但し会(え)し難き所は上の教主釈尊等の大難なり。此の事を仏遮会(しゃえ)して云はく「已今当説、最為難信難解」と。次下(つぎしも)の六難九易是なり。天台大師云はく「二門悉(ことごと)く昔と反すれば信じ難く解し難し。鋒(ほこさき)に当たるの難事なり」と。章安大師の云はく「仏此を将(もっ)て大事と為(な)す、何ぞ解し易きことを得(う)べけんや」と。伝教大師云はく「此の法華経は最もこれ難信難解なり、随自意の故に」等云云。夫(それ)仏より滅後一千八百余年に至るまで、三国に経歴(きょうりゃく)して但(ただ)三人のみ有りて始めて此の正法を覚知せり。所謂月支(がっし)の釈尊、真旦(しんだん)の智者大師、日域の伝教此の三人は内典の聖人なり。問うて曰く、竜樹・天親等は如何。答へて曰く、此等の聖人は知って之を言はざる仁なり。或は迹門の一分之(これ)を宣べて本門と観心とを云はず、或は機有って時無きか、或は機と時と共に之無きか。天台・伝教已後は之を知る者多々なり、二聖の智を用ゆるが故なり。所謂三論の嘉祥(かじょう)、南三北七(なんさんほくしち)の百余人、華厳宗の法蔵(ほうぞう)・清涼(しょうりょう)等、法相宗の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)・慈恩(じおん)大師等、真言宗の善無畏(ぜんむい)三蔵・金剛智(こんごうち)三蔵・不空(ふくう)三蔵等、律宗の道宣(どうせん)等初めには反逆を存し、後には一向に帰伏(きぶく)せしなり。
 但し初めの大難を遮(しゃ)せば、無量義経に云はく「譬(たと)へば国王と夫人(ぶにん)と新(あら)たに王子を生ぜん。若(も)しは一日若しは二日若しは七日に至り、若しは一月若しは二月若しは七月に至り、若しは一歳若しは二歳若しは七歳に至り、復(また)国事を領理(りょうり)すること能(あた)はずと雖も、已(すで)に臣民に宗敬(そうきょう)せられ諸の大王の子を以(もっ)て伴侶と為(せ)ん。王及び夫人の愛心偏(ひとえ)に重くして常に与(く)みし共(とも)に語らん。所以(ゆえん)は何(いかん)、稚小(ちしょう)なるを以ての故にといはんが如く、善男子是(こ)の持経者も亦復(またまた)是くの如し。諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子(みこ)を生ず、若(も)し菩薩是の経を聞くことを得て、若しは一句若しは一偈、若しは一転若しは二転、若しは十若しは百、若しは千若しは万、若しは億万恒河沙(ごうがしゃ)無量無数転せば、復真理の極(ごく)を体すること能(あた)はずと雖も、乃至已(すで)に一切の四衆八部に宗(たっと)み仰(あお)がれ、諸の大菩薩を以て眷属と為(せ)ん、乃至常に諸仏に護念せられ慈愛偏(ひとえ)に覆(おお)はれん。新学(しんがく)なるを以ての故に」等云云。普賢経に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵十方三世の諸仏の眼目(げんもく)なり、乃至三世の諸(もろもろ)の如来を出生する種(たね)なり、乃至汝大乗を行じて仏種(ぶっしゅ)を断ぜざれ」等云云。又云はく「此の方等経は是諸仏の眼(まなこ)なり、諸仏是(これ)に因(よ)って五眼(ごげん)を具することを得(う)、仏の三種の身は方等より生ず、是(これ)大法印にして涅槃海(ねはんかい)に印(いん)す。此くの如き海中能(よ)く三種の仏の清浄の身を生ず、此の三種の身は人天(にんでん)の福田(ふくでん)なり」等云云。

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 右文を拝説するに当たり、ごく簡略に前からの流れを顧みますと、「まさしく受持に約して観心を明かす」という意義において、
一には教主に関しての難問と、
二には経論についての難問があり、それぞれ種々なる質問の内容が述べられてきました。
これに対する答えも当然、二つありますが、この質問の順序が答えでは反転し、教主に対する難問はあとに回され、先に経論についての難問を答えられたのが前回のところ(御書六五〇 一二行目〜六五一 五行目)であります。

 このたびの右の文は、いよいよ教主に関しての難問の答えが始まるのであります。
 この教主に対する答えが、また大きく三つに分かれています。
その一は「難信難解」を示す文であり、前からの質問として、爾前・迹門・本門の上からの教主釈尊の修行と、その結果における広大な徳が凡夫に具わることは到底、理解できないという大難である。
しかし、それは仏が真実本懐を説く法華経が難信難解であるからだとして、その意における関連事項が改めて述べられるのです。

 その二は「所受の本尊の徳用を明かす」という意義を示されます。
これに二あるうちの初めは、経を引いてその意を示されるのです。
すなわち、真実の観心修行は単に自分だけの修行ではなく、その根本に勝れた功能(くのう)ある成仏の種子を持有する法体〜すなわち本尊があることを、無量義経と普賢経の文を引いて論証されます。

 右に挙げた文は、このところまでです。
あとは次々に挙げていく文のところで、その要旨を簡略に申し述べます。

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但し会(え)し難き所は上の教主釈尊等の大難なり。此の事を仏遮会(しゃえ)して云はく「已今当説、最為難信難解」と。次下(つぎしも)の六難九易是なり。
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 まず「但し会し難き所は上の教主釈尊等の大難なり」と示されております。
この「会し難き所」というのは、納得させ、了解させることが難しいということで、難問者が前のところで問う「教主釈尊等」という大難のことです。

 つまり、以前からの問いにおいて、教主釈尊という方のお徳を四種にわたって挙げているのです。

 まず第一に、教主釈尊という方は「三惑己断の仏」であると述べます。
この「三惑」ということは、単純に三つの惑と言うけれども、人間の迷いということから考えていくと、実に無量の意味があり、内容は深大であります。
その迷いのことごとくを断ぜられた方であり、一切の人々から尊敬をされるのが仏様であると言うのです。

 第二に、四十余年間、様々の教えを説かれて、その教えの因と果を共に修得された方である。

第三に、法華経の迹門という一乗の教えを説かれるに当たって、その仏と成った原因と結果を挙げられておる。

さらに第四に、本門の寿量品の上からも、その仏の広大な因果が存するという次第であります。

 そこで、難問者は教主釈尊という仏様の位、また仏様に成った原因と結果というものは、我々凡夫が全く窺い知ることのできない、勝れたお徳のある方である。
しかるに、その心の大きさ、智慧の大きさ、そういう仏様の持っておられる一切の徳が我々凡夫にも具わっておるということを、あなたは主張し、しかも、それは我々人間界だけでなく、餓鬼界にも畜生界にも具わるというのは到底、信じられないことであるというのが、この大難です。

