのです。
つまり『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇は名実ともに未来であるが故に、正本堂はそうではないというのが御説法の内容であります。
したがって、たしかに広布の相から言って『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を含むということはあっても、その建物がそのまま『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となるのは未来のことで、確定的ではないという意味で宗門は考えたいと思っていたし、また日達上人もそのようなお考えであらせられたと拝するのであります。
その辺のところが非常に微妙だったのです。
ところが、実はこの前から浅井の横槍はずっとあったのだが、45年4月に、谷口善太郎という共産党の代議士が衆議院で行った質問について、創価学会が照会を受けるということがありました。
これは要するに、「国立戒壇ということを言っているけれども、これははたして憲法の上から言ってどうなのだ」というようなことの質問です。
それに対して学会が言ったのが、次の三つであります。
一つは「本門戒壇は、民衆のなかに仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建つ」ということ。
次は「現在建設中の正本堂は昭和四十七年十月十二日に完成予定で、これが本門戒壇になる」。
三番目に「一時、本門戒壇を国立戒壇と称したことがあるが、その本意は一の如くである」
と、古来の考え方として国立ということがあったけれども、それを否定した形において、民衆によって建立することになったのであると言うのです。
だから、さらに「これはあくまで宗門の事業であり、国家権力とは無関係である」と述べ、御遺命の戒壇という意義はそこにあって、「国立」という在り方は大きな間違いだということを答えたのです。
しかし、これは浅井の考え方とは違っているから、浅井は「国立戒壇を否定した、たいへんな間違いだ」ということを言っているわけだが、宗門のほうは日達上人が「今後は国立戒壇という名称は使用しない」ということをおっしゃったのであります。
そこで日達上人が45年4月22日の時局懇談会および4月27日の教師補任式において、正本堂はまだ出来ていなかったけれども、その『定義』についておっしゃったのであります。
これは、御本尊が事であるから、御本尊のまします所はいずこなりとも、場所に関わらず事の戒壇であるということを御指南になったのです。
我々は事の戒壇というと、やはり『「一期弘法抄」「三大秘法抄」の戒壇』であると思い込んでいたところがありました。
そこで、日達上人から戒壇の大御本尊のまします所が事の戒壇だという御指南があったので、そのことについて、私と観妙院日慈上人が日達上人のところへお伺いに行ったことがあるのです。
するとその時に、「これは御相伝である」ということの上から、特に「御戒壇説法」をお示しになったのであります。
すなわち「御戒壇説法」において、
■ 「本門戒壇建立の勝地は当地富士山なること疑いなし。また、その本堂に安置し奉る大御本尊は今、眼前にましますことなれば、この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、もしこの霊場に詣でん輩は無始の罪障、速やかに消滅し云々」
ということがあるのです。
そして、もう一つには日寛上人の『法華取要抄文段』の、
■ 「広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段543ページ)
という御文を引かれておりました。
そこでは「根源」ということは言われなかったけれども、そういう意味から事の戒壇ということを示されたのであります。
これらは無論、日達上人がお書きになった文ではなく、別の御先師がお書きになったもので、それを当時、総監であった観妙院日慈上人と私に見せられて、日達上人は「こういうような文からいって、事の戒壇と言ってもよいのだ」と仰せになったのです。
だから、御戒壇様のまします所が事の戒壇という意味になるのであります。
そうすると、日寛上人が仰せの『三大秘法抄』の「事の戒壇」と、御戒壇様まします所の「事の戒壇」の二つがあることになり、紛らわしいという意味も出てきます。
実際、浅井もそういうことを、そのあとにおいて盛んに言っていたわけです。
しかし、日達上人は「現時における事の戒壇」というように仰せられているのです。
つまり、『三大秘法抄』の戒壇は未来における事の戒壇であり、現時における事の戒壇は御戒壇様がおわします所で、そこに大勢の人が参詣し、真剣な信心・唱題・折伏によって即身成仏の大きな功徳を得ることが、そのまま事の戒壇であるという意味の御指南もありました。
このほかにも色々あったのですが、簡単に言えば、こういうお話があったのです。
さて、47年2月には浅井が「事の戒壇」についての宗門の見解を変えるよう要求を出してきたのです。
@ 一つは「正本堂は両抄の御遺命の事の戒壇ではない」というのですが、これは以前から今日まで御戒壇様のまします所、事の戒壇という御指南が本筋であります。
