学会本部襲撃事件

浅井 御遺名守護の戦い での醜い言い訳

「『なぜ正々堂々と出てこないのか』と、北条浩を糺弾するため、十月四日男子部幹部数十名が学会本部に赴いたところ、これを事前に察知して待機していた特殊部隊が、一斉に襲いかかってきた。そのうえ彼等は日ごろ馴れ合いの四谷署に通報して、妙信講員が暴力を振るったと偽り、全員を逮捕させた。さらに宗務院はこれを理由に、妙信講の首脳幹部三十三名を除名処分にした。すべては山崎・桐ケ谷等、学会弁護士の悪辣な策謀であった。」
(御遺命守護の戦い199ページ)

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十月四日、午後五時半前、通勤ラッシュで混雑している信濃町駅に青年達が三々五々集ってきているのを、通りかかった学会本部の職員がみかけました。

青年達はいつもと様子が違いビラをもっておらず、今日は生命がけだ″ 思い切ってやるんだ≠ニ血走った目でひそひそと許し合っていましだので、危険を感じ、本部に帰って報告しました。

一方、外苑通りの曙橋近くに住む学会員から、五時過ぎに妙信講の看板をかかげた宣伝カーが信濃町方向に走り去った旨通報がありました。

 報告を受けた当日の警備責任者は、ただちに四谷警察署に連絡をとりました。
警察署では、これまでの元妙信講の行動からみて危険と判断し、ただちに制服の警官を派遣して学会本部を警備する旨と、騒ぎに巻き込まれないため、いついかなる場合も学会側は、手出しをしないようにとの厳重な注意を伝えてきました。

警備責任者は、この指示に従って外の警備は一切警察に任せることにし、急いで門扉を閉め、帰り仕度をしていたり、残業中であった職員のうち男子約七十名を集め念のため建物内部で各人ロを固めました。

 六時前になると制服の警官約三十名が到着し、門の前と庭に配置して警備につきました。
これとほとんど同時に、鉢巻姿で目をつり上げたものものしい青年連が、ぞくぞくと学会本部前に集合し、八十名をこえる勢力になり宣伝カーも到着して門の前で気勢を上げ始めました。
警察の話によると、警察が首謀者に対し、無届けの集会やデモは違法であり、ただちに解散するように警告したところ、北条に会いにきた″というので、更に、大勢で押しかけるのはよくないと諭したところ、代表二名だけでもよいから会わせろ″といったそうです。

 そこで、騒ぎを防ぎたいとの配慮から、その旨を警官から学会の警備責任者に伝えたところ、北条氏も、主だった幹部も昼間から会合に出かけて、警備責任者と一部職員しかいないとの回答でしたので、その旨、首謀者に伝えたそうです。
すると、首謀者らは何事かひそひそと打合せをしていましたが、六時半頃、突然、首謀者の長岡孝志が「会わないなら今日は実力で会うぞ」とマイクで叫び、「かかれ!!」と号令しました。
これに応じて、門扉の前などで構えていた数名が、いきなり扉や塀によじのばってのりこえ、学会本部の構内に不法侵入すると、勝手にかんぬきをはずして扉をあけ放ち、仲間を誘導しました。
そして、幹部を先頭に数十名が暴徒と化して構内になだれこみ、総合案内所の守衛が制止するのを突きとばし、はねのけて、一隊は隊列を組んで正面階段をまっすぐにかけ上がって文化会館入口に殺到し、一隊は、総合案内所を取り囲んで制圧しようとしました。
それは、あっという間の出来事で、号令一下、統制のとれた計画的な行動でした。
そのため、よもや警官の見守る前で、このような大胆な犯行には及ぶまいと考えていた警察関係者もまったく虚をつかれ、一時、茫然と見守っていたほどでした。
一隊は、またたく間に文化会館入場口に差しかかり、先頭が扉に手をかけて引きあけ、中に乱入しようとしました。

 学会側は、はじめから警察の指示を忠実に守り、かえって挑発になってもいけないと考え、建物から一切外へは出ておりませんでした。

又、前庭にも警官がいて警備に当っていましたので安心していました。

 ところが、警官の制止も間に合わず、あっという間に建物に乱入されそうな事態になりやむを得ず扉の中にいた十数名が、身を挺して押し返しました。
しかし、暴徒と化した青年達は、三度、四度と扉をこじあけ、無理矢理乱入しようと試みました。