 畜生は全く仏法の道理も何も解らない状態に見えます。
それでも最近は色々と科学が発達し、観察をしたり色々な実験をして、今まで我々が思っていたよりも色々な精神の働きがあるということが、だんだん判ってきております。
これは科学が法華経の大真理の一分を、実験証明の上からだんだん解いてきておる姿だと思うのですが、法華経という仏様の偉大な悟りからいくと、全生命に仏の命があることをまず喝破し、道破されておるのであります。

 まして、地獄界の衆生などというのは、我々はよく知らないことです。
現代でもときどき、幽霊を見る人がおります。
それは因縁があるから見るのです。
だから幽霊の出た同じ所にほかの人が行っても、見えない場合もあります。
ところが、ある因縁があると、つまり因と縁で諸法は存するのですから、因たる自分にしかるべき原因があり、縁たるものがそこにいて、その間に過去の悪業の因縁、いわゆる地獄界の因縁があれば、やはりそこに幽霊が出てきて、それに対して感知することがあるのです。

 地獄界の衆生というのは、そればかりではなく様々な姿がありますが、とにかくそういう地獄界の衆生は実に苦しんでおる。
その地獄界の衆生の心、乃至餓鬼の心、畜生の心等の一切のものに仏様の命が厳然として具わっておるということを道破されるのが法華経の一念三千ですが、そういうことは到底、信じられないというのが、前々からの問いによる大難であります。

 それに対する答えとして示されるのが、「此の事」以下の、仏の言は信じられないであろうが、釈尊は四十余年間の方便の教えを捨てて真実の法華経を説かれるに当たり、重々の用意と深い御苦心の上から、このように示されておるという、答者の弁明です。

 すなわち「此の事を仏遮会して云はく『己今当説、最為難信難解』と」と示されます。
「遮会して云はく」とは、到底そのようなことはありえないであろうという難問者の疑いを遮り、会得させるため、仏が次のように仰せである、という意味です。
そして、仏の語として「己今当説、最為難信難解」という経文が引かれます。

 法華経の第十番目に法師品という品があり、その品に、

  「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」 (法華経三二五)

という御文があるのですが、これを省略してここに「已今当説、最為難信難解」と挙げられたのです。

 これは前にも説明したことですが、「已に説き」とは法華経以前の華厳、阿含、方等、般若等の四十余年間に色々に説かれた、釈尊一代仏教のほとんどが、この已説です。
「今説き」というのは、法華経の開経として直前に説かれた無量義経です。
また「当に説かん」というのは未来ということで、涅槃経を指します。

 この已今当の三説のなか、法華経が最も難信難解であるということなのです。したがって、法華経について「三説超過」という言葉があります。
いわゆる已に説き、今説き、将来に説くところの三説に超過して勝れた教えが法華経という意味であります。
その法華経が「最為難信難解」なのであり、反面、法華経以外の三説は全部、法華経に対して易信易解であるのです。

 仏は無量の差別ある衆生の機に対し、種々に対応されます。
それは浅いところから深い境界のところまで色々だけれども、しかし仏様の法華経の悟りから見るならば、他の経々はすべてが低いところであり、易信易解だという意味です。

 そういうことで、法華経以外の已今当の三説は信じ易く解し易い。
しかし法華経は、衆生の機にとって難信難解であると、仏が自ら弁明警告される言を簡略に引かれてあります。

 次に「次下の六難九易是なり」とある「六難九易」というのは、宝塔品で説かれる内容であります。
法師品の次が宝塔品第十一であり、正像末の三時の衆生を導くために仏法上、その弘通に関し、最大最高の問題を釈尊が提起される品なのです。
それと同時に、多宝如来が涌現されるなど、法華経のなかでも大事な意味を持つ品であります。

 六難九易とは、その宝塔品の最後のところで釈尊が、法師品で説かれた已今当説の意を受けて、それを六つの難事と九つの易事に説き、法華経がいかに難信難解であるかを述べられたのです。

 これも既に前に出たことですが、簡略に再説すれば、その六つの難事とは、
一に仏滅後において悪世のなかで法華経を説くということ、
二に法華経を自らも書き、人をしても書かしめるということ、
三に法華経を読むこと、
四によく持って一人のためにもこの法華経を説くということ、
五に法華経の義趣を質問すること、そして
六に法華経を奉持するということ、

この六つのことが実にでき難いと言われるのです。

 ところで、その六難に対して難しくないという、易しい九つのことを対照的に挙げられます。
すなわち、
一に他の恒沙の如く多い経典を説くこと、
二に広大な須弥山を他の仏土に擲(な)げること、
三に足の指で大千世界を動かし、他国に擲げること、
四に有頂天 (非想非非想天) で無量の余経を演説すること、
五に手に虚空を把(と)って遊行すること、
六に大地を足の甲の上に置いて梵天に昇ること、
七に大火の起こる時、乾いた草を背負って中に入っても焼けないこと、
八に八万四千の法蔵を持って演説し、六神通を得せしむること、
九に法を説いて千万億無量の人に阿羅漢の益(やく)と六神通を得せしめる、
という九つであります。
これほどの難しい九つのことが、末世に法華経を説く等の六難に対すれば易しいとの意です。

 それなら、仏は何故、このような六難を挙げられたかといえば、末法において法華経を読み、あるいは説き、あるいは持つことは、仏の智慧をそのまま持つが故に、これが難しいと同時に、末代の無知の者のなかでこれを説き、信ずれば、必ずそれに対して大きな迫害が起こるということがあります。

 すなわち、この六難九易は末法濁悪の世を救わんがため、釈尊は法華経を説き、これを地涌の菩薩に付嘱して、法華の大光明を顕すための大目的によって説かれたのであり、これは末法出現の法華経の行者の振る舞いを見越しての大予言なのであります。

 故に、その予言の元は、大聖人様が法華経の行者として経文の一々を身読されて、その法華経受持と弘通により無量の大難をお受けになり、そこに法華経の正しいことを証明あそばされるのであります。
故に、大聖人様はこの教主に関する問答のなかで、特にその文証として六難九易を挙げ給うと拝されます。

 要するに、法華経に説かれてあることを信ずることが難しいのである。
したがって、ここでは法華経に説かれてあるところの、どんな極悪の者にも仏性があるということを信ずるのは、たいへん難しいということの例証であります。
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天台大師云はく「二門悉(ことごと)く昔と反すれば信じ難く解し難し。鋒(ほこさき)に当たるの難事なり」と。章安大師の云はく「仏此を将(もっ)て大事と為(な)す、何ぞ解し易きことを得(う)べけんや」と。伝教大師云はく「此の法華経は最もこれ難信難解なり、随自意の故に」等云云。夫(それ)仏より滅後一千八百余年に至るまで、三国に経歴(きょうりゃく)して但(ただ)三人のみ有りて始めて此の正法を覚知せり。所謂月支(がっし)の釈尊、真旦(しんだん)の智者大師、日域の伝教此の三人は内典の聖人なり。

