法論対策 (外部が万が一にも閲覧する可能性もあるのでイニシャルにしました)

可能性と対応策

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▼ Kが樋田を見て速攻で帰る
→ Sが対応して、留まらせる。これに失敗したら、一切が始まらない。

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▼ 16の論題、顕正会からの一方的な押し付けは受け付けない。
→ Sが対応し、道理から言って、一題づつ交代で論議する事が全うであり、正当で当たり前の良識であることを説得する。

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● 録音・録画ありを納得させる。当方は顔出し、実名公表になんら問題なし。
Kが臆病でもしそれが出来ないのなら、個人が特定される情報は全てカットしてあげる。

それでもぐずった場合
→主にSが対応
なぜ隠す必要があるのか?
顕正会の正義を世に知らしめる最高のチャンスではないか。
自信がないのか?
他、旧知の間柄からあらゆる角度から説得。

公開が必要である文証

■ 但し歎ずるは田舎に於て邪正を決せば、暗中に錦を服して遊行し、澗底(かんてい)の長松(ちょうしょう)匠(たくみ)に知られざるか。兼ねて又定めて喧嘩出来の基なり。
(中略)
世出世(せしゅっせ)の邪正を決断せんこと必ず公場なり。(強仁状御返事 建治元年一二月二六日 五四歳 916)

この大聖人様の御金言に背くのか!
そんな師敵対の謗法根性で何が広宣流布だ!
御金言を守りなさい!

● ここがかなりの勝負どころ。

▼ 撮るなら帰る
→ Sがとことん説得

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論題の専攻はじゃんけん コイン投げ などで決める。

こちらが専攻の場合
→もちろんニセ本尊追及から始める

Kが専攻の場合
→どんな論題を言ってきても、それに応じず、ニセ本尊問題へ持っていく。

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▼ K 「論題から逃げるのか?」

大聖人も論題に直接に答えず、反詰して矛盾を突かれている。

文証
■ 問ふ、今日本国中の天台・真言等の諸僧並びに王臣万民疑って云はく、日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか如何。
答ふ、日蓮反詰して云はく、弘法・慈覚・智証大師等は釈迦・多宝・十方の諸仏に勝るべきか(1276)
↑大聖人は論題に直接的には答えられていないが疑難の本質的矛盾を突き鮮やかに切り替えされている。

以下、同じ原理。

■ 問うて云はく、汝が義の如きは我が法華経の行者なるを用ひざるが故に天変地夭等ありと。法華経第八に云はく「頭破れて七分と作らん」と。第五に云はく「若し人悪み罵れば口即ち閉塞す」等云云。如何ぞ数年が間罵るとも怨むとも其の義なきや。
答ふ、反詰して云はく、不軽菩薩を毀\06154し罵詈し打擲せし人は口閉頭破ありけるか如何。(823)

■ 尋ねて云はく、法華経の第二に云はく「無智の人の中にして此の経を説くこと莫れ」と。
同じき第四に云はく「分布して妄りに人に授与すべからず」と。
同じき第五に云はく「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於て最も其の上に在り、長夜に守護して妄りに宣説せざれ」等云云。
此等の経文は機にあらずば説かざれというかいかん。

今反詰して云はく、不軽品に云はく「而も是の言を作さく、我深く汝等を敬ふ等云云。四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り。悪口罵詈して言はく、是の無智の比丘」と。
又云はく「衆人或は杖木瓦石を以て之を打擲す」等云云。
勧持品に云はく「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加ふる者有らん」云云。
此等の経文は悪口罵詈乃至打擲すれどもととかれて候は、説く人の失となりけるか。(835)

■ 問ふ、天台大師の止観一部並びに一念三千・一心三観・己心証得の妙観は、併ら法華経に依ると云ふ証拠如何。
答ふ、予反詰して云はく、法華経に依らずと見えたる証文如何。人之を出だして云はく「此の止観は天台智者の己心中の所行の法門を説くなり」と。

問者が問う。
天台大師の「一念三千・一心三観・己心証得の妙観」は法華経に依拠する、法華経を根拠とする、とは、その証拠や文証とはどこにあるのか?
大聖人が、(その愚問に直接返答されずに)反対に詰問される。
では、訊くが法華経を依拠としない、根拠としない、との文証はあるのか?
(そして道理を御説きに為る。)
この摩訶止観は天台大師の己心の中での観念観法の修行の法門を説くのである。(であるから、法華経の文上に直接の文証はないのは理の当然である。との意味が篭められている)

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ニセ本尊を追及すべき 文証

■ 即身成仏と申す法門は、世(よ)流布(るふ)の学者は皆一大事とたしなみ申す事にて候ぞ。就中(なかんずく)予が門弟は万事をさ(差)しを(置)きて此の一事に心を留むべきなり。建長五年より今弘安三年に至るまで二十七年の間、在々処々にして申し宣(の)べたる法門繁多なりといへども、所詮は只此の一途なり。
(妙一女御返事    弘安三年一〇月五日  五九歳 1498)

↑この御文に示される通り、人界に生まれ出でた者は須らく「即身成仏できるか否か」が最重大事であり、日蓮大聖人の弟子檀那を名乗る者は「万事を差し置いて」このことを論ずべきである。
即身成仏する直因は本尊に依るのである。

冨士13号9頁に掲載 日淳上人御指南
■「宗教はその一切が本尊によって起りまた一切が此に帰結する。
乃ち宗教は本尊によって成立するのである。
よって宗教の邪正は本尊によって決定されなければならない。
而て此の本尊に於ては正確に邪正を断定できるのである。
本尊が正しければその宗教は正しく、反対に正しくない本尊による宗教は迷信であり邪教である。
(中略)必ず本尊に於て決すべきである」

日寛上人・文底秘沈抄 
■「境(※本尊)若(も)し正しからざる則(とき)んば智行も亦随って正しからず。(中略)故に須(すべから)く本尊を簡(えら)んで以(もっ)て信行を励むべし。」
←つまり、本尊が正しいかどうかをしっかり検証した後に信行をすべきとの御指南。

■ 「日蓮は広略を捨てヽ肝要を好む」
▼Kが持ち出す論題など何を出してきても即身成仏とは関係の無い枝葉末節的な愚題であることは明白
●「顕正会の本尊もどきで即身成仏できるのか否か」こそ「肝要」な論題である。
■ 「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ。」と仰せの通り「肝要」を先とすべきである。


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以上の流れを何としても作らなければ、価値ある法論とはならない。