文化会館は、本来、会員の集会、行事のための建物として設計されており、入口を突破されると、ただちに、大切な御本尊の安置されている広間まで危険な状態になります。

そこで、執拗に乱入を試みる大勢の暴徒を阻止するため、やむを得ず入口から押し戻そうとしたところ、暴徒の側から本部職員を突きのけ、殴りかかる等の暴行が加えられました。
本部職員はこれにひるまず、階段の下まで暴徒を押し戻すとともに、規制に動き出した警官と協力して五十名ばかりが各入ロから前庭に出て暴徒を門外に押し出し、門扉を閉めました。

 ところが、中に残った数名が、更に、″北条に会わせろ″等とわめいて暴れるので取押えにかかっているうちに、暴徒は再突入をはかり、門の外にあった宣伝カーを動かし、エンジンをふかして門扉に二度、三度と体当りの衝突をさせました。
このため、鉄のかんぬきはねじ曲ってはずれ、鉄のつっかい棒も壊され、頑丈なちょうつがいのつけ根もひびわれるような状態で扉ははげしく突破られてしまい、宣伝カーとともに乱入した数十名の暴徒は、今度は、本部職員や警官に激しくつかみかかり、おそいかかったのです。

このため扉を押えていた職員数名が鉄扉と塀の間にはさまれそうになり、生命の危険にさらされた他、職員十数名が暴行を加えられて負傷しました。
又、建物や施設のあちこちが破損されました。
荒れ狂う暴徒達に対し、警官と職員は必死に防禦しました。
警官が主に首謀者の逮捕に向かっている間、職員達はカを合わせて暴徒の大部分を再び門の外に押し出すことに成功し、こわれた扉を閉めて押えました。

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  首謀者は有罪に

 このようにして、三十分間余り学会本部に乱入して乱暴ろうぜきの限りをつくした暴徒は、首謀者のだれかが∴きあげろ″と号令をかけたのを合図に、連絡者と門内に残った者以外は、一斉に信濃町駅の方に引あげて行くところを、出動した機動隊に全員検挙されました。
又、前庭に残った暴徒も全員現行犯逮捕されました。

 結局、この事件で、元妙信講の青年達のほぼ会員数十名が検挙され、うち逮捕者十数名、検事勾留されて取調べを受けた首謀者は長岡孝志、村岡長治、本間豊というありさまでした。

これに対し、当然のことながら、学会側は正当防衛行為に徹したため、一人の検挙者もありませんでした。

 この事件で、双方に負傷者が出ましたが、ことに本部職員は、暴徒から殴る蹴るの暴行を受け、十六名が負傷し、医師の診断と治療を受けました。

又、門扉、塀、看板、照明施設等、合計十数箇所が暴行により破損されました。

 この事件は、一般紙に大きく報道されましたが、いずれも元妙信講の暴力性を浮きばりにした内容でありました。

その結果、暴力集団元妙信講のイメージが宗内外に明らかになり、当然のことながら、非難が浅井昭衛らに集中いたしました。
自業自得とはことでありますが、浅井らは卑劣にも、事実をことさら歪曲することによって体面をつくろおうと試み
仕掛けられたわなだ″ 
武器をもった五百人でふくろだたきに合った〃 
暴力をふるったのは学会だ

等ととんでもないことをいいだし、あつかましくも機関紙等にまで掲載するありさまです。

盗人猛々しいとは正しくこのことです。

しかしながら、このようなことで世間の日はもちろん、警察や検事の目もごまかすことはできようはずはありません。
又、事件直後学会側はただちに、四谷警察署に、暴徒達を建物不法侵入罪、器物損壊罪、暴行罪、礼拝所不敬罪、強要罪等で告訴、告発(資料12)いたしましたごしれにもとずき、厳しい取詞ぺが行われ、関係者はいずれも、罪状を自白しました。
その結果、首謀者三名が建物不法侵入罪、器物損壊罪で起訴され、有罪が確定しました。
残りの者については、有罪ではあるが、悪かったと改俊の情を表明していることでもあり処分は留保されたということであります。

 このように前代未開の悪質な犯行ほ、浅井昭衛や村岡長治が後に話をこしらえて述ぺているような偶発的なものではなく、慎重に謀議を重ねた上の計画犯行であることは、すべては状況証拠が物語っています。

 既に、昭和四十七年当時、浅井昭衛がさかんに流血の惨事を引おこすぞと宗務院や学会を脅迫していました。
いったい何をやる気かと問いただしたところ、
青年数百名で総本山や学会本部に押し入り、座りこむ。
当然排除しようとする学会青年と争いがおこり、流血はもちろん、人が死ぬこともあり得る。
その結果、世間の耳目をしよう動し、事は法廷に持ちこまれるであろう。
そこで、公廷及び国民注視の中で国立戒壇論を述べるのである
とくりかえして述べておりました。