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 この「天台大師」以下は、右に引かれた法師品、宝塔品の経文の難信難解の意義を、さらに天台・章安・伝教の三師も述べているという例証として挙げられるのです。

 まず天台大師の「二門悉く昔と反すれば信じ難く解し難し。鉾(ほこさき)に当たるの難事なり」という言葉を引かれております。
このなかの「二門」とは、前にも出ましたが、法華経の迹門と本門という二つであり、迹門はいわゆる諸法実相という上から、一切衆生の命に具わっておるところの不可思議の実相の意義を示されておる。
これは、一切衆生がことごとく不思議の命を持っておるということを一人ひとりが知らないで、自覚なく生活をしており、そのために悪縁・悪業に染まって不幸な状態に陥っておる。
しかし、その本当の事柄は、高位の菩薩でも知ることができないほどの尊い不思議な命を持っておるという意義が諸法実相として、また「如是相、如是性、如是体」等の文において示されております。
また「二門」 のうちの本門のほうは、いわゆる寿量品の教えにおいて、久遠の仏様の永遠無始の寿命というものが説かれてある。
これはまた、その元意において一切衆生の永遠の寿命を示すものなのです。

 この二つのことは、法華経以前の経々において全く説いていない。
ほかのあらゆることは爾前経においても説かれております。
 しかし、真実の心の深さと広さにおける正しい見方と、仏様の正しい寿命という二つの意義だけは法華経にのみ説かれてあって、爾前経には説いていないのです。


心というものの片端、片端だけが爾前経に説いてある。
今、真言宗、禅宗、念仏宗というような爾前経の宗旨が月本にかなり残っていますが、世間の人はみんな、仏教はそんなものだと思っている。
したがって結局、その真実の法を説いた法華経というものを信じることができないので、教育でもなんでも、本当の徹底がない。
それがやはり、社会悪や思想の混乱による色々な人々の不幸に結びついておるということを考えなければなりません。

 それはともかく、法華経の本迹二門の教えは全く爾前経と反しておるのである。
したがって、そういう意味ではこの法華経が信じ難く、また解し難いという天台の言なのです。

 次に、続いて「鉾に当たるの難事なり」というのは、昔の戦いにおいては敵が戦列を張り、そこになぎなたとか槍を持って構えております。
そこへ一番槍で真っ先に駆けて進んでいくと、敵のなぎなたや鉾(ほこ)とぶつかってしまいます。
すると、普通では戦死ということになりますが、そこのところを、あえて卓越した勇気と武力をもって、それらの敵を蹴散らしていくということはとても難しいという誓えで、法華経にはそのような難事があるということです。

 仏様が法華経をお説きになる時には、それ以前の方便の教えによって、それぞれがそれぞれの立場、境界、悟り等を修得し、それに執われた者達による意味での敵がたくさんいたのです。
今まで自分の弟子として付き従っていた者達が、法華経を聞いて直ちに敵になることもあったのです。
それほど、法華経には大事な深い意義があったということであります。

 次に、章安大師の言葉が引かれます。
 この章安大師は天台大師の弟子でありますけれども、この方がおいでになったから、天台の三大部という非常に大事な御法門が法華経の解釈として今日、残っておるのです。
この方がおられなかったならば記録する方がない。
天台は口で、立て板に水の如く、あの難しい法門を説いたのです。

 『文句』という法華経の文々句々を説いたもの、『玄義』という「妙法蓮華経」の五字について解釈したもの、それから『摩訶止観』という法華経の実践修行門を説いたものという三大部その他があります。
それらは章安大師がそばで講説を聞いて、それを書かれたので、今日、残っているのです。

 話がちょっと変わりますが、釈尊が出現されたころのインドには文字がなく、したがって書き残す人がなかった。
ところが、あのころの弟子達は極めて記憶力がよく、また信仰が強くて、釈尊に対して絶対の気持ちを持っていたということが判ります。
つまり釈尊の御説法を聞き、聞いたことを即座に憶えて、絶対に忘れない。
「如是我聞」といって「是の如く我聞きき」ということが必ず経文の初めに出てくる。
そして一代仏教が、ある時期に文字として残ったということなのですが、それまではずっと語り継がれたわけです。
ある場合には二百年、三百年と語り継がれていきました。→

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※ 参照 ブッダの時代には、釈迦族に文字があったと思われます。
紀元前1000年ころには、バラモン教の正典であるベーダが作られています。
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※ 釈尊は幼児に学校へ行って、学友とともに板を膝の上にのせて授業をうけたという文献を、故中村元氏がその著『ゴータマ・ブッダI』で紹介しています。
ヴェーダの学問は聖典を暗誦するものですから、板のようなものは必要としないのですが、釈尊が幼児に受けた学問は実学であり、文字に書いたようです。
バラモンたちのヴェーダの学問とは全然異なったものを学んでいたようです。
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※ お釈迦様の時代(紀元前5世紀頃)にインドに文字がなかったわけでもなく、例えばブラーフミー文字という文字(もっとも南インドとスリランカなどが中心ですが)は現存するだけで紀元前6世紀にまで遡ることが出来ます。
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→ この間題については今「大乗非仏説」というような説もあるのですが、それは近代の科学的近視眼による短見です。
今時の学者が目で見えるところのわずかな証拠でもって、少ない知識を繋ぎ合わせた見解に過ぎないのです。
本当の仏様の教えというものは、そんな小さな、凡人の知識で簡単に解るものではありません。
より広大であり、深いのです。
やはり、それは仏教の無限の時間、空間を道破した全体的、総合的境地よりする大聖人様の御指南を中心とし、また天台大師の指南を拝して見てくると、よく解るのです。

 今の仏教大学の先生というものは、その大乗非仏説に毒されてしまっております。
だいいち、あの者達には全く信仰がありません。
だから、そういう大学で学ぶ学生は、みんな心法妙の一部をさわぐりながら、仏法妙に対する信心がなくなってしまうのです。
これは恐ろしいことです。
それは結局、一番元の仏教というものの根本の在り方、その精神内容が実に深く、広く、幽玄なところから伝わっているということを忘れているのであります。→
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題目の妙の字の意義に、大きく三つの拝し方がある。
すなわち、仏法妙・心法妙・衆生法妙である。

既に妙法を証得し、法界に自在を得て広く衆生を導かれるのが仏法の妙であり、
一切衆生の心法に宛然と妙法が具わるのが心法の妙であり、
一切衆生は十界互具するので、衆生のすべてが妙法であるのが衆生法の妙である。

