■ 浅井父子、放浪の軌跡

元妙信講ほ浅井甚兵衛らが中心となって昭和十六年に結成された講中であります。
浅井甚兵衛の教化親は、今は亡くなられましたが白須郁三という方で、この折伏により人信しました。
それは昭和五、六年頃のことでした。
当時、白須氏は、妙光寺の熱心な御信者であられましたので自然に浅井甚兵衛も妙光寺の信徒となりました。
ところが浅井甚兵衛は、事業の失敗から夜逃げにつぐ夜逃げを繰り返し、信心どころのさわぎではなく、ついにその行方は教化親の自素氏でさえもつかむことが出来ない状態になりました。
そのうち、昭和七年に当時の妙光寺御住職有元日仁師の尽力によって豊島区に妙光院(現妙国寺)という教会が設立されました。
それにともなって妙光寺の信徒の幾分かは妙光院に移ることとなり、白須氏も妙光寺を離れ、妙光院の信徒になられました。
そこで白須氏は講頭となり、当時の御住職大石菊寿師と共に、信徒の拡張を計ったのです。
そこで白須氏は、かつて自分が折伏した浅井甚兵衛も立派な信者にしなくくてはと思い八方手を尽して夜逃げ先を当りましたところ、信心活動こそしていませんでしたが退転することなく、妙光寺に所属していた講中の一つである、鈴木作次郎氏の率いる目白講に所属していることがわかりました。
そこで白須氏は浅井甚兵衛の当時の住居が妙光院に近くもあるし、教化親の自分が妙光院の講頭をやっているので、手元において指導した方が長いと考え、妙光院住職大石菊寿師に御相談申し上げ、目白講に頼み込んで、妙光院の信徒にしたのであります。
そこで甚兵衛は御住職の薫陶をうけ、白須氏をはじめ、やはり妙光院の信徒でありました内山ワカ氏等の暖かい指導の下に正宗信徒として成長していったのです。
その功徳により仕事の方もかつてのように夜逃げをしなくてもいいようになり、段々順調にゆくようになってまいりました。
それと同時に教学も種々教わり、又、自分でも勉強し、正宗の法門を少しぐらいは言えるようになりました。
ところが三世変らぬを性というごとく、生まれ待った性格というのは恐しいもので、段々と増上慢と野心があらわれてきました。
そして遂には教化親の自須氏に対しても、〝お前は、教学は私より下だ″とか言って馬鹿にするようになり、聞きかじった法門を自己流にひけらかしては講頭としての自須氏の面目をつぶすような事ばかりをするようになり、妙光院信徒の団結を乱すような行動をとりはじめました。


そして是が非でも講頭の地位を得ようと思い種々の策謀を試みるようになりました。
そこで住職も見過しできず、甚兵衛に対し、仏法の道理を話し、世間法の上からも甚兵衛のとっている行為は不知恩の者であるし、天狗になってはいけないと話しました。
ところが、全身これ増上慢の固りとなっていた甚兵衛は住職の真心こもる指導にも耳をかさず、剰え逆恨みし、住職の悪ロさえ方々に行って吹聴するようになりました。
そこでついに住職もサジを投げ、教化親の白須氏もあきれはててしまいました。

しかし妙光院の信徒は、住職を尊敬し、白須氏のもとに寺院発足の当時より盛り立てて苦労を分ちあった同志でしたので甚兵衛如きが食い込む余地もありませんでしたので、甚兵衛も妙光院の講頭となることをあきらめてプイと妙光院をとび出してしまいました。

そしていつの間にか旧知の縁を辿ってチャッカリと妙光寺の信徒におさまりかえってしまいました。
そこで同志を募り妙信講を結成し、永年の夢であった講頭の地位を確保することができたのです。

しかし当時は、講頭といっても絶大な権力がある訳けで無く、わずか六、七名の平等の力を持つ同志の集りでありました。
しかし念願の講頭という名を手に入れた甚兵衛は色々と手段を試み妙光寺で権力を振うべく努力致しましたが、伝統につちかわれた妙光寺の大先輩達にかなう訳がありません。

