『河辺メモ』
 
 「A面談 帝国H
一、戒旦之本尊之件
 戒壇の御本尊のは偽物である。
 種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
 多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師頃の筆だ。
 日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
 ※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の誰かが賣(売)に出し、それを応師が何処で発見して購入したもの(弘安三年の御本尊)」昭和五十三年二月(河辺メモの日付)
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【疑難】
 
「日禅授与の本尊(※弘安三年御筆)の題目と花押を模写し、その他は時師(※第六世日時上人)か有師(※第九世日有上人)の頃の筆だ」
大御本尊が、日時上人・日有上人の時代(足利時代=室町時代)以降の偽作
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【破折】
 
大綱
 
■日達上人
 
■「大御本尊は楠の板で、その時分は鉋(かんな)がなかった、鎌倉時代には手斧(ちょうな)である。
だから、あの御本尊は手斧削(けず)りである。それを見れば、すぐわかる。
それを知らないで、『漆を塗ってあるから、あれは足利時代にできた』とか、最近は『徳川時代にできた』などと、とんでもないことを言う。ところが、あれは、後ろを見ると、みんな、削った跡がちゃんと残っている。
それを見ても明らかに鎌倉時代である」(昭和四十七年九月十二日)
 
■「その御本尊様は、もう六百八十年も前にできた板御本尊でございまして、これは、当時、鉋(かんな)というものがなかった、鎌倉時代でございますから。あの板御本尊様は、明らかに鉋では造ってないのであります。
みんな手斧(ちょうな)、手斧といっても戦国時代あるいは室町時代にできた丁飽(ちょうな)でなくて、もっと古い、まさかりみたいな手斧で削られておるのでございます。
それが歴然としてあの板御本尊に残っておるのでございます。
それを見ても鎌倉時代、大聖人の時代にお造りになった御本尊様である、ということがはっきりしておるのでございます」(昭和四十七年十一月二十日)
 
大御本尊が鎌倉時代(大聖人御在世)に建立されたことを証明。
大御本尊が日時上人・日有上人以降の後世の偽作であるなどということはありえない。
このことを熟知されていた、当時・教学部長であられた日顕上人が、「後世の偽作」などと言われる可能性はない。
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■日顕上人
 「この際はっきりしておくことは、本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは全く相違している、ということである。よく拝すれば、中尊の七字の寸法と全体からの御位置においても、明らかに違いが存し、また御署名花押の御文字及びその大きさや御位置、各十界尊形(そんぎょう)の位置等にも歴然たる相異が存する。そして、もちろん模写の形跡は存在しない。
 したがって御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤りであり、この事をはっきり、述べておくものである。」(平成十一年九月十八日)
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綱目
 
1、メモ中の大御本尊に対する疑難は、二点。
 
@戒壇大御本尊の、題目から花押(かおう)に至る中央首題の部分は、弘安三年(五月)の日禅師授与の御本尊から模写したもので日禅師授与の御本尊には模写の形跡が残っている。
Aその他の文字は、第六世日時上人・第九世日有上人の時代(足利時代=室町時代)に書かれている以上二点が「筆跡鑑定の結果解った」。
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@二幅の中央首題は全く違う
 
 第一点目、大石寺理事・小川只道尊師。(小川尊師は、御開扉における御鍵取り(御厨子の扉を開く役)を十数年にわたって務め、戒壇大御本尊を間近で拝し奉ってこられた。また、御霊宝虫払大法会において、御本尊掛け役をやはり十数年にわたって務められ、日禅師授与の御本尊も間近で拝してこられた)。
 
 「そもそも、本門戒壇の大御本尊と日禅師授与の御本尊は、ほぼ同時期の大聖人様の御筆ですから、全体に御文字の感じが似ているのは当然です。
 ですが、幾度も拝してみれば、お題目の全体の線も違いますし、ことに『経』の字の違いはハッキリわかります。
 また、ことに違うのは、『日蓮』の御署名と御花押の部分ですね。
大御本尊と比べて日禅師授与の御本尊は、御花押がかなり左側寄りに認(したた)められています。
また、大御本尊は御署名の『日』文字と御花押が離れて認められていますが、日禅師授与の御本尊は【日】文字の上に御花押の上部が重なっていますし、花押全体の形態もかなり違っています.
これらの違いは、御虫払の時に気をつけて拝していただけば、一目で判るはずです。
 もちろん、日禅師授与の御本尊に「模写の形跡」など、私が拝してきた限りでは見当たりませんでしたよ。」
 