昭和四十九年四月にも、同じく宗務院に対し、
無条件で登山を認めよ、さもなくば、学会本部に押しかけてさわぐ。
何がおこっても知らないぞ

とおどしをかけておりました。


即ち、浅井昭衛は、常にいわゆる非常手段、最後の手段として学会本部襲撃を考え公言していたのであり、解散処分をはじめとする宗門からのきぴしい糾弾に対する報復として決行したものであることは明らかであります。

 これを裏付ける証拠として、更に、当日浅井昭衛に会った八木直道(十月十四日濱付処分を受けた)の話があります。

 八木は、前日の十月三日御法主上人猊下より種々不心得をさとされた際、一度浅井に目通りを許してやって下さい″と懇顧しました。
猊下は、″浅井が過去のことを反省した上で謝罪し、今後、国立戒壇を文書にしないと約束するなら考えよう″と大きく包容されました。
八木ほ早速翌四日、元妙信講本部に出向いて浅井に会い、この話を伝えました。

 ところが、浅井をはじめ幹部らは当日の襲撃の準備で忙しく立ちまわっていてごたごたしており、落着いて許しできなかったのみか浅井は八木に対し猊下があのようなこと(元講員に対する説得の親書(資料8・9))をなさるから、今日のようなことをするのだ
その旨よく猊下に伝えてほしい″とごう然と言い放ち、猊下の御慈悲に応えようとする気持はみじんもないばかりか、猊下のなされたことに対する報復として当日なぐりこみをするのだと宣言したのです。

これは、八木から宗務院関係者に対し、正確に伝えられた話であり、八木も困ったことだと言っていたのですがそれにもかかわらず十月十三日元妙信講本部に出かけて行って猊下を中傷する話を公表したため、擯斥処分む受けたものです。

 このような意図のもとに、浅井昭衛は、青年達を実力行動にかり立てるようなアジ演説を常に行い、九月には青年部の幹部が血判を押した宣戦布告書を学会本部に届けるなどして兇暴な群集心理を盛り上げて来ました。
そして十月三日夜、会合のあと青年部の幹部を集めて、長岡、村岡ちが学会本部襲撃計画を発表し、スケジュ−ルや担当を決めた上で翌日準備し、夕方の犯行にのぞんだものです。

何人かが塀を乗りこえ侵入して門扉を開け、宣伝カーを突入させるとともに全員が横内に入りこみ、座り込んだり建物に押入って面会を強要する、といったことは、既に前夜から決められていたということです。

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 事前謀議は明白

彼等の誤算は、警官隊の出動が予想外に早かったということでした。
そして警官が、仲に入る形をとったため、はじめのうちは、これを尊重せぎるを得ませんでした。
ところが構内には、人気がなく、手薄に見えたことから、首謀者は当初の計画どおりに決行することに決めたようです。

 なぜなら、丁度、周辺警備に当っていた本部職員二人が、通行人とも、又、一味ともつかぬかっこうで、首謀者らがひそひそと話し合っているところに近寄ったところ、長岡らは中にはだれもいないぞ。チャンスだ。やろう〃と打合せをしていたのがきこえました。
その直後、長岡が、マイクでかかれ〃の号令をかけた、という事実が裏付けております。
そして、号令一下、門扉の前に待機していた青年が、ある者は踏ふ台になり、あるものはこれに足をかけて扉によじのぽるという、まことに整然とした行動をとりました。

従って村岡長治が言うような、中から学会員がやゆし、挑発する言動があったようだ〃などということはまったくの作りごとで、最初からの筋書どおりの犯行であることは、中に学会員の姿がほとんどみられなかったことや、号令一下の行動形態からみて極めて.明々白々であります。
そして、ひとたび犯行に移るや群集心理に流されて手段も行動もー段とエスカレートしてしまったというのが真相のようです。
日頃から
この十月も先生の御命令のまま、全てを抛って戦い
抜く決意″ (十月十日顕正新聞) 
先生より「命を預
けよ」と御命令下った以上……″ (九月二十五日同紙)
と、浅井昭衛の命令一下であれば、どんなことでも生命がけでやると公言しつづけている青年達が、浅井昭衛の命令なしに、このような大それたことをすることの必然性は全くありません。