故に、妙の義は法界に遍満しており、これをよく把握した聖者が、その時に応じ、機に応じてこの三義を自由自在に、衆生に説き明かされるのである。

特に、仏法妙の根本である本因妙の教主日蓮大聖人が、一切衆生を導くため、人法一体、十界互具の御本尊を顕されたのが化導の中心である。
 下種本仏大聖人が大慈大悲をもって顕された大漫茶羅御本尊に仏法妙、心法妙、衆生法妙がことごとく具足されている。
すなわち、法界の一切の事理が含まれているのである。
この御本尊を信じて題目を唱えよという指南が下種仏法の化導であるから我らは、我らに具わる心法妙・衆生法妙を活用し、この御本尊のほかに仏になる道は全くなしと強盛に信じて、妙法を唱えることが肝要である。(詳細は『妙法七字拝仰』を参照)。
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→ さて、その章安大師が「仏此を将(もっ)て大事と為す、何ぞ解し易きことを得べけんや」と言われております。
つまり、仏は法華経をもってこの世に出られた目的として、これを大事となされたのである。
したがって、どうして凡眼凡智をもって、この法華経の解り易いことがあろうか、難信難解であることがむしろ当然なのである、と言っておることを引かれてあります。

 次の伝教大師という方は、日本に出た人師であります。
前の天台と章安は、今から千四百年ほど前に中国に出られた方でありますが、伝教大師は日本の比叡山延暦寺を開かれた方であり、天台の跡を受けて、日本の国に天台法華宗を宣揚されたのです。

 今現在の天台宗は「過時の迹」といって、もう時代遅れになっておるのです。
法華経それ自体の教えは正しいけれども、迹門の教えが中心ですから、末法の衆生を導く本門の教えではない。
したがって、これは去年の暦のようなもの、あるいは一週間前の食事のようなものであります。
いかに立派な食事でも、一週間も経ったら黴(かび)が生えて、全く食べられなくなってしまいます。
それと同じく、今日においては衆生を救えません。
けれども、まだ像法という時代においては正しい意味があり、伝教大師は天台と共に、釈尊の教えを正しく敷揚(ふよう)し、伝えたのであります。
                         こ
 その伝教大師が「此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意の故に」ということを言われておる。
この随自意・随他意ということも前に説明しましたが、他意というのは一切衆生の迷った心、いわゆる衆生の考えを中心とした、煩悩による迷った心に応じて仏様が色々に説かれたのが随他意の教えであります。
もちろん、それは一往であり、方便であります。
幸福への意欲、善を願う心、悪を破る道等、衆生の機根の種々高低の段階にしたがって色々に化導をしていく、それが随他意のほうであります。

 それに対して、一切の教えの一番元になっておる悟りがある。
その一番元の悟りは何かというと、これは高低すべての教えを具える、十界互具百界千如一念三千という最高の教えであります。
その最高の教えを説かれるのが随自意、すなわち仏様自らの意に随って説くということで、故に法華経は難信難解であると言われるのです。

 ここまでのところは「難信難解」ということについて、経と釈を引いて示されたのです。

 次の「夫仏より」以下は、仏の入滅より一千八百余年の間に、法華経を本当に正しく悟って衆生を導いた方はごくわずかであるということを挙げて、さらに法華経の難信難解であることを徹底されるのであります。

 さて、次に「夫仏より滅後一千八百余年に至るまで、三国に経歴(きょうりゃく)して但三人のみ有りて始めて此の正法を覚知せり」と示されるなかの「三国」とは、インド、中国、それから日本の三国であります。
そのような三国を経て仏教が渡ってきたのですが、ただ三人の方のみがあって、この正法を覚知されたのである。
その三人とは「月支の釈尊」すなわちインドに出られた釈尊であり、「真旦の智者大師」とは中国に出られた天台大師であり、さらに「日城の伝教」とは日本に出られた伝教大師であって、この三人は「内典の聖人」と言われております。

 これは、ほかの御書でも「三国四師」ということを仰せになっております。
『顕仏未来記』 に、教相の上からの伝承の意に基づいて、

  「安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通せん。三に一を加へて三国四師と号(な)づく」 (御書六七九)
と仰せでありますが、同じ意義であり、時に応じてこの方々が正しく法を弘通されたことをお示しであります。

 日本において、以前は鑑真の来朝によって東大寺の戒壇が天平勝宝七(七五五)年に建てられ、その後、天平宝字五(七六一)年に下野(しもつけ・栃木県))の薬師寺、筑前(※福岡県北西部)の観世音寺に戒壇が建てられ、天下三戒壇と称されました。
しかし、これは皆、小乗の戒壇でありました。

 しかるに、伝教大師は法華経の法義を根本として、大乗の戒壇を建てられたというところに深い意義があるのです。
これは、あらゆる御書のなかに示されております。
法華経の法門といいますか、法そのものの解説は、天台大師で全部、尽きておると言えます。
しかし、伝教の場合はもう一歩実践して、そこに大乗の戒というもの−大乗の戒というのは結局、法華経に極まるわけですが、法華経を中心とした戒壇・戒法を比叡山に建立したところに、真の大乗の授戒という意味がある。
これが非常に大事なのです。

 正式の仏法においては、この授戒を受けなければ、正しく仏法の信者になれない意味がある。
本宗においても、そのとおりです。
だから像法の時代に、日本の国において法華経の戒壇を建てたというところに、伝教の深い化導の意義があるわけです。
そこで、伝教大師をも加えられて「内典の聖人」と仰せになっております。

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問うて曰く、竜樹・天親等は如何。答へて曰く、此等の聖人は知って之を言はざる仁(ひと)なり。或は迹門の一分之(これ)を宣べて本門と観心とを云はず、或は機有って時無きか、或は機と時と共に之無きか。

2022.12.24

P24
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 次に「問うて曰く、竜樹・天親等は如何」という質問を構えられ、それに対して「答へて曰く、此等の聖人は知って之を言はぎる仁なり」とお示しであります。
つまり、これは「内鑑冷然」とか「内鑑外適(げちゃく  ※適=かなう。ふさわしい・よくあてはまる)」と申しまして、内心にはよく解っており、鑑みておるが、外にはいまだ時機が来ないため冷たく応ずる、すなわち表に露わに示さないということです。

 この「竜樹・天親」という方はインドに出られた方で、仏滅後七百年のころ竜樹菩薩が出られ、それから天親菩薩が仏滅後九百年ごろに出られたということになっております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(竜樹 150―250年ころの人。天親 4〜5世紀ごろの北インドの僧。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大乗を非常に宣揚し、大乗の論を述べたのであります。

 ところが、この方々は法華経の正しい所以を知っておったけれども、表向き、これらの方々が述べた論には、法華経の特別の深義を述べたものはない。
例えば、竜樹菩薩には『大智度論』とか『中観論』 『十二門論』というような論があります。
これらは皆、インド語の論ですけれども、それらを羅什、玄奘等の方々が訳されて、大蔵経のなかに入っております。