二幅の御本尊の中央首題部分は、「筆跡鑑定」するまでもなく、拝しただけで判るほどハッキリした違いが存する。
 
 当時、宗門の中枢にあられ、また長年にわたって御本尊を御調べになってきた阿部教学部長(現・日顕上人猊下)が、このような発言をされる可能性は皆無。
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2、メモ中の疑難・批判は不心得者の言
 
【河辺メモ】中に記された大御本尊に対する疑難は、宗外の謗法者か、もしくは宗内の一部の不心得者(おそらく、こちらであろう)が新たに言い始めた妄説を、お二人のどちらかが話題として提起したもの、と捉えるべきが当然である。
 また、次下に、「G(「猊下」の頭文字=日達上人のこと)は話にならない」
云々と、日達上人への批判が記されているのも、後に正信会と名乗る一部の輩が当時、ロにしていた批判内容と酷似(こくじ)していることから、やはり、一部の不心得者の発言を面談の中で取り上げたもの、と見るべきであろう。
 
『河辺メモ』は、河辺慈篤尊師の個人的なメモ書きであり、主語・述語等も省(はぶ)かれていることから、安易に他人が速断することはできないのに、学会では、悪意をもって、これを宗門誹謗の材料とした。
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正信会の大黒喜道が編纂(へんさん)した『日興門流上代事典』(興風談所発行)という書籍の「本門戒壇大本尊」の項目
 
 「弘安二年(一二七九)十月十二日に書顕(しょけん)されたと伝えられる富士大石寺蔵宗祖御筆本尊で、曼荼羅(まんだら)下部には『右為現当二世造立如件/本門戒壇之願主弥四郎国重/法華講衆等敬白/弘安二年十月十二日』と記されている。現在は板曼荼羅として大石寺に厳護(げんご)されているが、非公開であり、古来より宗祖の御筆に対して疑問が提出されている。
(中略)
 富谷日震『本宗史綱』二四五は『重須日浄記』に拠(よ)って当本尊の彫刻を大石寺日有によるものと推定し、日蓮宗事典はその筆跡や脇書等から室町期の成立と推測している。(中略)大石寺所蔵の宗祖本尊の中では、元は東京・法道院所蔵にて昭和四五年に大石寺に奉納された弘安三年五月九日書顕の宗祖本尊(脇書『比丘日禅授与之/[日興上人加筆]少輔公日禅者日興第一弟子也。仍所申与如件。奉懸本門寺可為万年重宝者也』興全一四一)が、その相貌と言い大きさと言い、当本尊と酷似(こくじ)しており、注意される。」
 
河辺メモに記される、大御本尊が日禅授与の本尊の模写であるという疑難と、全く同一の内容。
 
 これは近年発行の書ではあるが、正信会の書籍に、正式に活字としてこのような邪義が載(の)っていることからすれば、当時(昭和五十三年頃)からこのような疑難をもつ者がいたであろうことは想像に難くない。
 
『事典』の編纂者・大黒喜道に問い質(ただ)した。
「すでに昭和五十年頃、虫払い大法要の際に宗内の何者かが撮影した『日禅授与の御本尊』の遠景写真、及び『日禅授与の御本尊』と『戒壇の大御本尊』が酷似しているとの説があった。これについて編者(大黒)は別の意見を持っているが、『事典』という性質上、中立にあらゆる意見を載せたにすぎない」
 
この編者が自称・正信会に籍を置いている関係からすれば、日禅授与の御本尊の写真を提供したのも、正信会関係者であると推定できる。
 
「戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊との関係」を云々していたのは、後に正信会となる、宗内の一部の僧侶であったことが、もはや確実。
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3、学会自らが戒壇の大御本尊を否定する発言。
 
 『会則』を変更。
教団の所依(しょえ)の本尊
従来
「日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」
→「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し」に変更した。
 