A 次が「正本堂は奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まて、大御本尊を厳護する堂宇である」ということです。
B さらに「御遺命の事の戒壇とは、一国広布の暁、富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇である」と主張するのです。
この間ずっと、日達上人が宗門の公式決定として「国立」ということは言わないと言われておるのです。
にもかかわらず、あくまでこれに固執しているのであります。
そこで47年4月28日に、日達上人は妙信講への色々な回答等の意味も含めて、正本堂の『全面的な定義』をお示しになったのであります。
その「訓諭」には、
■ 「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり(大日蓮・昭和47年6月号2ページ)
ということを仰せであります。
このなかの「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」というところが、また一つの解釈があるのです。
「たるべき」ということは、そうであるべきということにおいては、
@ 現在はその意義を含んでいる建物だけれども、広布の時にはその建物がそのまま『一期弘法抄』の本門寺の戒壇になるのだという解釈と、
A そのようになるべく願望しておるところの意味との二つの解釈があるのです。
つまり「本門寺の戒壇たるべく願うけれども、未来のことは判らない」という意味が、そこには含まれておるということなのです。
この二つがあって、それはどちらとも言えないという不定の意味で、こういうようなことをおっしゃったのではないかと思うのであります。
それから、とにかく昭和47年中は浅井の問題がずっと起こってきて、昭和49年には学会本部へ襲撃をかけたり、そのほか暴力事件を起こすような話があったり、さらに浅井の問題に関して日達上人の御指南を受けるという意味があったりと、とにかく色々なことがありました。
それらのことは到底、一概には言えないし、時間もありませんから申しませんが、これらの問題が終わったあと、特に49年ごろのことだが、創価学会が色々な意味で宗門を実質的に支配しようとしたことがありました。
正本堂も造ってやったし、みんな我々がやったではないかというような考え方から、宗門をことごとく支配しようとしたという不逞な心根が、たしかにあったわけです。
当時の大幹部に山崎正友氏と八尋がおり、山崎氏は当時、池田の懐刀でしたが、まもなく学会と別れたあと色々ないきさつがあったけれども、今は宗門の信徒となり、学会破折の急先鋒に立ってやっているのであります。
しかし、八尋は今も学会の弁護士としてやっています。
ともかく、昭和49年4月12日の山崎・八尋の文書があって、そこに、
「本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて、二とおり考えられます。
一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向う三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、
いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて、背後を固めるという方法です(中略)本山、正宗は、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭と思われ」
と言っているのです。
本来、学会は総本山を根本とし、中心としての信心をする信徒団体ではないか。
それが創価学会が中心であり、民音や公明党が創価学会を守るように、宗門も創価学会を守る存在価値があると言うのだから、これは実に逆さま極まる愚かな考え方でしょう。
つまり「学会主・宗門従」ということが、ここにはっきり出ているのであります。
そして、
「そのための布石としては、(1)本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配 (2)財政面の支配(学会依存度を高める)」
と、つまり「学会に袖を振られたら宗門はお手上げだから、何かあったら宗門を助けてください」というような体制を作らせておこうというのです。
これは私の時に実際にあったのですが、私が登座してしばらくした時に、平野(当時、創価学会登山部長)という者が何度も目通りに来て、「近ごろ、どうもみんなお山に来る熱意がなくなっている」とか、妙なことをごちゃごちゃと話すのです。
結局、あとで判ったことだが、あの男は「猊下に創価学会が有り難いということを知らせるために、そのような話をしたのだ」ということを、あとで言っていたらしいのです。
また「場合によっては登山もやめようという考えがある」とか、「みんな池田先生を大切にしないと大変ですよ」という趣意も、たしかに私の所に来て言っていた。
このことからも、このような宗門支配を目指す内容がよく解るのであります。
また次に、
「(3)渉外面の支配 (4)信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等) (5)墓地、典礼の執行権の委譲 (6)総代
による末寺支配が必要です」
