問うて曰く、法華経は何(いず)れの文ぞ、天台の釈は如何(いかん)。答へて曰く、法華経第一方便品に云はく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲(ほっ)す」等云云。是は九界所具の仏界なり。寿量品に云はく「是くの如く我成仏してより已来(このかた)甚(はなは)だ大(おお)いに久遠なり、寿命、無量阿僧祇劫、常住にして滅せず、諸の善男子、我本(もと)菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶(なお)未だ尽(つ)きず、復(また)上(かみ)の数に倍せり」等云云。此の経文は仏界所具の九界なり。経に云はく「提婆逹多(だいばだった)、乃至天王如来(てんのうにょらい)」等云云。地獄界所具の仏界なり。経に云はく「一を藍婆(らんば)と名づけ、乃至汝等(なんだち)但(ただ)能(よ)く法華の名(みな)を護持する者は福量(はか)るべからず」等云云。是(これ)餓鬼界所具の十界なり。経に云はく「竜女、乃至成等正覚」等云云。此(これ)畜生界所具の十界なり。経に云はく「婆稚阿修羅王(ばじあしゅらおう)、乃至一偈一句を聞いて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得べし」等云云。修羅界所具の十界なり。経に云はく「若し人仏(ほとけ)の為の故に、乃至皆已(すで)に仏道を成ず」等云云。此(これ)人界所具の十界なり。経に云はく「大梵天王、乃至我等も亦是くの如く、必ず当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得(う)べし」等云云。此天界所具の十界なり。経に云はく「舎利弗、乃至華光(けこう)如来」等云云。此声聞界所具の十界なり。経に云はく「其の縁覚(えんがく)を求むる者・比丘・比丘尼、乃至合掌し敬心(きょうしん)を以て具足の道を聞かんと欲す」等云云。此即ち縁覚界所具の十界なり。経に云はく「地涌千界、乃至真浄大法(しんじょうだいほう)」等云云。此即ち菩薩界所具の十界なり。経に云はく「或説己身或説他身(わくせっこしんわくせったしん)」等云云。即ち仏界所具の十界なり。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

右の御文は、『観心本尊抄』 のなかで、観心段を説かれるに当たり、
「一、略釈」 
「二、広釈」があり、
「略釈」の部分はこの前に終わりましたが、その次の
「広釈」の初めの文であります。
その広釈は
「一、引文」 
「二、難信難解 (を示す)」 
「三、正釈」の順序になりますが、その第一の「引文」のところに当たります。

 さて、引文とは文証を引くことであります。
観心の意義を明かされるに当たって、文証ということが仏法においてはまことに大切なことになっております。

 「観心とは我が己心を観じて十法界を見る」 (御書六四六)

ことであるということをこの前のところでお示しになっておりますが、我々の心に十法界が具わるということは、何が故に言えるのか、その根拠が正確にあるのか、ないのかということは、やはり文証がなければ、それは私の義、いわゆる自分勝手な義ということになるのであります。

「三三蔵祈雨事』に、
「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず云云」(同八七四)

と仰せの如く、大聖人様は必ず文証をお引きになっております。
義を立てる上において、その義はいかなる文によつかということが大切であり、種々の文証を御書の至るところにおいてお示しであります。

ただし文証と言いまLても、間違った文証もあります。
邪宗邪義の人々は権実の道理も、わけの解らない誤った頭で多くの経典のなかから色々な文を引っ張ってきて、それぞれ自宗の主張を述べています。
その文はたしかにそこにあるようですが、一代仏教の筋道から言えば、それは真実のお経ではなく、方便の教えだということになれば、それは真実の正義を顕すところの文証ではないのであります。

故に同じ文証と言っても、正しい文証か、間違った文証かということがあるわけで、仏法の邪正・真偽を基準として文証の価値を定むべきであります。

さて、大聖人様は「我が己心を観じて十法界を見る」と仰せでありました。
十法界には仏界・菩薩界が入りますから、それならば十法界のなかの仏界が、はたして凡夫の己心に具わっているのか、いないのかという問題となります。

 これはなかなか信じ難いのであります。
凡夫の、我々のように常に自身の生活のことしか考えないような生命、それでいて常に悩んだり苦しんだり、毎日、夢にも煩悩、起きていても煩悩で明け暮れているような生活を送る、信心をしていない人はそういう状態がひどいのですが、そのような我々凡夫の己心のなかにも最高・最尊の智徳・福徳を持つ仏の境界があるということは、なかなか信じ難いことであります。
したがって、その文証がきちんとしているか、いないかということが大事です。

 特にこの場合は、釈尊出世の本懐である法華経に明らかな文証があるか、ないかということが、まことに大切なことであり、質問に答えてその文証を挙げられるところであります。

さて「我が己心を観じて十法界を見る」ということでありますが、「見る」にはそのための条件があります。
つまり我が己心のなかに十法界が具わるから、これを見ることができるわけです。
もし初めから具わらなければ、己心をいくら観じても、見ることはできません。
我々の心には地獄の境界もあれば、畜生の境界もありますし、それから人間の境界もあるというように色々でありますが、仏界は経験したことがありません。
故に一心を挙げれば、その一心に仏界を含む十界が具わるということは、はたして真実であるか、どうかという疑いが非常に強いのであります。
それが、もし本当に具わっておるならば、またこれは人類救済のためにたいへん重要な意味があるのです。

 右の文のなかにも「所具」という言葉が常に出ております。
いわゆる「地獄界所具の仏界」 「餓鬼界所具の十界」というように示されておりますが、「所具」ということは、所はところ、具はそなわるということです。すなわち、所具とは「そなわるところ」と読むわけです。

これに対し「能」という言葉があります。
能・所ということは、能は能く何々をするという能動的な意味であり、所は受動的な意味であります。
能具・所具の場合は、能く具えるというのが能具であり、それに対して具わるところ、すなわち具わる内容が所具になるわけです。

 能具は能く十界を具えておるところの心であり、そこに色々なものが具わるというのが所具ということであります。
特に具わるということは、妙の意義として宇宙法界を一貫し、一切のものに価値を生ぜしめる大真理であり、まことに大事なことなのであります。

 さて、妙法蓮華経の 「妙」という字は不可思議の意義であります。
不可思議といっても、ただ単なる不可思議ではありません。
凡眼凡智、凡情をもってしては到底、知ることのできない広大無辺な不可思議が具わっておるということです。
これはまた、仏様の眼から御覧になれば事々物々のことごとくに、それが必ず具わるということであり、そういうところから正しい真理の教えが仏教において示されておるのであります。

 例えば、キリスト教では神様が人間をはじめ色々なものを造ったと言います。
そこで、それについて仏教徒とよく論争をしたのですが、キリスト教では神様は全智全能だと言うのです。
ところが、人間は不完全で、いつも罪を犯し、誤った考えに執われて行動しております。
完全無欠な神様がなぜ、そういう不完全な、苦しまなければならないような人間を造ったのかということになります。
この不合理は、そもそも神様があらゆるものを造ったということを主張するからです。

 ところが仏教の教えからいきますと、けっして仏様が造ったとか、ある絶対不変の存在や神などがあって、それが色々なものを造ったということはありません。
仏様もまた一切衆生と同様、宇宙法界中の存在であることに変わりはなく、一迷先達して、ただ一人、久遠の昔に深い妙法の原理を悟られた方であります。
これは円因を修して円果を得るという意味で、円かな、完全無欠で、あまねく万物に行き渡るところの法理があって、それを悟ることにより仏様に成るのであります。

それは、西欧各宗教の神々のように、初めから存在していて、それがあらゆるものを造ったというのではなく、聖者が真如の妙法を悟るとともに、修行によって迷いを直ちに転じて悟りを開くのです。これは原因があって結果があるということで、そこに因果の理法が成り立つのであります。
したがって、事々物々の元の真理を照らす仏様の悟りもまた、原因なくして存在するということではなく、原因によって得た結果なのであります。
つまり元々、妙法の真如にすべてが具わっておる故に最上の修行により最高の結果を得られたのです。

 逆に、キリスト教や他の宗教において絶対常住の神が元々存するなどということは、神という結果だけがあって原因がないことですから、これは明らかに因果の理法に背くことになるのであります。
これはまだ、宇宙の法理のなかのほんの一分のところの天界の姿を人間が垣間見て、誤解により、そういう宗教を立てたのであります。

 ですから、この宇宙法界の実相をもっと深く見るならば、そこに因果の理法を筋目としたところにおいて、具という意味、すなわち事々物々にあらゆるものが具わっており、しかるが故に、その行為乃至、修行如何において幸せにもなれば不幸にもなるのであり、不幸な姿は必ず、原因があって不幸になっておることが明らかとなるのであります。

 今、世間の人々は幸福に至る因でないものを因と思い込み、真実の道でないものを真実と誤るなど、実に原因・結果の理に背く考えを持っている人が多いのです。
悪いことをしても見つからなければよい、利得があればなんでもやり、それによって幸せになると思うのであります。
上は大臣から、下はあらゆる社会の階層の人々まで、そういう考えに執われた人も多いようです。
つまり損得の価値観が中心で、善悪の価値観があまりにも無視されている実状です。
これを根本的に仏法の上から浄化していかなければ、日本国は本当に良くはなりません。

 ですから、正Lい因果の理法の根本である妙法の力、御本仏の力において、一切衆生を正しく導いていかなければなりません。
その元となるのが一念三千の法門であり、十界互具の深い意義であります。
そして、ただいま拝読した御文においては、その十界互具、すなわち十界の各一界にまた十界が具わるということについて、その文証を示されるのであります。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

問うて曰く、法華経は何(いず)れの文ぞ、天台の釈は如何(いかん)。答へて曰く、法華経第一方便品に云はく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲(ほっ)す」等云云。是は九界所具の仏界なり。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

そこで、法華経はいずれの文であるか、また天台の釈はどうなのか、ということをまず質問されるわけです。

この質問は、義を立てるとき、必ず経・釈が正しく存在するかを検するという意味があります。
つまり、経を挙げれば、次に必ず釈はどうかということを聞く順序なのです。
『撰時抄』 のなかで、経をそっちのけにして釈があるかを質問することがあり、それについて大聖人様は、
  「汝が不審逆さまなり。釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ。経文に分明ならば釈を尋ぬべからず。さて釈の文、経に相違せば経をすてゝ釈につくべきか」 (御書八三八)
と仰せられ、経の文証を明らめてからは、むしろ釈の有無を言う必要がないとまで仰せられている御指南もあるわけです。
しかし、この場合は当然、まず経を聞き、それから釈を聞く順序であります。

ところが、天台の釈については、既に『観心本尊抄』 の一番最初のところに、 
「夫(それ)一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。(中略)所以に称して不可思議境と為す意此にあり」(同六四四)
という一念三千の文証を、天台の『摩訶止観』の語をもって挙げられておりますから、ここで天台の釈を改めて引かれる必要はありません。
したがって以下、法華経の文だけを挙げられる次第であります。

 さて「答へて曰く、法華経第一方便品に云はく『衆生をして仏知見を開かしめんと欲す』等云云。是は九界所具の仏界なり」という御文と、
次の「寿量品に云はく『是くの如く我成仏してより已来甚だ大いに久遠なり、寿命、無量阿僧祇劫、常住にして滅せず、諸の善男子、我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず、復上の数に倍せり』等云々。此の経文は仏界所具の九界なり」という御文が、まず大きく束ねて九界に仏界が具わり、仏界に九界が具わるという総証を示されておるのであります。

この「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」というのは、衆生それぞれに仏知見を開かせようというのが仏様の一大事因縁であり、この世に出現の目的であるということ、つまり仏様の一大事因縁は衆生に仏知見を開かしめるところにあるのであります。

 この因縁とは、この場合、仏が衆生を導くための久遠以来の活動と、衆生が仏により自己の仏性を開くに至る仏と衆生との化導の関係・意義を言うのです。

 これは開・示・悟・入という経文の次第なのです。
その初めの文として、ここに挙げられる衆生の仏知見を開くということが開であり、次の示とは汝の心に仏知見ありと示すことであります。
それから悟は衆生が自らの仏知見を悟る、入は仏知見のなかに衆生が入りきるということで、仏知見を開き、示し、悟らしめ、入らしめるという意味の四つの段階があるのです。

 それはどこに示されてあるかといいますと、法華経の方便品にあります。
本宗の勤行で読む方便品は略開三顕一の一番最初のところで「諸法実相」乃至「本末究竟等」までですが、そのすぐあとに「世雄不可量」という経文で始まる「世雄偈(せおげ)」があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
教えのやさしい解説
大白法 935号
 
開三顕一(かいさんけんいち)とは
  開三顕一とは、読んで字の如く「三を開いて一を顕わす」ことであり、法華以前の声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えを開き、一仏乗の真実の教えを顕わし出すことを言います。
 釈尊はインドに出現し、三十歳に菩提樹下で悟りを開いてより、華厳・阿含・方等・般若等の教えを四十二年にわたり説かれ、最後の八カ年に法華涅槃の教えを説かれましたが、最後の説法である法華経を説くに当たって、法華部の開経である無量義経に、

■「種種に法を説くこと、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経一一〇n)
と説かれ、さらに法華経『方便品』には、
■「世尊は法久しうして後 要ず当に真実を説きたもうべし」(同 九三n)
■「唯一乗の法のみ有り 二無く亦三無し」(同 一一〇n)
等と仰せられて、法華以前の四十余年の爾前経における三乗の教えは方便の仮の教えであり、これから説く法華経の一仏乗の教えこそが真実の教えであると宣示されています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
釈尊の本懐

 なぜ法華経が真実の教えであるかと言いますと、法華経に初めて一切衆生の成仏の道が示されたからなのです。
釈尊は『方便品』の中に自身の出世の本懐について、
■「我本誓願を立てて 一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき 我が昔の所願の如き 今者已に満足しぬ」(同 一一一n)
と示されました。
つまり釈尊は昔より一切衆生の成仏を願われてきましたが、現在この法華経を説くことによって、二乗をはじめとする一切衆生がおしなべて成仏できるのだから、自分の所願は既に満足したのだと仰せになったのです。
 そして、その願いは三世十方の諸仏の共通の願いでもあったのです。
『方便品』には、
■「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう」(同一〇一n)
と説かれています。つまり三世十方の諸仏はただ一つの重大な因縁・目的をもって、この世に出現したのであり、その唯一の重大な因縁・目的とは、一切衆生が持っている仏の知見(智慧)を開き示し悟らせ、その道に入らしめるため、つまり一切衆生を皆、真の成仏に導くためだったと説かれたのです。これを四仏知見(開・示・悟・入)と言います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
四一開会

 この四仏知見は、仏の智慧の一切を挙げて法華経に帰一させたのであり、一仏乗の法華経以外には別に仏の智慧はないことを明示されていますから、これを「理一開会」と言います。
つまりすべてのものを一つの妙法の円理の中に開会したのです。
なお開会とは、開顕会融・開顕会帰の略称のことで、方便の教えを開くことによって真実の教えを顕わすと共に、方便の教えを真実の教えの中に融合し会入し帰一することを言います。

 次に釈尊は、
■「諸仏如来は但菩薩を教化したもう」(同一〇二n)
と説き、「人一開会」を示されました。
これは、四十余年の方便の諸経においては、声聞・縁覚・菩薩というように人々を差別的に区別して教化しましたが、法華経においてはこのような差別を取り払って、一切衆生すべてを皆平等に法華円教の菩薩、つまり真の仏の子として一仏乗の教えに帰一させたのです。

 さらに釈尊は、
■「諸の所作有るは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て、衆生に示悟したまわんとなり」(同)
と「行一開会」を示されました。
これは、仏知見を体得する直道には一仏乗の修行のみがあって、三乗等の方便の諸行がないことを言います。

 次に釈尊は、
■「如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」(同一〇三n)
と説いて「教一開会」を示しました。
これは、仏の教えは声聞・縁覚の二乗やこれに菩薩を加えた三乗等の教えでは本来なく、ただ一乗の妙法であることを示し、諸乗を法華経に開会したことを言うのです。
 このように理・人・行・教にわたって一乗に開会したことを「四一開会」というのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
施開廃の三義

 中国の天台大師は、この開会を説明するために施開廃の三義を立てました。この施開廃の三義とは、為実施権・開権顕実・廃権立実のことを言います。

@為実施権とは実のために権を施すことで、実教である法華経を説くために、四十二年間権教の爾前諸経を説いて衆生の機根を調えられたのであり、あくまでも権教は実教のための方便であることを言います。

A次に開権顕実とは、権の教えを開いて真実の教えを顕わすことであり、

B廃権立実とは権を廃して実を立てるのであり、実教を説き明かした以上、もはや権教は廃亡してなくなり、実教のほかに立てる法がないことを言います。

 法華経と権の教えである爾前経との関係は、施開廃の三義をもって説明できます。
また、すべての権の教えが真実の法華経に収まっていく姿は、あたかも幾多の河川が一つの大海に収まることに譬えられます。

 日蓮大聖人は『上野殿母尼御前御返事』に、
「たとへば大塔をくみ候には先づ材木より外に足代と申して多くの小木を集め、一丈二丈計りゆひあげ侯なり。かくゆひ上げて、材木を以て大塔をくみあげ候ひつれば、返って足代を切り捨て大塔は候なり。足代と申すは一切経なり、大塔と申すは法華経なり。仏一切経を説き給ひし事は法華経を説かせ給はんための足代なり。(中略)大塔をくまんがためには足代大切なれども、大塔をくみあげぬれば足代を切り落とすなり。正直捨方便と申す文の心是なり。足代より塔は出来して候へども、塔を捨てゝ足代ををがむ人なし」(御書一五〇九n)
と、大塔と足代の譬えをもって、法華経と一切経の関係について説明されています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ◇     ◇
 開三顕一は、法華経迹門の教説の中心で、爾前経に絶えて説かれなかった釈尊の随自意の説法であり、その説相には略開三顕一と広開三顕一があります。