 竜樹という方は、どちらかというと般若経という教えを中心として空門、実相門という面から教えを立てておる。
それから、無著・天親等の方、この天親という方は無著の弟でありますが、経文としては解深密経というような経文を中心として、有門の立場から唯識大乗の義を説いたのです。
              
 竜樹の『大智度論』のなかには法華経を深く宣揚し、讃めておるところもある。
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※「般若波羅蜜は秘密の法にあらず。而して法華等の諸経には阿羅漢の決を受けて作仏するを説き、大菩薩は能く受持し用う。誓えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」
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それから天親菩薩は 『法華論』という書を著して、そのなかに「十無上」という法門を説き、法華経が一切の諸経に勝れておるということを説いておる。しかし、天台等の著に比して、非常に簡略であります。

また、その大乗論は、無著論師の 『摂大乗論』 を釈した 『摂大乗論釈』 とか色々な書がありますけれども、それらはまだ法華経の法門まで来ないところの、爾前権大乗の範囲での大乗を説いておるということなのです。
したがって、これらの方は内には知っていたけれども、はっきりと法華経の深義を言わなかったと言われるのです。

 そして 「或は迹門の一分之を宣べて本門と観心とを云はず」 とあるなかで、迹門の一分を述べたということが、今、申し上げたような意味であります。
けれども、本門は全く説いていない。
まして観心という意味の、本門の実践修行という形での教えは全く説いておらないと指摘されております。

次に 「或は機有って時無きか、或は機と時と共に之無きか」 ということですが、仏教は必ず、機と時がなければ成就しないのであります。
末法の大聖人様の御出現は、末法の一切衆生が順逆二縁の機なのです。
逆縁の機というのは、悪口を言ったり、知らぬ顔をしたり、それから色々と抗言誹誘を言ったりすることです。

 信心していると、なかには色々と反対したり謗る人も出てきます。
一生懸命に信心しても、妻や夫あるいは子供が反対をする、これは業障になるのです。
それから子供が信心している場合、これに対して親が反対する、これは報障であります。
色々な因縁で、そういう障りが出てくるのです。

 これもしかし、妙法を聞けば必ず、その人の心のなかに仏の種が逆縁として植えられるのです。
ですから、いずれは必ず成仏する時期が来るが、その前に正法を謗った報いとして、やはり一遍、地獄に堕ちたり、餓鬼、畜生に堕ちたりする人もある。
あるいは、もし今世において気がついて、謗法を捨てて正しい信心をしていけば救われるということになる。

 ところが、この正法の時代は法華経の機がほとんどない時代だった。
法華経の機がなければ、たとえ聖者が現れても法華経は説かれないのです。
そのような場合には、方便教を説いて過去の種を熟成せしめ、そして法華経の悟りに到達させるわけです。

 また、機があって時がないということもある。
例えば、桜の花が今まさに咲こうとして、つぼみが大きくなったけれども、急に一週間ほど寒波が襲来したとします。
そうすると桜は咲かないのです。
これは機があるのだけれども、まだ時が来ない。
時が来れば一斉にパッと咲くわけです。
だから、両方が調わないと花は咲かない。
 したがって、機はあったけれども時がなかったこともあろう、あるいは機も時も共になかったこともあろう、と仰せであります。

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天台・伝教已後は之を知る者多々なり、二聖の智を用ゆるが故なり。所謂三論の嘉祥(かじょう)、南三北七(なんさんほくしち)の百余人、華厳宗の法蔵(ほうぞう)・清涼(しょうりょう)等、法相宗の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)・慈恩(じおん)大師等、真言宗の善無畏(ぜんむい)三蔵・金剛智(こんごうち)三蔵・不空(ふくう)三蔵等、律宗の道宣(どうせん)等初めには反逆を存し、後には一向に帰伏(きぶく)せしなり。

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次に 「天台・伝教已後は之を知る者多々なり、二聖の智を用ゆるが故なり。」 とあります。
これは「天台・伝教」という聖人が出現されて、一代仏教中、法華経が最も勝れた教えであることを、道理、文証、現証の上に説いたので、その時代以後は、このことを知る者が多いと言われます。

 竜樹・天親等の方は正しい教えを知りながら、一往、その時に応じての「応病与薬」で方便の教えを示されたわけです。
しかし、その弟子、またその弟子になりますと、今度は本当に法華経の機が顕れ、時が来ているにもかかわらず、それを知らないで、自分の師匠の教えに執われ、誤りの法を弘めたという人があるのです。
そいう人々が、この「三論の嘉祥」以下に出てくる人々であります。

 しかし、この人々も、天台の教えを聞いたあとは、その深い内心において、自分の師匠の教えを今まで学んできてはいるが、その奥底においては天台の教えが一番正しいのであり、法華経が真実であるということが、だいたい解っていたということを、大聖人様がその人達の色々な面での証拠の上から仰せられるのであります。

 まず「三論の嘉祥」を挙げられておりますが、この三論の嘉祥大師という方は、実に身も心も正法に移ったという尊い方なのです。
それまで三論宗の教えにおいて実に立派な業績を残し、多くの人から慕われ、崇められ、僧侶の最高の位に到達したにもかかわらず、
  「廃講散衆、身為肉橋」 (御書五五五)
という如く、その地位・名誉の一切を弊衣(※やぶれた衣服。ぼろぼろの衣服。)の如く捨てて、天台大師のもとに馳せ参じたのです。
そして頭を地につけて礼拝をし、天台大師の教えを拝聴し、天台大師が道を行かれる時には自ら背中を屈し、あるいは天台大師を背負って河を渡ったというように、身を尽くして天台に仕えたというのです。
そのように嘉祥大師という方は、三論宗の学匠としても名高かった方でありますけれども、身も心も法華経に移って、正しい修行を実践したということです。
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嘉祥大師=吉蔵(549―623)
天台大師(538年―598年)
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 それから「南三北七の百余人」というのは、その時に嘉祥大師と共に天台に付き従って帰伏した百余人ということになっております。

 また 「華厳宗の法蔵・清涼等」というのは、華厳宗の有名な唐時代の学匠ですが、この人達は華厳経を非常に勉学し論述したけれども、法蔵の著述や清涼の言っておることのなかに、天台を深く尊敬しておるものがある。