 浅井の命令だかからこそ、正に、命を的にやったと考えぎるを得ません。
浅井らは、学会本部襲撃事件に至った動機について、
北条が、妙信講誹謗の記事を掲載した大白法を匿名で多量に妙信講に配布した″ 
内事部より元講員におかしな手紙(猊下の御慈悲あふれる親書を指す)を送った〃
学会が宗門に圧力をかけて妙信講を弾圧した″
等と言って、これを糾弾するために押しかけたと言っております。


 しかし、これはまことにこっけいな、筋のとおらぬ理屈です。

まず第一に、浅井らが言う妙信講誹謗の記事を掲載した大白法″のことです。
およそ、猊下の御説法や宗務院の院達を信徒に等しく知らせてあげることは、宗門として当然の行為であります。
従って、大日蓮だけでなく、法華講達合会の機関紙である大白法に掲載することは、これ又、当然のことであります。
元妙信講は本来、連合会に所属していましたが、勝手な行動ばかりとるので、事実上とび出した形になっていますが、法華講支部を名乗っていた以上、名目的には連合会傘下にあったといってもさしつかえありません。
浅井らが勝手につくった機関紙で、事実を曲げ、宗門の指導に反する内容しか掲載しない上、講中が解散になり、依所のはっきりしない元講員に対して真実を知らせて正しい信仰につかせるべく指導することは宗門の権利でもあり、宗門が元講員に対し大日蓮や大白法を読ませてあげたいと考え、配布することに、だれからも、何の文句もつけられるぺき筋合いはありません。
浅井沼衛らの言うことは、結局、猊下の御指南や宗門の通達を元講員に知らせることがけしからんということであって、これほど理不尽な横車はありません。
これは猊下の御指南や宗務院の指導をきくな、浅井個人の言うことだけ信じろ″ということであって、これでは、日蓮正宗ではなくて、″昭衛教″とか、日蓮昭宗?〃とでもいう他ない別個の教団であります。
さもなくば、猊下や宗門に講中に手を出すなというような理屈はなり立たないはずです。

 又、浅井らは常とう手段として、青年が多勢で一人をとりかこみ、暴力的な行動でつるし上げて屈服させるという方法を用いますが、連合会の若井氏に対しても同じ方法を用いて、無理矢理に事実と違うことを言わせました。

北条氏は、宗務院よりの指示により、元妙信講処分の経緯について学会員にも理解させるよう大白法を学会幹部に読ませるため受取ったことはあります。
これは全部学会員に配布しました。
従って、元妙信講員に対する配布は、宗務院において、宗門の権利として行ったことであり、何も学会の手をかりることも名前をかりることもありません。

 また、猊下の親書云々にいたっては、本当に恥知らず、恩知らずとしか言いようのないまさに頭破作七分の者の言いがかりです。
講を私物化せんとする浅井の本心を露骨にみせた振舞いとしかいいようがありません。
元講員は、御本尊を信仰し、猊下の御指南を仰いで修行し、成仏するために入信したことを知るべきであり、猊下がもったいなくもわざわざよぴかけられるという尊い御振舞いに暴力行為をもって報復するとは、もはや当宗信徒ではなく、最大の謗法者であると、断ぜざるを得ません。

とにかく、目的のためには手段を選ばぬという本質を暴露し自ら墓穴をほったのが十月四日の襲撃事件でありました。
その結果、浅井らが受けた打撃は相当のもので、今は元講員の動揺と離脱をふせぐためにあの手この事とやっきになっております。
事実、襲撃事件以後、宗門の通達に従って所属がえを申し出る者が出ています。

 こうした事態を招いたのも、浅井にとっては自業自得と言えましょうが、可哀相なのは、何もしらずに盲従させられ、事件に参加してけがをした上、留置場に入られたりした青年達であります。
浅井昭衛はこれまで今にも自分が腹でも切るかのような言動をしていましたが、今回のようにいざ実行となると、責任の一切を青年達がかぶることになってしまいました。

 それも、事件の直後に四谷署に行って自分をつかまえて皆を出してくれ、責任は自分にある″等と見えすいた浪花節を演じながち、(そんなことが刑事訴訟法の手続上できようはずがないことは、だれでも知っています)取調を受けた際は抗議に行けとは言ったが乱入しろとは指示しなかった″等と言いのがれています。

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  暴力行為は取調調書に歴然

 流血の惨″などとさんざん青年をあおり立てて行かせれは何がおこるかぐらいは一寸考えればわかります。
本当に事件を起す気がなけれは自分がついて行って指示すべきでしょう。

