昭和44年 昭和39年以来5年ぶりの登山参詣がやっと許される

その時 浅井昭衛は大化城のある部屋の扉を閉鎖させて S44/1/7 大化城指導会 を行った。
浅井昭衛発言 ▼「正本堂が御遺命の戒壇とはとんでもないことである(試練と忍従の歴史 P73 P75 P76


ここでよく考えれば矛盾に気付くはずである。
浅井昭衛に言わせれば、昭和40年2月16日に日達上人は御遺命破壊の御指南をしたことになる

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根拠↓
▼ 国立戒壇が突如として否定された。しかもそれは総本山の日達上人の発言によってである。
時は昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において
同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされたのである。
正本堂が、大聖人御遺命の「本門戒壇」に当るとすれば、その外に将来国立戒壇が建てられるということはなくなる。
まさに
この説法は、国立戒壇の事実上の否定を目的としたものであった。冨士昭和五二年八月号
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ということは浅井昭衛の言い分では 「日達上人は御遺命破壊の大謗法の法主」 ということになる。
ならば、その法主が導師をされる御開扉に参加することは完全な謗法与同ではないか。
浅井昭衛はじめ同時に御開扉に参加した妙信講全員、大謗法与同の大罪をおかした。ということになる。

さ、この大自己矛盾はどう反論できるのか?
浅野教学部委員の鮮やかな反論を楽しみにしている。