〈邪難〉 顕正会では戒壇建立の勝地を天生原と言っており、天母山などと言っていない。
〈破折〉
▼「事の戒壇は天母山に立つべし」(『冨士』昭和五十年三月号)
▼「天母山と天生原は、果たして離れた異地にあるのであろうか。(略)中心の小高い丘を天母山といい、そのふもとの広がりを天生原という。
まさに一体の地名(『顕正新聞』第四五七号)
▼「天母山と天生原とどう違うのか。天生原の中心にある小高い丘を天母山というのである。」(日蓮大聖人の仏法 改訂版 230)
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御歴代上人は「天母山」とは仰せではない。
さらに、広宣流布の暁 大石寺→本門寺 事の戒壇建立 との御意。
■ 「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。」(二十六世日寛上人『報恩抄文段』)
■ 「本門戒壇の本尊所住の処、豈戒壇建立の霊地に非ずや」(六巻抄 顕正会版 64)
■ 「本門の本尊所住の処に応に本門の戒壇を起つべし」(六巻抄 顕正会版 69)
■ 「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。(略)広宣流布の時は天子より富士山のふもと天母ケ原に本門戒壇御建立ある。」
(四十四世日宣上人『世界之日蓮』)
事の戒壇とは即ち本門寺であり、大石寺が広宣流布の暁に本門寺となる。
■ 「富士山の下(もと)に戒壇を建立して本門寺と名付け」 云々。(日寛上人の六巻抄)
■ 「広宣流布の日は、当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号す可し。」(三十一世日因上人御指南 研究教学書16−71)
御歴代上人方の御意(天生原≒大石ケ原、大石ケ原に所在する大石寺が広宣流布の暁に本門寺戒壇となる、との御意)は明らかである。