 事実、七月から八月にかけて学会本部に抗議に押しかけて来た頃は、浅井昭衛、信衛らも来て、後見をしていました。
それが今回のように大きな犯行のときには出て来ないというのは、まことにつじつまが合いません。

 おかげで、長岡、本間、村岡の三名の青年が首謀者として一切の貴任を負い、刑に服したわけですが、この三人も青年らしからぬ二枚舌をつかいわけているのにはあきれます。

彼らは取調を受けた際には、やったことは悪かったと非をみとめています。
ことに首謀者である長岡青年部長は当局の取調に対し

『妙信講青年部の行動は、普段は
  青年部長である私
  村岡男子部長
   鈴木男子部幹事
 の三名で協議して計画を立て、浅井理事長先生の承認をいただいて行っております。

 十月四日の創価学会に対する抗議行動については、私が発案−−
  村岡男子部長とともに理事長先生の承認をうけ
、さらに私と村岡さんと二人具体的事項について協議し、班長会で指示して、行ったものでありますが、このことについては次に詳しく申し上げます。』

計画性を自供し、


▼『一、私はいかに主張が正しいとはいえ、このように法を犯して創価学会の敷地内に入り多くの負傷者まで出してしまい、本当に申訳けないことをしたと思っております。

 このような結果になったことは私の全責任であり、貴任をとりたいし、また、二度とこのような違法なことはいたしません』

と泣きを入れています。


又、

▼『私は今回の費任をとって青年部長も辞任するつもりであ
りますが、後任者にも違法行為は絶対しないようによく引継ぎ申し送るつもりです』

とまで述べているのです。


又、有罪の決定に対し、異議の申立もせず刑は確定し、唯々諾々と罰金を払っております。
学会の物をこわしたことについては弁償したいとまで云っているのです。

 ところが、ひとたび講員の前に出るや
暴力を振ったのは創価学会だ″だとか、
”戦闘服に身を固め兇器をもった五百人に袋だたきにされた″
挑発された”
わなにかかった″
等と、言いたい放題のこと言ってています。


 現場には、学会本部職員が七十名位しかいなかったことは、警察でも確認していますし、証拠の写真からも明らかです。
もちろん、兇器など一切もっている姿はみられません。

おそらく自分達はとんでもない悪いことをしている″という罪の意識におぴえた目には数十名が数百名に写ったのかも知れません。
しかし、本当に五百名が武器をもっておそいかかったら、死人もなければ重傷者もないというような結果に終ろうはずがありません。
″講釈師見て来たようなウソを言いという川柳がありますが、それは浅井昭衛で元妙信講青年部の中心者は、見てきてもなおウソを言うのですから始末におえません。

更に挑発があったらしい″などとはよくもぬけぬけと言えたものです。
九月中、毎日のように宣伝力ーやデモで学会本部に来て、これほど言われてくやしくないか、出て来い″などと、何とか学会を事件にまきこもうと挑発のかぎりをつくしたのは元妙信講であり、これに学会がのらなかったため、焦って墓穴を掘ったのが自分達ではありませんか。

 又、取調のときは、今後二度とこういうことはしません≠ニ言って寛大な処分を求めながら、去る十二月十五日の男子部会では、しょうこりもなく浅井先生の命令が下れば、いつでも命をかける″と開きなおっています。
彼らは宗門や学会は権力に屈して国立戒壇を曲げた″などと攻撃していますが、自分達は、たかが暴力事件の処分をおそれて取調官の前で頭を下げ外へ出ると手の平をかえすのですから笑止千万であります。

 この二枚舌は、浅井昭衛も同様です。
即ち、取調を受けたときは、

『今までも暴力はいましめていたように、今後も妙信講は暴力はかたく否定して参ります。
いかなる事があっても暴力をふるうことのないよう指導していくつもりですからよろしく御顔い申し上げます』


と述べているのです。


 それが二言目には流血の惨″とか実力行使を口にし、妙縁寺新住職を集団暴力でおぴやかした同一人物とは誠に恐れ入った次第です。

師弟ともども二枚舌には恐れ入りますが師匠をかばうためとはいえ、青年の純粋性も正義感もなくして、ずるい策略をもてあそぷことが、将来どれほとみじめな良心の苛責に本人が苦しむ結果を招くかと思うと哀れでなりません。
それにしても、青年達にこのような無惨なことを強いる指導者に何の反省も見られないことは、まことに破廉恥であります。

