又云はく「此の方等経は是諸仏の眼(まなこ)なり、諸仏是(これ)に因(よ)って五眼(ごげん)を具することを得(う)、仏の三種の身は方等より生ず、是(これ)大法印にして涅槃海(ねはんかい)に印(いん)す。此くの如き海中能(よ)く三種の仏の清浄の身を生ず、此の三種の身は人天(にんでん)の福田(ふくでん)なり」等云云。            

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次に「又云はく『此の方等経は是諸仏の眼なり』」とある、この「又云はく」というのは同じく普貿経を引いて、さらにその意義を充足されるのです。

 そして「此の方等経」というのは、前に引かれた普賢経の「此の大乗経典」と同じ意味でありまして、その元意は、久遠元初の種子として一切の功徳を生じ、一切の仏・菩薩を生ずる種たる妙法蓮華経の五字を示されるのです。
そして、これが「諸仏の眼」であるということは「師徳」を釈しております。
諸仏は「是に因って五眼を具すること」ができるのである。

この「五眼」についてですが、まず人間の「肉眼」は、ただ眼に映ったものしか見えません。
だから、よく人に騙されることもあります。
錯覚、錯視もあります。
その他、この肉眼が色々な欲のために曇って、様々な世の中の不幸と悲劇が生ずるのであります。
肉眼だけですと、そのように、ものの本質がよく見えないのです。

 この肉眼より広く深くものを見る眼に「天眼」があります。
遠近、広狭、自由自在で、あらゆる事物を透視します。
この天眼を得れば、凡夫の企みなどでは騙されない。
また、この天眼を悪用すれば、なんでも見えてしまいますから、たいへん困ったことになります。
しかし、悪用するような人は天人になれないし、したがって天眼を得ることはできません。
万一、天人の境界になることができても、悪用するような場合には、天眼の通力がすぐに消えてしまうのです。

 次に「慧眼」というのは、智慧の眼であります。
この慧眼を得ると諸法の相の裏にある空諦を見るので、世の中のあらゆる表面的な装飾に惑わされず、一切の裏の裏まで見抜いて、世の中のこと、また自分自身のことも、よく判るのです。
しかし、この慧眼もまだ、本当の仏の眼の徳と力を具えるまでには至っておりません。

 その次が「法眼」といって、空諦と仮諦と中諦との法に準拠した眼であります。
菩薩が修行を重ねていって、ある段階までいくと、この法眼を得ることができるのです。
それによって種々の因縁の相を明確に知ることができる。
あらゆる人々の幸・不幸その他、原因・結果等の一切が判るような能力があります。

 そして、そのすべての五眼の徳を具えて、しかも融通無碍(※行動や考えが何の障害もなく、自由で伸び伸びしていること。)であるのが「仏眼」すなわち仏様の眼と言われるのであります。

 我々は仏様の眼を得ることはできないけれども、しっかり信心していると仏様の眼を得ているような力がそこに生じて、結果的に見ると、全く不思議なことに、何も判っていないけれども、やはり仏様の眼でものを見たような善い結果が、功徳として得られることがあります。
一生懸命に御本尊様を拝んでいますと、正法を弘通し護っていくという意味で行う場合には、絶対に仏様の加護がある。
そこにまた、仏眼と思われるような不思議な功徳と力を、その時、または、のちに至って感ずるのであります。

 さて、次の「仏の三種の身は方等より生ず」というのは父母の徳、すなわち「親徳」を表します。
「三種の身」とは、仏の法身・報身・応身という三つの身であり、これもやはり「方等」すなわち妙法蓮華経から生じます。

 次の 「是大法印にして涅槃海に印す」とは「主徳」を表すのです。
世間でも印をもって真実の証明とするように、仏様の法は絶対に偽りがないということを顕す意味において、仏様の法そのものを印と言うのであります。
ですから「大法印」というのは、その大法がすなわち印なのであります。

 したがって、方便品には、
  「無量の衆に尊まれて 為に実相の印を説く」 (法華経111)
という文があります。
これは妙法蓮華経の五字が、宇宙法界の法理であると同時に、釈尊の悟りである。
それが宇宙法界に遍満し、一切の衆生をことごとく功徳化する意味において、この法が偽りなく存在することを表される。
それが主徳を意味する 「大法印」ということであります。

 そして、それはそのまま「涅槃海」という大きな海のなかにことごとく、どこの所においても具わっておる。
「涅槃」とは仏様の悟りの境界を意味します。

小乗仏教の悟りは苦・空・無常・無我を四法印とするけれども、大乗仏教の悟りは常・楽・我・浄であります。

 常・楽・我・浄の
「常」とは不生不滅であり、
「楽」とは苦がなく、法の喜びが充満しておるということである。
「我」とは、すなわち世間の人間は我によって不幸になっているけれども、仏様の我というのは宇宙全体の法理を悟る故に大我であり、したがって縛するところがなく、自在の境界をもって我とするのです。そして
「浄」とは無染であること、つまり染まっておるところや執着しておるところがない。
したがって、それがまた清浄無比な身心となるわけであります。
そういう悟りの海において、ことごとく常住不変に存在するのが妙法蓮華経の大法であるのです。

 そして「此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず」るというのは、再び「生」 の意により父母の徳、すなわち親徳が示されております。

そして、この普賢経の引文の結びとして「此の三種の身は人天の福田なり」ということで終わっておるのであります。
この「三種の身」すなわち、妙法の功徳によって浄化され顕れた法報応三身の仏の身は、そのまま一切衆生の帰依処であり、衆生をして最大の幸福なところ、すなわち「福田」へ導くのであります。