炒光寺には当時、蛇窪、三ツ木、大平、独一、統一、正宗本門講、それに新進の自白講という強力な信徒の集団があり、それらを率いる講頭達は昨日今日のポッと出た者と違い信心強盛であり、皆人望の厚い人々でありました。
そこでまたしても、甚兵衛は自分の非力さを知らされ、挫折の念に襲われたのです。

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■ 妙光寺から法道院へ

しかし異常な程、野心の強い甚兵衛は屈することなく妙光寺をとび出し、当時新進気鋭の集団でありました法道院に日をつけたのです。
昔、妙光院時代に世話になった内山ワカ氏が妙光院を離れて法道院の信徒集団である本因妙講に属していたのも渡りに舟でした。
法道院は現総監早瀬尊能師の下に一致団結し広布に邁進しておりました。
そこに甚兵衛達妙信講員十名程が加わることになったのです。

妙信講員一人一人が素質はある人達でありましたので法道院主管も目をかけて教学も手取り足取り指導致しました。
当初は妙信講員もこれに応え、本因妙講、妙道講、実浄講等々ある中で、妙信講の勢力は次第に拡張していったのです。

当時法道院は主管自らも折伏に加わり、在勤しております青年僧侶も、在家の人々と共に勉強しながら折伏へ飛び出していっておりました。
僧侶と信徒と一致団結して地方を廻り、拠点から拠点へと折伏闘争に邁進する中で、実践派としての教学や戦法を妙信講員一人一人も、各講に属する人々も教えられ、身につけていったのです。

そうした中で甚兵衛の息子の昭衛も、はじめ素直に主管及び先輩の指導をきき信心も成長して行きました。
勉強会等でつけた教学力も次策につきこのまま成長すれば立派な信者になると思い主管も大事にしたのです。
ところがいつしか父甚兵衛ゆづりの権力欲、野心までも急激に成長させていってしまいました。
おまけに父親の悪い血をそっくりと引き継いでいますので天才的な嘘つきとなりました。


その天魔のカといいますか、口から鉄砲玉のように出てくる格好のいい言葉や、浪花節かたりも顔負けするハッタリの演技は次第に法道院青年部を魅丁するに至りました。

しかし主管としては、素直に成長してくれているとばかり思っていましたので妙信講の発展にカをかされ、妙信講の発展は法道院の発展と思い各々の講に執らわれることのない法道院信徒団体育成という大義を中心に指導されていたのです。

ところが父子二代に亘る権力欲は実は甚大につちかわれ、浅井父子は法道院などどうでもよく、自分達の妙信講の勢力拡張だけの為に頑張っておりました。
その為に他の講中の面々をライバル視し、他の講中の講頭すら蹴落とそうとしました。

例えば、妙信講の次に勢力をもっていた本因妙講の講頭に対しては、甚兵衛の心酔者であった亡くなった妙信講の某氏を使い、本因妙講の講頭が、当時、法道院で増築していた御宝蔵の責任者であった事に目をつけ、その会計に不信があるとの口実で〝賄賂を業者からもらっているのだろう″とか〝水増し請求書せているのだろう″と下司の勒ぐりともいうべき中傷を加え、失脚をもくろみました。
その本因妙講の講頭は、万人が認める、清廉潔白な方で、主管もその人望を充分御信用なされておりました。
その講頭はもう亡くなられましたが、死ぬまでそのくやしさを忘れることはできませんでした。

 このように特に金に異常なきたなさをみせるのが浅井父子の当時のきわだった特徴でした。
そうして権謀術数をもって妙信講の法道院内部での勢力は増し、法道院七支部の内三つまでも支部長を選出するに至りました。
しかしこれは、浅井のカではなく、それ程妙信講には人材がひしめいていたということです。

それに父に輪をかけた天才昭衛もまだ青年であり、今日の様に浅井あっての妙信講ではありませんでした。
むしろ、副講頭の方達の方がカはあったそうです。

 それらの妙信講の基盤のもとにっいに甚兵衛は、法道院講頭の地位を手中に収め、甚兵衛の妻が婦人部長、昭衛が青年部長という浅井一家の春を迎えたのです。
そこで持って生まれた増上慢を一挙に爆発させたのです。

この頃になると、主役は次第に昭衛に移り、甚兵衛は脇役となってまいりました。
親孝行な昭衛は、甚兵衛の永い間の権力欲と野心を満足させようと頑張りました。

 しかし、法道院は主管の力が絶大であり、いくら逆立ちしても主管には勝てません。
甚兵衛とても主管の御講の説法のあとで、せいぜいその話の内容に嫌味を言うぐらいがせきのやまでした。