 浅井らは、学会の弁護士がいたことや写真をとったことを用意周到だとか、仕組んだ仕掛だとか悪口しています。
しかし、顧問弁護士は、たまたま別の訴訟事件の打ち合せのために午後三時頃から本部で会議中でありました。

 弁護士という職業上、又、訴訟の打ち合せという性質上、既に一カ月も前から期日もきめていたことであり、その日に急に集めたのではないことは、各弁護士事務所の日程表にも明らかです。

 襲撃を二階の窓から、あるいはじかに門の付近で目撃した弁護士達は、
こんな乱暴な襲撃は初めて見た。
自動車で人をひき殺そうとして問題になったのは、羽田空港事件であるが、今回のように自動車を門にぷつけて直接の兇器に使うという悪質な犯行は前代未開だろう”
と語っていました。


 そして、いつでも、とこでも証人に立つと言っております。
又、騒ぎと共に近くの聖教新聞社から急きょかけつけたカメラマンが現場や本部前の青年会館の屋上から証拠の写真を撮りました。

これは従来、なにかというと浅井昭衛が事実を歪曲して来たことから、そのような手段を封じるぺく、とっさの判断で行った措置であります。
この判断が正しかったことは、既に述べた歪曲のすさまじさから証明されました。

 写真を御覧いただければいずれも、村岡らが機関紙等で言っていることが嘘であることを証明していることが明らかとなります。
もちろん、警察庁の捜査の結果も同じであることは、処分の結果を見てもおのずから明らかでしょう。
 
とにかく、本部″と呼ばれるところを攻撃するには、あまりに乱暴な馬鹿げたやり方であり、そうした自分達のおろかさ加減をたなに上げて、相手を陰謀呼ばわりするとは、まことに笑止千万であります。

おそわれた方は、危険となれば、それこそ命がけとなって正当な防衛をすることは、当り前であってこの正当防衛ということは、大昔からどこの国でも刑法で認められていることです。

 これに文句をつけること自体、泥棒が侵入しようとした家の戸じまりや、番犬を批難するようなものでまことにナンセンスとしか言いようがありません。

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元妙信講幹部除名処分

こうした事件を起こしては、宗門としてももはや放置しておけず、やむなく、首謀者三十三名を除名処分(資料11)に付しました。

 これに対し、浅井らは、あくまで処分を不当として、法定で争う構えをみせております。
そして、浅井と腹を合わせ、ぐるになった元妙縁寺住職松本日仁と陰謀をめぐらし八百長裁判で地位保全の仮処分をとり、これを足場に、舞台を妙縁寺に移して、宗門かく乱の策謀を続けています。

かつて1ケ月以内に学会は音をたててくずれるとか、大聖人の御遺命を実現する者は、妙信講以外にない〃と大見得を切っていたのが、今や四百余ケ寺の中ただ一つに必死にとりついて、下劣な策謀をこらしているのですから笑止千万であります。

浅井の予言はことごとくはずれて、あてにしていたマスコミものらず、焦りから出た暴力路線によってみずからの首をしめ、残るは法定闘争とばかり、さかんに意気こんでいますが浅井らの非道なことは、仏法上既に明らかであるのみならず、やがて、国法上でもはっきりすることであります。

 今年に入ってからは、御本尊下附もできないのに、浅井が御授戒をして、数ばかりを追う折伏を講員に強要しているようですが、結集の数は減っていく一方です。

又、浅井のかってないいがかりである「御内意云云」も通用しなくなるや、増上慢の本性をむき出しにして、
「猊下は間違っている。
二十六箇条に時の貫主為りといえども仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事とある」
などと言い出したのです。

 そして、猊下をことさら無視し、「大聖人の御在世に還れ」などと言い出す始末です。
大聖人が令法久住の為に御指導なされた唯授一人の血脈ということを浅井父子はその増上慢の為にどうしても認めようとしないのです。
「大聖人の御在世に還って」自分だけが血脈があろうとでもいいたいのでしょう。

 そういえば「自分は中島師からの血脈をうけた」と言っていたということです。
もはや勤行の仕方まで自分の気に入るようにさせ、御書も自分の気に入ったものだけを読ませる新しい宗派にすぎません。

 そして、山鳥派や完器講がそうであったように、やがては、浅井派も広宣流布史上の汚点として記録される事でしょう。
その日まで、浅井らの天才的な嘘に迷わされることなく、又、その暴力による威圧等に屈することなく、あくまで猊下の御指南に従って異体同心、純真な信仰の道を進まれんことを望んでやみません。