TOP / 破折文証・資料集 / 破折関連動画 / 顕正会破折関連動画 / 教義的資料
「国立戒壇」
この言葉が最初に使われたのは、
明治三十五年、国粋主義者・田中智学「本化妙宗式目」
「国立戒壇にはどの本尊を安置するか」という議論が、田中智学系の戒壇論者から出ていた。
その論難を破折するため、日蓮正宗でも「国立戒壇」という言葉を用いたのである。
大正元年十月、宗門機関紙「白蓮華」
信徒・荒木清勇氏が用いたのが宗門では最初
―――――
田中(『妙宗式目講義録』)。
「王法仏法に冥じ」
=「仏法は国家の精神たるに至る」
「仏法王法に合して」
=仏法を国体擁護と世界統一の大思想として「国法化」し、「国家ただちに仏法の身体となるに至る」
「有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を……」
本義:有徳王と覚徳比丘は、もともと涅槃経に説かれたもので、破戒の悪僧と戦い、正法を護持し抜いた覚徳比丘を、有徳王が命をかけて守った。
田中=「国家国力を持って正法を護り、道に順ぜざる国を討伐しても、世界の有道的統一を実現するの義」(前掲書)
→日本が世界を統一するために、武力侵略をも、積極的に肯定していった。
「霊山浄土に似たらん最勝の地」(御書一〇二二頁)
=日本を代表する名山である富士。
「富士戒壇論」をめぐって、大正から昭和にかけて、国柱会を中心に、日蓮系各派の間で、論議がわき起こった。
そのなかで、本門の戒壇に安置すべき御本尊にも議論が及び、大石寺の大御本尊への批判があったことから、日蓮正宗も反論するに至った。
このやりとりのなかで、先方が用いた「国立戒壇」という言葉を、日蓮正宗側も使ったために、日蓮正宗も、戒壇は「国立」を前提としているかのような論の展開になっていった。
そして、軍国主義の流れの中で、次第に宗門も「国立戒壇」は当然であるかのような風潮がつくられていった。
更に、戦後も、宗門では本門の戒壇を、「国立戒壇」と言っていた。
そのため、信徒である戸田城聖も、本門の戒壇について語る際に、「国立戒壇」という言葉を使用したことがあった。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「国立戒壇」という用語を最初に使用したのは、日蓮宗系在家教団・国柱会の創始者である田中智学です。
■田中智学とは
1861年−1939年(昭和14年)。日蓮宗身延系寺院で出家し「智學」と称していました。その後還俗し、1880年(明治13年)に「蓮華会」を設立。1882年(明治15年)、蓮華会と日蓮正宗本門講との間で問答(横浜問答と呼ばれる、文筆による討論)が行われ、問い詰められ窮した田中智学は規約に違反し姿を消してしまいました。
その後、1884年(明治17年)に東京で信者の組織として「立正安国会」を設立し、のちに1914年(大正3年)には諸団体を統合して「国柱会」を結成しました。
■田中智学の思想
田中智学の思想とは、ひと言で言うと「不相伝・日蓮宗の教義と国家主義をブレンドした超右翼思想」です。
「純正日蓮主義」を掲げ、法華経を国教とした日本が世界を征服し、世界を法華宗化するという遠大な目標を持っていました。日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を霊的に統一すべき天職を有す」と、全世界を天皇を頂点とした一つの国家に統一するという意味の「八紘一宇」を唱えました。
この思想は軍部を中心に広く社会に影響を与え、八紘一宇・五族協和思想のバックボーンの一つとして思想界に重要な役割を持ちました。昭和初期になると天皇制ファシズムの興隆という世相を反映して国柱会の思想的影響を受けた軍人・右翼の指導者が急増しました。
日本の軍部は八紘一宇の第一歩として「大東亜共栄圏」を標榜し、近隣各国を侵略していったことを考えると、国柱会は大東亜戦争に「思想的に加担した」と言えます。
■田中智学の国立戒壇論
