日淳上人全集から (※現代人にも見やすくするために段組み・句読点・ふりがな など編集させていただいた。)
■ 講中制度に就いて
我が国の仏教界に於て信徒の組織として採用してきました特徴ある制度は講中であります。
此の制度が何時頃から初まって、如何にして発達したものであるかは浅学の私は知りませんが、想像すれば恐らく平安時代から盛んに行はれた御講の催しが漸次かゝる習慣を醸成し、そうして宗教の社会性が能く此の傾向を助長したのではないかと考へます。
歴史の詮議だては措(お)いて現在行われてゐる講中に就いて考へて見ると此の制度はなかなか価値のある立派なものと思はれます。
本来講中は信仰の社会性の上に成立する組合であって、他の商工業の組合の如くに自家の擁護と対他的の必要の目的によって存在するものでありません。
換言すれば信仰の本質的要求として講中は存在の意義をもって居るのであります。
しかし此れは個人的に見た場合本来の意義でありますが、宗門的に見れば此れ程重要な役目を帯ぶるものはないでありませう。
宗教界に於て布教と教化との二つの目的に能く講中を手段としてはたすことができると考へます。
もとより此等の機関は多くあって、印刷物・講演等の方法がなくてはなりませんが、尤も堅実に其の効果を挙ぐるのは講中を母体としての布教でありませう。
若し今日の宗教界に於て此の講中制度を廃棄したならば、布教と教化に於てどれ程の結果を将来することができるか疑問でありませう。
又一度信仰に入った人々を教化してゆくに、此れ程便宜な制度はあるまいと考へられます。
細かい化儀の作法から信仰気質まで、尤も有効に薫化してゆくことができます。
むしろ今日は寺院教会より受くる影響よりも、講中より直接受くる方が幾倍か大きいでありませう。
今日の如く人々が多忙の生活を営まなければならぬ時に、悠々と寺院教会の門を叩いて常に教化を受けるといふことは不可能であります。
しかし講中の人々は大体社会生活の上に一集団を為すのでありますから、常に面接せる機会をもって居ます。
此れが教化に此の上もなく便宜であります。
又何等信仰に気注(きづ)かない人を誘導したり漸次信仰の増進と教法を知らしめるに、講中を通じて為すことは唯一の最良方法であると信じます。
講中の価値と機能とは、私が此処にくどく説くまでもなく、何人も容易に認むることができるでありませう。
若し講中制度を尤も有意義に働かしめる時は、懺悔告白等のことを為さずにすむでありませう。
今日或る宗門に於ける懺悔の式が著しく衆人の忌避に触れて、むしろ無効なる此の式が非常に禍ひしてをるのも見うけるところであります。
扨(さ)て上の如く信仰の本質的要求に契合する講中制度其れ自体、莫大の価値をもって居りますが、その宗教に貢献するところ其れ以上であります。
講中制度を認めて居る宗教団体は堅実でありますが、認めて居ない宗教は基礎が動いて居ります。
此のことは現在我が国の宗教界を眺めるならば直ちに了解できませう。
物ごとに一面、利があれば、他面に弊害の生ずるのは免れないところでありませうが、現在行はれて居る講中なるものは、はたして、いくばくの意義と価値とをもってゐるでせうか。
全く感情の上からいったなら、今日一般の講中なるものは存在しなくてもいゝと思はれます。
今日の講中はあまりに堕落してゐます。
その本来の意義を誤り、目的を忘れて居りはしないでせうか。
隊を為して各地を歩き廻り、寺院の殿堂や門柱に札を張りつけて「我が講中は今年何処と何処に参詣した」といふ様なことを仕事として、肝心の布教と各自の信仰増進は忘れて居るのが多くあります。
しかし幸に我が宗内に於てはしかく左様なる講中のあることを見聞しないのは意を強ふするところであります。
しかし此れは未だ講中に名をかりた遊山団体であるから益もないが害も少い、
尤も恐るべきは講中制度の誤用であって此れから起る弊害は一段であります。
■ 講中制度の弊害 その一
先ず弊害の第一に挙ぐべきは講中制度に周到の用意をもたない場合は教義の混乱を生じやすいのであります。
それは在家の士が布教するのであって、講員に対してはむしろ僧侶が間接の立場にあるが為であります。
信徒の多くは自己の一つの要求から入信するために、法を其のまゝに了解するが困難であり、稍々もすると一面に偏しやすいのであります。
そうして其れをもって他を導かんとするから、漸次教義が曲解されてきます。
此の尤も著しい標本は 『天理教』 『中山系日蓮宗』等でありませう。
彼等は講風(※「講頭」の誤植ではあるまいか?)、或は組長の如きものを重用して、先生・教師たらしめ多く金力労力によってそれを認める為に、一面、量の上に異常な発展を来たしましたが、教義の堕落、質の下落は、譬へやうもない程であります。
如何に天理教といへ、幹部の手輩に於ては、今日坊間に行はれてゐるやうな噴飯に価する教義を説いてはゐないでありませう。
中山系日蓮宗の教義の荒唐無稽なことも此れにゆづらないのであります。
此等は講中制度を認める宗門に於て他山の石とすべきであると考へます。
由来教義の混乱は目立たずに長い間には何時となく混乱してゆくのであります。
此の弊害は常に能く講中が全部僧侶に接近してゆくことによって矯正せられたのであります。
此の点に於ては我が門下の講中は留意することを怠たっては居はしないでせうか、
又常に述べるやうに、教化といふことは理論をのみ説いて理解ができたといふことが必要には相違ないが、それと同等に当門の気風精神、或は心持ちといったものが大切であります。
此れは講中の間に於て確かに宗化されますが、寺院教会と近くしない間に漸次退化するのであります。
宗祖より日興上人、其の後代の僧侶の間に伝はってきました、いはゞ『正気気質』(※「正宗気質」の誤植では?)が消失して了ひます。
此の事は特に心得て貰ひたいことであります。
