「国立戒壇」について追求する
浅井昭衛はこの「国立」という定義についてブレブレである。
まずかつてこう言っていた。
▼「まさに『本門の戒壇』とは、一個人・一団体・一宗門が私的に建てるべきものでなく、一国の総意に基づき、国家的・公的に立てられるべき性質を有しているのである。
ゆえに日蓮正宗においては、七百年来この時の来るを待ち、私的に建てることは考えることさえしなかったのである。
そして日蓮正宗においては、この「本門の戒壇」のかかる特質に鑑み、これを端的に「国立戒壇」と呼び、宗門唯一の宿願としてきたのである」
(「富士」168号 A) 昭和52年8月号
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ところがその後、これに矛盾する発言をし変節している。
▼「私も、広宣流布の時の本門戒壇建立に際しては、国費だけでなく全国民の自発的な御供養があって当然だと思う」(顕正新聞 平成二年一月十五日号)1990年
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さらにこの発言より半年後、また変節した。
▼「『国立戒壇』とは、国費によって立てる戒壇の意ではない。」(なぜ学会員は功徳を失ったか 188頁)初版発行 1990年8月
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字句の意味 辞書から
国立 = 国家が設立し、維持・管理すること。
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では顕正会本部職員・教学部委員浅野君に詰問する。
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○ 次に示す中に、国費および国家の運営と無関係なものはありますか。
国立競技場・ 国立博物館・ 国立国会図書館
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○ 国費とは無関係でありながら「国立」と称している施設などはありますか。
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○ 顕正会でいう 「国立戒壇」 とは、「国費」とは無関係なのでしょうか、
それとも、「国費」から拠出されるものなのでしょうか。
その場合、何割位「国費」から捻出されれば「国立」と呼んでいいのでしょうか?
また、その算出の教学的な根拠を御書を示して証明してください。
さらに質問です。
広宣流布暁の事の戒壇(事相における戒壇)は
国費で建てるのですか?それとも国費とは関係ないのですか?
顕正会教学部の答え 想定
▼ 国費で建てる → 浅井先生が云っていることと違う師敵対行為ですね。(文証・なぜ学会員は功徳を失ったか)
▼ 国費とは関係ない → 浅井先生が云っていることと違う師敵対行為ですね。(文証・「富士」168号 A 顕正新聞 平成二年一月十五日号)
さあ、どうしましょ。まさに絵に描いたような「矛盾」ですね。
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まとめ
「国立」 とは 「国家が設立し、維持・管理すること。」 である。
それが日本語として万民が認識している常識である。
もし、浅井の主張する「国立戒壇」の「国立」がこの定義と違うのであれば、それはもはや日本語の「国立」ではなく、浅井教の浅井語としての妄想的・独断的な「国立」という語句の偏向定義であり、それを強引に使用すれば、まさに徒に世間に誤解を与え、正当な広宣流布の妨げとなる。
浅井昭衛は、御書の一文一句に捉われ、「国立」という皮相的な概念に執着するあまり、実質運営面での「国費」という観点において、全く矛盾破綻を犯しており、上記のごとく支離滅裂で定見のない状態に陥っているのである。
見識のないこんな者が、本来、唯授一人・血脈相承で御法主上人にのみ伝持されている三大秘法の深義を云々することすらおこがましい。小賢しい。
思い上がった慢心者の典型である。