 法蔵は、いわゆる 『五教章』 に、
  「思禅師・智者等の如きは、神異に感通して迹(あと)登位に参(まじ)はる。霊山の聴法憶ひ今に在り」 (同八四九)
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(南岳大師・天台大師 
神異(神の示す霊威。 人間業でない不思議なこと。 
感通(思いや精気などが他へ通じること。 
登位(中道実相を一分でも実証する位。円教の初住。この位に登って初めて真の聖人といわれる)
迹(あと)登位に参(まじ)はる。=南岳・天台の行迹(せき)が初住以上の已上の聖人にも等しい)
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と言っていること、また清涼は、その華厳の疏に、
  「此の宗の立義理通ぜざること無し」 (同五五五等)
等の言があるのです。
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華厳の澄観は華厳の疏を造りて、華厳・法華相対して、法華を方便とかけるに似たれども「彼の宗、之れを以て実と為す、此の宗の立義(りゅうぎ)理通ぜざること無し」等とかけるは悔(く)い還(かえ)すにあらずや。
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したがって、また内心には法華経の意義を知り、深く観じていたという意味があります。

 それから「法相宗の玄奘三蔵」という人は『西遊記』 で有名な人ですけれども、あの流沙葱嶺(@ =りゅうしゃ(流砂)@ A 広大な砂地。広大な砂漠。特に、中国北西部のゴビ砂漠およびタクラマカン砂漠をさしていうことが多い。のように流れるという。 葱嶺 あおあおとした パミール高原の中国名。西域の重要な交通路で、中国勢力圏の西境となっていた。)という難地を越えてインドに入り、そして十七年間インドにおって、たくさんの経論を持って帰ってきて訳したのが、今「新訳」の経典と言われております。
羅什三蔵等が訳したのは、それより前の時代で、「旧訳」の一切経と言われます。

 玄奘三蔵というのはそういう有名な人ですが、宗旨としては法相宗、つまり無著、天親系の教学を学んだ人であります。
インドにナランダ寺という有名な寺があり、そこに戒賢論師という方がおりまして、この論師より大乗の法相の法門を中心に仏教を教わったということが言われております。
ですから『摂大乗論』等の唯識系の法門を中心として勉学してきたということです。
唯識系とは、心というものを識別的対象として深く広く掘り下げた唯識の法門を言います。

 ただし、この玄奘三蔵には特に法華を悟るという点ではっきりした論説がないのですが、その弟子の慈恩大師という方は、
  「故亦両存(こやくりょうぞん)」 (同五五五)
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法相の慈恩は法苑林(ほうおんりん)七巻十二巻に「一乗方便・三乗真実」等の妄言(もうげん)多し。しかれども玄賛(げんさん)の第四には「故亦両存(こやくりょうぞん)」等と我が宗を不定(ふじょう)になせり。言は両方なれども心は天台に帰伏せり。
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という意味を述べておる。
なぜならば、解深密経等において五性各別を立てて、一切の衆生のうち、仏の種を持っておる者は仏に成れるが、声聞の種だけしか持っていない者は声聞にしかなれない。
縁覚は縁覚だけであり、それから無性有情というような者は仏性それ自体の種がないのだから、永遠に迷いから迷いに行くしかない。
せめて天上界までは行けるのだけれども、永遠に迷っているというようなことを言って、衆生の五つの性質がみんな違っておる。
したがって、仏に成る種を持っていない者は、いくら修行しても成仏しないという教えを立てるのが、法相宗のなかの機の説であります。

 ところが、法華経はそうではない。
法華経においては一切衆生ことごとくの者を救わなければ仏の化導は全うできないのであるということを、仏様自ら仰せになっておるわけです。
それは実に尊いことだと思います。

 この慈恩大師という方は 『法華玄賛』 を著していますが、その弟子・鏡水の 『玄賛要集』 に「故亦両存(こやくりょうぞん)」とあることは、法相宗の法門からいけば五性各別だけれども、また法華経の「一切衆生悉有仏性」 「皆成仏道」の意義も存しておると言っておることをもって、さらにその趣意を師の玄奘三蔵に帰せしめ、帰伏の人とされたのであります。

 それから「真言宗の善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵」というのは、みんな月氏国の人であります。

 右の三三蔵が出たころは、ちょうど密教がインドにできてきた時期で、それを中国に持ってきて弘めた。
このことは大聖人様が『撰時抄』のなかに詳しく仰せですが、当時の中国には既に天台大師の教えがしっかり弘まっていて、せっかく密教を持ってきたけれども、どこにいるのか判らないような大日如来という仏様を引っぱり出してきても、はたしてこれが弘まるかどうか判らない。
そこで、その密教を弘めるためには天台大師の教えをうまく取り入れなければだめだということで、一行阿闍梨という人を、うまく篭絡し、語らったのです。
この一行阿闍梨という人は天台宗の非常なる学者だったのですが、その人をうまく使い、真言の教えのなかに法華経の義を取り入れたのでありまして、それを依頼したのが「善無畏三蔵」という人であります。

 この善無畏の 『大日経義釈』 が法華経の意義をもって説かれたところから、そもそもの間違いが起こっておるのです。
それが、日本の国では慈覚、智証というような人が伝教大師のすぐあとに出て、そして叡山の仏教のすべてを「理同事勝」という邪義悪釈をもって誤らせたのです。
つまり、せっかく伝教が立てた正しい法華経の意義を覆滅させたのは、やはりそこの辺にその元があるのです。