この福田ということは、例えば、稲であっても、痩せた土壌で石ころばかりの田に種を蒔いても、かえって種は腐って生長しないのです。
それに対して肥沃な田に種を蒔くと、一粒が百倍乃至、千倍となって、たくさんの収穫を得ることができる。
そのように物事の秩序、筋道のある正しい福業を修すること、いわゆる正しいところへ種を蒔けば、必ず大きな功徳となって返ってくることを説いております。

 その功徳に敬田(きょうでん)・恩田・悲田という「三福田」があります。
そのほかにも「八福田」というのがありますが、長くなりますからここでは省略いたします。
(※ 敬い仕えると福徳を生じるものを、田にたとえて8種にしたもの。
仏・聖人・和尚(おしょう)・阿闍梨(あじゃり)・僧・父・母・病人。
または、
仏・法・僧・知法人・遠行来人・遠去人・飢餓人・病人。)

 その三福田のうちの「敬田」とは、敬うべきものを敬うことによって供養をすれば、その種が必ず本人の徳となって返ってくる。
特に、それは三宝を敬うという意味でありまして、仏法僧の三宝は衆生の敬うべき意義が存するのである。
ですから、正しい仏法僧の三宝を敬って、その田に種を蒔く、すなわち供養をすれば、その功徳が必ずその人に返ってくる。

 それから「恩田」というのは、恩を知って、そしてその恩を受けた方に供養をすることです。
だれでも一番、恩を受けているのは父母です。
その父母とか、あるいは師匠とか、目上の人等より色々と恩を受けた人には、応分の意義に基づいて恩返しの供養をするということ、それが恩田であります。

 最後の「悲田」というのは、貧困な人とか病人等の困窮している、かわいそうな人を哀れむ心、これが人間として、また功徳を積む上において大事なのです。
そういう哀れむ心から、そういう人々に恵みを施すことも一つの大きな功徳になる。

 これが三福田ですが、そのうちの第一番は敬田といって、三宝を供養するということであります。
正しい仏法を正しく供養していくということが、やはり非常に大きな功徳を成ずることになるのであります。

以上、本書三nに掲げた文は、この『観心本尊抄』の十界互具一念三千の「観心」という上において、それが難信難解であるということと同時に、その元の本地難思境智冥合と、久遠元初の本仏所得の妙法において持たせ給う三徳の意義を、無量義経・普賢経の二経によって挙げられ、ここに観心の根本元意を含むことを示されるのであります。
したがって、これが元となって初めて、次の次に示される、真実の観心の本義たる 「受持即観心」 の意義がはっきりと徹底してくるのであります。→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参照 但し会(え)し難き所は上の教主釈尊等の大難なり。此の事を仏遮会(しゃえ)して云はく「已今当説、最為難信難解」と。次下(つぎしも)の六難九易是なり。天台大師云はく「二門悉(ことごと)く昔と反すれば信じ難く解し難し。鋒(ほこさき)に当たるの難事なり」と。章安大師の云はく「仏此を将(もっ)て大事と為(な)す、何ぞ解し易きことを得(う)べけんや」と。伝教大師云はく「此の法華経は最もこれ難信難解なり、随自意の故に」等云云。夫(それ)仏より滅後一千八百余年に至るまで、三国に経歴(きょうりゃく)して但(ただ)三人のみ有りて始めて此の正法を覚知せり。所謂月支(がっし)の釈尊、真旦(しんだん)の智者大師、日域の伝教此の三人は内典の聖人なり。問うて曰く、竜樹・天親等は如何。答へて曰く、此等の聖人は知って之を言はざる仁なり。或は迹門の一分之(これ)を宣べて本門と観心とを云はず、或は機有って時無きか、或は機と時と共に之無きか。天台・伝教已後は之を知る者多々なり、二聖の智を用ゆるが故なり。所謂三論の嘉祥(かじょう)、南三北七(なんさんほくしち)の百余人、華厳宗の法蔵(ほうぞう)・清涼(しょうりょう)等、法相宗の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)・慈恩(じおん)大師等、真言宗の善無畏(ぜんむい)三蔵・金剛智(こんごうち)三蔵・不空(ふくう)三蔵等、律宗の道宣(どうせん)等初めには反逆を存し、後には一向に帰伏(きぶく)せしなり。
 但し初めの大難を遮(しゃ)せば、無量義経に云はく「譬(たと)へば国王と夫人(ぶにん)と新(あら)たに王子を生ぜん。若(も)しは一日若しは二日若しは七日に至り、若しは一月若しは二月若しは七月に至り、若しは一歳若しは二歳若しは七歳に至り、復(また)国事を領理(りょうり)すること能(あた)はずと雖も、已(すで)に臣民に宗敬(そうきょう)せられ諸の大王の子を以(もっ)て伴侶と為(せ)ん。王及び夫人の愛心偏(ひとえ)に重くして常に与(く)みし共(とも)に語らん。所以(ゆえん)は何(いかん)、稚小(ちしょう)なるを以ての故にといはんが如く、善男子是(こ)の持経者も亦復(またまた)是くの如し。諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子(みこ)を生ず、若(も)し菩薩是の経を聞くことを得て、若しは一句若しは一偈、若しは一転若しは二転、若しは十若しは百、若しは千若しは万、若しは億万恒河沙(ごうがしゃ)無量無数転せば、復真理の極(ごく)を体すること能(あた)はずと雖も、乃至已(すで)に一切の四衆八部に宗(たっと)み仰(あお)がれ、諸の大菩薩を以て眷属と為(せ)ん、乃至常に諸仏に護念せられ慈愛偏(ひとえ)に覆(おお)はれん。新学(しんがく)なるを以ての故に」等云云。普賢経に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵十方三世の諸仏の眼目(げんもく)なり、乃至三世の諸(もろもろ)の如来を出生する種(たね)なり、乃至汝大乗を行じて仏種(ぶっしゅ)を断ぜざれ」等云云。又云はく「此の方等経は是諸仏の眼(まなこ)なり、諸仏是(これ)に因(よ)って五眼(ごげん)を具することを得(う)、仏の三種の身は方等より生ず、是(これ)大法印にして涅槃海(ねはんかい)に印(いん)す。此くの如き海中能(よ)く三種の仏の清浄の身を生ず、此の三種の身は人天(にんでん)の福田(ふくでん)なり」等云云。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