@ 略開三顕一は、まさにただ仏と仏のみしか判らないもので、それは『方便品』の十如実相によって顕わされた理の一念三千の法門です。

A この法理は、続く広開三顕一の三周の説法(法説周・譬説周・因縁説周)によって明かされ、永不成仏とされた二乗の作仏へと実際に繋がるのです。
その初めの中で説かれたのが、五仏同道(※総諸仏・過去仏・未来仏・現実仏・釈迦仏の五仏が、共に必ず説法の筋道をとること。)における四仏知見であり、四一開会です。

 これにより上根の舎利弗が未来成仏の記別を受け、その後、譬説・因縁説によって中・下根の二乗の成仏が説き明かされるのです。

 しかしながら、この開三顕一・理の一念三千の法門もまだ迹門の分域であり、本門の事の一念三千の法門からすれば一重劣っています。
大聖人は『開目抄』に、
「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず」(同 五三六n)
と仰せられているように、本門の教えが説かれて初めて一切衆生成仏の原理である一念三千の法門も確立するのであり、開三顕一の法門も生かされてくるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

→ この世雄偈は二十一偈八十四句で終わり、そのあと長行(じょうごう)と偈頌とが交互に出て、

  「唯一仏乗」 (法華経一〇七)
で区切りとなるのですが、これは寿量品の長行よりも少し長いのです。
その次に「比丘偈」という、かなり長い経文があって、それで方便品が終わるわけです。

 右方便品の世雄偶のあと、仏の三止、舎利弗の三請(しょう)を経て、広開三顕一(広く三を開して一を顕す)という法門のなかに四仏知見が説かれております。→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三止三請

お釈迦さまは法華経の教えをお説きになり始め、「諸法の実相は唯、仏と仏のみが理解できる法であるから、教えを説くのは止めておこう」と説法を中断されました。

智慧第一と言われた舎利弗(しゃりほつ)尊者がお釈迦さまに法華経をお説きになるようお願いされます。

お釈迦さまはその要請を断られますが、舎利弗尊者は再度お説き下さるよう要請されます。

お釈迦さまは思案されますが、「かえって聞く者の考えが混乱するから止めておこう」と舎利弗尊者を諭されます。
舎利弗尊者は切なる思いを持って三度、教えを説いて下さるよう懇願されます。

このことを「三止三請」(さんしさんしょう)と言います。

お釈迦さまが「それほどまでに強く教えを求めるのであれば、法を説こう」と説法を再開されると、5千人の比丘が立ち上がり、恭しく頭を垂れるとその場を立ち去りました。

増上慢(ぞうじょうまん)。自惚れ多き者たちは「退くも亦よし」と静かに見送られた。

このことを「五千起去」(ごせんききょ)と言います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

→ それは諸法実相の意義をさらに敷衍したものであり、現実の化導において、舎利弗、目連その他、声聞乗・縁覚乗に執着しておるところの人々に仏乗を開かしめるところにあるのです。
そして、一切衆生に対して仏知見を開かしめようとすることが釈尊出現の目的であり、これを一大事因縁と言うのであります。
 それはつまり、小乗をもって衆生を導くことは、仏様の本意ではないということです。
小乗のように空の真理のみを説く低い悟りの法によって衆生を導こうとするのではなく、仏様と同じ大きな悟り、仏様の深い境界と全く同じのすばらしい知見、また、それに具わるところの力用、福徳の元になる法を与えなければならないということが仏様の御誓願でり、それを法華経に示されるのであります。

しかし問題は、そのように仏様がお考えになっても、教えを受けるほうの一切衆生なかに、もし仏様の命がないのならば、これはなんにもなりません。

 「衆生にもし仏の知見無くんば何ぞ開悟する所あらん。若し貧女に蔵無くんば何ぞ示す所あらんや」 (御書六五一)
という章安大師の文があります。
貧しい女の人がいて、その女の人は見たところ、財産は何もないようですが、実は宝の蔵を持っていて、しかもそれを知らなかった。
ある人がその蔵を開ける鍵を持っていて、それを開けることによって初めて、その貧しい女が大金持ちになるのと同じように、衆生のなかに仏知見が具わっていて初めて開悟できるのであります。

 たしかに、実際は衆生のなかに仏の境界が全然ないように見えます。
仏様の境界とか菩薩の境界というのは我々には簡単に解らない意味があり、仏教を勉強すればするほど、大変なものだということが解ってくるのです。
声聞・縁覚の二乗、阿羅漢の悟りなどといっても、その修行は容易なものではありません。
七生・八生と生まれ変わり、見惑・思惑を断じて、ようやく阿羅漢になれるのです。
ある程度の円の境界を持った菩薩の位に到達するのも無量阿僧祇劫と言われ、容易ではありません。
「動踰塵劫」という言葉がありますけれども、これは通教の菩薩が「動(やや)もすれば塵劫を踰(こ)える」というほど長い間、生まれ変わり死に変わって修行しなければ、ある境界まで到達できないのです。

しかるに、その不可思議の相として、あえて法華経において仏様の大慈大悲の上から、一切の衆生に仏の命が存し、しかも一切が仏と成るという重大な意義をお示しになっておるのです。

 爾前四十余年の経々における声聞・縁覚・菩薩の長期の修行からは考えられない大利益です。
ここに方便を捨てて真実の仏の大慈大悲が顕れ、一切衆生を救い法界を浄化する最高の化導が示されたのです。

 最近、死後の世界とか霊界の世界、あるいは霊体と幽体との区別などを色々とテレビ等で公開しているようであります。
こういう色々な諸現象を不思議と思われる人もあると思います。
しかし、仏法の法理から照らしてみますと、何も不思議はありません。

 それと言うのが、法界中の十界の生命はすべて、その果報の体に準じて分々の通力があるのです。
地獄は苦しみのほか、怒りと怨(うら)みと憎しみが充満しますから、そのなんらかの因縁による意志が通力となって、人間への仕返しとして出ることもあります。
餓鬼のなかで勝れたものは、人間にない通力を持っています。
言うなれば、十界を通じてあらゆる個性がその果報による分々の通力を持ち、人間のなかにも霊界に通じたり、縁のある者もいるのです。
それがどのように不思議に見えても、要は迷界の衆生なのです。
 つまり十界のうちの天界の一分のところ、あるいは霊感のある人間界、また地獄界、餓鬼界、畜生界〔蛇・狐等)の通力の一分を挙げている程度のものであります。

正しい仏法の在り方は、十界中、九界の迷いの衆生の個々の通力に執われず、十界全体を総括する仏智煌々(こうこう)たる妙法五字の受持信行をもって安心立命(あんじんりゅうめい)の基本とします。

 世間の人が色々なことを言ったり書いたりしておりますが、仏法を信じていないという本質については、我見による分々個々の能力や通力によるもので、九界中のほんの一事に過ぎず、ばらばらな思想乃至、通力のなかに終始するものです。

 故に、大聖人様の仏法を根本として異体同心の人々が一致団結するところに、本当にこの仏法を弘宣していく姿があります。
これが上記経文の文証として挙げられた「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」 の元意における、下種仏法による法界浄化、一切衆生救済の実現と実践に当たるのであります。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

寿量品に云はく「是くの如く我成仏してより已来(このかた)甚(はなは)だ大(おお)いに久遠なり、寿命、無量阿僧祇劫、常住にして滅せず、諸の善男子、我本(もと)菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶(なお)未だ尽(つ)きず、復(また)上(かみ)の数に倍せり」等云云。此の経文は仏界所具の九界なり。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

ここに挙げられた寿量品の御文のうち、「是くの如く我成仏してより已来甚だ大いに久遠なり、寿命、無量阿僧祇劫、常住にして滅せず」というところまでは、本仏のことについての経文であります。

 今世においで釈尊は十九歳で出家し、三十歳にして菩提樹下において成道した、それ以来の仏様であると一会の衆生は思っておりました。
その衆生の偏見を、この寿量品において打ち破られたのであり、我れ釈迦牟尼仏は成仏してより無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫を経るという、久遠の仏の寿命をお示しになったのであります。

 その次の「諸の善男子、我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず、復上の数に倍せり」という御文は、釈尊が菩薩の道を久遠の昔において行じたということであります。

 この御文は要するに、仏様は必ず原因があって仏たる結果があると申しましたが、久遠の昔の仏様でも、そこに必ず原因があるのです。
これは本門の上の仏道の因であり、根本の原因でありますから「本因妙」と言うわけであり、この本因妙を示されたのが右の御文なのであります。
そして、これを本因妙と称することを、天台大師が名づけ、解釈しているのであります。

 菩薩の時に修行したところの寿命とは、天台大師が六即という仏道の位を立てましたが、仏様の境界を初めより分々に得る位は、まず凡夫の理即の位、次が名字即の位、次が観行即、相似即、分真即までが因位の修行であり、最後の究竟即は仏、つまり果の位です。→
-----------------------------------------

六即(ろくそく)

天台大師『摩訶止観』巻1下で、法華経円教)を修行する者の境地を6段階に立て分けたもの。
修行者の正しい発心のあり方を示しており、信心の弱い者が卑屈になったり智慧のない者が増上慢を起こしたりすることを防ぐ。
「即」とは「即仏」のことで、その点に即してみれば仏といえるとの意。
@理即[りそく]。生命の本性(理)としては仏の境地をそなえているが、それが迷いと苦悩に覆われている段階。
A名字即[みょうじそく]。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。
B観行即[かんぎょうそく]。「観行」とは、観心(自分の心を観察する)の修行のことであり、観行即は修行内容の上で仏と等しいという意。仏の教えのとおりに実践できる段階。
C相似即[そうじそく]は、修行の結果、仏の覚りに相似した智慧が得られる段階。
D分真即[ぶんしんそく](分証即)は、真理の一部分を体現している段階。
E究竟即[くきょうそく]は、完全なる覚りに到達している段階。
-----------------------------------------
→ 尊い妙法をまず持ち、修行していく道程で、空より仮、仮より但中に入り、その中が但なる中でなく、即空即仮即中の円融する、円の真理の境界に入るのが分真即です。
この位で法界自在の、法身常住の寿命の一分を証得します。
これが菩薩道を行じて成じた寿命なのです。
 この分真即は初住が初めで十住まで、次に十行、十回向、十地、等覚まで四十一の段階があり、各位にて円を蔽(おお)う無明煩悩の一品ずつを断じて四十一品断、最後に妙覚〔仏〕 の悟りを蔽う元品の無明を断じて仏と成る、都合四十二品の無明を断じます。→
-----------------------------------------
五十二位(ごじゅうにい)
大乗の菩薩の修行段階を52に分けて示したもの。
華厳経や菩薩瓔珞本業経に基づくとされる。
@十信A十住B十行C十回向D十地E等覚(仏の覚りに隣接し、間もなく仏になろうとする段階)F妙覚(覚りの境地、菩薩が到達する最高の段階)を合計して五十二位となる。
天台宗の解釈では、その内容の立て分け方が別教と円教とで異なっている。
別教では十回向以下を凡位、初地以上を聖位とし、さらに凡位の中で十信を外凡、十住・十行・十回向を内凡(または三賢)とする。
これに対し円教の菩薩の位では、十住以上を聖位、十信を内凡位とし、十信の前に法華経分別功徳品第17に説かれる「滅後の五品」の段階(五品弟子位)を置いて外凡位とする。
日蓮大聖人の仏法では、五品の位より下位である名字即の位で、五十二の階位を経ずに成仏すると説かれる。

-----------------------------------------

十信(じっしん)
菩薩の修行の52の階位である五十二位のうちの最初の10の位。
菩薩として持つべき心のあり方を身につける位。
三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)のうちの見思惑すらまだ断じていない位で、別教の菩薩の位としては外凡と位置づけられる。
円教の菩薩の位としては内凡と位置づけられる。
@信心(清浄な信を起こす位)
A念心(念持して忘れることのない位)
B精進心(ただひたすらに善業を修する位)
C定心(心を一つの処に定めて動じない位)
D慧心(諸法が一切空であることを明確に知る位)
E戒心(菩薩の清浄な戒律を受持して過ちを犯さない位)
F回向心(身に修めた善根を菩提・覚りに回向する位)
G護法心(煩悩を起こさないために自分の心を防護して仏法を保持する位)
H捨心(空理に住して執着のない位)
I願心(種々の清浄な願いを修行する位)をいう。

-----------------------------------------

十住(じゅうじゅう)
菩薩の修行の52の階位である五十二位のうちの第11から第20の位。
真実の空の理に安定して住する位。
初住である発心住は、菩薩の不退位の初めであり、見思惑・塵沙惑を断ずる菩薩の初位にあたる。
別教の菩薩の十住は内凡と位置づけられる。
菩薩の修行の中で成仏の因である正因・了因・縁因の三仏性は初住から開き始めるので、五十二位中でも初住は大事な位となる。
@発心住(十信を成就し広く智慧を求める位)
A治地住(常に空観を修して心を清浄に保つ位)
B修行住(もろもろの善法や万行を修する位)
C生貴住(諸法は因縁の和合によって存するので、諸法の常住不変な体はないとの法理を理解し、本性が清浄である位)
D方便具足住(無量の善根を修して空観を助ける方便とする位)
E正心住(空観の智慧を成就する位)
F不退住(究竟の空理を明かして退かない位)
G童真住(邪見を起こさずに菩提心を破らない位)
H法王子住(仏の教えを深く理解して未来に仏の位を受ける位)
I灌頂住(空・無相を観じて無生智を得る位)をいう。

-----------------------------------------

十行(じゅうぎょう)
菩薩の修行の52の階位である五十二位のうちの第21から第30の位。
利他の修行を行い、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧・方便・願・力・智の十波羅蜜を成就する。
三惑のうち、見思惑・塵沙惑を断じた不退の位。
@歓喜行(外道邪見に動かされずに一切所有の物を衆生に施し、歓喜の心を生じさせる位)
A饒益行(常に一切の衆生を教化して利益する位)
B無恚恨行(無違逆行ともいう。忍辱を修して怒りを離れ、へりくだって謹み敬う位)
C無尽行(無屈撓行ともいう。一切の衆生を成仏に至らしめる位)
D離癡乱行(無癡乱行ともいう。一切の法において乱されず、正念を失うことがない位)
E善現行(生々世々に常に仏国に生まれて、一切の衆生の教化を捨てない位)
F無著行(一切の法において著する所のない位)
G尊重行(難得行ともいう。三世にわたって仏法の中に常に善根を尊重して成就する位)
H善法行(法を説いて人に授け、もって正法を守護し、人々の模範となる位)
I真実行(無為真実の性によって、仏法を学び語と行と相応じて、色心みな順ずる位)をいう。

-----------------------------------------

十回向(じゅうえこう)
菩薩の修行の52の階位である五十二位のうちの第31から第40の位。
これまでの仏道修行で得た功徳を回[めぐ]らし転じて衆生に振り向け、自他ともに成仏を期す位。
@救護一切衆生離衆生相回向(略して救護衆生回向。六波羅蜜・四無量心などを行じて、一切衆生を救護する位)
A不壊回向(三宝のもとで不壊の信を得て、その善根により衆生に善利を回向する位)
B等一切仏回向(三世諸仏の振る舞いと同じく、生死に著せず菩提心を離れず修行する位)
C至一切処回向(行力によって修めた善根をあまねく一切の三宝や衆生の処に至らしめ、供養利益をなす位)
D無尽功徳蔵回向(略して無尽蔵回向。一切無尽の善根を喜び、これを回向してもろもろの仏事を行い、それによって無尽の功徳善根を得る位)
E随順平等善根回向(修行して得た善根を回向して衆生に平等に施し、仏に守護されて、よく堅固な善根を成ずる位)
F随順等観一切衆生回向(一切の善根を増し、これを回向して、一切の衆生を利益する位)
G如相回向(如相に順じて成ずるところの種々の善根を回向する位)
H無縛無著解脱回向(一切法において取執縛著なく、善法を回向し、一切智を得る位)
I法界無量回向(一切無尽の善根を修習して、これを回向して法界差別無量の功徳を願求する位)をいう。

-----------------------------------------

十地(じゅうじ)
「じっち」とも読む。仏道修行者の修行段階・境地を10種に分けたもの。
地とは能生・所依の義で、その位に住してその位の法を持つことによって果を生成するものをいう。
教の浅深によって、説かれる十地の内容も異なる。
主なものは?三乗共の十地?大乗菩薩の十地などである。
他に仏の十地、声聞の十地、縁覚の十地がある。