とあります。
末寺の総代のほとんどが学会員であったことは、みんな承知していると思います。
ある年代から最近は法華講員に総代を替えたけれども、ほとんどが学会の総代の時代がありました。
ともかく、そういうようなことを言っておって、さらに、
「今回のとこは(1)(2)(3)を確立し更に(4)まで確立てきるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度の判断によって決せられるべきと思います」
というようなことを言っているわけです。
だから日達上人は、49年4月25日の法華講連合会春季総登山会で、
「最近ある所では、新らしい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります」(蓮華・昭和49年5月号35ページ)
とおっしゃったのであります。
この「ある所では、新らしい本仏が出来た」というのは池田のことです。
そして、
「もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません。そういう間違った教義をする人があるならば、法華講の人は身を以って食い止めて頂きたい。これが法華講の使命と心得て頂きたい。法華講は実に日蓮正宗を護る所の人々である。日蓮正宗を心から信ずる所の人々であります。大聖人様以外に本仏があるなどと言ったらば、これは大変なことである。どうかそういうことを耳にしたならば、どうぞ『それは間違っておる』ということを言って頂きたい。どうか皆さんは、この信仰の根本を間違わないで、信心に励んで頂きたい。広宣流布はしなければならん、けれども教義の間違った広宣流布をしたら大変であります」(同ページ)
という有名なお言葉があったのであります。
このことは本当にそう思います。
ところが、最近でも「日蓮大聖人に続く法華経の行者が池田先生だ」ということを言っているのであります。
言い方は色々あるけれども、これはまさしく同じことです。
■ 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書1773ページ)
と『御義口伝』にあるように、法華経の行者とは本尊の意味であって、大聖人様お一人しかおられないのであります。
それなのに、「池田が大聖人に続く法華経の行者である」ということを言っているのであり、そういうところに創価学会の邪悪な考え方があるのです。
また、日達上人とお話しになったことを北条浩が記録して、池田大作に報告した文書があります。
要するに「猊下の話は大変ひどいもので、これが猊下かと疑いたくなるほどである。また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした」ということが記録にあるのですが、これは何も、日達上人は大作の犯した謗法やおかしなことをきちんとおっしゃったに過ぎないのです。
それを池田にはこのように報告しているのです。
これについてはあまりにひどいから全部を読むのはやめますが、そういう在り方もあったのであります。
それから、もう僧侶はいらないということを彼らが言い出したことがあるが、それについては日達上人が、49年5月31日の寺族同心会の時に、
「今、我々出家しておる僧侶がいらないで廃止すれば、次の和合僧団の僧侶が出来る事になってしまう。何も変りはない、ただ現実を破壊せんが為にこれを云うのである」(蓮華・昭和49年6月号8ページ)
とおっしゃっている。
つまり学会が現実を破壊せんがために僧侶がいらないということを言っておるということです。
さらに続いて、
「大いに我々も考えて一層努力し、大聖人の仏法を本当に純粋に護っていかなければならない。
謗法厳禁という事を考えなければならない(中略)ただ大きくなればいい、大石寺はいろいろの生活が楽であればいいというような考えで皆いろいろの今までの法門のあり方、あるいは布教のあり方を忘れるという様な事があるならば、私は、どこまでも一人でもいいから本山を護りたいと思います。
皆様も、大いにしっかりと考えてもらいたい。
富士宮のこれは信者ではないけれども、ある有名な人は大石寺は前々から言う通りに、『軒を貸して母屋を取られる』様な事があるならば、大石寺の恥だけではない、富士宮の恥だという事を放言していたという事です(中略)大いに反省し、大いに我々のいくべき道を考え、ただ表面に服従して、ただ大きくなる事を望まないでもっとよく信心をしていただきたい」(同ページ)
ということを、ここにおっしゃっておるのであります。
次が、49年6月18日の富士学林研究科開講式の時ですが、
「この辺でも、最近、人間革命が御書だということを盛んに言われてきております。私の耳にもしばしば入ってきています。又、誰れが本仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています(中略)日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります。皆様の時に、もし、日蓮正宗の教義でなし、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、決して、我々は喜ぶべきでないし、大聖人が、お喜びになるとは思いません。むしろ、正宗の精神が、なくなってしまった、消滅してしまったということになるので、非常に悲しいことであり、我々の責任は重大であります(中略)どうか、一時の富貴を喜ばないで、大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたいと思います」(大日蓮・昭和49年8月号19ページ)