→ それがなければ絶対に、いかに一念三千を考え、あるいは南無妙法蓮華経と唱えても、その功徳は成じないのです。
したがって、そこに信心の対境をきちんと定めて修行することが大切であります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夫(それ)以(おもんみ)れば、釈迦如来の一代、顕密・大小の二教、華厳・真言等の諸宗の依経、往(ゆ)いて之を勘(かんが)ふるに、或は十方台葉(だいよう)の毘盧遮那(びるしゃな)仏、大集雲集(だいしゅううんじゅう)の諸仏如来、般若染浄(ぜんじょう)の千仏示現(じげん)、大日・金剛頂等の千二百尊、但其の近因近果(ごんいんごんか)を演説して其の遠(おん)の因果を顕はさず、速疾頓成(そくしつとんじょう)之(これ)を説けども三・五の遠化(おんけ)を亡失(もうしつ)し、化導の始終(しじゅう)跡を削りて見えず。華厳経・大日経等は一往之(これ)を見るに別円四蔵(しぞう)等に似たれども、再往之を勘ふれば蔵通二教に同じて未だ別円にも及ばず。本有(ほんぬ)の三因之(これ)無し、何を以てか仏の種子を定めん。而(しか)るに新訳の訳者等漢土に来入するの日、天台の一念三千の法門を見聞して、或は自らの所持の経々に添加し、或は天竺(てんじく)より受持するの由之(これ)を称す。天台の学者等或は自宗に同ずるを悦び、或は遠きを貴びて近きを蔑(あなず)り、或は旧(く)を捨てヽ新を取り、魔心(ましん)・愚心(ぐしん)出来す。然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ざれば、有情(うじょう)の成仏・木画(もくえ)二像の本尊は有名無実(うみょうむじつ)なり。(御書六五二・九行目〜一七行目)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 右文の前文では、教主についての難問の答えが三つに分かれるなかの
「二、所受の本尊の徳用を明かす」
ことについて二あるなか、
初めの一に無量義経と普賢経を引いて、真実の観心修行には成仏の種子たる本尊がなければならない意を明かされました。

そして右の挙文では、同じく
「二、所受の本尊の徳用を明かす」に二あるなかの
「二、非をもって是を顕す」ところです。

これは、法華経以外の大乗の主な経々が、真実の仏種なく、非である理由を挙げ、成仏の真種子たる本尊は、これら諸経には全く存在しないことを論証し、この破折の上から、真の仏種は法華経の一念三千で、すなわち是であることを決義されるのです。

要するに、右文の趣意は、今までの仏教家が、正法、像法、末法と経過して今日に来るまでの間、釈尊の真実の教えに迷って、あるいは魔が入るために、立派な僧侶の姿、大徳の姿をもって現れて、しかもその時の衆生を悪道に堕とすような用(はたら)きをしておる姿があることを示されます。

 これは、まことに不思議なことであります。
弘法大師であるとか、あるいは親鸞とか法然などというような各宗の祖師が、みんな偉い人と思われているけれども、これが実は仏教において大きな誤りを持った人々なのです。

 故に、一念三千の仏種を示すに当たって、「非をもって是を顕す」と言い、誤った形をまず取り上げて、それをはっきりと指摘し、そして正しい仏種、すなわち一切衆生が救われるところの仏の種というものが、どこにあるかということを示すのであります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夫(それ)以(おもんみ)れば、釈迦如来の一代、顕密・大小の二教、華厳・真言等の諸宗の依経、往(ゆ)いて之を勘(かんが)ふるに、或は十方台葉(だいよう)の毘盧遮那(びるしゃな)仏、大集雲集(だいしゅううんじゅう)の諸仏如来、般若染浄(ぜんじょう)の千仏示現(じげん)、大日・金剛頂等の千二百尊、但其の近因近果(ごんいんごんか)を演説して其の遠(おん)の因果を顕はさず、速疾頓成(そくしつとんじょう)之(これ)を説けども三・五の遠化(おんけ)を亡失(もうしつ)し、化導の始終(しじゅう)跡を削りて見えず。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて「釈迦如来の一代」において、「顕密」すなわち顕教・密教の二つがある。
顕教というのは釈尊一代に説かれた教えを言い、それに対して密教というものがある。

この密教という言い方ですが、大聖人様自身も、この時代の流行の言葉として、他の経典よりあとから中国へ渡ってきた真言の経典を密教と言うことに基づいて、一往、仰せられているのです。
しかし、密教という言葉の意味する、本当の仏の秘密の教えは何かといったならば、これは法華経であります。
寿量品において、   
「如来秘密。神通之力」 (法華経四二九)
とある。
この 「如来秘密」という真の秘密の法は、法華経の寿量品のほかにはないのです。