?三乗共の十地。通教十地ともいう。声聞・縁覚・菩薩の三乗に共通なもので、四諦・十二因縁・六波羅蜜を行じ、見思惑を断じて覚りを得る境地。
@乾慧地(乾慧とは法性の理水も潤し得ない乾燥した有漏の智慧で、智慧はあるが法性の空理を証得していない位。声聞の三賢位〈外凡〉、菩薩の順忍以前にあたる)
A性地(わずかに法性の空理を得て見思惑を伏する位。声聞の四善根位〈内凡〉、菩薩の順忍にあたる)
B八人地(人とは忍の義で、八忍地と同じ。初めて無漏智を得て見惑を断ずるという見道十五心の位。声聞の須陀?向、菩薩の無生法忍にあたる)
C見地(見とは見惑を断尽して四諦の理を見る意で、見道第十六心の位。声聞の須陀?果〈初果〉、菩薩の阿?跋致〈不退転〉の位にあたる)
D薄地(欲界九品の思惑のうち前の六品を断じて後の三品を残すので薄という。声聞の斯陀含果〈二果〉、菩薩の阿?跋致以後の位にあたる)
E離欲地(欲界九品の思惑を断じ尽くして欲界から離れる位。声聞の阿那含果〈三果〉、菩薩の五神通を得た位にあたる)
F已弁地(已作地)(三界の見思惑を断じ尽くした位。声聞界の最高位である阿羅漢果〈四果〉、菩薩にとっては仏地を成就した位にあたる)
G辟支仏地(縁覚の位。三界の見思惑を断じたうえに習気を除いて空観に入る位。習気とは業の影響力のこと。見思惑そのものは断じ尽くしても、潜在的な影響力として残っていく惑をいう。『摩訶止観』巻6上には、見惑を薪に、思惑を炭に、習気を灰に譬えている)
H菩薩地(菩薩として六波羅蜜を行ずる位。空観から仮観に出て再び三界に生じて衆生を利益するので、乾慧地から離欲地までをさす。また菩薩の初発心から成道の直前までをいう)
I仏地(菩薩の最後心で、一切の惑及び習気を断じ尽くして入寂する位。一切種智など諸仏がそなえる法〈特徴〉を具備した通教の仏の境地)。

?大乗菩薩の十地。菩薩の修行段階で、五十二位の第41から第50の位。無明惑を断じて中諦の理を証得する過程である。
@歓喜地(極喜地、喜地、初地ともいう。一分の中道の理を証得して心に歓喜を生ずる位)
A離垢地(無垢地ともいう。衆生の煩悩の垢の中に入ってしかもそこから離れる位。破戒と慳嫉の2種の垢を離れるので離垢地という)
B明地(発光地ともいう。心遅苦の無明、すなわち聞思修忘失の無明惑を断じ、智慧の光明を発する位)
C焔地(焔慧地、焼然地ともいう。煩悩の薪を焼く智慧の焔が増上する位)
D難勝地(極難勝地ともいう。断じ難い無明惑に勝つ位)
E現前地(清浄な真如と最勝智があらわれる位)
F遠行地(遠く世間と二乗の道を出過する位)
G不動(中道の理に安定して住して動ずることがない位)
H善慧地(善巧の慧観によって十方一切にわたって説法教化する位)
I法雲地(説法が雲のように無量無辺の法雨を降らし真理をもって一切を覆う位)をいう。

-----------------------------------------

等覚(とうがく)
?仏の異名。等正覚。等は平等の意、覚は覚悟の意。諸仏の覚りは真実一如にして平等であるので等覚という。
?菩薩の修行の段階。五十二位のうちの第51位。菩薩の極位をさし、有上士、隣極ともいう。
長期にわたる菩薩の修行を完成して、間もなく妙覚の仏果を得ようとする段階。

-----------------------------------------

妙覚(みょうかく)
?仏の優れた覚りの境地。
?菩薩の修行の段階。五十二位のうちの最高位の第52位。
等覚[とうがく]位の菩薩が、42品の無明惑のうち最後の元品の無明を断じて到達した位で、仏と同じ位。
六即位(円教の菩薩の修行位)では究竟即[くきょうそく]にあたる。
文底下種仏法では名字妙覚の仏となる。
「法華取要抄」には「今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向って之を見れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」(334n)と述べられている。
法華経の文上の教説では、釈尊在世の衆生は、釈尊によって過去に下種されて以来、熟益の化導に従って本門寿量品に至った菩薩の最高位である等覚の位にまで上って得脱したとされる。
日寛上人の『当流行事抄』によれば、これを文底の意から見た場合、等覚位の菩薩でも、久遠元初の妙法である南無妙法蓮華経を覚知して一転して南無妙法蓮華経を信ずる名字の凡夫の位に返り、そこから直ちに妙覚位(仏位)に入ったとする。
これを「等覚一転名字妙覚」という。

-----------------------------------------
→ そのうち、初めの初住の位において一品の無明を断じ、一分、中道円融の理を証しますから、これよりが聖位となります。
そして天台は、経文の「我本行菩薩道」の位を円教の初住の位と判釈しておるのです。
その菩薩の位の時に常住の命を得た慧命の功徳は永遠に尽きず、今日に至るまでまだ尽きていないのみか、上に挙げるところの五百塵点という無数の長さに倍するのであると釈尊が述べられて、この菩薩の寿命に比べて、釈尊が本果の仏と成って以来の寿命の長さ、また、その功徳が尽きないことを顕されたというように、天台は述べております。

ところが大聖人様は、この「我本行菩薩道」のもう一つ元のところに、つまり文の底に、久遠の仏法の法体が存することを御指南であります。
それが釈尊から譲り受けた、如来一切所有の法、自在の神力、秘要の蔵、甚深の理等の結要付嘱の妙法蓮華経の五字であり、付嘱を受けたその仏法の内容は経文に示された表面上の形より、もっと元にあるのだということを各御書にお示しであります。

この 『観心本尊抄』 のあとのところでも種と脱に分けてこの法体をお示しになっており、脱は釈尊の仏法の本因本果であり、種は久遠の妙法五字の当体であって、そこのところに真の本因妙下種の本因本果があり、一切の仏法の本源が存することを、大聖人様の本懐の御法門として御指南であります。

 しかし、ここのところはむしろ釈尊仏法による天台の立場、すなわち教相の上からの法相に基づいて「我本行菩薩道」の文を引かれております。
すなわち、釈尊が仏と成られてから五百塵点劫という長い間の御化導があります
が、そのなかには菩薩の用きを仏様の身において顕し、衆生を導いておられる姿があります。
故に、釈尊が仏様本来の形を顕されるばかりでなく、仏様に成る前の菩薩の形を顕される、さらに言うならば声聞、縁覚の形も顕されるということであり、人間界あるいは地獄界、畜生界等にも生じて身を顕され、有縁の衆生を導くということであります。
これが因果並常(びょうじょう)の化導であります。→
-----------------------------------------
「因果異性の宗」
方便権教は、因である九界を断滅してこそ果である仏界が得られるとする厭離断九を説く

「因果同性の宗」
法華経迹門は、九界と仏界が同じ一つの生命に具わることを説く

「因果並常の宗」
本門は、九界と仏界がともに三世にわたって常住するのが真の仏身であると明かす

「因果一念の宗」
大聖人の文底独一本門は、凡夫の一念に九界も仏界も納まり、信の一念によって、いつでも凡夫の身に仏界が涌現し、即身成仏できる
-----------------------------------------
→ したがって、経典には、昔、釈尊が鹿となったり、兎となったり、そのほか色々な動物になった形で衆生を導かれたことが、広く説かれてあります。
そういうことはすべて、寿量品が顕れてその実理が証明されるのであり、久遠の仏様のなかにおける用きとして存するのであります。
したがって「我本行菩薩道。所成寿命」という文を挙げられて、この経文は仏界所具の九界であると言われ、すなわち仏界に具わるところの九界の活動の実義を示されるのであります。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

23

経に云はく「提婆逹多(だいばだった)、乃至天王如来(てんのうにょらい)」等云云。地獄界所具の仏界なり。経に云はく「一を藍婆(らんば)と名づけ、乃至汝等(なんだち)但(ただ)能(よ)く法華の名(みな)を護持する者は福量(はか)るべからず」等云云。是(これ)餓鬼界所具の十界なり。

-----------------------------------------

 この前の二文までは「総証」であり、九界と仏界とを大きく相対し、はたして九界に仏界が具わるかということにつき、方便品を挙げられて九界に仏界具わっておることをお示しになり、また、逆に仏界に九界が具わっておることを寿量品の文を挙げられてお示しになった次第であります。

 そして、ここからは「別証」でありまして、地獄から餓鬼、畜生、修羅、人間、天上等の一つひとつを取り上げられて、法華経の御化導の上における文証を挙げられるのであります。

まず

■「経に云はく『提婆達多、乃至天王如来』等云云。地獄界所具の仏界なり」

とありますが、これは提婆達多品第十二の御文の取意であります。
これには不思議な仏法の因縁がありまして、釈尊の深い境界において提婆達多との関係を示されたのが、この御文であリます。

 釈尊がインドに生まれて、提婆達多という悪人から常にに怨嫉を受け、悪口を言わわれ、特に三度まで殺されそうになったり、様々な難を受けられました。
それについて、釈尊ほどの徳のある偉い方が、どうして提婆達多のような人間と今世において遭遇することになり、その人間より徹底した憎しみと迫害を受けるのかということが、当時の弟子・大衆の大きな疑いだったのであります。
けれども釈尊は、その疑いに対して御返事をなさらず、法華経の提婆達多品に来て初めて、その意義を説かれたという次第であります。

 それは、昔、釈尊がある国の王と生まれたのですが、その国王はたいへん菩提心の深い方で、世間の有為(※ 因縁(いんねん)によって生じた、生滅・変化してやまない現実のありさま。)の権力や権勢を捨てて真実の道を得ようと思い、王位を太子に譲って、真実の法を知っておる方を常に心掛けて探しておったのです。
ある時、阿私仙という仙人が来て、
「我れは甚探微妙の法を持っておる。それは妙法蓮華経と名づけるのである。もし汝に志があれば、この妙法を授与しよう」
と言ったのです。
それから、釈尊の前身である国王はあらゆる地位も名誉も捨てて、その阿私仙人に付き従って山のなかに入り、そして、あの有名な「千歳給仕」をしたのであります。

 のちの人が提婆達多品を拝して、
  ■「法華経を 我が得しことは 薪こり 菜摘み水汲み 仕えてぞ得し」
という有名な歌を詠みました。
これは、その阿私仙人に千年の間、給仕をした釈尊の前身である国王のことを歌ったのであります。
すなわち、阿私仙人に従って千年の長い間、常に薪を採り、水を汲み、食べ物を供給し、身を粉にして阿私仙人に仕えて、妙法蓮華経を自ら修行すると同時に、その話を聞くことによって自分は仏に成ることができたという歌でありまして、その釈尊の過去の因行が提婆達多品に説かれているのであリます。

 その阿私仙人がだれであるかといいますと、今世において提婆達多として生まれてきたと言われたのであります。
ですから、昔の師は今の弟子であり、今の弟子は昔の師であって、逆縁も順縁も共に妙法によっで成仏するという、不思議の法華の妙理を顕しております。
この提婆達多は今、地獄に堕ちているけれども、未来において天王如来という仏様に成るということを、釈尊が迹門の提婆達多品で説かれたのであリます。
 すなわち、経文の上においては、
  ■「提婆達多、却(さ)って後、無量劫を過ぎて、当に成仏することを得べし。名を天王如来(中略)仏世尊と曰わん」 (法華経三六〇)
とありまして、無量劫を過ぎたのちということを示されております。
したがって今すぐに天王如来に成るということではありません。
今はまだ地獄の底の釜のなかで苦しんでいるが、未来無数劫ののちに天王如来に成ると、迹門の意によって説かれたのであります。

 ところがの序品の初めに釈尊は眉間の自毫相の光を放って東方万八千の世界を照らし拾うとあり、その光は下、阿鼻地獄に至り、上、阿迦尼「口+?」(あかにた)天に至る(法華経60)とあります。
これについて、大聖人様の法門から拝するなちば『御義口伝』に、この光明は南無妙法蓮華経で、この序品の時に提婆達多は即身成仏した(御書一七二三)と仰せになっております。
これは本門の妙法上からの仰せであります。
本門の上からは、地獄も餓鬼も、その身そのままの当体において即身成仏するのであり、これは内証成仏の意であります。
ですかち、末法下種の仏法は内証観心の成仏・成道なのであります。

 末法においては外相の形、つまり三十二相のすべてを備えたような姿や福徳における仏様には成りません。
しかし今日、御本尊を受持して南無妙法蓮華経と唱えるところに内証成仏を得る−ーーこれが一切の仏法の元なのであります。
また、これが一番根本の功徳であるのです。

そういう意味でありますが、ここではいわゆる提婆達多という悪人もまた、天王如来という記別を受けられたという提婆品に顕れた形の上からと、また本門の意における地獄界即身成仏の義を含め、ここに地獄界に仏界が具わっておるということをおっしゃっております。

 時に、あとのところでは全部「○○界所具の十界」と言われておりますけれども、ここだけが「仏界」となっておりますのは、「天王如来」という語がありますので
■「地獄界所具の仏界なり」
とお書きになったものと思われます。

 次の
■「経に云はく『一を藍婆と名づけ、乃至汝等但能く法華の名を護持する者は福量るべからず』等云云。是餓鬼界所具の十界なり」
として挙げられたのは陀羅尼品第二十六の御文でありますが、「藍婆」というのは華歯とか黒歯などの十羅刹女の一人でありまして、それを代表して藍婆を挙げておられます。
また
■「汝等但能く法華の名を護持する者は福量るべからず」
とあるのは、大聖人様が略して挙げられておりまして、実際の経文は、
■「汝等但能く、法華の名を受持せん者を擁護(おうご)せんすら、福量るべからず」(法華経五八一)
となっております。
つまり、十羅刹女は法華を修行する人を護るという誓約を立てておりますから、その擁護する者の福は量るべからずということがあるのです。
そして、ここではその「福量るべからず」ということが一番大事な意味を持っているのであります。

 福ということには、様々な福があります。
特に、この大法を受けて信心する境界になったということは大きな福があるのです。
また、人間として生まれてくるのにも、それぞれ福があります。
しかし、普通の世間の場合の福というのは小さい福が多いのです。

 ところが、ここには「福量るべからず」とあります。
福の最高のものは何かといいますと、成仏の福が最高の福であります。
故に、藍婆等の十羅刹女が即、法華を護持することによって成仏をするという文証を、ここに「福量るべからず」という意味で示されておるのであります。
■「是餓鬼界所具の十界なり」
ここからが「所具の十界」となりますが、仏界が具わっておる以上は、それ以下の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩の九界はすべて具わるという意味がありますから、仏界が具わればそれぞれ十界が全部、具わるということになります。
そこで、義によってここに「十界」とお示しになっておるのでありまして、以下、全部そのとおりであります。
-----------------------------------------

■ 経に云はく「竜女、乃至成等正覚」等云云。此(これ)畜生界所具の十界なり。経に云はく「婆稚阿修羅王(ばじあしゅらおう)、乃至一偈一句を聞いて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得べし」等云云。修羅界所具の十界なり。
-----------------------------------------
 この 「竜女」 の成仏というのは提婆達多品で説かれるところであります。
つまり、沙伽羅龍王に八歳の竜女がおり、その竜女が海中において法華経を修行したというのです。→
-----------------------------------------

(「沙伽羅」は??gara の音訳。娑羯羅、沙竭羅、沙竭などとも) 八大龍王の一つ。観音二十八部衆の一つ。護法龍神。また、降雨の龍神として、請雨法のおりの本尊。しゃかつらりゅうおう。しゃかつら。しゃかちら。しゃがら。しゃがらおう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
→ なぜこの法華経を修行したかといいますと、文殊師利菩薩が海中に入って法華経をもって教化したということがありまして、そのことについて、この提婆達多品で智積菩薩ならびに舎利弗と文殊師利菩薩との問答があります。→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

詳しくは文殊師利法王子(青年たるマンジュシュリー)菩薩。初期の大乗仏教経典において堅固な精神統一(首楞厳三昧(しゅりょうごんざんまい))の体現者、に説法を請願し対話の相手役を務める菩薩の代表者などとして現れる。とくに般若(はんにゃ)経典との関係は深く、仏滅後に実在した菩薩、または無限の過去にすでに悟りを得た仏の現れ、菩薩の父母とされ、初期般若経典の形成に直接関与した実在の人物を背景として理想化された菩薩であると推定されている。多数の大乗経典の成立に伴って、悟りの実践的側面を象徴する普賢(ふげん)菩薩と並んで、その知性的側面を象徴し、智慧(ちえ)の菩薩とみなされるようになる。図像上は釈迦仏(しゃかぶつ)の左脇侍(わきじ)として獅子(しし)に乗った姿で表現され、また密教の胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)では中台八葉院、金剛界(こんごうかい)曼荼羅の賢劫(けんごう)十六尊のなかにそれぞれ位置づけられる。中国では五台山が文殊の浄土とみなされ、それへの信仰が盛んになった。

[江島惠教]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
智積菩薩(2)法華経提婆達多品に説かれる多宝如来に従った菩薩竜女成仏について、文殊師利菩薩と論議した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

→ そのときに「大変な修行を積まなければ仏に成ることはできない。それが、八歳の竜女というような、畜生の、しかも女が仏に成るということなど、あるはずがない」と言って、智積菩薩や舎利弗等がたいへん疑うわけであります。

 爾前経においては、女人は全く成仏できないということになっております。
女人は「外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如し」と言われたり、五障の雲にまとわれておると言われるのであります。
つまり、大梵天王にもなれなければ、帝釈天王にもなれない。
あるいは第六天の魔王にも、転輪聖王にもなれず、しかも第五番目には仏に成ることができないというようなことが言われております。

