御遺命守護の戦い(P2・3・4)

 彼はたちまち国立戒壇の大目的を放棄して批判を逃れようとした。しかし国立戒壇を否定すれば、それに替るものを建てなければならない。ここに正本堂の誑惑がなされたのであった。

 次の彼の講演はこの間の事情をよく物語っている。

 「戸田先生も我々も一時『国立戒壇』といってきました。どこを捜しても御書には『国立戒壇』ということばは無いのです。いまの評論家どもは「創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』と云いますが、私は何をいうかと云いたい。そんなことは御書にはありません。彼等はなにもその本義を知らないのです。猊下が正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります」 (聖教新聞40・9・22)と。

 この中にあるように、この誑惑をなすに当って池田大作は猊座の権威を利用したのであった。悲しいかな時の管長・細井日達上人は、この悪義を摧きもせず、かえって迎合し、正本堂を御遺命の戒壇と承認したのであった。

 この承認を取りつけた池田は、誑惑を愧じるどころか、声を大にして自らの偉業を誇った。
 「本門戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上達成される段階となった。七百年来の宿願であり、久遠元初以来の壮挙である」(立正安国論講義41・7月)
 「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年史上空前の偉業なり。詮ずる所、正本堂の完成を以て三大秘法ここに成就し、立正の二字すでに顕現せんとす」(発誓願文42・10・12)と。

 まことに鹿を指して馬と云うごとき欺瞞である。しかし時の管長の権威を背景とした権力者池田大作の言葉であれば、宗門一千の全僧侶は犬が主に尾をふるごとく、先を争って池田に諂いこの誑惑を讃歎した。その二・三ここを挙げれば

 藤本栄道宗務院庶務部長(当時)云く
 「私共は子供の頃から広宣流布とか戒壇建立とかの言葉を常に耳にし、口にしながらも、何か遠い未来の夢の如く考えておったものでありますが、それが私共の時代に、先づもって戒壇建立の実現を見ることができるということは、本当に身の福運を感ぜずには居られません」 (大日蓮42・11月号)

 椎名法英宗務支院長(当時)云く
 「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ』との、宗祖日蓮大聖人の御遺命がいま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか」 (同前)

 菅野慈雲宗全議員(当時)云く
 「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、二祖日興上人より代々の御法主上人の御祈願せられて来た重大なる念願であります」 (同前)

 なんたる無道心の諂いであろうか。高僧にしてこの有様である。七百万学会員はもとより池田の言葉を信じ切っている。かくて日蓮正宗において「国立戒壇」の四文字は禁句となり、正本堂は御遺命の戒壇となり了(おわ)ったのである。
 これまさしく大事の御遺命の破壊である。