 しかし、この善無畏三蔵は閻魔の責めが強く厚かったそうでありまして、一遍、死んで、また閻魔の責めにあずかって帰ってきたというような説もあるけれども、要するに、天台の教えが勝れておるということは、この時代、この人などは骨身に染みるほど解っていたのです。
けれども、結局、身は移らなかったのであります。
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善無畏三蔵の閻魔のせめにあづかりし故をだにもたづねあきらめば、此の事自然に顕はれぬべし。善無畏三蔵の鉄の繩七すぢつきたる事は、大日経の疏に我とかゝれて候上、日本醍醐の閻魔堂、相州鎌倉の閻魔堂にあらわせり。/P1076
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天台宗をそねみ思ふ心つき給ひけるかのゆへに、忽ちに頓死して、二人の獄卒に鉄の繩七つつけられて閻魔王宮にいたりぬ。命いまだつきずといゐてかへされしに、法華経謗法とやをもひけん、真言の観念・印・真言等をばなげすてゝ、法華経の今此三界の文を唱へて、繩も切れかへされ給ひぬ。
又雨のいのりををほせつけられたりしに、忽ちに雨は下りたりしかども、大風吹きて国をやぶる。
結句死し給ひてありしには、弟子等集まりて臨終いみじきやうをほめしかども、無間大城に堕ちにき。
問うて云はく、何をもってかこれをしる。
答へて云はく、彼の伝を見るに云はく「今畏の遺形を観るに、漸く加(ますます)縮小し、黒皮隠々として、骨其れ露なり」等云云。
彼の弟子等は死後に地獄の相の顕はれたるをしらずして、徳をあぐなどをもへども、かきあらわせる筆は畏が失をかけり。
死してありければ身やふやくつゞまりちひさく、皮はくろし、骨あらわなり等云云。
人死して後、色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし。/P1023
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 そして「金剛智三蔵・不空三蔵」も中インドで密教を学んだ人である。
不空三蔵という人は中国へ来て、またインドに帰り、その時に天台の教えをインドに持っていったというようなことも言われております。
また向こうの僧から、天台の教えを中国からインドに持ってきてもらいたいというようなことを言われたという伝えもあるのであります。
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湛然(※天台宗第六祖 妙楽大師)、光(こう)(※含光 不空の弟子)と相見(あいまみ)えて西域(さいいき)伝法の事を問ふ。
光の云はく、一国の僧、空宗(くうしゅう)を体解(たいげ)する有りと。問うて知者の教法に及ぶ。梵僧云はく、曽て聞く、此の教邪正を定め偏円を暁(さと)り、止観を明かして功第一と推す。再三光に嘱(しょく)す。或は因縁あって重ねて至らば、為に唐を翻じて梵と為して附し来たれ。某(それがし)願はくは受持せんと屡々(しばしば)手を握って叮嘱(ていしょく=くれぐれも言い聞かせる. 繰り返し言い含める.)す。詳(つまびら・あき)らかにするに其の南印土には多く竜樹の宗見を行ずる故に此の流布を願ふこと有るなり」と。
菩提心義(ぼだいしんぎ)の三に云はく「(中略)不空三蔵の門人含光、天竺に帰るの日、天竺の僧問はく、伝へ聞く、彼の国に天台の教有りと。理致須(もち)ゆべくば、翻訳して此の方に将来せんや云云、(中略)」(八宗違目抄   文永九年二月一八日  五一歳 519)
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 次の「律宗の道宣」という方は、中国におけるところの律宗の学匠であります。
この方は『続高僧伝』等の著書多く、その法華弘伝序のなかに、天台を讃歎して、
  「法華を照了すること高輝(※中天に輝く太陽)の幽谷に臨むが若(ごと)し」 (同八四九等)
等と記されているので、大聖人が、初めは法華経に背き、天台の法門を見てから深く天台に帰伏された方として挙げられるのであります。

 要するに、天台、伝教ののちには法華経の勝れていることを知っていた人が多いが、正しく身心ともに法華経に移った人は非常に少なく、これほど難信難解であるということを、ここにまず挙げられるのであります。

 次の文よりは、いよいよ法華経の開経たる無量義経と、結経たる普賢経の二経の文を引かれて、修行観心の元となる深意を明かされるのであります。

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 但し初めの大難を遮(しゃ)せば、無量義経に云はく「譬(たと)へば国王と夫人(ぶにん)と新(あら)たに王子を生ぜん。若(も)しは一日若しは二日若しは七日に至り、若しは一月若しは二月若しは七月に至り、若しは一歳若しは二歳若しは七歳に至り、復(また)国事を領理(りょうり)すること能(あた)はずと雖も、已(すで)に臣民に宗敬(そうきょう)せられ諸の大王の子を以(もっ)て伴侶と為(せ)ん。王及び夫人の愛心偏(ひとえ)に重くして常に与(く)みし共(とも)に語らん。所以(ゆえん)は何(いかん)、稚小(ちしょう)なるを以ての故にといはんが如く、善男子是(こ)の持経者も亦復(またまた)是くの如し。諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子(みこ)を生ず、若(も)し菩薩是の経を聞くことを得て、若しは一句若しは一偈、若しは一転若しは二転、若しは十若しは百、若しは千若しは万、若しは億万恒河沙(ごうがしゃ)無量無数転せば、復真理の極(ごく)を体すること能(あた)はずと雖も、乃至已(すで)に一切の四衆八部に宗(たっと)み仰(あお)がれ、諸の大菩薩を以て眷属と為(せ)ん、乃至常に諸仏に護念せられ慈愛偏(ひとえ)に覆(おお)はれん。新学(しんがく)なるを以ての故に」等云云。

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 まず「初めの大難を遮せば」とは、我ら凡夫の己心に仏の因果を具えるということは到底、信じられない、はたして事実ならそれを証明せよという大きな難問、それを遮り、正しく会通しようという文であります。
そして、無量義経と普賢経の二つを挙げられている。
これは実は、この 『観心本尊抄』一巻のうちの実に大事な、修行の意義をここに示されておるところなのです。

 ところが、これを他宗の日蓮宗等の者どもが読む『観心本尊抄』 の拝読の仕方からいくと、せいぜい法華経は仏種教だから種があるのだということを、無量義経と普賢経とを引いて示されたという程度に思っているのです。
けれども、大聖人様が観心の本尊と仰せあそばされた「観心」という意味は、そんないい加減なものではありません。
一番根本のところの意義から文を拝されるのが我が宗の御先師でありまして、特に第二十六世日寛上人という方がこの 『観心本尊抄』 の重々大事の意義をお示しになっておられます。

 要するに、末法において大聖人様が御出現あそばされて観心の本尊を始め給う時、我ら凡夫の己心に現実に仏の因果が顕現するその末法の観心とは、いわゆる久遠以来の本仏の当体たる、正しい本尊による観心をお示しになることにあるのです。
信心において、その御本尊様を受けていくことによって初めて、そこに末法の観心、すなわち一念三千の深い功徳が現実に厳然として顕れるのであり、これは要するに本尊が勝れておる故である。
その法の勝れておるところを、まず観心のなかにおいてお示しあそばされるという深い意義があるのです。

 その意義から、まず経を引かれますが、最初は無量義経であります。
この無量義経という経文は、法華経を説かれるために、その直前に説かれたものです。
すなわち、法華経の 「開経」がこの無量義経であり、また 「結経」 が普賢経なのであります。

 さて、ここに引かれた経文の意味について簡単に申し上げます。
 昔、国王がおり、また夫人がいた。
そして、その国王と夫人との間に新たに王子が生まれた。
初めは赤児ですから、何も解りません。
そして一日経ち、二日経ち、七日が過ぎた。
それから一月、二月、乃至七カ月が過ぎた。
あるいは、それからだんだん過ぎて一歳になり、二歳になり、七歳になった。そうすると、まだ幼いから国事を領理することはできないけれども、王子様であるということで国中の臣民から尊まれ、そしてまた、諸々の王様の子供がその友達となっていくのである。

 そして、その国王や夫人は王子に対して深い愛情をもって常に共に愛し、また育てるのである。
それはなぜかといえば、非常に小さいからかわいいということ、さらにまた将来は立派な国王となるべき子供であるという意味において、心を込めて愛育するという譬えであります。