 だが腹の中は完全に自分達が偉いという増上慢でいっぱいでした。
その頃の法道院は寺院規模も整っておらず、年々創価学会の折伏活動、自支部の折伏活動でふえる一方の信者の方の収容ですら満足にできないものでした。
会合にしても婚礼の控室にしても、他の法要の控室も全て本堂で行わざるを得ない状態でした。
故に主管はその充実をはかるべく増築を重ね、昭和三十二年に二階の建造を計画されました。
それをきっかけに浅井父子の法道院での権力拡大の策動が始まったのです。

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■ 法道院から妙縁寺へ

 それまでチャンスをうかがっていた父子は、その二階の増築問題にいんねんをつけることによって主管の主導権を奪おうと真向うから対決を挑んでいったのです。
それは増築に当っての会計一切を自分達にゆだねろというのです。
銭に卑しい浅井の考えそうなことですが、それは主管の金銭の用い方に対して露骨に疑ぐる様な態度でした。

僧侶に金をまかせておけないという様な浅井の申し出しに対し、さすがに主管も堪忍袋の尾を切られました。
何故に一信徒が寺院の最高責任者である住職に対し財政問題にロをはさむ必要があったでしょうか。
況や、法道院の発展の為に毎日、血みどろになって戦ってこられた主管の生き方は浅井白身が誰よりもよく知っていた筈です。

 昔信徒の代表達が集って本山に対し御供養の会計報告を求めようとした時に、当時の創価学会会長戸田城聖先生が、信者は御本尊様に対し御供養した金銭について、口をはさむ必要はない。御僧侶が信者の御供養を何んに使おうと、我々が御供養したこととは関係がない。御本尊様に御供姜するという根本精神がかけている〃と一喝され、御供養の精神について話されたことがありましたが、銭に執着る浅井父子は、御供養とは設備投資という感覚に立っておりました。
今日でも身上調査は浅井父子の得意中の得意ですが、その時はそれを露骨に出してきたのです。

 その時、妙信講員五名で主管にその申し出をしましたが主管はさすがに憤慨され、一言も発せずに奥に引き込まれました。しかし翌日、今迄ねちねちと増上慢の行為をちらつかせててきた浅井に対し、ハッキリと僧侶の生き方を申すべく浅井に電話されて、〝自分についてこなけれはそれで結構″という最期通牒をされせした。
そこで増上慢の甚兵衛はいきり立ち、昭衛の天才的な嘘つきの才能がフル回転されたのです。
自講中に対しては、主管があたかも布教を捨てたかのように〝今度、主管が庫裏を増築しようと思い何千万という大金を集めようとしている。今はそんな寺ばかりをよくする時ではなく広宣流布の戦いの方が先ではないか〃と問題点を巧みにすり替えて宣伝し始めました。
その煽動が巧妙であったため何も知らない講員は浅井の説に紛動され、主管をそのような日で見始めたのです。

 その時、甚兵衛の人望だけならば、講員はそうまで紛動されませんでしたが、妙信講の人望ある、幹部までも浅井の説にいいくるめられていた為に法道院講中は、浅井の説に同意を示す者が大半を超えました。
しかし、主管は、知る人ぞ知る、信徒と争う姿をとりたくないとのお考えからあえて一言の弁解もせず、解かる人はわかるであろうとの立場に立たれました。
そのいさぎよい態度を天才的嘘つきの昭衛はかえって利用し卑劣にも小さい頃より慈父として薫陶して下さった恩を一切忘れて、主管の人身攻撃を始めたのです。

 その内容たるや、到底普通の信者の方では想像もつかないような彼一流の卑しい発想に基づく、聞くに耐えない内容でした。
しかも、それらを口づてに自分の部下を使って流させたのです。
昭衛の手口は今日でもなりふりかまいませんが、何んとその当時、甚兵衛、昭衛とも生涯のライバルとして目の敵としていた創価学会の故戸田先生の処までも、主管の人身攻撃を宣伝するために出かけて行ったというから、おそれいります。