ということをおっしゃっております。
学会は本当に『人間革命』が御書だと言っていましたが、考えてみればひどい話です。
また、学会がたくさん来ていれば、葬式や法事などの形で多少の御供養が入るでしょう。
しかし、そのようなことよりも「大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたい」とおっしゃっておるのであります。
しかし日達上人御自身の上からは、昭和54年5月3日に、学会を最終的には許された御説法がありました。
そこでもって学会を許され、そのすぐ2カ月後に御遷化あそばされたのです。
そして、そのあとを私がお受けしたのですから、私としてはやはり日達上人が締め括られたところから出発しなければならなかったのです。
だから、私はどこまでもその立場を尊重し、そこから出発したつもりであります。
正信会の莫迦どもは「私の言うことがしょっちゅうぐるぐる変わっている」とか、「今になって池田の悪口を言っている」などと言っているけれども、私はその時その時で正しい在り方を常に考えてきたつもりであります。
これはまた別のことだが、池田大作は浅井の抗議や色々な問題があって、結局、正本堂が御遺命の戒壇であると正面を切ってはっきりとは言えなくなったのです。
どうしてもうまくいかないから、そこで最後に考えたことが、正本堂建立の記念の御本尊をお願いして、その裏書きを日達上人に書かせようということであります。
それはどういうことかと言いますと、池田は
「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」
と日達上人に書かせようとしたのです。
ここからも、いかに大作が御遺命の戒壇ということに執着していたかということが解ります。
日達上人がこういうことをお書きになれば、「池田大作が大聖人様の御遺命の戒壇をお造りしたのであり、それを時の御法主がきちんと証明されている」ということが万代にわたって残る。
そういうようにしたかったのです。
そこで日達上人は昭和49年9月20日に、賞与御本尊の裏に
「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法妙に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」
と書かれたのです。
「準じて」というのだから本物ではない。これを見た池田は、最後には怒っただろうと思うのです。
それからまた色々なこともありましたが、池田には、どうしても日達上人が自分の思惑のままにならない、ということでの不平不満があったのであります。
それから池田は47年10月12日には、正本堂完成奉告大法要の慶讃の辞で、
「大御本尊公開の時運招来の為に奮迅」(大日蓮・昭和47年12月号23ページ)
ということを言っているのです。
つまり正本堂が出来て、「今度は公開だ、公開ということが広宣流布なのだ」と言うのだから、正本堂を公開するという意味において、正本堂そのものが事の戒壇であるという意味を、ここで言っておるわけであります。
そういう背景において、『国立戒壇論の誤りについて』の中でも「(※正本堂は)現在は違うけれども未来においては、その戒壇が御遺命の戒壇でないということは必ずしも言えない」というような、今考えてみると言い過ぎにも思えるようなことを言ってしまっているのであります。
だから、あの書を廃棄すべきかとも考えたけれども、私としては廃棄するべきではないと思ったわけです。
やはり日達上人のもとで私が御奉公させていただいたのだし、当時の宗門の流れの上から、その時その時の事実は事実として、きちんと残しておいたほうがよいと思うのです。
また正直に言いますと、やはりその当時は、私はそういうように書かざるをえなかったし、そういうようなことがあったのであります。
また『広布第一章・第二章』ということも、池田が言い出しています。
そして有名なことだが、昭和47年10月12日の正本堂完成奉告大法要が終わってから、帰る信者に向かって
「今日、大聖人様の御遺命が達成されました」
というような言葉を言わせたのです。
これは聞いたことがあるでしょう。
それを、こそこそと側近の者に言わせたのだから、まあ、とにかくなんとしてでも御遺命の戒壇の達成ということに持っていきたかったということです。
それから、その翌年の昭和49年辺りに、先程言ったような陰謀が出てきます。
さらに国際センターの話もあって、これは日達上人が断固としてお断りになったわけです。
この国際センターを作るということは、その世界的な在り方の組織として創価学会インタナショナルのような組織があり、その全体のなかに日蓮正宗も入ってもらうというような形になるというのです。
つまり日蓮正宗もその傘下に入ることになるというので、日達上人は一時、大変に心配されておられました。
そのほかにもなんだかんだありましたが、とにかく学会は、あらゆる面からお山を自分達の傘下にしようと画策していたのであります。