 「大石寺安置の弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊」との部分を削除。
学会が本門戒壇の大御本尊を否定。
会員の目を欺(あざむ)くために「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」と抽象的表現。
やがて完全に大石寺安置の大御本尊から離れ、ついには新本尊を策定するための準備であることは明らか。
 
学会側こそ「大御本尊否定」の大悪業を進めていることを知るべき。
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4、学会邪義 2
 
 宗門は、これらの事実の発覚に驚き、最初、
「これは、日顕上人が、当時外部からの戒壇の大御本尊に対する疑難が多く来ていたことから、教学部長として河邊尊師に説明されたもの」と説明、
翌日出された河邊(尊師)による「お詫びと証言」では、「宗内において生じる妄説の可能性」などと説明している。
 最初に「外部からの疑難」と言いながら、翌日には「宗内からの疑難」と言い直すあたり、真実を隠蔽(いんぺい)しようとする動揺が窺(うかが)える。
 しかしながら、当時、宗外においても宗内においても、このような疑難はどこにも呈されておらず、このようなことを言い出せるのは、宗門の教学部長として、御宝蔵に所蔵されている御本尊をはじめとして大御本尊に至るまで、宗内の御本尊を自由に鑑定できる立場にあった日顕(上人)しかいない。
 すなわち、この「河邊メモ」について、どのように言い訳しようとも、日顕(上人)が「戒壇の大御本尊は偽物」と断定していたことは動かしようのない事実なのである。
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【破折】
 
1、「河邊メモ」は盗人による盗品
 
 「河邊メモ」は、故・河邊慈篤尊師の個人的なメモ。それが何ゆえに学会の手許(てもと)にあるのか――なんと、盗人の手によって河邊尊師のもとより盗み取られ、それを入手経路を隠したまま創価学会が悪用しているのである。
 
 盗品の内容を、持ち主である河邊尊師の許可もなく公開して御法主上人誹謗に使うとは、創価学会という宗教団体がいかに薄汚ない教団であるかがわかろう。
 
「メモ」とは、所詮、個人の覚え書きであって、万人が理解することを前提とした公式書類でもなければ、手紙でもない。当人のための覚え書き。文中に、主語や目的語が省かれていたり、肝要な部分が省かれて記述されていることすらある。それ故、時の経過の中で、本人でさえメモの内容が理解できなくなることも多々ある。
 そうした覚え書きとしての記述を、あたかも公式書類であるかのごとく扱い、しかも、自らの主観をもとに勝手に主語を挿入して読み解くなど、メモの解読どころか創作の域に踏み込んでいる。
 「大御本尊偽作疑難」は、河邊尊師から盗み取ったメモをもとに、創価学会が自分の主観で勝手に創作した疑難。
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2、「宗外」と「宗内」について
 
 学会怪文書『同盟通信』がこれを公開したのが、平成十一年七月七日のこと。
 これに対し、宗門側は翌々日の七月九日に「宗内各位」宛てに、
 「当時(昭和五十三年)は裁判も含め、以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、それらの疑難について河邊師に対して説明されたものであります」と解説。
翌日の七月十日にも、「河邊尊師からのお詫びと証言」を、「宗内各位」宛てに発している。
 「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折についての話を伺ったもの」
 
 学会は、これらの記述中、「宗外」と「宗内」の語に拘泥(こうでい)して「矛盾だ」といっているのであるが、これは矛盾でも何でもない。
 
 宗門から出された最初の文書
「以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が多く来ていたことあり」と、けっして、疑難を外部だけに限定した表現でないことは、「も」の一文字から窺える。
 
 翌日付けの文書
「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても……」と、ここでは、「当時の裁判や以前からの疑難」(宗外)と「宗内においての妄説」とを併記しているのである。
 
 創価学会が「矛盾だ」とした箇処は、文字の上では顕然(けんねん)ではないが、いずれも「宗外」「宗内」を含んでいるのであって、矛盾などどこにもない。
 
 これらの文書は、宗内の信徒が学会怪文書に惑(まど)わされ、あたかも御法主上人が戒壇の大御本尊を否定されたかのように誤解することのなきよう、急報として出されたもの。
元となった疑難が宗内からであったか、宗外からであったかを問題にしたものではない。
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