■第65世『日淳上人全集』1442
生死一大事血脈鈔に於て「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」と仰せられた血脈は脈絡のことで、即ち信心がなければ脈絡は成り立たないとの御意であらせられ「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」とは血液たる仏法を御指し遊ばされてをることは、御文によって明らかである。血液があり、脈絡があってその上に相承ということができるのである。
その
相承に師資相承、経巻相承之れに内証相承、外用相承があって此れ等の相承が具はって完全に相承の義が成り立つのである。仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱されることを恐れるからであって、即ち魔族が仏法を破るからである。そのため展転相承を厳にして、それを確実に証明し給ふのである。
大聖人の御あとはどうであらせられるかと拝すれば、直弟子中日興上人を御選び遊ばされ、一切大衆の大導師として一期の弘法をご付嘱遊ばされ、弘法抄を以てその事を証明遊ばされたのである。御文中「血脈の次第日蓮・日興」とあらせられるのは大聖人の正統を決定し給ふためであって、付嘱相承師資相承等の一切の相承のことが此の御文によって立証されておるのである。
しかして
そのあとのことは日興上人を師と仰ぎ師弟相対して相承し給ひ、大衆は各々また師弟相対して相承してゆくのが仏法の道である。
内証の上には大聖人の御弟子であることは勿論である。といって内証のみに執して、
師弟の関係を整へることが最も大事であって此れを無視するところに聖祖門下の混乱があり、魔の所行が起ってくるのである。高田氏は「智学氏が大聖人の滅後六百年の断絃(げん)を継がせ給ふ」といってをるが、師弟相承の証明もなく、その法門に於ても相承のあとが全くないのである。高田氏はいふであろう、「法華経と御書六十余巻を手に握って立つるところで文証此れにあり」と、(中略)
大聖人が「経を手に握らない法門は信ずるな」と仰せられしは「仮令師資相承があると言っても経文にないことは信ずるな」との聖訓であらせられる。経文や御書そのものを手にすればそれによって相承があるといふのではない。御書には「此経は相伝に非ずんば知りがたし」と仰せられて居る。(中略)信心血脈は付嘱相承の場合問題ではない。法華一会の時一切の菩薩や人天の方々を、「止みなん善男子」といって制止し給ひ、上行菩薩に付嘱し給ひしは、信心の有る無しにより給ひしものか。(中略)また
大聖人が「仏法―最大深秘の正法」と仰せ給ふ秘法、また「末法には持ち難し」と仰せ給ふ大法を唯信心だけで付嘱相承し給ふと考へるのは迂愚の骨頂ではないか。そういう?倒(てんどう)の考へ方によって仏法の混乱があり、魔が跋扈するのである。
■仏法において正法が混乱しないように相承の道を立てて明かにされているのであります。(?→それでこの相承の跡を尋ねていけば正しい仏法か、間違った仏法かを知ることができるのであります。)
仏法に於ては正法が混乱をしないやうに相承の道を立て明らかにされてあるのであります。それで此の相承とは相ひ承けるといふことで師の道をその通り承け継ぐことであります。それで此れを師資相承と申します。既に師の道を承け継ぐのでありますから必らず師の証明がなければなりません。弟子が勝手に承継したといってもそれは相承ではないのであります。また世間では仏書を読んで悟ったといって師弟といふことを考へない人がありますが、それは仏法の正しい道ではないのであります。昔経巻相承といふことをいって法華経を読んで仏法を相承したと主張した顕本法華宗の祖である日什といふ人がありますが、此れは自分勝手にいふことで法華経の中には日什といふ人に相承したといふ証明はないのであります。仏法に於ては師資相承がなければいけないのであります。また信心相承などといって信心を以て相承したなどといふ人がありますが、信心は仏法の基盤でありますが、相承はその上に於ける仏法の承継の問題であります。