 今日、裏で創対連や他派日蓮宗と手を組むという暴挙に及んでいますが、当面の敵をたたくためには手段を選ばず誰とでも手をむすぷという節操の無い態度には、さすがに戸田先生もあきれはて、かえって馬鹿なことを言うんではないとたしなめられた一幕もありました。

それ程までに、飼犬に手をかまれながらも主管は大きな立場から信徒を打つことをされずたえておられました。
事実、浅井父子は、ありとあらゆる策謀の数々試みましたが、主管の人格を信望する者も少なくありませんでした。
結局、浅井の法道院のっとりは失敗におわり、自分が出ていくはめになりましたが、その時は、主管を中心に主管自らが育てあげた講中の大部分をそっくりそのままひきつれていたことは事実でした。

 何しろ行く直前には、子供達までも煽動しようとし、子供の勉強会が終り、いつもの通り本堂の清掃をしようとした子供達に対し〝寺院は信心活動するところだから掃除などしなくていいい”と命ずる程、陰険なものだったのです。

主管は、浅井父子にはまったくにえ湯をのまされましたが、一緒について行った人々の信心さえ離れなければと思い、日淳上人に取り為して妙縁寺への所属替えをお願いしたのです。
日淳上人も度重なる浅井の不祥事をよく御存知でしたので、また妙縁寺でトラブルをおこしてはと思い、ついに単独講中として成立させ、他の講中に害が及ばないようになされました。

 ところで、当時浅井と行を共にした法道院一騎当千の人材は今日、昭衛一家の台頭につれて少しつつ姿を消しつつあります。
即ち、次第に浅井ファミリーの独裁をつよめ、功のあった実力者を次々と、けおとしていって講を私物化していったのです。
とにかく妙光院をふり出しに、いろいろなものを吸収しては太った頃を見計らって外へ飛び出すという寄生虫のような生命をもつ浅井父子でした。

ところで妙縁寺所属の講中として認可の席上、当時総監であらせられた現法主上人猊下(※日達上人)も同座され、庶務部長であられた現総監の御主管も同座されて、指導教師は、当時妙縁寺任職であった松本、そして法道院主管の二名を日淳上人は付されました。
それは法道院主管の深い慈悲と、松本一人ではどうにもならないと見透された日淳上人のお考えによったものです。

 しかるに浅井等は日淳上人の御指示を勝手に曲げ、自講中に対して、松本一人が指導教師になった旨を告げて、主管との問題で真実がばれるのをふせぐ為に、法道院と妙信講を完全に切り離したのであります。

このように、自分の野心に都合の悪いことは猊下のお言葉や御指南であっても勝手に曲げたてかくしたりする一方、都合のよいことだけをとり出して講中支配の具として用いるという性癖は当時からの常とう手段でありました。

今日、猊下の御内意をねつ造したり経過や御指南を曲げているのも、何も今更はじまったことではないわけであります。

 このようにして、いつわりをもって講中をあぎむき
自分達の主導権を確立するためには講員を僧侶及び宗門と完全に隔離する必要があります。
その上で、自分達をば猊下の直命を受けた指導者の如く振舞う必要があります。
もちろん他の法華講中の影響を受けて、真相がばれ、自分達の主導権がゆらぐおそれがあります。

かくて浅井父子は、寺院及び他の講中との隔離を完全に行うとともに、自己の神格化につとめました。
そのために邪魔になる法道院以来の有力な指導者を次々とおとし入れ、排除しました。

 と同時に、みずから指導教師のごとく振舞い、その権威をうらづけるために〝妙光寺の中島師に教学を教わった。
中島師は管長代理をしていた人であり、従って相伝の内容も知っておられた
″なとと猊下の御相伝云々にまで及んだのであります。

 後日、学会幹部と対決の際、浅井昭衛は、〝猊下の御指南が間違っているという根拠を示せ″と問いつめられて、〝自分は中島師から御相伝の内容を開いて全部知っているから間違いがわかる″と述べたそうであります。
このことの証人も証拠も厳然と存在するということです。

 とにかく日蓮正宗の歴史も猊座も、他の信徒の信仰もすべて眼中になく、ただただ自分達の勢力を増し、主導権をにぎろうという野心一色から宗内を思う存分かく乱し、身勝手をしてきたのが浅井父子であったわけであります。