 ところが、弘法大師とか、その前に善無畏三蔵等の人々がインドからやってきて密教というものを非常に間違った形で伝えました。
これはあとから出てきますが、そういう姿のなかで一往、釈尊の説かれた一代五十年の教えを顕教と言い、それに対して真言の大日経・金剛頂経・蘇悉地経という三部経、あるいはそのほかにもたくさんあるのですが、それら呪文を中心とする経典を密教と言うのです。
これらはだいたい十世紀から十三世紀ぐらいまでの間にインドにおいて作られてきたとも言われておりますが、そういうふうにたくさんの密教部の経典があります。

 これは、経典のなかを見ましても、例えば、法華経にせよ、大集経にせよ、般若経にせよ、顕教と言われる経典のなかには全部、お経のなかにきちんと釈迦牟尼仏がお説きになったということが示されている。

「一時」すなわち、ある時、釈迦牟尼仏がどこに住されて、そしてこういう教えをお説きになったということを、聴聞した弟子が「如是我聞」すなわち「是の如く我聞きき」と示されてあるわけです。

 ところが、密教部の経典はお釈迦様の説と言わないのです。
毘慮遮那遍一切処とか秘密主等の色々な名称において示してあるのだけれども、「釈迦文」という言葉がないのです。(※  (sakya-muni の音訳「釈迦文尼」の略) =しゃか(釈迦)
その仏は何かというと、大日如来という仏です。
この仏様は実際に、この世には出ていない仏でありまして、法身仏ですから釈尊の三身のなかの一分であって、その法身に即する応身の用き、つまり釈尊の加持によって教えが説かれたということで、一切、その元は釈尊なのです。

 それが解ればよいのだけれども、その釈尊をそっちのけにして、大日如来という仏があり、釈尊より勝れているということを誇張するのが真言なのです。
つまり、大日如来は父母もなく、どこで生まれ、どこで成道したということも全くありません。
単なる法身仏に過ぎないにもかかわらず、このような非をあげつらいます。
そこにまた、一番元の誑惑が存しておるのです。

しかし、立て分けからいって、真言を色々説いたものを陀羅尼と言いますが、この陀羅尼蔵をもって密教とし、これを釈尊の顕教と分けるという形がある。
そういう一般的な形で一往、ここには仰せられておるわけであります。

 それから「大小」とは、大乗と小乗の二教です。

 また、華厳宗という宗旨がありますが、この依経は華厳経であり、真言宗の依経は大日経、金剛頂経、蘇悉地経であります。   

 それらのものを「往いて之を勘」えてみるのに「或は十方台葉の毘慮遮那仏、大集雲集の諸仏如来、般若染浄の千仏示現」等と示されております。

その「十方台葉の毘慮遮那仏」というのは、華厳経の教主のことであります。

 さて、ここに示される「十方台葉の毘慮遮那仏」ということですが、当抄の前文に、
  「所謂華蔵の時、十方台上の慮舎那」 (御書六四九)
とありました。
そこでは「十方台上」と言い、「慮舎那」と書かれてあります。
ところが、右の文では「慮舎那」の「舎」が「遮」の字に変わり、それから「毘」の字が加わって「毘慮遮那」になっております。
つまり、同じ『観心本尊抄』のなかに二つの異なった示され方があるのです。

 それはどのように違うかといいますと、華厳経には新訳と旧訳とがありまして、最初に鳩摩羅什等の訳場において訳された華厳経は旧訳の華厳経で、六十巻のほうなのです。(※ 翻訳は一人で行われたものもありますが、多くは何人かで役割分担して、効率よく行われました。翻訳する作業場を訳場といいます。訳場は訳経道場の意味です。)
そのほうは「慮舎那」と訳されています。
ところが、その後において、唐の時代に実叉難陀(じっしゃなんだ)という人がさらに華厳経を持ってきて、そして則天武后の要請によって訳しました。
(※ 武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。

生年 武徳7年1月23日
(624年2月17日)
没年 神龍元年11月26日
(705年12月16日)

つまり、六十巻の華厳経でいいのだけれども、則天武后という人が、華厳宗の宗旨にあまりに肩を入れ過ぎてしまい、もっといい華厳経があるということを聞いて、インドへ遣わして求めたのが八十華厳と言われる八十巻のほうの華厳経であり、これを新訳と言うのです。
その新訳のほうの仏についての訳し方は、ここにある「十方台葉の毘慮遮那仏」となっているのです。

それでは「慮舎那」と「毘慮遮那」とは、どのように違うのかということですが、これは要するに、本来、仏身は一身ではなく、三つと二つの身がなければならないという問題なのです。

無量無辺の宇宙法界の法も、実は空・仮・中の三つの形で、はっきりと正しく真理を示すことができる。
それと同じように、それを悟る仏も、法身・報身・応身という三つの身があるということが、諸経において多く示されているのです。

この前に挙げられた普賢経にも、
 「仏の三種の身は方等より生ず」 (同六五二)
とある。
この 「三種の身」というのは、要するに法身・報身・応身のことであります。
そういう意味からすると、それが既にインドの経典にあるのだから、それを中国へ持ってきて翻訳する場合には当然、三つの翻訳の仕方がなければならないのです。

 しかるに、この 「毘慮遮那」という言葉は、昔から法の身と訳しておるのです。

それから「慮舎那」という言葉を報身、それから「度沃焦(どよくしょう)」を応身の仏様というように、三つに訳したわけです。
当然、三つに訳したのだから、報身と法身との仏の内容は違うことが明らかなのです。
その区別を無視して一緒にしてしまったら、大変な間違いが生ずるのです。