また、これは全然違う話だが、正本堂が出来たあと日達上人の御在世中に、このなかにこれを知っている人がいるかどうか判らないが、正本堂の御戒壇様の鍵を学会で管理したいと言い出したことがありました。
もちろん日達上人は断固としてお断りになったと聞いております。
これについては、私も直接には知らないのですけれども、そういうこともあったと伺っております。
御戒壇様が学会に管理されてしまったら、もう学会のやりたい放題になって、大変なことになってしまったでしょう。
そういうこともありました。
ほかにも様々なことがあり、先程の賞与御本尊の問題もあったけれども、49年8月から11月にかけて妙信講の処分という問題がありました。
結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております。
ただ「王法」の解釈と、正本堂の建物についてのことでは書き過ぎがあったという感じもしておるのですけれども、しかし、これもその当時の流れのなかで彼らを慰撫教導するという意味では、あのように書いたことはやむをえなかったと思っておるのであります。
それで浅井を処分し、それからあとは、浅井は宗門の者ではないということになっていますが、浅井達はその色々ないきさつに関して裁判で訴えてきたのです。
その流れ等も色々ありましたが、このことに対しては藤本総監が当時の在り方のなかで色々と述べておるものがあります。
しかし、今はこれを省略いたします。
この浅井の言っておることのなかには、特に「天母(あんも)ヶ原」ということがあるのですが、これについては、日寛上人も『報恩抄文段』に、
「富士山天生原に戒壇堂を建立する」(日寛上人御書文段469ページ)
ということをおっしゃっているのです。
それで浅井は「天母山の戒壇」と言っているのです。
天母山というのは大石寺の東、4km強の所にある小高い山だけれども、あれも東側のほうは大石寺の所有になっています。
とにかく、「天生原に戒壇堂を建立する」ということを御先師が言っておるけれども、このようなことをだれが言い出したかということでは、文献的に確かなものはないのです。
ただ、日興上人の書かれたという棟札が一つあって、その裏書きに「天母原」ということがあるけれども、これは日興上人の御筆ではありません。
おそらく、あとから書かれたものであると思います。
そこで、日達上人が色々とおっしゃったなかでは、「天生原」というのは富士山の山麓一帯を言うのであり、そのなかでも特に、縁あって本門戒壇の大御本尊を安置するところの総本山の場所が、その中心である。
また、その意味から、由緒ある建物、正本堂等はここに建つべきてあるということをおっしゃっておったのであります。
ところが、浅井はあくまで天母山だと言っております。
そもそも「天母山」の場合は天の母と書くのに対して、日寛上人の『報恩抄文段』などは「天生原」と「生」の字が使ってあり、その文字の違いは内容的にも違うのです。
だいいち、天母山は水の便も良くないだろうし、まあ掘れば水ぐらいは出るかも知れないが、山の上で偏狭な所です。
だから将来、広宣流布の時の大勢の参詣者を想定するという面から言っても、やはり不適当と思われます。
さて、私が昭和54年にお跡を受け、それからずっと来た平成2年の夏に、法華講の大集会を開きました。
あれは「三万総会」という名目で行ったのだけれども、実際には4万人以上が集まったのです。
それからさらに、その年の10月13日には大石寺開創七百年の慶讃大法要が行われ、私はこの時の「慶讃文」で、
「一期弘法抄ニ云ク 国主此ノ法ヲ立テラルレバ 富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ建立セラルベキナリ。時ヲ待ツベキノミ。事ノ戒法ト云フハ是ナリト。コノ深意ヲ拝考スルニ 仏意ノ明鑑ニ基ク名実共ナル大本門寺ノ寺号公称ハ 事ノ戒法ノ本義更ニ未来ニ於テ一天四海ニ光被セラルベキ妙法流布ノ力作因縁ニ依ルベシ」(大日蓮・平成2年11月号86ページ)
ということを言いました。
少し難しい言葉だけれども、これを簡単に言えば、本門寺の公称は未来だということを言ったのです。
この時の池田大作は、怒りたくても怒れないような、『なんとも言えない顔』をしておりました。
大客殿では、私はちょうど東を向いているから見えたのです。
そのあと彼も出てきて挨拶したけれども、その時の顔はなんだか見ていられないような顔でした。
けれども、私は信念を持っているのです。
いくら何でも、あのような間違った流れや様々な形のあったなかで、しかも池田のわがまま勝手な姿の色々と存するなかにおいて、今現在、直ちに「本門寺の戒壇」と称すべきではないと思っていました。
しかし池田は、おそらくあの大石寺開創七百年慶讃大法要の時に、この私が「大石寺を本門寺と改称したい」とか、「改称する」と言うことを期待していたと思うのです。
それなのに「未来のことだ」と言ったものだから、怒ったのでしょう。
だけど色々な状況上、私は一宗を統率させていただくという意味において、安易に「本門寺と改称する」などとは言えないし、また、あそこで「本門寺にする」とか、「本門寺になる」というような意味のことを言わなくて、私はよかったと思っておるのであります。
