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▼ 浅井発言

(3)「細井管長は説法のたびに、『御相承に云く』という論法をしばしば用いた。そして前後の文を省略し、さまざまな切り文を引用したのです。『御相承』は一般僧侶・信徒の知るべからざるところだから、『御相承に云く』と云われれば、黙らざるを得ない。そして細井管長は『本門戒壇の深義は、法主意外には知り得ないのだ』という態度で、説法を繰り返したのであります。私は思い悩みました。(中略)しかし、悩みに悩み抜いたとき、、

『御相承に云く』という文の出所も、そのたばかりも、自然とすべてを見抜くことができた。
まさに大聖人様が教えて下さったのであります。
そして、本門戒壇の御聖意は、三大秘法抄・御付属状をよくよく拝し、さらに日寛上人の御指南を拝すれば明々了々。
まさに『天晴れぬれば地明らかなり』の思いでありました」  (冨士376号.p27

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■ 日淳上人の御指南

浅井が「英邁な御法主」と仰ぐ第六十五世・日淳上人(冨士367.p23

「申す迄もなく御相伝となりますれば、直接御指南の金口嫡々の御相承や宗門の上の御教示等重々あらせられると拝しますが、それは御法主上人としての大事大切でありまして、一般の僧侶や信徒としては御法主上人に随順し奉ることによって、自ら受けることができるのであります」

「此れ(公開されている御相伝書)も以って全部であると速断してはならないのであります」

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●日淳上人 教義研鑽の態度 45

 日興上人の御遺誡に曰く、

■「御書を心肝に染め極理を師伝し、若し暇あらば台家を学ぶべきこと」と、

此れ実に聖祖の教義研鑽の羅針盤たるなり。
求道者にして若し此大途を踏みはづさば遂に祖教に体達するを得ざるなり。

御書を心肝に染めざれば聖祖の御霊格に親炙(しんしゃ)し奉るを得ず。
而して極理を師伝せざれば我見に堕するを免れず。
此二途を完うして智見初めて具はるを得る。

然るに古来聖祖門下に於て御書を手にすることを知つて、極理の師伝を知らずこれを忽がせにするもののみを見る、
此れが為に我見に堕して救ふべからざるに到る。
誠に嘆ずべきである。

今日、異流百出、教学の紛乱、殆んど収拾すべからざる状態にあり、
此の趨勢、益々盛にして止まるところを知らぬ有様なるは、その依て起るところ、此の用意を忘れ、眇目(※ビョウモク 片目)を以て祖書を妄断し未得謂為得(未だ得ざるを得為りと謂う)となすが故である。


 書を読むことは容易である、しかし書物の意を把むは難事である。
教を受くるは容易である、
しかし教旨を体達するは難事である。(中略)

即ち「未だ到らざるなり」として、御書を拝すると共に極理の師伝といふことに心を置かざるべからず、
稍々もすれば「法によつて人によらざれ」の経文に執して強ちに人を斥けむとするものがあるが、此れ誤れる解釈にして「師と法と合せざれば法によつて人を捨つべし」といふなり、
師あつて法正しく法あつて師正しきを得、師言若し法に合せずとなさば躊躇することなく捨て、更に師を求むべきである。
此場合「我には遂に師あらず」といはば上慢なり
中途にして挫折するは怯懦なり、
此二者はついに道を得ること能はざるべし、
怯懦者は猶道を得る機あらんも、上慢に於ては道を得べからず。(中略)


仏法を得ざるのみにあらず、かへつて仏法を失ふものは上慢と我慢とである。
■「仏法を行じて地獄に堕る人は十方の土の如し」とは蓋し此の二慢を指すか、

上菩提を求むるものは省みて此二慢を捨離し、正法と正師とに帰せなければならぬ。(中略)


 然るに聖祖門下に於て如何にこの二慢の多きこと乎。
御書を手にして一知半解「我れ既に得たり師たり」といつて慢執天より高きものあり、
此輩、仏を破り、法を濁す、幾許なるを知らず

これこれを仏法の怨敵といふ。

求道者は師を択ぶに師伝曖昧にして、法統明らかならざるものは、悉く此類として斥けざるべからず。


 正師とは日興上人とその門流あるのみ。   昭和七年五月(大日蓮)

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●65日淳上人

仏法において正法が混乱しないように相承の道を立てて明かにされているのであります。
それでこの相承の跡を尋ねていけば正しい仏法か、間違った仏法かを知ることができる
のであります。


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仏法に於ては正法が混乱をしないやうに相承の道を立て明らかにされてあるのであります。
それで此の相承とは相ひ承けるといふことで師の道をその通り承け継ぐことであります。
それで此れを師資相承と申します。
既に師の道を承け継ぐのでありますから必らず師の証明がなければなりません。
弟子が勝手に承継したといってもそれは相承ではないのであります。

また世間では「仏書を読んで悟った」といって師弟といふことを考へない人がありますが、それは仏法の正しい道ではないのであります。

昔「経巻相承」といふことをいって「法華経を読んで仏法を相承した」と主張した顕本法華宗の祖である日什といふ人がありますが、此れは自分勝手にいふことで法華経の中には日什といふ人に相承したといふ証明はないのであります。
仏法に於ては師資相承がなければいけないのであります。

また「信心相承」などといって「信心を以て相承した」などといふ人がありますが、信心は仏法の基盤でありますが、相承はその上に於ける仏法の承継の問題であります。


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● 64総本山六十四世日昇上人
(日蓮正宗聖典「序」)

「由来法門上の異説異見は何によって起こるかといえば、機根が猶お未だ熟さないうちに自らを省みず直ちに御書の一文一義に執して妄断するからである。
即ち我見に任せて己義を立つるからである。
古来仏法に於いて相承を尊び師伝を重んずるのは一に此の弊をなからしむるためである。
聖祖は『法華経は相伝に非ずんば知り難し』と仰せられている。
蓋し仏法の奥底は相伝によって正しく理解することが出来るからである」


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