 また「三従」と言って、子供の時には親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うというように全部、従っていなければなりません。
そういうように、女の人は五障・三従であって、自分はこれが正しいと思ってもその正しいことを行えず、夫が狂っていてもその夫に従っていかなければなりませんから、どうしても自分まで曲がってしまいます。

 最近の事例を見ても、主人の考えが狂っているために、奥さんは正しい人だったけれども、あそこまで間違ってしまったかと思うほど、主人と同じように逸(そ)れてしまった人がおります。
ですから、いかに女の人は逸れやすいかということであります。
曲がってはおりませんけれども、曲がりやすいということです。
物事、筋道において正しい主体性を持つことができない、そこに女人が成仏できないと言われる所以があると思います。

 それはともかく、爾前経ではそのように言われておりますけれども「それが法華経においては八歳の竜女が成仏した」と説かれるのであります。
それは、智積菩薩が
 「八歳の竜女が成仏したというようをことを聞いても、私はそのようなことを信じることはできない」
との疑いを言い終わるか終わらないうちに、忽然として八歳の竜女が仏前に婆を現して、まず第一に宝珠を釈尊に奉るのであります。
そして竜女が智積菩薩や舎利弗等に対して
「私は今、この宝珠を釈尊に奉る。釈尊がこの宝珠を受け拾うこと、疾(と)しや否や」
と質問したところ、
事実そのとおりであるので、
 「仏様はそれを直ちにお受けになった」と答えるのであります。

 そこで竜女は「私が仏に成ることは、これよりもなお速い」と言って成仏の相を示すのですが、ここに「変成男子」という法門があるのです。
それは、八歳の竜女が男に変わって海中において成仏の相を示し、三十二相の仏様の姿を顕して法華経を説いたというのです。
そして多くの人にこの法華経を説いて衆生を導く相を、神通力をもって示したということにより、舎利弗や智積菩薩等の方が実にびっくり仰天して、黙然としてこの妙法蓮華経の功力に感じ入ったということが、提婆達多品に示されてあるのであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考 法華経では、竜女は女性の身のままであっても成仏できるのにあえて声聞たちの目の前で女性器を男性器へ変えた。それは男女の差別は大したことがないということ悟らせ古い価値観(変成男子)を打ち砕くためである。法華経で説かれる変成男子はパラドクス的な意味であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「変成男子」の箇所は、サンスクリット 版では竜女が長老シャーリ=プトラ(舎利弗)ら聴衆の眼前で 女性から男性への性器の変化を披露する
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

→ ここで、変成男子ということがありますから、やはり法華経であってもその身そのままの当体で、つまり女人がそのままの姿で成仏したということはなかったではないか。
結局、仏様に成るときは女ではだめなのであって、男にならなければ仏には成れないのだと言う人がおります。
けれども、これは教相上の化導の相と、観心上の内証の相との違いなのです。
したがって、その仏様として法を説く時は男の姿になっておるという仏道の形の上から、そのような相を示されたと拝すべきなのであリます。

 つまり、宝珠を釈尊に奉り、釈尊がそれを受けられた時に、既に八歳の竜女がその身そのまま即身成仏をされておるという内証成仏がそこに存するのです。
したがって、それは八歳の竜女の当体、すなわち女が女の形でそのまま仏様に成ったのであり、そこに改転の成仏ではなく、その身そのままの即身成仏ということがあるのです。

 ですから、正しい法華経の義理を示される天台大師、妙楽大師その他の方は既にこの文をもって竜女の即身成仏とされておるのであるから、女の方も絶対に安心されてよいのです。
つまリ、妙法蓮華経を受持するうちは、男も女も全く変わらない即身成仏の意義があるということです。

 そして、竜女の即身成仏ということは、竜女は畜生界ですから、すなわち「畜生界所具の十界」 であるということを示されてあリます。

 次に
■「経に云はく「婆稚阿修羅王(ばじあしゅらおう)、乃至一偈一句を聞いて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得べし」等云云。修羅界所具の十界なり。」
との御文を挙げられております。
これは法華経の法師品に、
 ■ 是の大衆の中の、無量の諸天、龍王、夜叉、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩ご羅伽(まごらが)、人と非人と、及び比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の、声聞を求むる者、辟支仏を求むる者、仏道を求むる者を見るや。
是の如き等類(たぐい)、咸(ことごと)く仏前に於て、妙法華経の、一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せん者には、我皆記を与え授く。当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。(法華経三一八)
ということが説かれてありまして、その御文の意義を取ってお引きになっておるのでありますが、これは 「修羅界所具の十界」 であります。

-----------------------------------------
経に云はく「若し人仏(ほとけ)の為の故に、乃至皆已(すで)に仏道を成ず」等云云。此(これ)人界所具の十界なり。
-----------------------------------------

 次に
■「経に云はく『若し人仏の為の故に、乃至皆己に仏道を成ず』等云云。此人界所具の十界なり」
とお示しでありますが、これは方便品のなかで、過去において法華経に縁した人が色々とあって、それが色々な形で妙法に対する供養をされた、その供養によって既に成仏したのであるということを示されておるわけです。

例えば、戯れに沙(すな)を集めて仏塔を造ったり、散乱の心で一華を供養したり、戯れに諸々の形像を立てたり、あるいは仏道の上の仏の相を彫刻したり、そのほか様々なことを修行しました。

これは根本の本門下種の妙法受持の大功徳から見れば枝葉の修行であるが、過去の因縁により、このような修行の時と機根が存するのであります。
これを法門で言えば、就類種の開会の上の仏道成就ということです。→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
就類種
真実の善(仏法に基づく根本の善)に類する衆生の枝葉の善業についてこれを仏種とすること。相対種に対する語。種類種ともいう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

相対種
凡夫が法華経を修行する真髄は「相対種」という考え方にあると言われています(982)。「相対種」とは、結果(成仏)とは反対のもの(煩悩など)が成仏の原因(種子)になる、という意味

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
→ これらが皆、仏道を成じておるということをもって大聖人様は、ここのところを本門の筋の上から即身成仏を遂げた者としてお引きになっておられるものと拝されます。

 この「仏道を成ず」という「仏道」ということは、仏の道ですから修行という意味があります。
これは道を行ずるという立場ですから、九界と仏界に分ければ因の立場、すなわち九界であります。
それから「成ずる」ということは仏様に成ったということですから、九界即仏界、いわゆる「人界所具の十界」であるということをお示しであります。

次の
■「経に云はく「大梵天王、乃至我等も亦是くの如く、必ず当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得(う)べし」等云云。此天界所具の十界なり。」
というのは譬喩品の御文でありますが、仏に成るということは、法華経の功徳において天界もまたそのとおりである、ということであります。
-----------------------------------------
■ 経に云はく「舎利弗、乃至華光(けこう)如来」等云云。此声聞界所具の十界なり。経に云はく「其の縁覚(えんがく)を求むる者・比丘・比丘尼、乃至合掌し敬心(きょうしん)を以て具足の道を聞かんと欲す」等云云。此即ち縁覚界所具の十界なり。
-----------------------------------------

 さて、声聞界とか緑覚界という二乗は成仏できないということが、また爾前経における、とおり相場でありまして、爾前経のどこにも舎利弗、目連その他の二乗は成仏しておらないのであります。

 なかには決定性ではなかったから法華経で成仏できたのだというようなことを言う人がおります。
けれども、これは結果論であります。
二乗は、爾前経では成仏できないのですから、これら舎利弗、目連等が決定性でなかったという証明にはなりません。
それを法相宗等の人々は、舎利弗、目蓮等は決定性の二乗ではなかったのだというようなことを言いますが、彼らの勝手な誤った教義によるもので、そのようなことはありません。

 ですから、法相宗の依経となるところの解深密経とかその他の方等部の経典では全部、成仏できないのであります。→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

法相宗ほっそうしゅうほうそうしゅう)とは、インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する、中国の時代創始の大乗仏教宗派の一つ。645年、中インドから玄奘三蔵が帰国し唯識説が伝えられることになる。その玄奘の弟子の慈恩大師(窺基)が開いた宗派である。唯識宗慈恩宗中道宗とも呼ばれる。705年に華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。

日本仏教における法相宗は、玄奘に師事した道昭法興寺で広め、南都六宗の一つとして8-9世紀に隆盛を極めた。有名な寺としては、薬師寺興福寺などがある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

解深密経
仏教経典。瑜伽行(ゆがぎょう)派(唯識(ゆいしき)学派)に属する経典で、4世紀ころの成立と推定され、代の647年(貞観21)玄奘(げんじょう)により漢訳された。5巻。
異訳に、菩提流支(ぼだいるし)訳『深密解脱経(じんみつげだつきょう)』5巻、その他二、三の部分訳があり、またチベット訳もある。
サンスクリット原典は現存しない。
玄奘訳によれば、(1)序品(じょほん)、(2)勝義諦相(しょうぎたいそう)品、(3)心意識相品、(4)一切法相(いっさいほっそう)品、(5)無自性相(むじしょうそう)品、(6)分別(ふんべつ)瑜伽品、(7)地波羅蜜多(じはらみった)品、(8)如来成所作事(にょらいじょうしょさじ)品の8章からなる。

『解深密経』とは、仏の深密(じんみつ)(深く秘せられた趣旨)の教えを解明した経という意味であって、『般若経(はんにゃきょう)』などに説かれた無自性(むじしょう)、空(くう)の思想をより明確なものに発展させた新しい教義が提唱されており、それが唯識説である。
すなわち唯識の教義を創唱した経として、思想史上重要な意義をもつ。
そのおもな教義は、第3章に説かれる阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)説、第4、第5章における三性三無性(さんしょうさんむしょう)説、第6章における影像(ようぞう)門の唯識説などであって、これらの理論が中核となって、その後の瑜伽行派の学説が展開した。
弥勒(みろく)の『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』、無著(むじゃく)の『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』、護法(ごほう)の『成唯識論(じょうゆいしきろん)』などに引用されている。
インドにおけるこの経に対する注釈書は、無著の注釈ほか2種のものが存し、いずれもチベット訳『大蔵経』のなかに伝えられている。
また中国では、円測(えんじき)の『解深密経疏(しょ)』が現存する。

[勝呂信静]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


→ 法華経に至って初めて成仏できたのでありますから、爾前経から見るならば、すべての二乗は決定性だったのであります。
ただし、それは爾前経の意で見るから二乗不作仏という命しかないということに決まっでおるのであり、法華経から見れば、やはりこの二乗のなかに深い菩薩の命、さらには仏の命が存するということであり、それが法華経において初めて開顕されたのであリます。

 さて、舎利弗は法華経の方便品の、
  ■「諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体云云」 (法華経八九)
という十如実相の法門を聞いて妙法を悟ったと言われます。
しかし、その方便品を説かれた時には迦旃延とか目連尊者、あるいは須菩提とか迦葉尊者等の方々もおられましたけれども、この方々はまだ諸法実相の法門では悟れなかったのであります。

 諸法実相とは、迹門では一切衆生の本性に具わる円融の生命、一念三千を開示したのですが、その法門を身に当てて悟るということは、たいへん難しいのであります。
ですから、そのあと譬喩を聞いて悟ったのが四大声聞でありますが、舎利弗一人だけはこの方便品の法を聞いて悟ったわけであります。
したがって、舎利弗は華光如来という仏様として記別を受けました。
すなわち、
 ■「舎利弗、汝未来世に於て、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し、菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし。
号を華光如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊と曰い、国を離垢と名づけん。」(同三一五)
という記別を得られたのでありまして、これが「声聞界所具の十界」であるとお示しであります。
                                      
 次に
■「経に云はく「其の縁覚(えんがく)を求むる者・比丘・比丘尼、乃至合掌し敬心(きょうしん)を以て具足の道を聞かんと欲す」等云云。此即ち縁覚界所具の十界なり。」
という方便品の御文をお示しであります。

 これは舎利弗が、多くの衆生も一仏乗の法を説かれることを願っておりますということを仏様に申し上げるなかで、縁覚の人々もまた、具足の道を聞きたてまつることを願っおります、ということを述べておるところであります。

 この「具足の道」とある「具足」ということですが、これは先程もお話ししましたけれども、「具」という字において深い意味があるわけです。
あるものに、あるものが具わるということは、ごく簡単に言えば、火の中に水が具わることでもあるのです。

この『観心本尊抄』のあとのほうにその譬えが出てまいりますけれども、「火の中に水がある。そのようなばかなことがあるだろうか」と普通は思います。
ところが、今の科学では火の中に水があることなどはきちんと立証しております。
あるいは水の中にも火があります。

また、石炭の中からコールタールのような汚いものが出ますが、その汚いものの中から何百種という、目も鮮やかな染料が採れるということは皆さんも御承知でしょう。
そのように事々物々が不思議に具わり合っておることは、最近の科学で色々と立証してきております。

しかし、もっともっと深い、仏の命とか、また、そのほかのものがすべて具わっておるというところまでは、今の科学では立証できません。
そういうものの一切の応用を完全に行って、一切衆生を本当に救わんとされることは、ただ仏様の大慈大悲のみに存するのであります。

 ですから、この「具足」ということは、一つの物に一切が具わるわけであります。
物にも心が具わり、心にまた物が具わるから、物心一如になります。

-----------------------------------------
■ 経に云はく「地涌千界、乃至真浄大法(しんじょうだいほう)」等云云。此即ち菩薩界所具の十界なり。経に云はく「或説己身或説他身(わくせっこしんわくせったしん)」等云云。即ち仏界所具の十界なり。
-----------------------------------------

 この
■「経に云はく『地涌千界、乃至真浄大法』等云云。此即ち菩薩界所具の十界なり」
という御文でありますが、これは神力品において地涌の菩薩が発誓をなされておるところの御文であります。すなわち、
■「爾の時に、千世界微塵等の菩薩摩訶薩の、地より涌出せる者、皆仏前に於て、一心に合掌し (中略) 我等も亦自ら、是の真浄の大法を得て、受持し、読誦し、解説し、書写して、之を供養せんと欲す」 (法華経五〇九)

 ということを言われており、このうちの 「真浄大法」 という文をここにお挙げになっております。
では、どうして真浄大法が十界なのかということですが、これは最大・最高の行き渡った法ということで、南無妙法蓮華経であります。

  人々はすべて、それぞれ一分の法を持っております。
自動者の運転手は交通法規や運転技術を習得して、自動車の運転だけは上手にできるでしょう。
あるいは桶を作る人は、桶を作る法は知っております。
そのほか色々な職業の人は皆、分々の法は持っておりますけれども、すべてに行き渡った、宇宙法界に遍満する法の原理・意義を体得し、これを悟ったということは、一般人としてはまず、ありえないのであります。

 ところが、地涌の菩薩は久遠よりこの真浄夫法を得、修行しておられます。
真浄大法の「真」ということは、また常という意味であります。
仏様の悟りと徳には、常・楽・我・浄の四つの徳を具えておられるのです。
その常・楽・我・浄において照らされるところの宇宙法界の法は、そのまま仏様の境界であり、内容であり、悟りでありまして、その上から見た法は即、十界の法でありますが、これは地獄といえども餓鬼といえども、ただ迷うだけの地獄や餓鬼ではなく、仏様の悟り、妙法五字の光明に照らされて、そのなかに深い意義を持ち、自由な用きを持った地獄界であり餓鬼界でありまして、これは迷い苦しみそのものの地獄や餓鬼とは違うのであります。

そういう意味の十界の法は、そのままが仏様の悟りであり、また仏様の因縁によって深く活かされていくところの不思議な意義を持つわけでありますから、そこに「真浄大法」即、久遠以来の地涌の菩薩と釈尊との甚深なる関係において、九界即仏界、仏界即九界の意義が存するのであります。

最後の
■「経に云はく「或説己身或説他身(わくせっこしんわくせったしん)」等云云。即ち仏界所具の十界なり。」
というのは寿量品の御文であり、
■「或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。」
という、六或示現の初めの二句を挙げられてあります。

 右六或のなか、初めの二句は「説」で、次の四句は「示」の文字になっています。
 「説」とは仏の説法・音声を聞いて衆生を利益し、「示」とは仏が出現して種々の勝れた形相・身体や神通による希有の事を表すことを見て衆生を利益せしめる意味であり、これを形声(ぎょうしょう)の二益と言います。

 これについて天台は 『法華文句』 に、
  「若し法身を説かば是れ己身を説き、若し応身を説かば是れ他身を説く。〔中略〕随他意語は是れ他身を説き、随自意語は是れ己身を説く」(文句会本下三〇〇)
と解釈しております。

この法身とは、法報応の三身の相即する仏身のなかで法報二身を主意とし、仏の自己の真実なる法体を説かれることを「己身を説く」と言うのです。

 次に、応身とはものに応ずる身で、やはり三身相即中の仏身ながら、広く十界のなかに形を現して衆生を導く仏です。
故に、久遠実成の仏が機に対して様々な姿を現す垂迹身であり、一月の万影であります。

 さらに、仏には九界応現の用きがあり、菩薩身以下、広く九界の苦悩の衆生を救うべく方便の示現をなし、応病与薬の声益を施すことも「他身を説く」なかに入ります。
故に、仏の一切の随他意語は他身、すなわち九界を説く意義に当たり、随自意語は己身、すなわち仏界を説くことに当たります。
この意より、寿量品の「或説己身。或説他身」の文を挙げられ、「仏界所具の十界なり」と引文あそばされたと拝します。
         ′
 以上は、十界互具の真実なることを法華経の文証として挙げられ、以後、次第に妙法の受持が十界互具の尊厳を個々の衆生の事に表す要道であることをお説きになるのであります。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