ですから、「たるべき」ということも、あくまで願望・予想であり、したがって日達上人が「もう広宣流布だな」とおっしゃったというのも慰撫激励その他、色々な深い意味がおありになってのお言葉であり、直ちに御遺命達成と言われたのでは絶対にないと思うのです。
だから、池田がこれを様々に利用してきたけれども、あくまでも願望であるということの上から、正本堂が御遺命の建物そのものではないということを、平成3年1月にも言いました。
これは前の平成2年の時の在り方から出てきておるのであります。
つまり、君達も知っているように「11・16」という話があるでしょう。
これは、この平成2年11月16日のことです。
この年の10月13日に大石寺開創七百年の慶讃大法要で私の「慶讃文」を聞いて、池田は怒って、「よし、それならば日顕のやつをやっつけてしまえ」ということで私を誹謗したのが、約1カ月後の「11・16」の発言なのであります。
そのあとすぐ次の日に、雲仙普賢岳が噴火したわけで、池田の大謗法、歴然です。
そういう流れがあったのであります。
そこで、平成3年3月9日に私が色々と述べたことに関してですが、私が教学部長時代に書きました『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』という本があります。
そのなかに、正本堂は広布の時に『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇となる建物だというように、その時はそう思って書いたけれども、現在においては不適当であると、これははっきり言っておきます。
この時はまだ正本堂もありましたから当然、その願望は込めつつも、未来の一切は御仏意に委ね奉るのであると言ったのであります。
ところが平成3年12月8日に、池田大作は、
「正本堂には八百万の御供養者名簿がある。また正本堂を、日達上人は永久不滅の大功績と言われた。だから、だれびともこれを壊すことはできない。自分達が世界一の正本堂を大聖人へ御供養したのであるから、正本堂は私達民衆の殿堂と言い切る資格がある。これをハイジャックか何かのように乗っ取り、横取りし、我がもの顔に居座る悪人が出現した」(聖教新聞・平成3年12月10日付・取意)
という主旨のことを言っているのです。
これは私のことを言っているのだが、私は横取りしたわけでも、なんでもないではありませんか。
昭和54年からずっと総本山にいるのです。そうでしょう。
それを何を横取りしたと言うのだ。
ただ平成2年12月の終わりに法華講本部の機構を改正した時に、前の「宗規」によってなった総講頭・大講頭等にはいったんやめてもらう、ということでやめてもらったに過ぎないのだから、横取りもへったくりもないのです。
しかし、そういうことを言っているのです。
そしてまた「須弥壇の基底部に桐の箱を納めた」というようなことも言っているのだけれども、このうちの日達上人の記念品は現在、きちんとお山で保管してあります。
池田大作のモーニングなどはどうか知らないけれども、日達上人のお衣や願文等は、きちんと保管してあります。
それで、昭和47年の『国立戒壇論の誤りについて』と51年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景に依らざるをえなかったのです。
つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来た後だったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。
そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います。
あのなかでは、王法や勅宣・御教書に対する解釈を述べるなかで、「建築許可証」(※が相当する)というようにも書いてしまってある。
これは当時の在り方において、学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまったのです。けれども、今考えてみると、やはり今は、勅宣・御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです。
それから『一期弘法抄』の「国主」ということの考え方、これもそうです。
今は国民主権だから、国主というのは今ではたしかに民衆なのです。
けれども、政治の在り方等というものは、いつどこでどう変わるか、未来のことは判りません。
日達上人も「未来のことは判らない」ということをおっしゃっておりました。
とすれば、我々は本当に全人類を救済するという大目標の上において、御本仏大聖人様が最後に御遺誡また御命題として我々にお残しくださった『三大秘法抄』『一期弘法抄』の「戒壇」の文については、軽々にああだこうだと言うべきではないと思います。
もちろん今、ある時点を予測して考えれば、こうともああとも色々なことを言えるけれども、将来どう変わるかということは本当に判りません。
だいいち、日本の現在の民主主義の形だって、憲法だって、将来どう変わるか判らない。
だから、そんなことに関して今、どうのこうのと具体的な形で言う必要はないのです。
一番最初に言ったように、戒壇というのは事相だということを、大聖人もおっしゃっておりますように、『事相』なのだから、実際の相というものはその時でなければ明確性が顕れません。