教義は結局正気気質(※同上)の表徴であります。
此の両面からして教化といふことは全ふされるのであります。
当門に於ては、講頭並に講中の役員は決して教師の意味を含むではいない筈であります。
それは講中の内部講員に対してより、むしろ寺院僧侶ん対して意味を有するものであると考へます。
もとより布教等の場合には一分教師の役目を為すも差支へないが、若し講員に対して純然たる教師のことを為すならば、あまり分を知らないことと考へます。
但し講員の信心倍増の為に僧侶教師と協力してゆく時は、或る点までは許されなければなりません。
其の際に於ては教師でないといふことを充分自覚しなければならぬのであります。
しかし此のことは次の如き問題に関聯します。
当門に於て現在の上から量の上に急速の発展を期するには、どうしても講頭若くは或る種の信者には教師たることを認め、何等かの方法に於て生活の安定を保証することのできるやうにしなくてはなりますまい。
さすればその人々は専心布教に努力することができます。
当門の如く講頭或は役員に対して教師とせず、単に世話人の意味にのみ解して居ては、充分活動してゆくことができません。
従て目醒ましい発展を来たすことはできないのであります。
此の点は今後大いに考慮すべき問題であると信じます。
前にも述べたやうに教師の濫造は教義の堕落を来たさしめる憂があるが、宗門発展には一面に信徒の力に俟たねばならない、といふ二重体に於て、此等は将来のことに属し、現在は教師の意は一般に許されてゐないのであります。
若し許されるとすれば寺院教師と協力といふ条件の下に一分許されるのであります。
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■ 講中制度の弊害 その二
現在の講中制度より起り易い第二の弊害は、宗門の組織を破りがちであるといふことであります。
何故かといふならば講中は形式に於て宗務院より認められた公の団体であり、直接辞令を受けますから、稍ともすると全く独立したものの如く考へて、其の行動は他から制肘を受けることなく、自由なものと解されるのであります。
其れ故、地方教師の指揮は一向に重ぜられないやうになり、甚しきは末寺を無視するやうな態度になるのであります。
此れは、「講頭が教師である」といふ誤解から、認可の場合、宗務院からの辞令が直接の関係を生じたものの如く思はしめるからでありませう。
此処の後者の関係に就いて一言しなければならないのであります。
昔は講中に対して本山より辞令が出づるのは、「一切内事部の取扱ひであった」と聞きますから、其の場合は本山との関係は直接であったと考えられます。
しかし現在では宗務院扱でありますから、講中なるものは認可によって決して直接関係が生ずるものでありません。
必らず末寺を差し挟さんでの関係であります。
更に宗務院との間もそれと同じであります。
此のことは申請の手続を見れば一目瞭然たるものであります。
それならば何故に講中が存在し、之を公に認可するのであるかが又問題となるのであります。
当門には講中制度に対する具足した規則はないのであります。
唯従来の習慣の上よりする不文律でやってゆくのであります。
従って是々と規定された講中の機能と取扱ひはありません。
それならばどういふ訳で講中ををいてきたかは私は知りませんが、而し唯私一個の考へは最初に述べた通りであります。
或る論者は講中をもって無意義であるとして無用論を唱ふるものもあります。
又一歩進んで却て講中の存在するが為に弊害のみ生ずるといふ講中有害論者もあります。
けれども講中なるものは最初から宗門に或る政治的の意味目的をもって進んできたものでなく、信仰本来の要求からきたものであると考へますから、別に特種の権利が認められる必要がないと思ひます。
若し要求するならば誤ってゐるといへませう。
昔と違って交通機関が発達して極めて距離が時間上短縮されてきましたが為、本山と直接関係を結んでも大した不都合を感じないのであります。(多く今日の寺院を単なる参詣所とし、法要を営むところといふやうにとってゐる方よりいへば)電報一本にて僧を招ずることができ、一夜一日にて登山ができるから、昔の如く寺檀の間のことは本山との間にしても少しも不便ではないでありませう。
しかし肝心な説法教化を成るべく多く受けて、充分信仰修行の功を積むといふことは、末寺をさしをいては不可能のことであります。
私は近頃末寺僧侶には殆んど知られぬ人が本山で良く知られてゐる、といふ珍現象を見聞します。
此のことは講頭或は有力なる信徒と、宿院の無理解から起るのでありませう。
当門に於ては信仰の帰趨と政治の中心等、凡て本山にあって、その上に一宗が求心的活動を為すに相違ありません。
それ故に 本山・末寺・信徒 といふ三角関係の星座を乱すことはできないのであります。
月は地球との関係を抜きにして単に太陽とのみ関係があるといへば誤りであります。
以上によっても講中が末寺を離れた独立団体でなく、必らず附属したものである筈であります。
故に又末寺に監督の義務があるのでありますから、本来は講中はその内規から仕事まで一々末寺教師に相談すべきであります。
已上講中制度に就いて一言したのでありますが、繰り返していへば講中は本来信仰上大きな意義と価値とをもってゐますが、自体功利的でないものを稍々もすると誤て用ひ易いのであります。
其の弊害として此処には二つの主なるものを挙げたにとゞめて、尚続けて現代社会と講中或は制度(習慣としても)の改造について述べたいが、不明な私がそれを敢てして世の冷笑を蒙りたくはありません。
唯此れを機会に諸賢の御考へを煩し御高見を伺ひたいのであります。
尚当局者にも御一考を願ひます。
私は宗門の発展は一つに適当なる講中制度を規定して活用に力を尽すにあると固く信じて居ます。
大正十二年六、七月(大日蓮)