大聖人御真筆ではないが義に於いて正当であるが故に「一重線」であり、創価学会員が用いる御書全集にも掲載されているのである。もし、今更この邪難をなすのであればまず先に自分の御書全集の当該箇所を破り捨てるべきである。
後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり。(59世日亨上人、百六箇抄 跋文 富要集1-25)
(※
本因妙抄は「日時上人時代の書写」が存在する。つまり極めて大聖人の時代に近い後加文である。)
■65世・日淳上人・「百六箇抄については香浦氏は「その成立を大聖人の時ではなく後世であるか」の如く評してをるが、(中略)しかし察していへば恐らく同抄の後尾に明らかに大聖人の御時でないことが書かれてをるからそれを理由に言ふのであらうと思ひます。若しそうであるならばそれは
御相伝書の拝し方を知らないのによります。御相伝書は順次相ひ伝へるに従つて加筆があつてもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで僞作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗つて拝し直すことです。(日淳上人全集)
★【池田指導】(百六箇抄講義)「本抄(百六箇抄)には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、
代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。