 ところが、華厳の教主は報身であるとして、そのように羅什が正しく訳され、それによって天台大師も法身と報身と応身のそれぞれの立て分けをきちんと示されているにもかかわらず、新訳の八十華厳のほうでは、報身を法身の意味で毘慮遮那と訳してしまったのです。
ですから、天台の第六祖の妙楽大師という方が、その新訳で毘盧遮那と訳してあるのは、はなはだしい間違いと指摘され、仏身において二つと三つがあるのを勝手に一つの法身として混乱させておる、法身と報身という二つの意義をきちんと立て分けていないということを、『文句記』 に、
  「近代の翻訳は法(身)報(身)に分たず、三(身)二(身)を弁ずること莫(な)し」 (文句会本下二五〇)
と述べて破折しておるのであります。

 それでは、なぜ大聖人様がここにおいて毘慮遮那という新訳を使われたかといいますと、ここのところは華厳と真言の誤りを示されるところなのです。
故に、敵の木剣を取り上げて敵を討つように、その華厳の誤りを顕す意味から、このように示されておるのです。

次の「大集雲集の諸仏如来」というのは、大集経という方等部の経典の仏を挙げられたのです。
これは、大集経という経典には三回にわたって、あちらこちらの仏様が誓って、その仏に囲まれて釈尊が教えを説いたと言われております。
欲色二界の中間の、大宝坊という坊のなかで説かれたということです。

この「雲集」というのは、雲の如く仏様が集まったということですが、なぜそのようにたくさんの諸仏が集まったのかといいますと、釈尊が最初、方便の教えを説いたものですから、小乗の人々は空の教えだけに執われていたのです。
そうすると、その世界観ではほかに仏様は全然いらっしゃらず、仏様はただ我が眼前において四諦の教えを説かれておる、お釈迦様だけであるという考えを持っておりました。

ところが、仏法の広大さはそんなものではない。
大乗の教えからいくと、時間的にも空間的にも、凡夫の肉眼的認識を超えて教えの内容が広いのだということを示すために、釈尊が諸仏を集められたのです。
そして、それによって諸仏があることを示すと同時に、大乗の教えに眼を見開かしめるという意味がありました。
そのために「大集雲集」という集会の相が示されておるのですが、これらの仏様は釈尊の分身ではないのであり、十方の諸仏のなかから仏様が集まったということです。

次に「般若染浄の千仏示現」とあります。
このうちの「染」は、すなわち煩悩に染まったということ、いわゆる迷いを対象として、ごれに対する教えが説かれたのがが小乗の但空です。

また「浄」は「きよい」という意味から、仏様の勝れた境界、すなわち悟りということであり、この染と浄に対する二つの教法が挙げられております。

この染浄は一往、迷いと悟りに対処する、小乗と大乗という正反対のものであるが、真の大乗の教えである空というものに達観するならば、その区別は存在しない。
したがって、小乗も大乗もなく、ことごとくが菩薩の道であるという意味で、相対的な染浄を止揚した高い次元の法、(※あるものを、そのものとしては否定しながら、更に高い段階で生かすこと。矛盾するものを更に高い段階で統一し解決すること。止揚。揚棄。アウフヘーベン ヘーゲル・弁証法)すなわち八不中道(※竜樹の「中論」に説く道理。不生・不滅、不常・不断、不一・不異、不来・不出の八つの否定を通して、とらわれのない正しい見方が得られるということ。)と言う如き法を般若経において説かれておる。
そこに千仏が示現したというわけであります。

 そして次に「大日・金剛頂等の千二百尊」とあって、ここで初めて密教の大日等を挙げられております。
故に、ここのところでは、まず顕教を三つ挙げられ、その次に密教のことを示されるという順序になっております。

 さて、大日経、金剛頂経等の経典において千二百の仏様が現れてきておる。
それは種子漫荼羅等において、胎蔵界・金剛界という二つの、大日如来の深い悟りの内容があり、そのなかにおいて仏がいっぱい充満しておるということを示すのです。

そのなかで、金剛界においては五百、胎蔵界においては七百の仏がおられるというような、密教の勝手な荘厳であり、それについて「千二百尊」と仰せであります。

 ただし、現在伝わっている密教関係の文献からいくと多少の相違があります。
すなわち、胎蔵界のほうは千四百、金剛界のほうは四百ということになっておりまして、両方を足すと千八百になるのでちょっと数が合わないけれども、これは大聖人様の時代に、大聖人様が色々な面から密教のことも調べられた文献のなかにおいて「千二百」という経文があったと拝せられます。

 次の 「但其の近因近果(ごんいんごんか)を演説して其の遠(おん)の因果を顕はさず」 の文は、以上の数々の非をまとめて破折された重要な意味があります。

これらの仏を示現して法を説かれたのはすべて釈尊であるという鉄則の上から、釈尊がこの十方の諸仏を示現したことを、その化導の意義の上から示されるのです。

 その釈尊のお立場はどうかといえば「近因近果」を示したのみである。
ここに示される「因」とは修行、つまり因行と言い、因によって果を得るということであります。
すなわち、原因があって結果を得る。
これは、世の中のことは全部そうであり、すべて原因があって結果があるのです。

 今の人は、悪い原因を行っても、悪い結果が来るように思わない。
だから、平気で悪いことをする。
悪いことをすれば必ず、悪い結果が来て不幸になるのは決まっているのだけれども、それが密かに行えば、他の人には判らないと思うのです。
だから、みんな悪いことをしております。