よって『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ということは、まさにその時が来た時に、本門戒壇の大御本尊様を根本と拝しつつ、その時の御法主がその時の実状に即した形で最終の戒壇を建立するのだと、私どもは信ずべきであると思うのであります。
そこでまた、なぜ正本堂を壊したのだということですけれども、やはり創価学会のあのような謗法の姿が平成2年・3年から出てきて、しかも正本堂の発願主である池田大作は、平成4年に既に信徒除名されているのです。
たしかに日達上人も御苦労あそばされ、正本堂のことに関しては大聖人様への御奉公のお心をもって真剣にあそばされたけれども、今日の状況から見るならば、結局、総本山に正本堂が存在することは広宣流布への大きな妨げとなるということに、一言もって尽きると思います。
したがって、このような謗法の姿があるのであり、まして正本堂が『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を含むと言っても、それは大勢の信徒が本当に御戒壇様を拝する姿があって初めて、そう言えるのであります。
しかし現在、その姿は全然なくなっているではないか。
最近では、戒壇の大御本尊様にすら疑いや文句を付けているようなことも聞いています。
そういうような莫迦どもが今日、大勢充満しているような姿があり、しかも「我々が造ったのだ」と言って威張り返っているような意味においては、正本堂はやはり未来の真の正法広布の妨げになると思っておるのであります。
そこで大客殿に続いて正本堂を解体し、奉安堂を造らせていただいた次第であります。
この奉安堂については、池田大作が正本堂に関して『三大秘法抄』だ『一期弘法抄』だと言って強いてめちゃくちゃに意義づけしたようなことは、私は何も言っていないし、宗門でももちろん言っていません。
奉安堂は、ただ戒壇の大御本尊様の安置の殿堂であります。
しかし、今日においてはあれ位の大きさがないと、実際問題として困るのです。
今年も例年同様、信徒の夏期講習会が10回にわたって行われましたが、だいたい4千から5千人、多い時だと5千数百人の方が、その日一日で来ておるわけです。
そういう面からも、かなり大きい建物でないと、今の法華講の方々の信仰心による参詣行事等の対応の必要性においては不適当な意味もあります。
したがって、敢えてそういう大きさの奉安堂をお造りさせていただいたわけであります。
さて、この奉安堂においても、日達上人の時と同じように御戒壇説法があります。
これはもちろん二大法要(※御大会、御霊宝虫払会)の時にだけ行う例になっておりますから、今日も行わなかったし、普段は行いません。
しかし、昔はそうではなかったのです。
このことを知る人も、ここにはないだろうけれども、昔、まだ私が小僧から所化のころ、御宝蔵で御開扉をお受けしました。
だいたい日開上人から日恭上人のころで戦前の話だが、そのころはしょっちゅう御戒壇説法があったのです。
例えば、ある日は10人なら10人、15人なら15人の登山者があると、そのなかに新登山者がいる場合には、それを内事部で聞いておいて、きちんと御法主に報告するのです。
すると、新登山者が1人でも2人でもある時には必ず、御法主が御戒壇説法をされたわけです。
だから今も、私もしようかなと思ったりもしているのだけれども、ずっとしないで来てしまっているから、今のところまだしておりません。
もっとも、今は大勢だから「あなたは初登山ですか」と一々聞くのも大変だから難しい意味もあります。
とにかく、昔はそういうように御戒壇説法をしたのです。
その時の御戒壇説法は、私もだいたい伺っておったのですが、そのなかには「この所すなわちこれ本門事の戒壇」という御文はありませんでした。
ところが、先程話したように私と観妙院日慈上人が宗務院の役員として日達上人に伺った時には、日達上人が御先師の説法本をお示しになり、そこには「この所すなわちこれ本門事の戒壇」というお言葉があったのです。
それから、もう亡くなったけれども、日開上人の弟子で私の法類に奥法道という人がいまして、この人が非常に書き物が好きな人で、ありとあらゆるものを書き写していました。
その奥法道師の写本のなかに、日開上人の御戒壇説法というものがあったのです。
今でもどこかに残っていると思いますが、そのなかには、ちゃんとその文があるのであります。
ところが、またおもしろいことに、日開上人が当職の当時は、御戒壇説法を扇子にずっと書かれていたのです。
たしか金銀の扇子だったが、それを開くとずっと墨で書かれてあって、それを読まれていました。
しかし、これは割に簡単な御説法で、それには先程の御文はなかったのです。
小僧のころだったが、私も聞いていて、「本門事の戒壇」ということはたしかにありませんでした。
また御先師の日応上人の御戒壇説法にもないのです。
だから、いつ、どこで、どなたが、どう始められたかは判らないが、60世日開上人の写本としてはあったのです。
もう一つは、日達上人が我々にお示しくださった御先師の御説法本のなかに、それがあるということです。
