「誠心」(日顕上人御允可)  から引用

三十五、同志には寛(ひろ)い慈悲心をもって

@「軽罪の者をばせむる時もあるべし。又せめずしてを(置)くも候べし。自然になを(直)る辺あるべし。せめて自他の罪を脱(まぬか)れて、さてゆる(免)すべし。其の故は一向謗法になれば、まさ(勝)れる大重罪を受くるなり。(中略)
浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし。(御書九〇六頁)

 同じ信仰をしている同志・後輩に、信仰上の欠点や誤りがあったとき、それが罪の軽いものだったならば、指摘して改めさせる場合もありますし、また、直ちに責めることをせず、その人が功徳を積んで自然に直っていくのを待つ、という場合もあります。

 なぜ、そのような異なりがあるかといえば、信心が身に染まっていないうちは、誤ちを責められたことで、かえって強く反発・反抗したり、あるいは信仰を退転するなどして、逆に大謗法になることがあるからです。

もし、そのようなことになれば、小さな誤りを直そうとしたことから、かえって大重罪を犯させ、悪い結果になってしまった、といえるでしょう。

 ですから、その人が、注意を受け入れて素直に直せる信心に至っていないのなら、あえて許し、信心を励まし功徳を積ませていって、その人の成長を待つのです。

 たとえば、初信の頃、怨嫉の心が強く起きてきて、なかなか直せなかった、という人は多いと思います。
しかし、何年か信仰を続けてくる中で、謗法の恐ろしさ、堕地獄の恐ろしさが実感としてわかってくると、初信の頃には、どうしても直せなかった怨嫉の心を、それほど無理せずに直せるようになった、という体験を持つ人が、かなりおられるのではないですか。

 ですから、その時は改めることができなかったとしても、信仰を積み重ねることで、将来できるようになっていくのですから、その時を待つ、ということがあるのです。

 また、場合によっては、注意して改めさせる、ということもあり、これは一様ではないのであります。


A「対内的には宗綱に違反して信行の途立たざるが謗法なれば謗法の名は至つて重く謗法の罪は門徒の極刑なり、自ら律して針?(へん)に供するは随意なりといへども・濫に他人を憎みて謗法の罪名を被らしむるは・若実若不実却つて其重罪を我身に招く恐るべし、近来間々巷途の説に聞く・「何誰は何を為したり謗法なり」と・悪言謹まずんばあるべからず、宗祖聖人も阿仏房尼に告げて・「謗法にも浅深軽重の次第ありて強ちに悉く取り返へしのつかぬ重罪にあらず、軽き浅き謗法を知らず知らず行ふといへども・其人が色心相応の強信者ならば、強い信心の為に弱い謗法は打消されて罪とはなるべからず」と云ふ風の仰せがありしは、全く門外折伏・門内摂受の意もありて・信徒を将護し給ふ大慈なるべし、況んや末輩にありては・自他互に警策し勧奨して寛厳宜しきを得て・異体同心の実を挙ぐべきなり、厳にも寛にも折にも摂にも・根底に大慈大悲の溢るゝあらずんば・万行徒に虚戯に帰せんのみ、」(第五十九世旦亨上人御指南・富要集一巻一四九頁)

 宗内における「謗法」という意味は、宗旨の大綱(三秘・三宝の立て方など) に背反し、正しい信仰の道を断絶すること等でありますから、その言葉は大変重く、信心している人を「謗法」と断定することは、死刑の宣告をするのにも等しいことです。

 ですから、自分自身の中にまだ慢心がある、懈怠がある、怨嫉の気持ちがあるとして、厳しく自分自身を律し戒めていくのはよいですけれども、他の人に対して指摘をする場合には、よくよくの配慮をもってなさねばなりません。

 ささいな欠点や落ち度を挙げては、「それは懈怠で大謗法だ。あなたは必ず地獄に堕ちる」等々と決めつけていく、また、なんとかその人の失を直してあげたい、との気持ちからではなく、眉をひそめ、指を指すような思い、あるいは腹立たしい気持ちをもって「誰それは謗法だ」などと軽々しく罪名をこうむらせていく−−、それは同信の徒を謗ることとなり、「若実若不実」 の戒めに当たって、かえって自分の方が怨嫉謗法の重罪になる、慎まなくてはならない、と戒められているのです。

 前掲の日蓮大聖人の御金言からいっても、謗法にも、浅い深い、軽い重い、という違いがあって、あながちに取り返しのつかない重罪ばかりではありません。その人が本当に強信者となっていけば、小さな謗法は自ずから消える故に、あえて指摘しないことがあってもよいのだ、という仰せすらあるのは、せっかくの信心を守り育てるための大慈悲である、というのであります。

 このことは、「門外折伏・門内摂受」といって、末入信である門外の人は根本的に不信大謗法なので、徹底的に折伏していけばよいですけれども、すでに入信した門内の同信の徒に対しては、その人の信心を守り育てることを第一にして、寛容な心で接していく、という在り方です。

 いずれにしましても、私達はお互いに、信心の欠点や謗法を改めていけるように、また信心を伸ばしていけるように、時には寛容に、時には厳しく戒めあい、励ましあっていかなくてはなりません。

 その根底には、本当に正しい信心をもって幸せになってほしい、という、強くて寛(ひろ)い慈悲心が必要です。
その心に立ってこそ、寛容を基本として、時には厳しく諭すという、適切な使い分けもできるようになっていくのです。
 これは育成において極めて大切なことであります。