46

問うて曰く、自他面の六根は共に之(これ)を見る、彼此(ひし)の十界に於ては未だ之を見ず、如何(いかん)が之を信ぜん。答へて曰く、法華経法師品に云はく「難信難解」と。宝塔品に云はく「六難九易(ろくなんくい)」等云云。天台大師云はく「二門悉(ことごと)く昔と反すれば難信難解なり」と。章安大師云はく「仏此を将(もっ)て大事と為(な)す、何ぞ解し易(やす)きことを得(う)べけんや」等云云。伝教大師云はく「此の法華経は最も為(こ)れ難信難解なり、随自意の故に」等云云。夫(それ)在世の正機(しょうき)は過去の宿習厚き上、教主釈尊・多宝仏・十方分身の諸仏、地涌千界・文殊(もんじゅ)・弥勒(みろく)等之(これ)を扶けて諫暁(かんぎょう)せしむるに猶(なお)信ぜざる者之(これ)有り、五千席を去り人天移さる、況(いわ)んや正像をや、何(いか)に況んや末法の初めをや。汝之を信ぜば正法に非(あら)じ。(御書六四七二行目〜同七行目)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

右の御文は、観心段の 「二、広釈」 のなかに三あるうちの、「一、引文」 の次に
「二、難信難解」を示すところであります。

 この 『観心本尊抄』 全体の前半の御文のところは「観心」ということについてお説きになっておりまして、それに関連した御文であります。
しかるに、その心を観ずるということはどういうことかといいますと、自分の心を観じて十法界を見ることだということが、この前のところに示されておりました。

 しかし、十法界を見ると言われても、我々はお互いに、特に凡人には到底そのようなことはできないのです。
実際問題として、我が己心を観じて十法界を見ると言われ、自分の心をいかに考えてみても、なかなか十法界全体には及びません。
むしろ、現在の己心は何界に当たるかということすら、はっきり認識できない人が世間では多いと思います。
つまり、今の自分の心境は地獄なのか、餓鬼なのか、畜生なのか、あるいは修羅なのか、おそらく考えることもないでしょう。

 人間の心は瞬間、瞬間で変わってまいります。
しかしまた、その人の過去からずっと行ってきた生活のなかにおいては、ある指向性がありまして、そのほうから考えてみますと、なんらかの独特な指向性を持っておる人もあります。

 例えば、かわいい息子に嫁さんが来たために、いつとはなしにその嫁さんが憎くなったおしゅうとさん(※姑(ちゅうとめ)と同様)があるというようなことが、世間でよく聞きます。
とにかくその嫁さんが憎くてたまらず、朝から晩まで嫁さんが憎い。
そうすると、憎い、憎いという気持ちがその人の生命の指向性になってしまうのであります。
こういうのは、十界で言うならば、ある種の地獄の方向での一つの基本線がそこにできてしまっておるので、これは気の毒なことであります。

 しかし、そういうおしゅうとさんでも、たまたまテレビを見て、達者な落語家がおもしろいことを言えば、笑いこけるようなこともあるわけで、人はその時、その時で心が色々に変わるのであります。
ただし、そういう普通程度の生活の事柄ならばだいたい解りますが、十界のうちの程度の高いほう、すなわち四聖といって、
声聞界、緑覚界、菩薩界、特に仏界の様相を心に観るということは実に難しいことで
あります。

 この 『観心本尊抄』 においてはそれについての問答があり、しからば法華経にはそういうことが説かれてあるのかという質問に対して、法華経の御文を引かれたの
が、この前のところであります。

そこにおいては、それぞれの一界にまた十界が具わっておるという所以が説かれ、きちんとその文証が示されたのであります。
つまり、地獄にも十界が具わり、餓鬼にも十界が具わるということはなかなか考えられないことですけれども、法華経には明らかに説かれてあることを挙げられたのであ
ります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
問うて曰く、自他面の六根は共に之(これ)を見る、彼此(ひし)の十界に於ては未だ之を見ず、如何(いかん)が之を信ぜん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これからのところにおいては、そのように法華経に説かれてあるにしても、その
意義は実に信じ難く解し難いこと、つまり難信難解であることを示されるのであり
ます。

 すなわち、前の譬えにもありましたように、他人の顔についてはよく判ります。
しかし、自分の鼻や目は見ることができません。
けれども、鏡を使えば自分にも目や鼻、耳、口等があることが判りますから、したがって「自他面の六根」は共に見て判るということであります。

 けれども、客観的な「彼」、それから「此」−此というのは主観的、つまり自分という意味ですが、その主観・客観ともに、自分自身の心のなかにおいて、あるいは他人の命のなかにおいての十界ということにおいては、まだこれを見ることはできない、自分の心や顔を見ても、他人の心や顔を見ても、それは判らないのであって、「如何が之を信ぜん」−自分の命にも他人の命にも十界が具わっているということは、どうして信じられようか、との問いであります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
答へて曰く、法華経法師品に云はく「難信難解」と。宝塔品に云はく「六難九易(ろくなんくい)」等云云。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、その問いに答えられる形において、初めに法師品(※第十)の御文を挙げられておりますが、法華経にはその品の前に迹門の正宗分である方便品等の品が説かれてあり、これが難信難解に関係があります。

 そのなかには諸法実相という法門が説かれてあります。
すなわち、あらゆる事々物々のなかに汲めども尽きぬ尊い意義が具わっておって、それを覚知することが諸法実相の意義になるわけです。
それはそのまま、一つを挙げれば、表面上は何に見えても、そのなかに十如をもって示される色々な深い意義が具わっておるということを説かれておるのでありまして、その諸法実相が迹門の正宗分において示されるところであります。

 ところで、その諸法実相をのちの世に実際に示していくのを流通分と言うのですが、法師品は迹門の流通分における最初の品であります。
ですから、その流通分の最初の品において、正宗分の法を受けて難信難解と示されたのであります。

 その法師品には、
「我が所説の経典、無量千万億にして、己に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」 (法華経三二五)

と説かれております。
ここには「難信難解」という四字を挙げられておりますが、詳しく言いますと、その文の前には「己に説き、今説き、当に説かん」という、己今当の三説に超過して難信難解であるということが示されております。

 つまり、釈尊が三十歳で成道されてから八十歳で亡くなられるまでの間において、法華経を説かれたのが七十二歳の時と言われ、その七十二歳までの間、すなわち四十余年間に説かれたのが己に法華経以前に説かれた教えということで、それが
「己説」 であります。

 それから「今説」というのは、今説いたということです。
今説いたと言いましても、法華経は真実の教えですから、これは今説のなかに入れないのです。
よく、今説というと今説いた教えのことだから、法華経が今説だろうと言う人がおりますが、それは違います。
法華経は特別なお経であり、爾前経を説かれたあと、法華経を説かれる前に、法華経と深い関係において説かれたお経がありまして、それを今説と言うのです。
それは、皆さん方も御承知の方便品の一番最初に、
  「爾時世尊。従三昧。安詳而起。告舎利弗(爾の時に世尊、三昧より、安詳として起って、舎利弗に告げたまわく)」 (同八八)
とありますように、釈尊は無量義処三昧という三昧に入っておられたのであり、そ
こから法華経が説かれたわけです。
その法華経の前に説かれたのが無量義経という経文でありまして、これが今説の経典になります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(※ 今→今さっき と理解すべきか)

 それから「当説」というのは、釈尊が亡くなる時に説かれた涅槃経のことを言う
のであり、一日一夜の説法と言われておりますが、これは法華経のあとに説かれた
ものであります。

 さて、その已説・今説・当説は束ねて易信易解であって、難信難解ではないと言
われるのです。
つまり、信じ難く解し難いというのは法華経であり、それより以前・以後に説かれた教えはすべて難信難解ではなく、易しいと言われるのであります。
それはなぜかといいますと、法華経以前に説かれた経文等は衆生の機根に応じて説かれたからであり、衆生の機根に応じて説くためには方便というものが説かれておるからであります。
その方便にも色々ありますが、その時の衆生が感覚的・感性的に解るような法を示し、その長さや奥行きを示して、それで色々な意味の問題を理解せしめるということであります。

 我々の目に見えておるところの眼前の色々な事々物々、あるいは相手の考えの程度に従って法を説かれるのは「法用方便」であります。
つまり、法には色々な内容があり、それを自在に用いられるのです。

それによってだんだんと深い、仏様の真実の悟りの方向に入れようとするのが「能通方便」であり、

そして最後に、実はその行がそのまま尊い意義を持っておって、その根本のところを覚知するならば、あらゆる教えがそのまま仏の悟り、すなわち仏乗と開かれるのが「秘妙方便」です。

 そのように三つの方便がありますけれども、法華経以外の諸経においては法用と能通の二つの方便はありますが、秘妙方便は説かれていないのであります。

この法用と能通の二方便は聞いて解りやすいのです。
これは相手の程度に応じて仏様がお説きになりますから、その横根にうまく合致し、聞いた人はすぐに説かれたことが解るのです。
しかし、それは仏様が本当に入れようとされたところの尊い法ではなく、建物で言えば足場のようなものです。
そういう方便の教えである己説の経々はすべて易信易解であって、相手の様々な機根に応ずることで解りやすかったのであります。

 それから、今説である無量義経には、無量義ということが説かれてあります。
これは、爾前四十余年の経々に説いた教・行・人・理は、万差の機に対応するために
無量であること、これについて同経に、
  「衆生の諸の根、性欲(こんしょうよく)に入る。性欲無量なるが故に、説法無量なり。説法無量なるが故に、義も亦無量なり」 (同一九)
と説き、その意味が示されています。
故に、無量義とは、爾前四十余年の諸経が方便の故に無量の義に開かれたことの意義を束ね、まとめて示したのであります。
それとともに、その無量義は一法より生じたと説き、爾前経で説く無量の義を整理し
てあります。

 その一法とは何かということにつき、次に本懐の法華経を説く前提として、無相なりと示します。

 この無相について、さらに同経に、
  「無相不相。不相無相(相無くは相ならず、相ならずして相無し)」 (同)
と説いてあります。
この初めの「無相不相」とは、実相としての空仮中三諦円融の真理が、縁に随って差別の方法と表れた相である随縁真如(※ 絶対不変である真如が、縁に応じて種々の現れ方をすること。)を言います。

また、次の「不相無相」とは、空仮中の三諦即一中道実相の不変真如(※ 真如が生滅を超えて不変であること。)を指します。

また「不相」とは特に悟りの相もなく、「無相」とは特に迷いの相もない、中道の一理に帰する実相であり、結局、これを一に帰して、無相の一法と言うのであります。

故に、この真理を積極的に仏の大慈大悲によって顕せば妙法蓮華経のことでありますが、釈尊はこの開顕を一歩、控え給い、この経では、
 「無量義とは一法より生ず。其の一法とは、即ち無相なり」 (同)
として、無相という消極的法相の説示をもって一法に宛てられたのです。
故に、その一法がなんであるか、それが己今当に超過する最高のものとして存在するという所以はまだ明らかに説かれていないのであり、一般の一切に対応された無量の意義を面として説いておりますから、我々衆生として、やはりこれも解りやすいのであります。

 さらに、当説である涅槃経もまた、法華経の義に方便をまじえて重ねて説かれたものですから、これも解りやすいということで、結局、法華経以外の教えは一切、信じやすく解しやすいが、法華経は信じ難いということが法師品に説かれておるのであります。

 それから「宝塔品に云はく『六難九易』等云云」とありますが、これは不可能なこ
とを九つ挙げて、それを行うことは易しいが、仏の滅後に法華経を説き、書き、読
み、持ち、問義し、奉持することは、それ以上に難しいということを示されてあります。

 その九易のなかの一つの例として、ある人が須弥山を三千大千世界以外の国土に投げるということがありますが、これは不可能なことであります。
須弥山というのは一番大きな山というように仏教では言われておるのです。
ですから、今で言えばヒマラヤのエベレスト山とでも考えてもよいでしょうが、ああいう山を他土に投げ置くことは易しいという文です。

それから、この地球をも含めた太陽系のような大千界を、またさらに別の宇宙に投げることも易しいということがお経に書いてあります。
つまり、
  「若し足の指を以て 大千界を動かし 遠く他国に擲げんも 亦未だ難しと為ず」 (同三五一)
とありまして、そういうことは易しいけれども、それに対して難しいことが六つ説いてあり、そのうちの一つとしては、仏の滅後においてこの法華経を説くことは難しいというように説かれてあります。

 そのほか九易については、足の甲の上に大地を置いて梵天に昇るとか、枯れ草を負って大火のなかに入っても焼けないこと等、九つの易しいとされる、実は全く難しいことが示されております。
しかし、それよりもなお、この法華経をたとえ一人のためにも説くことは難しいということが、六難の一つとして説かれております。

それはなぜかといいますと、法華経が凡眼凡智の凡情を絶した、仏様の深い悟りをそのまま、方便をまじえずに説かれているためであります。
そういう意味で、宝塔品の六難九易を挙げられてあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天台大師云はく「二門悉(ことごと)く昔と反すれば難信難解なり」と。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、天台大師が 『文句』 にこの法華経のことを解釈されており、その法師品のところで二門がことごとく昔と変わっておるから難信難解であると言われておるの
ですが、この 「二門」というのは迹門と本門の二門のことであります。

 この迹門と本門のことを簡単にお話しするのはなかなか難しいのですが、要は、
迹門には衆生のなかに具わっておる仏性の開覚を説かれておるのです。
つまり、それは諸法実相であります。

 あの諸法実相十如是の経文のあとに、世雄偈より広開三顕一という法門と、それ
から比丘偈という偈が続いてあるのです。
そこには要するに、迹門で説かれる諸法実相の意義、三乗を開して一乗を顕すということが説かれています。
つまり、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗というような教えはすべて一仏乗のなかより出て、またそこへ帰る三乗であるということであります。
そうすると一切の法に差別がないことになります。

 ところが、三乗のそれぞれの一つと一仏乗というものとは、全く別個のものだというように衆生は思っていたわけです。
それは法華経を説かれるまでの四十余年間の教えが別個のものだったからです。
声聞乗を修行した人は、声聞だけの目的である阿羅漢とはなれても菩薩にはなれず、また仏様にも成れませんでした。
「永不成仏」といって永く成仏できないというように、はっきりと烙印を押されてしまっておったのであります。
ところが法華経は、声聞乗あるいは縁覚乗、菩薩乗というような三乗がそのまま即、一乗であると説かれるのでありまして、そういう差別の考え方がすべてなくなるところに妙法という不思議な義があるのであります。

 しかし、これには能開・所開の立て分けがあり、ものを能く開き顕すほうの、すべてを包容する勝れた教えが能開で、これはすなわち劣った諸経を開く基準になるのであります。

 念仏宗の者の主張のなかに、法華経が尊いといっても、方便教即法華経ならば、南無阿弥陀仏と唱える念仏も、やはり法華経と同じではないかというようなことを言いますが、それは大きな間違いなのであります。
法華経は能開であり、念仏等の諸経は所開なのです。

 故に、法華経の体内に諸経が入って諸乗一仏乗となりますが、入らなければ、あくまで方便の教えに過ぎません。
その方便の教えそのものに、真実の教えが入っているのではないのです。
諸経は所開、つまり開かれるほうであり、これらを能く開く能開は法華経であり、そこが大事なところであります。
真実の教えから方便の教えが出たのですから、その方便の教えは結局、真実の教えのなかに全部、戻るのであります。

 つまり、太陽の光線からプリズムで七つの色が出てみても、その七つの色は全部、元の太陽光線に戻るのです。
太陽光線が、例えば赤色だけだと思っていたならば大きな間違いです。
青もあれば紫もあり、黄色もあるわけです。
それを、ただ紫だけだとか黄色だけだと思うのは大きな間違いでありまして、それと同じであります。

 ですから、方便なら方便の教えにおいて、その方便の意義と値打ちが本当に徹底して発揮できるのは、その元のところへ戻って初めて、すべての意義が究寛するのであります。

つまり、一切の法がことごとく一つの法となって融通し、すべてのところにそのまま仏の道が顕れてくるのです。

 しかし、一切衆生に仏知見を開かしめると説く法華経迹門の方便品は、実に難信難解でありました。
それはなぜかといいますと、衆生の頭のなかには四十余年の不完全な教えが入っておりますから、それが邪魔をして真実の仏様の教えが素直に頭に入らないためであります。
                                       それから本門になりますと、それまでの教えと違うところは、六万恒河沙の本化の菩薩が出現されたことであります。
そして弥勤等の菩薩や一会の大衆がたいへん驚き、釈尊は四十年前に三十歳で始めて仏に成ったわけですから、自分達の知っておる限りで、これほど多くの仏事をなさったということは到底、考えられないという疑問が起こります。
                                       かくて弥勒が中心となってこの大疑問を釈尊に伺い奉ることより、釈尊が伽耶城(※ インド・マカダ国の都城。現在、インド北東部ビハール州の州都パトナの南約100キロにあるガヤ県の県都ガヤにあたる。)菩提樹下で始めて成道したのでなく、久遠より仏と成っていたことが明かされます。
すなわち寿量品の御説法がなされ、仏様の久遠の開顕が示されたのであります。
いわゆる本仏、本化の久遠常住が説かれておりますが、この久遠の本種の開示によって在世の衆生も真の成仏に至りました。
これは全くそれ以前の経典、四十余年間のお経にはないのであります。
法華経以外のどの経典にも、このことは説かれておりません。
故に、昔と反するのです。