 さて、そこで法華経を修行していく者もまた、そのとおりであるというのが「是の持経者も亦復是くの如し」ということです。

 そして次に「諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生ず」とあって、菩薩の立場から前と同じように成長していくことが説かれてある。
けれども、前の場合の譬えとしては、ただ国王と夫人、さらにその子供ということでありました。
しかし、その本義として仏道の上からいくならば「国王」という譬えを挙げたのは、それは実は仏のことである。
それから「夫人」というのは、いわゆる仏の説法されるところの経典である。
経典には深い法を説かれてあるのです。

 それで「諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生ず」というところが、実は無量義経の経文を引かれた眼目なのであります。
なぜ眼目かというと、この「諸仏の国王と是の経の夫人と和合」という意味は、境智冥合という大事であります。

 仏の智慧と甚深の法境が一つになり、そこに成仏という因果が具わります。

「境智和合するときは則ち因果有り。境を照して未だ窮らざるを因と名づけ源を尽すを果と為す」 (文句会本下二四六)

 との釈は、一往、因果を分けていますが、要するに因があって果があり、果は因に依りますから、因果は究まるところ一体なのです。
その因果究寛の体は、久遠元初凡夫即極の本尊にあるのです。
すなわち『当体義抄』 に、
   「聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり」 (御書六九五)
とあります。
この仏因仏果を「同時に之を得る」とは、実に根本の境智冥合を示されております。

 観念文のなかの「本地難思境智冥合」という意味は、すなわち一切の功徳を具え、本尊を成ずるところの本源がこの境智冥合ということであり、これがなければ絶対に御本尊様の御当体が顕れてこないのであります。

 そこに本門の本尊の顕れ給う根本、本因妙の当体当相があり、それは即、境智冥合して、そのまま直ちに即身成仏の大仏果を得られ、久遠元初の仏としてこれを末法の衆生に示される。
そのところをもって修行の本として示されたのが、この無量義経の引文の元意であります。
また、そこを我々が信解することによって、直ちに即身成仏の大功徳を得るという意義がここに説かれております。

 また「是の菩薩の子を生ず」というのは、大聖人様の久遠元初の御本仏の境智冥合の仏法を信じ、本尊を持って題目を唱えるところの我々衆生を指すわけです。
その意義において、観心の本尊の「観心」の意義をここに示されておるのであります。

 さて、次のところに「若しは一句若しは一偈」とありますが、これは一四句偈ということでありまして、例えば「自我得仏来」というのは一句なのです。
「所経諸劫数」というのも一句であり、「無量百千万」も一句です。
そして一偈というのは
「自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇」という四句をもって一偈というのです。

 また「若しは一転若しは二転」というのは、そういう句について、例えば「一心欲見仏」あるいは「不自惜身命」という句でもよいのですが、この句をもしくは一転読む、もしくは二転、乃至十回読み、百回読み、千回、一万回、億万恒河沙回、無量無数(むしゅ)転して転読していくならば、たとえ「真理の極を体すること能はずと雖も」すなわち、直ちに真理の極を体して仏様に成ることはできなくとも−ということは、これは熟脱の仏法に約するからであります。
釈尊仏法からいけば、そういう形になる。

 そのように、真理の極を体することはできないけれども、既にその功徳によって「一切の四衆八部に宗(たっと)み仰がれ」るのである。
この「四衆」とは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四種であり、また「八部」とは天、竜、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩?羅伽(まごらか)という、そういう仏法守護に従事するところの諸天であります。

こういう一切衆生に尊ばれ、仰がれて、そして大菩薩を脊属とするというのですから、非常に大きな功徳を生ずるということです。

 そして、常に諸仏に護られて、その仏様の慈愛に覆われるのである。
それはなぜかといえば、その人が正しい法を修行しておるからであり、また「新学」ではあるが、それを修行しておるところの功徳によるのである、ということを無量義経に説かれてあるのです。

 しかし、この無量義経を引かれる本当の意味は、妙法に約して本地難思境智冥合の徳をここに顕されておるということです。
その徳があって初めて、釈尊の因行果徳の二法がことごとく妙法受持の功徳のなかに篭もるのであり、また凡夫衆生が実際に成仏の実証・体験を得られるのであります。

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普賢経に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵十方三世の諸仏の眼目(げんもく)なり、乃至三世の諸(もろもろ)の如来を出生する種(たね)なり、乃至汝大乗を行じて仏種(ぶっしゅ)を断ぜざれ」等云云。

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 次に普賢経の文を引かれますが、この普賢経は先程も言ったとおり、法華経の結経であります。
結経の文を借りて何を示されるかというと、先程の無量義経では「本地難思境智冥合」 の意義を含み示されましたが、今度は「久遠元初の仏と法に具わる主師親の三徳能生の義」を示されるのであります。
                                  
 仏様は必ず主師親三徳をお持ちになっていらっしやる。
この三徳を能く生ずるところの徳が妙法の根本の種子に存するのであり、妙法の種子とは、すなわち久遠元初の自受用報身如来の当体たる本門の本尊であります。

 したがって、普賢経の「此の大乗経典」というのは、久遠元初の種子である能生の妙法蓮華経を具える意義をもって引かれたのであります。

 さて引文の、この大乗経典は「諸仏の宝蔵十方三世の諸仏の眼目」とあります。
「宝蔵」というのは、世間でも一切の宝がその蔵の中に入っている。
だから宝蔵と言うのです。
そのように、妙法蓮華経の五字のなかにはあらゆる法の功徳が篭もっておるのです。

 このことについては『法華題目抄』等に、大聖人様が実に易しく御指南あそばされておりますが、一切の功徳を含み、蔵されておるが故に、それを「諸仏の宝蔵」と言うのです。
したがって、一切のものを束ねて、そこに蔵しておるというところから「主」の徳を表すのであります。

 次に「十方三世の諸仏の眼目」とあるなかの「十方」とは、東西南北の四方と、その四つの隅に当たる東北・東南・西北・西南の四維、さらに上と下とを合わせて十方となり、広大な空間の一切における仏を示す意味です。
「三世」というのは過去・現在・未来という時間的に無量の長い意味であり、その十方三世のあらゆる諸仏がことごとく、自ら修行のため、悟りのために目標とされているところ−「眼目」とは、目のそこに集まるところ、目標とするところという意味であり、その眼目として明らめるところは何かといえば、いわゆる「大乗経典」たる妙法蓮華経である。
したがって、これは 「師」 の徳に当たります。

 また 「三世の諸の如来を出生する種なり」という文は、如来を生ずるということですから、これは父母の徳、いわゆる 「親」 の徳であります。
したがって、御本仏大聖人が御覧になれば、三世の諸仏が仰ぐ主師親の三つの徳が厳然と普賢経に示されてある。
それはすなわち、久遠元初の妙法の当体たる三徳であります。

 そして「汝大乗を行じて仏種を断ぜざれ」というのは結文でありまして、大乗を行じても異解を生じて、この根本の三徳に背いてはならないぞ、ということの誡めであります。