 それは因果を信じないからです。
因果の道が本当に解れば、悪いことはできません。
悪いことをしたら、悪い結果は、もし今世に来なければ来世に来る。
来世に来るほうが、その報いは重いのです。
今世に報いてくるのは、まだまだ軽いほうです。
そういう点から考えてみると、本当にこの因果というのは恐ろしいのです。

また、善いことをすれば、必ず善い結果が来る。
だから、その総合的、最高的な善行が本当の仏に成る修行をすることであり、それを因行と言うわけです。
それによって勝れた果徳を得る、いわゆる因行果徳ということです。

それが「近因近果」というのは、近は遠に対する語、仏の出現による因果の相の時間的な遠と近の違いがあるなかで、成道の因果の近いことを言います。

つまり、小乗や権大乗の仏として低い次元の教えによる因行を示し、また、したがってその果徳を示すのみであるということであり、その「遠の因果」すなわち、本門の仏として真実の遠いところの因果を顕していないのである。  

 これはどういうことかというと、一番元の法体がないということです。
本が無くて、今有るということは、本無今有と言って根なし草のようなものです。
どこへ流れていくか判らない。
だから結局、確実な仏道の結果というものは得られないのです。

 結果が得られなければ結局、水泡に帰するので、その教えによる人は不幸な状態になっていくわけです。
そういうようなことは、みんな方便の教えから来ておるからである。
つまり、華厳経、大集経、般若経等の顕教と言われる教え、それから大日経等の密教と言われる教えも、すべて仏の近因近果のみを説いて、根本の因果がないのであるぞと示されるのであります。

 次に「速疾頓成之を説けども」とあるなかの「速疾頓成」とは、これらの経々において修行する菩薩等が、生きている間に仏様に成るという、即身の成道が説いてあるということです。
これは華厳経のなかに説いてあると言われております。
それから大日経にも説いてあります。
 例えば、華厳の教えのなかで、
 「初発心の時便(すなわ)ち正覚を成ず(初発心時便成正覚)」 (御書四等)
という言葉がある。
仏教についてちょっと発心をしたというのが「初発心」であります。
そして「便成正覚」という「便」は、「便」という経文と「即」という経文とがありますが、どちらも「すなわち」という意味です。
つまり、初発心時において便(すなわ)ち正覚を成ずるということで、いわゆる 「速疾頓成」 です。

 それが、華厳の教えにおいて十玄六相と言い、重々無尽、不可思議、微妙の十種の法があり、そういう法を色々に解釈し、沈想するところ、一生において「便成正覚」ができるということが華厳経に説いてある。
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じゅうげん‐えんぎ ジフゲン‥【十玄縁起】

?名? (「じゅうげんえんぎむげほうもん(十玄縁起無礙法門)」の略) 仏語。華厳宗で説く重要な教説。万有の一切の現象が時間的にも空間的にも互いに入り交わり、さまたげることなく、一体となって関係しあうことを十方面から説明し、それがもののありのままの本性にかなっていることを示したもの。この説き方に古十玄・新十玄の二つがある。十玄門。
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華厳六相
「総別・同異・成壊」の三対とは「総=別、同=異、成=壊」のことをいう。「総じるか、別するか」「同じくするか、異なるとみなすか」「成していくか、壊していくか」、そこを問う。
 問うのだけれど、総か別か、同か異か、成か壊かを選ぶのではない。選ばない。放ってもおかない。それぞれを表裏一体に見て、その表裏ごと入ったり出たりさせる。そうなるように考え方を動かすのである。ヨーロッパ思想的にいえば、両義的に捉えるということなのだが、実は捉えるのではなく、そういうふうに仕向けていくわけだ。
 華厳はそういう相互相似的な世界観をあらわすために、「総別・同異・成壊」を組み合わせる宗教言語を使いつづけた。


仏教用語。すべての存在がそなえているという6種の姿のことで,総相,別相,同相,異相,成相 (じょうそう) ,壊相 (えそう) をいう。
華厳宗ではすべての存在がこれらをそなえ,部分的にも全体的にも完全に調和し合っている (六相円融) という。
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華厳宗においては澄観という人が、それをまた解釈しております。

 真言宗においては、善無畏三蔵という人が 『大日経義釈』というのを作って、経の解釈をしていますが、そのなかで大日経を修行することによって一生のうちに仏に成るということが説いてある。
それも「速疾頓成」と言うのであります。
「速」は「すみやかに」、「疾」は 「とく」という意味であります。
また 「頓」は 「とみに」というわけでありますから、これら三文字の意味するところは、漸という言葉、すなわち、ゆっくりということでなく、いっぺんに、直ちにという意味であります。

 このようなことが華厳、大日経等において説いてはありますが、一代仏教の教相における成仏の時期は、小乗経の三阿僧祇劫、諸大乗経の動踰塵劫、無量阿僧祇劫等であり、このようにわけもなく凡夫が直ちに仏に成るということは、はなはだ不可解です。

 つまり、その成仏の根拠がありや、なしやという問題です。
その根拠のないことは、実は「三・五の遠化(おんけ)を亡失(もうしつ)し」ておる。
したがって「化導の始終跡を削りて見え」ない。
この「三・五の遠化」というなかの「三」とは、三千塵点劫という大通智勝仏の覆講の法華経のことを言うのでありまして、これは法華経の化城喩品という品に説かれております。
それから「五」は五百塵点劫という意味でありまして、これは寿量品に、
  「五百千万億那由他阿僧祇」 (法華経四二九)
といって、五百塵点劫という化導の意義による語が出てきますが、この「五」という数字はそのことです。