 大日経に久遠の仏があると言われますが、これは密教系の人師や、特に弘法大師という人が邪見による大虚妄を言ったのであり、なんにもないところに強いてそれをくっつけただけなのです。

 つまり、大日如来は法身仏で、はっきりした衆生教化の形はなく、父母によって生まれたこともない、虚空のみの身です。
釈尊は父母によってこの土に生まれ、その上から久遠を開顕されましたから、その仏は法身・報身・応身の三身が具わるのです。
応身とは肉身であり、この応身に具わる法身・報身、また法身に報身・応身が具わり、報身に法身・応身が具わるという、いわゆる一身即三身、三身即一身の仏でなければ真実の久遠の仏ではありません。
法華経寿量品の仏のみが、この仏身を具えられるのです。

しかるに、密教の弘法等の誑惑は、大聖人様が御指摘になって、その誤りをはっきりとお示しになっておられます。

 そういう意味において、この迹門と本門は、昔の四十余年の教えとは全く違うのです。
したがって「二門悉く昔と反すれば難信難解なり」と、天台大師がおっしゃっておるのであります。

この天台大師についてはよく御存じだと思いますが、中国の陳、隋の時代に出現されて、法華経を中心として一代仏教をことごとく整理し決判された方であります。
それ以前にも南三北七というような色々な仏教の宗派が中国にありまして、涅槃経が一番勝れている、華厳経が一番である、深密経が勝れているとか、あるいは一音教(※ 釈尊一代の教えはさまざまな説かれ方をするが、実は同一の音声つまり同一の教えから出たものであるとする立場。)
が一番だなどと様々なことを言っていたのですけれども、結局、それらはみんな釈尊の教えの本質を見抜いていなかったのであります。

そこに天台大師が出現されて、一切の経典の中心が法華経にあることを説かれた次第であります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
章安大師云はく「仏此を将(もっ)て大事と為(な)す、何ぞ解し易(やす)きことを得(う)べけんや」等云云。伝教大師云はく「此の法華経は最も為(こ)れ難信難解なり、随自意の故に」等云云。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここに示されておる章安大師という方は天台大師のお弟子でありまして、天台大師の講説されたことを一瀉千里(※1.物事が速くはかどること。2.文章や弁舌がよどみのないこと。)の如くに書き取っていった方であります。

 余談になりますけれども、大聖人様は、この 『観心本尊抄』といい 『開目抄』といい、あるいは 『撰時抄』 『報恩抄』その他、あらゆる御書を大聖人様御自らお書きになったのであります。
ですから、御真蹟の失われている御書もありますけれども、今日まで厳然として残っている御真蹟も、たくさんあります。

 ところが天台大師の場合は、全く自分で書かれなかったのであります。
国王等の前とか、そのほか色々な法要等において講説をしていったわけです。
話しただけで、よくあれだけ深く難しいことが言えたと思うのですが、これは実に大不思議であります。

 もし、天台大師の話されたことを書き取った 『玄義』 『文句』 『止観』 の三大部その他の註釈書が残らなかったならば、やはりこれは大変なことでした。
今日それが残りましたから、大聖人様が御出現になって天台の深義を御覧になり、さらにもっと深い立場から根本の仏法の法体を探り出されて、末法に建立あそばされたのであります。
しかるに、その時、天台大師の話されたことを全部、書き取られたのが、この章安大師という方であります。
ですから、この方もたいへん偉い方であり、仏教の流伝(るでん)の上からは大切な方でありまして、深くその行功に御報恩謝徳をしなければならないのです。

そういうことを知らなくとも、御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えれば、そのなかに天台大師も章安大師も、あるいは伝教大師も、妙法の流伝に励んだすべての聖者が含まれておるわけですから、その御報恩謝徳になっておるのです。

 さて、その章安大師は『観心論疏』巻四に、
 「仏此(これ)を将(もっ)て大事と為す。何ぞ解し易きことを得べけんや」
ということをおっしゃっております。
これは法華経の方便品の、ある経文について「此」と言われておるのです。
すなわち、ここで言われる「大事」ということです。それは
 「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう。舎利弗、云何なるをか、諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして、仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう」 (法華経一〇一)
という文であります。
すなわち、開・示・悟・入の四仏知見が説かれてありまして、仏はこれをもって一大事とされておるということであります。

しかしながら、衆生のなかに仏の知見があるなどということは、一代仏教に説いてないことであるから到底、信じられないことである。
したがって、どうして解しやすきことを得るであろうか、と言われております。

 次に「伝教大師云はく『此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意の故に』等
云云」。
これは伝教大師の 『法華秀句』下の文であり、この「随自意」ということは「自意に随う」と読みます。
これは随他意に対する言葉であり、他意に随うというのは法華経以外の教えで、その教えにおいては、仏様は他意すなわち衆生の心に随って法を説かれました。

しかし、法華経は自意と言い、御自分の心すなわち仏様自身の心に随って説かれた教えであり、したがって法華経は難信難解であると言われておるのです。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

68

夫(それ)在世の正機(しょうき)は過去の宿習厚き上、教主釈尊・多宝仏・十方分身の諸仏、地涌千界・文殊(もんじゅ)・弥勒(みろく)等之(これ)を扶けて諫暁(かんぎょう)せしむるに猶(なお)信ぜざる者之(これ)有り、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、釈尊がインドにおいて種々の教えを説かれ、その時代に因縁があって生まれ値(あ)わせて釈尊の化導を受けた人々がおりますが、その釈尊の化導のことを「在世」と言います。
在世の「正機」とは、その本懐たる法華経の機を言うのであります。
これは「正しい機」と書きますが、何が正しいのかといいますと、釈尊がインドに生まれたのは法華経を説かれることが目的だったのです。
ですから、仏が法華経を説くことに対し、その法華経によって救われるところの衆生の機根が正機となるのであります。

 その在世の人々は過去の宿習が非常に厚いと言われておることは何かといいますと、無量の菩薩や声聞・縁覚の二乗、凡夫六道の衆生等、すべて過去からの仏道の因縁がありました。
しかし、そのなかで特に二乗の人々は自ら調え自ら度すという悟りの坑(あな)に落ち込んでしまって、これを導くのはたいへん難しく、そのため特に法華経が説かれたのであります。

 例えば、舎利弗という人が方便品に出てきます。
そのほか目連とか迦旃延(かせんねん)というような人々の名前が、法華経の方便品よりあとにはたくさん出てきます。→

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目連
釈迦十大弟子の一人。生没年不詳。目【けん】連(もくけんれん)とも。中インド,マガダ国バラモン僧の子。親友舎利弗(しゃりほつ)とともに釈迦に帰依。神通(じんづう)第一と称された。後世餓鬼道に堕(お)ちた母親を救うため,衆僧を供養したのが盂蘭盆(うらぼん)の起源とする伝説が生まれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

迦旃延

紀元前5、6世紀ごろのインドの仏教僧。仏陀(ぶっだ)(釈迦(しゃか))の十大弟子の一人。サンスクリット名はカーティヤーヤナK?ty?yana、パーリ名はカッチャーナKacc?naまたはカッチャーヤナKacc?yanaという。詳しくはマハーMah?(「大」の意)の語をつけて、大迦旃延あるいは摩訶(まか)迦旃延と訳す。西インドのアバンティAvanti国の出身。仏陀の弟子となり、阿羅漢(あらかん)の悟りを得た。弟子のなかで、仏の教えを詳細に解説する第一人者(論議第一)といわれ、とくにアバンティ地方の伝道教化に大きな功績を残した。

[藤田宏達 2016年11月18日]

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

→ その方々は過去において深く仏法との関係があったということが法華経に説かれてあります。
すなわち、化城喩品では三千塵点劫という昔における仏と衆生の因縁があり、寿量品では五百塵点劫という昔から仏様との化導の因縁があったと説かれております。
それが、この過去の宿習が非常に厚いということであります。

 この舎利弗は智慧第一、目連は神通第一と言われ、非常に法力のある人達でありまして、六神通というような通力を得た人でしたが、法華経を説かれるまでは、その過去世のことが判らなかったのです。
法華経に至って初めて、釈尊の御説法を聞いて、三千塵点劫の昔、大通智勝仏の十六王子の覆講の法華経の時に、自分は法華経と巡り値っていたのだということを知ったのであります。→

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大通智勝仏

法華経化城喩品第7に説かれる、三千塵点劫という昔に出現した仏(法華経273n以下)。大通智勝仏は16人の王子の願いによって法華経を説いたが、十六王子と少数の声聞以外は疑いを起こして信じなかった。その後、十六王子が、それぞれ父が説いた法華経を繰り返し説き(大通覆講)、仏となる種を下ろし(下種)、聴衆の人々との縁を結んだ(これを大通結縁という)。この時の16番目の王子が釈尊の過去世の姿であり、その時、釈尊の説法を聞き、下種を受けた衆生がその後、第16王子とともに諸仏の国土に生まれあわせ(「在在諸仏土常与師?生」と説かれる)、今インドで成道した釈尊に巡りあったと説かれる。そして、これらの弟子が法華経の説法の中で、未来に得脱し成仏するという記別を受けた。この大通覆講の時に受けた下種を大通下種という。また、この大通覆講の時に教化された衆生は、3類に分かれる。第1類はその時に発心し不退転で得道したもの、第2類は発心したが大乗から退転して小乗に堕ちたもの、第3類は発心しなかったものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


→ そういう意味からしますと、在世の衆生は過去の宿習が非常に厚いということが言えます。
しかもその上に、教主釈尊が実に懇切丁寧に、御自分の御本懐の教えを顕すという意味で、衆生化導のために尽くされておるのです。

 それから「多宝仏」という仏様も出現されました。
これは法華経の宝塔品において突然、空中に宝塔が架かり、その宝塔の中から大音声が出されたのです。
それは、

  「善哉(ぜんざい)善哉、釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て、大衆の為に説きたもう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」 (法華経三三六)

という音声でありまして、この「皆是れ真実なり」というのは、釈尊の法華経が正しいという証明の言葉であります。

 多宝如来という仏様は過去の誓願によって、法華経の正しいことを証明なさるために、法華経を説く仏の所へ必ず御出現になるのですが、この仏はけっして御自分からは法をお説きになりません。
ただし、他の仏様が法華経をお説きになる時には、その法華経の会座に必ず現れて証明をするという誓願を、遠い過去に立てられたのであります。

 なぜ証明の必要があるかといいますと、法華経がまことに難信難解であって、衆生がこの法華経を聞いても非常に信を取りにくいためであります。
つまり、ややもすれば今までの色々な狭い思想や教えに執着しておるがために、法華経の正しい教えを信ずることができず、それを疑って悪道に堕ちるのであります。
そのために出現し、三世諸仏の出世の本懐である法華経を説かれる時には必ず証明をするというのが多宝如来の役目であります。

 次に「十方分身の諸仏」とありますが、これは釈尊の分身の仏であります。
この分身の仏の数があまりに多いので、法華経の会座に諸仏を収容するため、八方に二百万億那由他の国土を変ずる等、いわゆる三変土田の国土の変革が行われました。
そういう仏様が宝塔品に来集したのであります。→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

三変土田

法華経見宝塔品第11で、釈尊が3度にわたり国土を浄化したこと。具体的には同品で次のように説かれる(法華経378n以下)。釈尊は宝塔を開くにあたって十方の世界の分身の諸仏を集めることになり、まず娑婆世界を清浄にしてから、法華経の説法の聴衆以外の不信の人界・天界の衆生を他土に移して分身の諸仏を集めた。しかし、まだ入りきらなかったため、その後、2度にわたって八方それぞれの二百万億那由他の国土を清浄にし、それぞれの諸仏の天・人を他土に移して十方の世界の分身の諸仏を集め、一つの仏国土に統一した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

→ また「地涌千界」とは、寿量品のすぐ前に説かれた涌出品の時に御出現になった地涌の菩薩であります。
そして、さらに「文殊・弥勤等」の在来の菩薩も、衆生を導かんとする仏の化導を助けて諌暁せしめたということです。

 この「諌暁」というのは、諌はいさめる、暁は諭すという意味であります。
暁には、あかつきとか明らめるという意味もありますけれども、この場合は諭すという意味であり、したがって、諌暁の二字で、いさめ諭す、つまり、あなたの考えは間違っている、これが真実なのだというのが諌暁の意味であります。
そういうことを、釈尊のみならず、多宝如来、十方分身の諸仏、地涌千界の菩薩、そして文殊・弥勤等の菩薩も共に、迹門において、さらに本門においても諌暁の役目を務められたと言われるのです。

 そのように、この法華経は、拝読してみますと実に不可思議な仏智の、到底、言説しえないところの深い仏様の慈悲により、逐次に因縁、次第を追って深い意義が説き出されております。
それによってまた、実に周到な意味で一切衆生が救われる意義が顕されております。
しかしながら、そういうことがあっても、なおかつ信じない者があったということが次に示されます。

五千席を去り人天移さる、況んや正像をや、何に況んや末法の初めをや。汝之を信ぜば正法に非じ。

 まず、五千人が席を去ったということですが、これは方便品に説かれるところであります。
すなわち、

  「此の語(みこと)を説きたもう時、会中(えちゅう)に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人等有り。即ち座より起(た)って、仏を礼(らい)して退きぬ。所以は何ん。此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂(おも)い、未だ証せざるを証せりと謂えり」 (法華経一〇〇)

という如くであります。
これは法華経方便品の会座のなかで、仏の「三止」と、舎利弗の説法を請う「三請(しょう)」のあと、仏がまさに大事な法を説かんとする時、五千人の者が突如として席を去ったのであります。

 方便品の説相を拝してみますと、釈尊が如是相・如是性等の略開三顕一、諸法実相の法門を説かれたのち、舎利弗等が実に尊い教えを承って有り難いという歓喜に震え、さらに深い意義を広く説き給えといってお願いしております。
そこで三止三請のあと、釈尊が、それならばまさに広く説こうと仰せられた時に、五千人の人達が釈尊に頭を下げてその座から退場してしまったわけでありまして、まことに失礼な行為であります。

 その時に釈尊はどのようになさったかということですが、
 
 「世尊黙然として、制止したまわず」 (同)

とあり、黙って彼らを見送られ、次に舎利弗に向かい、

  「是の如き増上慢の人は、退くも亦佳(よ)し」 (同)
           
と言われて、非礼を咎めることはされませんでした。

 そこにおいて、化導の意味が大慈か、大悲かの違いがあるのです。
大慈は折伏を行います。
ある人間の悪を自覚させ、そして善に進ませようとする場合には、悪いことをしている人間を黙って見過ごさず、「これは悪いことだ」ということをはっきりと指摘し、化導をあそばされるわけであり、大聖人様の折伏の御化導がそれであります。

 昔、喜根菩薩という方があって、勝意比丘という謗法の僧侶に対して折伏を行じたことがありました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
喜根菩薩5きこんぼさつ 
師子音王仏の末法の世に出現した比丘のこと。諸法無行経に説かれている。少欲知足・細行独処を称賛せず、諸法実相のみを人々に説いたので、勝意比丘などから侮辱を受けた。しかし、喜根比丘は主張を貫き通して成仏を遂げ、非難した勝意比丘などは地獄に堕ちたという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
勝意比丘12しょういびく 
諸法無行経には過去、師子音王仏の末法の世に菩薩道を行じた比丘とある。文殊師利菩薩過去世の姿とされる。同時代に、同じく菩薩道を行じ、諸法の実相を衆生に教えていた喜根比丘誹謗した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 これは大慈の上から、このまま放っておいても地獄に堕ちる、放っておかなくても地獄に堕ちるということで、どうせ地獄に堕ちるのならば成仏の種を植える意味で真実の教えを説いたのであります。
そのように強いて説くことにより、それによって地獄に堕ちてもまた必ず救われるという意味で、大慈という意味からの化導があるわけであります。

 ところが、今の五千人の場合は、大悲の化導であります。
というのは、この人達は過去において、既に成仏の種を植えられておるのです。
したがって、今は一往、増上慢でありますが−先程挙げた方便品の御文に「未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり」とありましたが、いまだ全く真実の悟りがないにもかかわらず、小さい教えの境界に執われて、自分はもう本物の悟りを得た、自分は聖人なのだというように思っているのが、五千人の増上慢の者達であります。
その五千人が退座したわけです。

 しかし、これに対し、仏がそのままにさせたのは、以前に成仏の種を受けている故に放置されたのであります。
もしも、これを叱って折伏すると、かえって法華経に謗りを生じて地獄に堕としてしまう。
このまま放っておけば、いずれまた目が覚めて−いわゆる過去の種が芽を吹いてきて、そのうちに悟るという者には、大悲の上から叱責しないのであります。
それが大悲の化導でありまして、「五千席を去り」という意味であり、迹門における不信の事例であります。

 次の「人天移さる」というのは宝塔品のなかにある事柄で、これは本門の不信の意味であります。

 宝塔品において現れた宝塔を開くためには、法華経を説く仏の分身仏、すなわち十方に分散している釈尊の分身の仏を一処に還(かえ)し集めてからその宝塔を開くという多宝如来の誓願がありました。
ですから、釈尊が十方分身の仏を全部、霊山虚空会に集めるまで、多宝如来の宝塔は開かれなかったのであります。