不相伝・日蓮宗の教義と国家主義をブレンドした超右翼思想である「純正日蓮主義」の実践を象徴する建造物が、田中智学の主張する国立戒壇です。
これは、天照大神の子孫たる皇孫(天皇)は世界統一の役割を持っており、世界統一後、勅命でもって建立した国立戒壇の場もって、天皇は臣下である各国の当事者ならびに前世界の衆生に大菩薩戒を授ける、というものです。
田中智学は横浜問答での敗北後、日蓮正宗の教義を研究し、日蓮大聖人の御遺命が「広宣流布の暁に本門戒壇を建立する」ことは理解できたものの、その戒壇堂に安置する本尊がどの本尊であるかは、不相伝でしかも退転僧の悲しさか、本門戒壇の大御本尊を安置すると理解するには及ばず、佐島始顕大曼陀羅という贋造本尊を国立戒壇に安置するという説を主張していました。また戒壇建立の地も「富士」とまでは理解したものの、三保がその地であるという邪説も立てていました。
[田中智学の主張]
◎「一宗模範正式本尊たる佐島始顕大曼陀羅の御正筆を奉安し、(中略)日本国教乃至閻浮同帰の戒壇本尊とすべし」(宗門之維新)
◎「宏大荘厳世界無比の大建築を以て、『戒壇遥拝殿』を三穂の清州に造り」(宗門之維新)
◎「王法と仏法が一体となった時、世界統一の大標示として『本門戒壇』の建設を勅命せらるる時」(日蓮聖人の教義)
◎「苟(いやし)くも『本門戒壇』を建て得る場合の日本国は、すべての点に於て、モハヤ世界の盟主である、(中略)世界は教法的に統一せられ、万国の帝王大統領も即位就任の式は、必ずこの本門大戒壇を踏んで、日本国天皇より大菩薩戒を授けられて、その式を全うするのである。此(この)場合の日本天皇は、世間的にすでに世界文武の長者、列国の治平の盟主にあらせらるる上に、更に教法上の大柄(たいへい)を握って、世界人類の思想信仰を支配したまふ所の、活ける明神である」(日蓮聖人の教義)
※浅井は「田中智学が日蓮正宗の国立戒壇義を盗んだ」などと言っていますが、この田中の主張で何をどうしたらそんなことが言えるのでしょうか。日蓮正宗の教義とは似ても似つかぬ国粋主義・覇権思想そのものではありませんか。
■「国立戒壇」の語を使うようになった経緯
大正に入って、国立戒壇にいかなる本尊を安置すべきかが議論されるようになった時、他門との法論を受けて立った日蓮正宗は、
「国立戒壇が建立されるのであれば、その国立戒壇に安置すべき本尊は、大石寺の本門戒壇の大御本尊以外にはない」
と主張しました。それ以来、御遺命の戒壇の代名詞として「国立戒壇」の語を使うようになったのです。
国立戒壇という名称の使用は、その時代相として、明治以来の国を統治する根幹となった「国体思想」の影響を抜きには考えられません。
天皇を中心とした国体思想華やかなりしころに、「天皇護持=全国民帰依=広宣流布」というように、一般的に理解しやすいであろうことから、しばらく世間一般の義を用いる「世界悉壇(せかいしつだん)」の上から使用されてきた、ほんの一時期に通用した「代名詞」に過ぎないのです。
[国体とは]
国体とは、「神の子孫たる皇孫(天皇)が、天地が果てることの無きが如く、統(す)べ治め給う」という、我が国固有の御神勅(ごしんちょく)に基づく国のあり方を中心的観念とします。国体の本義とは、記紀にもとづき国体の尊厳、天皇への絶対的随順を説き、個人主義・自由主義を排撃するものです。
■所詮は邪教の用語
そもそもが「国立戒壇」という用語は邪教・国柱会の布教用語であり、これを用いることは、例えば日蓮正宗が邪教・天理教の「ぢば」「ひのきしん」等の布教用語を使うようなものです。
あくまでも「本門戒壇」が正しい呼称であり、邪教の布教用語である「国立戒壇」を日蓮正宗が放棄することは何も問題のあるはずもなく、むしろそれが当然のことであったのです。
また浅井は、あたかも「日蓮正宗ではもともと国立戒壇と呼称してきた。歴代上人も国立戒壇と言っていた」かのように主張していますが、現六十八代までの御歴代上人の中で、「国立戒壇」の語を使用されたのは、日亨上人・日昇上人・日淳上人・日達上人の昭和期の四上人のみであり、それ以外の御歴代上人が「国立戒壇」と仰せになったことは一切ありません。