 すなわち、三千塵点劫の昔において仏の種を下し、それが元になって舎利弗、目連等の人々は仏道の根本を植えられたのである。
その後、退転したが、今番の釈尊に値って昔の種を覚知し、それによって仏に成ることができたということが法華経に説かれてある。

五百塵点劫の化導においては、さらに長大な仏の真実の下種化導があり、迹門三千塵点の時の衆生は、本門が顕れれば本門による下種の衆生となるのです。

 それに対して、華厳経等において即身成仏するということが説いてあると言うけれども、ただそれだけを突如として示してあるのです。
これが実に問題です。
結局、華厳経、真言経等において衆生が成仏をすることができる具足の道、仏の種というものを説いているかというと、説いていないのです。
一念三千の仏の種は、どこにも説いてありません。
したがって、即身成仏とは名前だけで実体が無い。
これを有名無実と言うのです。

 また「化導の始終」というのは、仏様の化導に始めと終わりがあるということです。
始めというのは、迹門では三千塵点劫の始めを言うのです。
あの大通智勝仏の十六王子の一人としてお釈迦様が生まれて法華経を説いた、いわゆる法華経の化城喩品に説かれてある法相でありますが、そこが始めで、そして中間があって、最後成仏の終わりがある。
それで「始終」と言うわけです。

また、本門五百塵点劫ということからいけば、五百塵点劫の昔と、それから中間と、今日のお釈迦棟の霊山の化導というような意味で、法華経には必ず化導の始終というものが説かれてある。

 しかるに、華厳経、大日経等にはそれが全く見えない。
故に、突然に即身成仏というような大事を言うが、その根拠は全く見当たらないと指摘されてあります。

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華厳経・大日経等は一往之(これ)を見るに別円四蔵(しぞう)等に似たれども、再往之を勘ふれば蔵通二教に同じて未だ別円にも及ばず。本有(ほんぬ)の三因之(これ)無し、何を以てか仏の種子を定めん。

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さて、次に「華厳経・大日経等は一往之を見るに別円四蔵等に似たれども」というのは、このところより、教理の上からこれらの経々が劣っておることを指摘されるのです。
一往、そこに示される理を見るならば、別教とか円教というような高い教えを説くように見える。
また「四蔵」というのは、まず蔵・通・別・円が四蔵という意味であります。ただし、この四蔵については種々の説があります。
一説では経・律・論の三蔵に、雑蔵といって仏・菩薩の昔の因縁や事蹟を説いた経を加えて四蔵と言うこともあり、天台の『玄義』には声聞蔵・雑歳・菩薩蔵・仏蔵という四蔵を挙げて、それを蔵・通・別・円の四教に配しています。

 さて、大聖人が四蔵の名をお挙げになったのは、天台の四つの解釈のうちの仏蔵、つまり仏乗を中心とする意味をもって挙げられたのです。
すなわち、華厳、大日経等に仏乗を説いているようであるから、したがって「似たれども」と言われつつ、「再往之を勘ふれば」、実にはそうでないと断ぜられるのです。

 また「別円」というのは、今言った四蔵のなかの高い二つの教であり、円教が一番最高の教え、そして次が別教であります。
それで、蔵・通・別は全部、円教から出た方便の教えですが、そのうちで別教と円教は大乗であります。

 さて、この「別円四蔵」はまた、華厳と大日の教味の内容をそれぞれに当てはめて仰せられたとも解されます。
すなわち、通常の教味内容よりすれば、華厳経は「別円」教であり、それから大日経等は「四蔵」、この場合は蔵・通・別・円の四教に配当する意味の四蔵であるということです。

 大日経等について、密教は全部の顕教より勝れた教えであるなどと言うのは、善無畏とか弘法大師等の真言密教の者達だけなのです。

本来、天台の本筋からいって、大日経等が中国に入ってきた時に早速、天台の正しい教えの人々がこれを判釈して、それではどこに入れるかというと、蔵・通・別・円四教含蔵の方等部の経典に入れるのが当然だということを決判しております。

 大日経には今言った蔵・通・別・円の四つの理が全部入っているから、これらは無論、真実もあるが、方便をも含んでいる教えであって、全く方等部の経典である。

華厳には円に別という余分なものがついており、大日経は円に蔵・通・別という余計なものがあって、円の正しい全分の用きが顕れません。

 まして再往、大聖人の本門のお立場からの決判では、先程言ったように「三・五の遠化」すなわち、三千塵点劫、五百塵点劫という上からの遠い仏因があり、その仏乗種を衆生に対して与え示してきたということ、その化導の始めと、それから今番の終わりというものがあって初めて、成仏がここに確立するというところの法華経の仏種は、これらの二経には全く存在していない。
そういう点から論ずるならば、仏種がないという意味において、むしろ「蔵通二教」と全く同じであると、厳格に断定されるのです。

 このような大見識によって、華厳あるいは大日経などというような、奈良の大仏や大日真言密教の教えが今でも、さも有り難そうに存在しているけれども、これらは大乗教にも当たらない、蔵教・通教のような小乗教なのだとおっしゃっております。
これはたいへん大事なところであります。

 これはなぜかといいますと、仏種というものが全くないという点では、先程言った、根拠のない根なし草の如き教えになってしまう。
いかに哲学的に高いような教えを説いても、結局、とどの詰まりが仏の種自体が存在していないのである。したがって、成仏の跡形もなき空無の教えに帰してしまうから、蔵通二教の空理と等しくなってしまいます。
その空無に帰する義において、全く蔵通二教と変わりがないのであるから、当然、別教、円教にも及ばないのであると断定あそばされるのであります。