 その分身の諸仏を集める場合、あまりに分身の仏が多いために座りきれません。
したがって、二百万億那由他の国土を三回にわたって土田を変じ、地獄、餓鬼、畜生等をなくし、さらに当機衆以外の人天を移して、十方分身の仏の座を作ったというのが宝塔品の説相であります。

 その場合に、では移された人天はいったいどうなったかということです。
釈尊の御化導から外されてしまい、本人達は法華経を聞こうと思っていたのかも知れませんけれども、「おまえ達は去れ」と言われ、遠くの他土へ移されてしまったのです。
ですから、これは本門不信の者をここに顕しておるという意味が、釈等に示されておるのであります。

 以上、この『本尊抄』の難信難解の御文は、釈尊の仏法を基準として、その御化導の上から法華経を説かれることがいかに大変なことであり、釈尊が四十余年の方便の教えを説かれたのちに、深く心中に期するところあってお説きになられたことが拝されるのであります。

 これは、法華経が実に難信難解の法であるということを示されておるのであり、その内容としては十界互具の法、すなわち、いかなる人間にも仏の命が具わるのであり、そして必ずいずれは幸せになることができるという、仏の徹底した大慈悲が示されております。

 しかし、そのためには末法においては妙法蓮華経の種を植えなければなりません。
御本尊の妙法という本種を植えて初めて、その人々が未来において必ず仏と成るのであり、それを植えないかぎりは未来永劫に六道輪廻し、地獄、餓鬼、畜生等に移って苦悩していくのであります。

 したがって我々は、大聖人様の仏法に値い奉り、そして、この仏法において未来永遠に向かっての幸せを得ることができることを確信し、成仏の種を唱題によってますます育てていって、自行化他の修行に励み、広宣流布に向かって進むことが肝要であります。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 問うて曰く、経文並びに天台・章安等の解釈(げしゃく)は疑網(ぎもう)なし、但し火を以(もっ)て水と云ひ墨を以て白しと云ふ、設ひ仏説たりと雖(いえど)も信を取り難し。今数(しばしば)他面を見るに但(ただ)人界に限って余界を見ず、自面も亦(また)復(また)是くの如し。如何(いかん)が信心を立てんや。答ふ、数(しばしば)他面を見るに、或時は喜び、或時は瞋(いか)り、或時は平(たい)らかに、或時は貪(むさぼ)り現じ、或時は癡(おろ)か現じ、或時は諂曲(てんごく)なり。瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏(みょうぶく)して現はれざれども委細(いさい)に之を尋(たず)ぬれば之有るべし。
 問うて曰く、六道に於て分明ならずと雖も、粗(ほぼ)之を聞くに之を備(そな)ふるに似(に)たり。四聖は全(まった)く見えざるは如何。答へて曰く、前(さき)には人界の六道之(これ)を疑ふ、然りと雖も強(し)ひて之を言って相似(そうじ)の言(ことば)を出(い)だせしなり、四聖も又爾(しか)るべきか。試(こころ)みに道理を添加(てんか)して万が一之(これ)を宣べん。所以(いわゆる)世間の無常は眼前に有り、豈(あに)人界に二乗界無からんや。無顧(むこ)の悪人も猶(なお)妻子を慈愛(じあい)す、菩薩界の一分なり。但(ただ)仏界計り現じ難(がた)し、九界を具するを以て強ひて之を信じ、疑惑(ぎわく)せしむること勿(なか)れ。法華経の文に人界を説いて云はく「衆生をして仏知見(ぶっちけん)を開かしめんと欲す」と。涅槃経に云はく「大乗を学する者は肉眼(にくげん)有りと雖も名づけて仏眼(ぶつげん)と為(な)す」等云云。末代の凡夫出生(しゅっしょう)して法華経を信ずるは人界に仏界を具足(ぐそく)する故なり。
 問うて曰く、十界互具の仏語分明なり。然(しか)りと雖も我等が劣心(れっしん)に仏法界を具すること信を取り難き者なり。今の時之を信ぜずば必ず一闡提(いっせんだい)と成らん。願はくは大慈悲を起(お)こして之を信ぜしめ阿鼻(あび)の苦を救護(くご)したまへ。答へて曰く、汝(なんじ)既(すで)に唯一大事因縁(ゆいいちだいじいんねん)の経文を見聞(けんもん)して之を信ぜざれば、釈尊より已下の四依(しえ)の菩薩並びに末代理即(りそく)の我等、如何が汝が不信を救護(くご)せんや。然りと雖(いえど)も試みに之を云はん、仏に値(あ)ひたてまつりて覚(さと)らざる者、阿難(あなん)等の辺にして得道する者之有ればなり。其れ機に二有り。一には仏を見たてまつりて法華にして得道す、二には仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり。其の上仏教已前(いぜん)は漢土の道士・月支(がっし)の外道は、儒教・四韋陀(しいだ)等を以(もっ)て縁と為(な)して正見(しょうけん)に入る者之有り。又利根(りこん)の菩薩凡夫等の、華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て大通久遠の下種を顕示(けんじ)する者多々(たた)なり。例せば独覚(どっかく)の飛花落葉(ひけらくよう)の如し、教外(きょうげ)の得道是なり。過去の下種結縁無き者の権小に執着(しゅうじゃく)する者は、設(たと)ひ法華経に値ひ奉れども小権の見を出でず。自見を以て正義と為(す)るが故に、還(かえ)って法華経を以て或は小乗経に同じ、或は華厳・大日経等に同じ、或は之を下す。此等の諸師は儒家・外道の賢聖(けんせい)より劣(おと)れる者なり。此等は且(しばら)く之を置く。十界互具之(これ)を立つるは石中(せきちゅう)の火、木中(もくちゅう)の花、信じ難(がた)けれども縁に値ひて出生すれば之を信ず。人界所具の仏界は水中の火、火中の水、最も甚(はなは)だ信じ難し。然りと雖も竜火(りゅうか)は水より出で竜水(りゅうすい)は火より生ず、心得られざれども現証有れば之を用ゆ。既に人界の八界之を信ず、仏界何ぞ之を用ひざらん。尭舜(ぎょうしゅん)等の聖人の如きは万民に於て偏頗(へんぱ)無し、人界の仏界の一分なり。不軽菩薩は所見(しょけん)の人に於て仏身を見る、悉逹太子(しったたいし)は人界より仏身を成ず、此等の現証を以て之を信ずべきなり。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 右御文は観心段の
「二、広釈」のなかに三あるうちの
「一、引文」 
「二、難信難解」の次の
「三、正釈」の初めのところです(この正釈は観心段の最後まで続きます)。

 この正釈に
「一、現見をもって心具の十界を明かす」 
「二、まさしく受持に約して観心を明かす」 の二があります。

右の文は
「一、現見をもって心具の十界を明かす」のところに当たります。
現見とは、実際に種々な相を見ていく上から心具の十界を明かすということです。

 これがまた三に分かれ、
「一、六道を示す」 
「二、三聖を示す」 
「三、仏界を明かす」 の順序になります。

その「一、六道を示す」文から拝述してまいります。

 この 『観心本尊抄』一巻は、前にも触れましたが、大きく分けて観心という部分と本尊という部分との二つに分かれるのであります。
つまり、初めから少し入った、

  「問うて曰く、出処既に之を聞く、観心の心如何」 (御書六四六)

より、だいたいこの抄の真ん中の、

  「『一身一念法界に遍し』等云云」 (同六五三)

までが観心を明かされるところ、それからそのあと、

  「夫始め寂滅道場」 (同)

以下が本尊を明かされるところで、そのために題号に「観心の本尊抄」と示されてあるのであります。

 その観心ということは「心を観ずる」ということでありまして、心を観ずるということが、実はたいへん大事なことであるのであります。
よく世間で、「あなたはもう少し自覚しなさい」というようなことを申します。
その自覚が足りないということは、自分自身の立場あるいは心というものを忘れて変な方向へ頭が行ったり、誤った考え方に走ってしまっておるが故に、その自覚を求めるということであります。
そう言われることによって、また本心に立ち返るということもありますが、要するに人間の心というものが実に不可思議であり、また広く深いものでありまして、心というものが本当に解り、正しく処理できれば、これはもう仏様であります。

 ところが、この心の全貌は全く解りません。
その故に、みんな自分の心のなかで、心に迷っておるのでありまして、その心の迷いから悪業が生ずるのであります。

すなわち煩悩から業が生じ、業から苦が生じます。
いわゆる悪いことを行い、また様々な道に外れたことを行って、それによってまた様々な苦しみが起こるという、ぐるぐる、堂々巡りが凡夫の迷いの姿であります。
そこで、その心を本当に正しく知るか、あるいは心の師となることができれば、そこに悟りがあり、幸せの道に入ることができるのであります。

 しかし、末法の衆生は到底、自分の心を観ずるということはできないのであります。
末法の人はみんな忙しく働いており、また目と鼻の先に色々な心を惑わせる物がぶらさがっておりまして、まず自分の心を観じてから物事を行おうなどということは、とても性に合わないのであります。
ですから、そのためにはどうしても末法の衆生を導かれるための仏法が出現されるのでありまして、大聖人様の御教えはそこに存するのであります。

 さて、心を観ずるのが観心ということでありますが、観心ということについてはこの前の御文のところで、

  「観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是を観心と云ふなり」
                              (同六四六)

と、ごく端的にお示しになっております。
すなわち自分の心を観じて、そこに十法界を見ることが本当の心を観ずることであると示されるのであります。

 ところが、これが凡夫においては、とても簡単にできることではありません。
それについて右に拝読した御文のところで、その観じ方においてだんだんと浅いところから深いところをお示しになっており、また、その場合に、それぞれにおける真実の相、すなわち実相というものを同時にお示しになっておるのであります。

 そこで、右の御文の全体の意義を括るならば、十法界を実際に見ることができるか、見ることができないかという問題について、その心に深く具わるところの十界を明かすというところに当たるのであります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 問うて曰く、経文並びに天台・章安等の解釈(げしゃく)は疑網(ぎもう)なし、但し火を以(もっ)て水と云ひ墨を以て白しと云ふ、設ひ仏説たりと雖(いえど)も信を取り難し。今数(しばしば)他面を見るに但(ただ)人界に限って余界を見ず、自面も亦(また)復(また)是くの如し。如何(いかん)が信心を立てんや。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、本書の七十九・八十ページに掲げた御文のところでは六道・三聖・仏界に関する質問と答えがそれぞれ三つありますが、最初の質問と答えのところでは 
「一、六道を示す」という科段で、その意味が説かれております。

 まず「問うて曰く、経文並びに天台・章安等の解釈は疑綱無し」と言われるなかの「経文」とは、大聖人様が法華経の文をずっと引かれて、例えば地獄界に仏界が具わっておるということを示された経文、あるいは餓鬼界にも畜生界にも地獄乃至、仏という十の命が具わっておるということについてお示しになったのであります。
その経文はたしかに本当かも知れませんが、それは仏様の説かれたものであって、凡夫の考えのなかにはしっくりこないというのが実際であります。

 それから、次の 「天台・章安等の解釈」というのは、それら法華経の経文について、さらに中国に出現された天台大師や章安大師等の方が解釈してあるわけです。

つまり、五行前にも、

  「天台大師云はく『二門悉く昔と反すれば難信難解なり』」 (同六四七)

と説かれ、

  「章安大師云はく 『仏此を将て大事と為す、何ぞ解し易きことを得べけんや』 」 (同
と説かれていることをお挙げあそばされておりますが、これは法華経がまことに信じ難く解し難いのであって、凡夫がちょっと聞いてすぐに解るようなものではないことが示されております。

 その上から、法華経に説かれてあるということも、あるいは天台大師や章安大師等の方々が難信難解であると説かれていることも、御説明を伺ったので、一往は疑網がないと、問者が言います。
疑網とは疑いが綱のようにあって心を束縛することで、それは諸聖の訓辞があることで消えたけれども、その内容がやはり問題で、火を水と言い、墨を白いと言われても、本当には思えないように、一心に十界を具するということは、たとえそのことを仏が説かれているとしても、到底、我々には信じ難いというのです。

 これは考えてみれば、そのとおりであります。
人々の毎日毎日の生活環境のなかで、ほしい物を見たり買ったり、やりたいことをやっている色々な世の中の欲望中心、自己中心の姿を見ると、そういう姿のなかにおいて、自分の心のどこに仏様の命があるかと考えても、どこを探してみても見つけることができません。
ですから十界互具ということは、たとえそれが仏様の説であっても、信を取り難いのであるという主張であります。

 そこで、初めの質問は「今数(しばしば)他面を見るに但人界に限って余界を見ず」ということです。
つまり他の人々の顔を見ても、人間界の有り様だけが見えても、余の界は見えないではないかというのです。
鏡があれば自分の顔も見えますが、鏡がなければ自分の顔を見ることはできません。しかし、他人の顔は様々に見ることができます。

 ただし、これはみんな人間界として見えるのであります。
そこには地獄界もなければ餓鬼界もなく、人間社会における集まりにおいては、余界はほとんど見ることができません。
したがって「但人界に限って余界を見ず」−人間界だけは見えておるけれども、ほかの界は見ることができないから、その人間界に六道が具わっておることは信じられない。
自面もこれについては同じ道理であるから、どうして信ずることができようか、という質問であります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
答ふ、数(しばしば)他面を見るに、或時は喜び、或時は瞋(いか)り、或時は平(たい)らかに、或時は貪(むさぼ)り現じ、或時は癡(おろ)か現じ、或時は諂曲(てんごく)なり。瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏(みょうぶく)して現はれざれども委細(いさい)に之を尋(たず)ぬれば之有るべし。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 その質問に対して、ここでは人界に六道が具わっておることを、現証をもって、まさしく明かされます。
つまり理屈や理論よりも実際の在り方として挙げられるのであります。

 それは、他人の顔を見るときに、ある時は喜び、ある時は瞋る場合があります。
ある時は平らかな、心の落ち着いた状態の場合もあります。
ある時はまた色々な物を見て、ほしいと思うような貪る心を起こす場合もあり、ある時は物事の因縁・道理の解らない心で愚痴を言う場合もあります。
また諂曲といってー諂はへつらうという意味で、自分の都合のために物事を曲げて申し述べる、したがって結局、正しいものの道理・立て分けを知らないという意味があります。
そのような自分中心のねじけた心は修羅であります。

 そこで、瞋るというのはその人の心に地獄の命が存在しており、貪るのは餓鬼の命が存在しておる。
あるいは癡かなることは畜生、諂曲なることは修羅の心である。
また、喜ぶのは天であり、平らかなことは人界の命であると示されるのであります。そういう点から見るならば、他人の怒った姿を見れば、この人は今、地獄の心が起こっておることが判るのであり、あるいは愚痴を言っているのは畜生の心というように判るのであります。

 そういうことで、「他面の色法」すなわち、この「色」というのは示現した形という意味があります。
形があって我々は物を分別するわけであり、その色形の種々相を見れば地獄・餓鬼畜生・修羅・人間・天上界までの六つの命が明らかに我々の心に具わっておることが判るではないかと示されるのです。

 今日の社会において常識化された生活上の価値観は、物質的な充足が中心であり、精神的価値が、ともすれば無視されがちであります。
これも自分が六道という迷いのなかにいることの自覚に欠けていることが、その一因と思われます。
現在、多くの学生達があらゆる分野で学び、道を開こうと勉強するその基本姿勢は声聞、縁覚とも言えますけれども、その個人個人の境界・精神内容は六道のなかであります。
つまり、人界、天界ということのなかには勝れた学術技芸がすべて篭もっておるのであり、その程度のことは全部、まだ迷いのなかにあるのであります。

 いわゆる「他面の色法に於ては六道共に之有り」というのはそれであります。
この「六道」は輪廻という迷いの道であり、そこからは容易に抜け出すことができない故に輪廻と言うのであり、この六道がすべて我々の心に具わっておることをここに示されるのであります。

 さて、次に「四聖は冥伏して現はれざれども委細に之を尋ぬれば之有るべし」とありますが、「四聖」というのは六道の上の声聞・縁覚・菩薩・仏の四階であります。これは六道に対して四聖と言うのでありまして、六道とは一番下の地獄界から人間界、天上界というところまでの境界でありますが、これは仏教以外の宗教や道徳でもそれぞれ到達して、色々と経験できる境界であります。
けれども四聖といって、本当の意味の声聞・縁覚・菩薩・仏という境界、特に仏様という境界は到底、普通の道徳・宗教の道で知ることはできません。
しかし、その四聖もなおかつ我々の心のなかにおいて存在するのであり、ただ冥伏しておるというのです。

 冥伏とは表面に全く顕れず、隠れておるということです。
しかし、ないのではありません。
故に委細に尋ねていけば、我々の心にこれのあることが判明するであろうと説かれております。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
93

問うて曰く、六道に於て分明ならずと雖も、粗(ほぼ)之を聞くに之を備(そな)ふるに似(に)たり。四聖は全(まった)く見えざるは如何。答へて曰く、前(さき)には人界の六道之(これ)を疑ふ、然りと雖も強(し)ひて之を言って相似(そうじ)の言(ことば)を出(い)だせしなり、四聖も又爾(しか)るべきか。試(こころ)みに道理を添加(てんか)して万が一之(これ)を宣べん。所以(いわゆる)世間の無常は眼前に有り、豈(あに)人界に二乗界無からんや。無顧(むこ)の悪人も猶(なお)妻子を慈愛(じあい)す、菩薩界の一分なり。但(ただ)仏界計り現じ難(がた)し、九界を具するを以て強ひて之を信じ、疑惑(ぎわく)せしむること勿(なか)れ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここからは四聖のうち「二、三聖を示す」という科段で、まず三聖についての質問と答えが示されます。