よって、先程の意味から言っても、また日達上人のあらゆる点からの御指南から言っても、本門戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇という御指南は、たしかにそのとおりだと思います。
ただ、私が今考えていることは、今日こういう話をすることは一つのけじめだということを言ったけれども、やはり今日は創価学会の、一時、800万とも称したような人数が御戒壇様に御参詣するような状態ではない。
しかし30万の総登山があったように、これからさらに未来に向かって、日達上人が仰せの「因の広宣流布」に向かっての行業を進めるわけであります。
要は、日寛上人が『法華取要抄文段』で、
「広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段543ページ)
とおっしゃっておりますが、この「根源」というところに当然、深い意味があるのであり、つまり本門戒壇の大御本尊まします所が根源なりとおっしゃっているわけです。
だから、御戒壇説法の「この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」ということについては、「この所すなわちこれ本門根源事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」というように、「本門」と「事の戒壇」との間に「根源」という文字をお入れすることが、現時においては適切ではなかろうかと、私は思うのです。
もちろん、これは御戒壇説法の時のことであって、普段からそういうような意味の定義だということではないのだけれども、しかし考えてみると、「本門根源事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」ということだから、意味としては、事の戒壇であることを否定しているわけでは絶対にないのです。
ただ「根源」の二字が「本門」と「事の戒壇」の間に入れることにおいて、日寛上人が「本門戒壇の大御本尊の所は根源である」と仰せになった意味を、そのままお受けするということです。
このことは1年に2回だけのことではありますが、そういう意味で考えております。
ではそれならば、未来における広布の上からの『三大秘法抄』『一期弘法抄』の事の戒壇の目標と、その戒壇の建物というのはいったい、どういうものかと言うと、これは今、論ずるべきことではありません。
それこそ本当に不毛の論であります。
しかし考えてみれば、今もイスラム教の聖跡を巡拝する信徒達の数たるや、すごいものがありますが、将来、1日に2万、3万、5万以上の大勢の人が総本山に参拝するような形があると、大聖人様の御仏意の上から一往考えるならば、奉安堂などは小さいものだと思うのです。
だから、その時になればまた、建築技術も盛んになっているでしょうし、いくらでも大きい物を造ればよいのです。
要するに、御遺命の戒壇は『一期弘法抄』の「本門寺の戒壇」ということであります。
だから未来の戒壇については「御遺命の戒壇である」ということでよいと思うのです。
そして、その御遺命の戒壇とは、すなわち本門寺の戒壇である。
さらに本門寺の戒壇ということについて、浅井達は「国立戒壇」と言っているけれども、御遺命という上からの一つの考え方として「国主立戒壇」という呼称は、意義を論ずるときに、ある程度言ってもよいのではなかろうかと思うのです。
なぜならば、大聖人様の『一期弘法抄』に、
「国主此の法を立てらるれば」(御書1675ページ)
とありますが、国主が立てるというお言葉は、そのものまさに「国主立」でしょう。
国主立とは、『一期弘法抄』の御文のそのものずばりなのであります。
また同時に、その内容を考えてみたとき、今は主権在民だから国主は国民としたならば、こういう主旨のことは日達上人も仰せになっているし、学会も国立戒壇に対する意味において色々と言ってはいたわけです。
だから国主が国民であるならば、国民が総意において戒壇を建立するということになり、国民の総意でもって造るのだから、そういう時は憲法改正も何もなく行われることもありうるでしょう。
ところが、国立戒壇ということにこだわるから、あくまで国が造るということになり、国が造るとなると直ちに国の法律に抵触するから、どうしても憲法改正ということを言わなければならないような意味が出て、事実、浅井もそのように言っているわけです。
だから国主立、いわゆる人格的な意味において国民全体の総意で行うということであるならば、憲法はどうであろうと、みんながその気持ちをもって、あらゆる面からの協力によって造ればよいことになります。
要は、正法広布の御遺命を拝して、倦まず弛まず広布への精進を尽くすことが肝要であります。
しかし、私は「国主立ということを言いなさい」と言っているわけではありません。
ただ私は、国主立という言い方もできるのではなかろうかという意味で言っているだけで、正規に大聖人が我々に示され、命令された御戒壇は何かと言えば御遺命の戒壇、いわゆる本門寺の戒壇であります。
そして、これは本門寺が出来た時に行うということです。
ですから、正しい御遺命の意義における本門寺は、まだ当分は出来ないだろうけれども、これからの我々の信心修行、折伏の成果において具体的に現れてくるということを考えていきたいと思うのであります。
以上をもって本日の話を終わりとします。