 次の「本有の三因之無し、何を以てか仏の種子を定めん」という御文が、華厳、大日等が蔵・通に同ずると言われた意味の結論とも言うべき法門です。

 この「本有」というのは、もともととか本来という意味です。
本来、先天的にずっと所有しておるところの仏の種、仏性ということです。

 また「三因」ということは三因仏性のことです。
先程も三つの面から見て初めて、宇宙法界の真理は正しくこれを知り、また説明することができるのだということを述べたとおり、仏性にもまた三つあるということです。
それが本来、本有であるということがまことに大事なことであります。

 その三つというのは、正因仏性・了因仏性・縁因仏性という三つの仏性ですが、正因仏性というのは、一切衆生に本来具わっている仏の命ということであります。
これは大乗教で説いておりますが、小乗教では説きません。
だいいち、小乗教では一切衆生が仏様に成れるなどということは説かないのですから、仏性の有無も当然、関係ありません。
しかし、法華経では衆生に、先天的にそれらの性があるということを説いております。

 ところが、権大乗教では了因仏性、縁因仏性が先天的にない、つまり了因仏性、縁因仏性は先天的ではなく後天的だと言うのです。
だから、その了因仏性、縁因仏性というような種が先天的にない衆生のうちで、後天的にそれを起こすことができない決定性の二乗は、絶対に仏に成れないということになります。

 さて、正因仏性とは中正の義であり、仏性の有のみに執われれば修行の必要がない。
また、無に執われれば成仏不可能となる。
この有無両辺を照らして、しかも有にあらず、無にあらず、不思議の中道の妙理として一切衆生に具わる仏の命であります。
これが一切に遍く内在するというのが、大乗円教の実理であります。

 次の了因仏性とは顕了の義であり、迷妄を打ち破って自ら本来存在するところの正因仏性を自覚し、それを顕す性を言うのであります。

 三に、縁因仏性というのは資助の義であり、仏と成るべき資(たす)けとしての善根、功徳を起こすところの仏性を言うのであります。

仏様にお供えしているお華が枯れかけてきたから買って帰ろうとか、御仏前を掃除しようとか、勤行する時にお灯明をあげようというような一つの事柄、あるいはまた、あの人に仏教のことをひとことお話ししようというような事柄が一つの善根、功徳になるわけです。
この善根、功徳によって初めて、了因仏性がその縁によって起こってくるのです。
そういうことから、御本尊に向かってお題目を唱えるようになる。
ですから、縁因仏性がなくして悟りは出てこない。
そういう意味で縁因仏性というのは大事なのです。

 金を誓えにすると、土の中に金の塊があるとします。
その金が土の中に埋まっている状態は正因仏性なのです。
本来、存在するけれども見えない。
そのように正因仏性は、あらゆるものに存在しているけれども、それを見ることができない。
それを今度は、土を掘って金を取り出す作業、これが縁因仏性の開発に当たるわけです。
それで最後に取り出して、金それ自体が顕れて煌々たる光が輝く、これは了因仏性が顕れてくるという意味であります。
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天台大師は、三因仏性を土の中に埋蔵された金に譬えています。
土の中に金の塊が埋まっている状態を正因仏性に譬え
金の蔵することを智慧によって知ることを了因仏性に譬えます。
そして、雑草を取り除き、土を掘って金を取り出す作業を縁因仏性に譬えています。
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 しかし、諸経においては、その縁因、了因の二つは先天的には全くなく、後天的なものだと言います。
ところが、法華経ではそうでなく、あらゆるものにこの三つが先天的に具わっておるのだというところが、この「本有の三因」ということなのです。

 天台大師の『摩訶止観』第五の一念三千を説かれたところについて、妙楽大師の『弘決』の文に、性徳といって衆生に本来具有の徳を論ずるところで、三千即中の性は正因、三千即仮の性は縁因、三千即空の性は了因ということを示しております。
要するに、妙法の正理より照らすところ、空仮中の真理は法界に遍満する故に、それをもって正しく照らせば、宇宙法界一切の万物ことごとく、正了縁の三因仏性を具えるということであります。

 つまり、本来具わっておるもの、不幸の要素も幸福の要素も乃至、地獄も餓鬼も畜生も乃至、仏界もことごとく、一法を挙げればすべてに具わっておるというところが三千即中、すなわち正因仏性であります。

 そこから一歩出て、縁に随って、そのなかから蛇という形にもなれば、鬼という形にもなる、あるいは仏の形にも、菩薩の形にもなっていく。
それは全部、縁によるところの姿という意味からすれば、三千即仮の姿、すなわち縁因仏性の意義が存するわけです。
その道理をうまく活用していけば、あらゆる人のなかに仏の幸福な命を顕すことができる。
そういう意味から見ると、これは縁因仏性であります。

 さらに、それを決了し、迷いを払拭して正しい諦理を開くところに、三千即空の了因仏性というものが存する。
いわゆる執着の一念は種々雑多ながら、なんらかのところに執われているわけですから、事々物々の平等性、つまり絶対空の真理というものを悟るところが了因仏性となってくるのであります。

 この三仏性が本来、先天的に有していることが明らかとなって初めて、一切衆生にことごとく仏性を持つことが徹底するのであり、これが「本有の三因」であります。

 そして、そういう「本有の三因」ということを説かれておるのはどこによるかといえば、法華経以外にないのです。
したがって「何を以てか仏の種子を定めん」と喝破あそばされるのであります。
すなわち、法華経以外の教えにおいては、「速疾頓成」というようなことを偉そうに色々言って、衆生を誤らせておるけれども、二乗作仏もなく、真実の十界互具としての仏種子はないから成仏などありえないのである、と言われておるのです。