三聖とは、すなわち声聞・縁覚・菩薩のことであります。

 まず
「問うて曰く、六道に於て分明ならずと錐も、租之を聞くに之を備ふるに似たり。四聖は全く見えざるは如何」
という質問のうちに「備ふるに似たり」という言葉がありますが、これは我々の心が直ちに六道と表れているのではない意味です。
つまり我々が怒る時には、それが地獄界に通じてはいますが、地獄界そのものではありません。
地獄界が結果として顕れた姿ではなく、言うなれば地獄界の原因の顕れであります。餓鬼、畜生その他においても、直ちに六道それぞれの界そのものではありざせんから、備えるに似ておると言うのであります。
しかし、四聖は全く見ることができないが、それについてはどう思われるか、という質問であります。

 その質問に答え、前にあなたは人界に六道が具わるということを疑ったではないかと、まず指摘されます。
つまり問者は、先に我々の心に地獄や餓鬼があるというようなことは到底、信じられない、人間以外に何物も見られないと言いました。
これは世間普通の、一般の人が考えるところであります。

 だいたい仏教を知らない人の生活観、人生観の基本は、単純な人間中心の見方といったところにあります。
ところが、我々の命のなかに地獄もある、餓鬼もあるということが仏教において示され、改めて考えてみますと、これは本当に恐ろしいことで、実際にいつ、我が身がそのようになるか判らないのであります。
それを少しも思わず、人間中心の世の中ぐらいに浅く考えておりますが、それでも、この六道を知ることだけでもたいへん勝れた、すばらしいことなのだとの意味を含みます。

 そこで答えとして、あなたはこの六道が眼に見えないことによって先には疑ったけれども、それに似た意味において六道が存在しておるという説明をしたので、少しは納得することができたようである。
したがって、次に四聖もまた、しかるべきであろうから、
「試みに道理を添加して万が一之を宣べん」
と言われるのです。

 この「道理を添加して」というのは、声聞・縁覚・菩薩の三聖あるいは仏様の境界についての説明をする場合には、道理を添加しなければ納得がいかないのであります。
つまり、六道の範囲で怒ったり、笑ったり、喜んだりするような心、また諂曲な心、愚痴の心などは、我々の生活のなかで常に起こりますから、それは経験的に解ります。
ところが「世間の無常は眼前に有り」という無常の心というのは、我々の経験において、そういつもは起こらないのです。

 例えば、交通事故で、だれか自分と関係のない方が亡くなったというニュースを聞いたとします。
しかし、気の毒だぐらいで、おそらく一日中、泣き嘆くということはないと思います。
ところが、自分の息子が交通事故に遭い、相当のけがでもしたならば、それはもう大変な痛手でしょう。
まして死んだならば三日三晩、泣いて叫んでもなお足りないほど嘆くに違いありません。
人間というものは、遠くの人の痛みや苦しみについてはあまり感じないということです。
ほかの人の子が死んだのと、自分の子供が倒れて膝小僧をすりむいたのと同じくらいだと言われますが、全くそれぐらいのもので、他人のことは割合、平気なのです。
けれども、たまたまそれが自分の身に当たってくると初めて、「ああ、情けない」ということが身に染みるのであります。

 結局、人は自分の近親者や子供が不幸に遭ったときに初めて、本当の無常というものを感じます。
そうでなければ、いくら世間に死ぬ人がいっぱいいたとしても、あまり感じません。
そこで、四聖等の高尚な境界については、凡人が簡単に解ることではないけれども、しかも実際に存在する道理を加えつつ、四聖が心に具わる姿について述べてみようとお答えであります。

 そこで、まず「世間の無常は眼前に有り、豈人界に二乗界無からんや」と言われております。
無常の心がなぜ二乗界かといいますと、この世の中の有という事物は、すべて頼るべからざるという意味の人生観乃至、法の教えについて、それを心に徹するのが声聞・縁覚の二乗であります。
つまり、この世の中のすべては空という真理が存在するのであり、その上からいくならば、一切の事物が実際に存在するという認識自体が本来、誤りなのである。
それを有ると思っているから、なくなってしまえば嘆くけれども、本当の悟りは空にあるとするのであります。
これは仏法のなかの、絶対的な真理のなかでの部分的な方便の真理であり、そういう意味の修行により、要するに万物は空無常という観念に徹底します。
そこに有の執着から境界が開けるのであります。
したがって、我々がときどき、世ははかないものである、人の命は露のように空しいものだと無常の心を起こすことは、その二乗の心と通じておるものがあるのであり、したがって我々の心に二乗が存在しておるということであります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

露と落ち 露と消えにし 我が身かな
浪速のことは夢のまた夢

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 また「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり」とありますが、これもたしかに世間でときどき感じたり、見たりすることがあります。
自分中心の欲望にのみ囚われ、ありとあらゆる悪いことをする人間でも、自分の子供についてはなんとか幸せにしてやりたいというような気持ちを持っています。
つまり「無顧の悪人」でも妻や子を慈愛する心があるということは、その慈愛という気持ちがほんのわずかではあっても、常に勇ましい心をもって一切の衆生の悩みを救い、苦しみから多くの人々を助け出そうというところの心をもって精進する菩薩の尊い命に通ずるのであり、したがって、いかなる悪人のなかにも菩薩界が存在しておると言えるのである。
いわんや、すべての人においてその心が存しておるという道理が、ここに示されます。

 次に「但仏界計り現じ難し」とあります。
このところからは、以上の九界を具足する論述をもってさらに一歩を進め、仏界の具足を例されるのです。
これについて仏界が現じ難く、見難いことを、まずお示しです。
地獄、餓鬼、畜生乃至、菩薩界まで、特に声聞、縁覚、菩薩は六道に比べてなかなか知りにくいけれども、よく考えてみれば、少しはあることが解る。
しかし仏様の境界だけは、人間界の経験において、どうにも現れにくいと仰せであります。

 たしかに仏界は、我々の日常の生活のなかにはどうにも体験できません。
どれが仏様の心だと言われても、だれも解りません。
解らないのは当たり前で、仏様の心というものは、ほとんどだれも知らないからであります。

 世間にときどきは情深く、慈悲深く、欠点がなくて人に尽くす人があり、仏様のような人と言う場合があります。
しかしそれは、言うなれば部分的な愚かな心で評価するからであり、本当に仏としての智徳、断徳、慈悲、救済の深さ、広さを学べば、到底、及びもつかないことが判ります。→

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三徳
仏果にそなわる三つの徳。
@ 衆生を救いたいという願いによってめぐみを与える「恩徳」と、
A 一切の煩悩を断ち切る「断徳」と、
B 平等智によって一切を見通す「智徳」の三つ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

→ 故に、まことに高く尊いものとして仏様の心が存在しているとしても、それが我々の心のなかに具わっておるということは現れにくいので、信じ難いのであります。

 そこで、どうすればよいかといえば、「九界を具するを以て強ひて之を信じ」と言われるのです。
これは勧誡二門のなかの勧の意であり、正しい信じ方を勧められるのです。
つまり、ほかの地獄界から菩薩界までの九界が心に具わっておるのであるから、仏様の境界もあるということを、とにかく信ぜよと仰せであります。

次の
「疑惑せしむること勿れ」とは誡めの意であり、仏様の境界が我々の心に具わるということについて疑い惑ってはならないと誡められるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 法華経の文に人界を説いて云はく「衆生をして仏知見(ぶっちけん)を開かしめんと欲す」と。涅槃経に云はく「大乗を学する者は肉眼(にくげん)有りと雖も名づけて仏眼(ぶつげん)と為(な)す」等云云。末代の凡夫出生(しゅっしょう)して法華経を信ずるは人界に仏界を具足(ぐそく)する故なり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このところでは、前の勧と誡の意を受けて、仏界というのは非常に理解し難い上から、もう一度、経文を引いてお示しになっております。

 まず「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」という法華経の文を示されますが、この文は当抄の前のところにも挙げてあります。
いわゆる衆生の心のなかから仏の知見を開き、示し、悟り、入らしめようということですが、開かせるためには、仏知見がなければ開くことはできないのであります。

 例えば、蔵の中に宝がある故に、その扉を開けば、宝が出るのです。
もし宝がなければ、いくら扉を開いても、宝物は出てきません。
したがって、この文を引かれておるのは、衆生の心のなかに仏様の心があるからであって、なければ絶対に仏様が開仏知見とおっしゃるはずがない、という意味であります。

 次に「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名づけて仏眼と為す」という涅槃経の文を挙げられております。
この 「肉眼」というのは我々の持っている眼のことで、前を見ると後ろが見えず、上を見ると下が見えないというような、いわゆる能力に限界のある眼を言うのであります。
また、錯視錯覚もあり、事物の表面だけを見て真性を見抜けない面もあります。
自分はなんでも見えると思っていても、それは思っているだけで、真実のものは少しも見ていないのが凡夫の肉眼であります。

 その肉眼の上に、天の衆生が持つところの天眼というのがあるのでありますが、これは遠近とか左右、上下を超越し、さらに障礙等の一切を貫いて、あらゆるものを見ることができるという眼です。
そのように天眼は、肉眼とはかけ離れて事物をよく見ることができるが、諸法の実相を見ることはできません。
実相というのは何かといいますと、仏法で説かれるところの真如・真理であります。
この真理としての実相を正しく見ることができないのは、まだ六道の迷いのうちだからです。
所詮、天界も六道の迷いのなかの衆生であり、ただ能力が人間より勝れているというのに過ぎないのであります。

 世間の人のなかには、たまたま超能力というようなことを見て 「あの人は超人だ」と言って異常に尊敬する人がおりますが、所詮、六道迷界の衆生に過ぎません。
少しぐらい超能力的なことができたといっても、それは天眼のほんの一分の通力に過ぎないのです。
仏道をよく勉強し、実相というものをきちんと拝していくところに、自他を本当に救う道のあることが解るのであります。

 さて、その実相の上において、一分の実相を見るのが次の、空諦を徹見する慧眼であります。
さらに種々の衆生を導くところまでの実相を見極めるのが、仮諦・空諦を徹見する法眼でありまして、菩薩の眼であります。
最後に、それらの一切の実相を照らして、ことごとく見、ことごとくこれを知って、一切の衆生を空仮中三諦の法理により自由自在に導かれるのが仏様の眼ということになります。

 ところが、肉眼しか持たない我々凡夫であっても、仏様の真実の悟りの境界をそのまま示されたところの大乗の教えを信じて修行していく者は、たとえ肉眼であってもそれは仏眼であって、仏眼の用きがそのまま具わってくるということを涅槃経に説かれているのであります。

 これは僧侶であろうと在家であろうと、本当に大乗を修行すれば必ず、そこに仏眼が生ずるということであります。

 そういう意味において、「引文」 の次の 「道理」 の上から大聖人様が最後に、三聖九界の存在に寄せて仏界の存在を例する結論として述べ給うのが 「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」
という御文であります。

つまり、仏界ということは非常に高い存在であるために、たやすく説明することはできないし、各々の心のなかにどのように具わっておるかということは実に現れ難いのである。
しかし、末代の凡夫が法華経を信ずるということは、人界に仏界が具わっておるからであると仰せであります。
なぜならば、一切の衆生に仏界が具わっておるということを説かれたのが仏様の真実、唯一の本懐の数えであるところの法華経でありますから、その法華経を信ずれば、その信ずる人の人界において仏界が具わるという道理であります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
問うて曰く、十界互具の仏語分明なり。然(しか)りと雖も我等が劣心(れっしん)に仏法界を具すること信を取り難き者なり。今の時之を信ぜずば必ず一闡提(いっせんだい)と成らん。願はくは大慈悲を起(お)こして之を信ぜしめ阿鼻(あび)の苦を救護(くご)したまへ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、これまで六道と三聖について質問と答えが示されましたが、この最後の質問と答えのところは「三、仏界を明かす」という科段で、これより仏界についての現証をお示しになるのであります。
末法の人は道理よりも現証を見ないと信じ難いので、ここにまたもう一遍、質問と答えが設けられております。

 まず「十界互具の仏語分明なり。然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き者なり」ということを質問者が述べております。
これは、文は信ずるけれども、その義は疑わしいということです。

 つまり、今まで色々と丁寧にお説きくださり、法華経を信ずるということが人界に仏界を具足するのだということを言われました。
また、その十界互具の仏語が法華経に説かれてあることもよく理解しました、と言います。
けれども、その内容として、我らに仏心が具わることがどうも解らないというのであります。
それはそうでしょう。
考えてみますと、人々が自分自身に仏の心が具わることを本当に確信できるかといいますと、まずこれはできないことであります。

 そこで問者は、これを信じなければ必ず、因果を無視し、教えを無視した罪によって地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ち、一闡提の衆生になってしまうであろう。
したがって、願わくば大慈悲を起こしてこれを私に信ぜさせ、阿鼻地獄の苦しみから救ってください、という願いを述べます。

 考えれば、これはかなり自分勝手なことであります。
分明な仏語はあっても、自分自身についてはなかなか信じられないので、どうかそれを信じさせてくれと言うのです。

 以上で 
「三、仏界を明かす」 に 
「一、問」 
「二、答」があるなかの 
「一、問」が終わりました。

次は 
「二、答」 に入りますが、これに 
「一、誡許」 
「二、正答」
があり、
「一、誡許」 はまた 
「一、誡」 
「二、許」 に分かれます。

次の文はその
「一、誡」 の文であります。
誡とは、問者の考えを誡める意味です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 答へて曰く、汝(なんじ)既(すで)に唯一大事因縁(ゆいいちだいじいんねん)の経文を見聞(けんもん)して之を信ぜざれば、釈尊より已下の四依(しえ)の菩薩並びに末代理即(りそく)の我等、如何が汝が不信を救護(くご)せんや。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて次に、その質問に対する答えを示される初めに誡められるのでありますが、まずここに示される 「唯一大事因縁」という経文は、方便品の文であります。
つまり
  「諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。(中略) 如是本末究菟等」
                              (法華経八九)

のすぐあとに世雄偈という偈が続き、そのあとの広開三顕一のほうに、
  「諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世 (諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう)」 (同一〇一)
という経文が出てまいりますが、そのところであります。

 その一大事の因縁とは何かということでありますが、これは先程の御文のなかにおいて 
「法華経の文に人界を説いて云はく 『衆生をして仏知見を開かしめんと欲す』 と」
ということを大聖人様がお示しあそばされた、その経文のことであります。
汝はその経文を見聞しておるにもかかわらず、これを信じないということならば、
「釈尊より已下の四依の菩薩並びに末代理即の我等、如何が汝が不信を救護せんや」
と言われるのであります。

 すなわち、インドに出現されて一代五十年の間、華厳、阿含、方等、般若等、五千・七千等の様々な教えを説かれ、そして自在の神力を示されるなどの無類の大徳を示されて一切衆生を導かれた釈迦牟尼仏−その釈尊のお徳において一切衆生を導こうとされておるのであるけれども、汝がこれを信じなければ、釈尊ほどの方でも救うことができない。
まして釈尊の広大なお徳には遠く及ばない四依の菩薩や末代理即の我らが、どうして汝の不信を救うことができようか、との誡めの文であります。

 右に「四依の菩薩」とありますが、まず小乗に四依の菩薩があります。
いわゆる須陀垣?、斯陀含、阿那含、(しゅだおん しだこん あなごん)阿羅漢といって、それぞれ初果、二果、三果、四果という小乗の聖者でありまして、これが仏様の滅後、仏様の命令によって衆生を導かれるのであります。

 その小乗の四依が元をなしておりますが、大聖人様はその精神をもって正・像・末の三時において、権大乗、実大乗流布の上にこの四依を立てられております。
すなわち、大聖人様が釈尊仏法から末法へ来る流れのなかでお示しになられるのが、この 『観心本尊抄』 のあとのところ (御書六五八−六行目) で示される四依であります。

 その四依とは、小乗の四依、それから大乗の四依、迹門の四依、本門の四依という四つの四依でありますが、今は省略いたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
法の四依
@ 法の依りどころとなる四つ。比丘(びく)が依りどころとすべき法を四つに分けたもの。
教えそのものを依りどころとし、教えを説く人を頼りにしてはいけない(依法不依人)、
教えの意味に依り、ことばにとらわれてはいけない(依義不依語)、
仏の智慧に依り、人間の情識に依ってはいけない(依智不依識)、
教えの意味を完全に伝えている
大乗経典に依り、小乗経典に依ってはいけない(依了義経不依不了義経)の四つの総称。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人の四依
観心本尊抄 
小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現す。
大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現す。
三に迹門の四依は多分は像法一千年、少分は末法の初めなり。
四に本門の四依は地涌千界、末法の始めに必ず出現すべし。658
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小乗時代の四依は「迦葉かしょう・阿難あなん」、
大乗時代は「馬鳴めみょう・龍樹りゅうじゅ・天親てんじん」です。
法華経・迹門の四依は「南岳なんがく・天台てんだい」
本門は「地涌じゆ千界せんがいの上行菩薩」、すなわち宗祖日蓮大聖人です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
馬鳴 後80年頃〜150年頃
竜樹 2世紀に生まれた  150〜250年頃
天親 300 - 400年頃   仏滅後900年頃生まれる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
B 人の依りどころとなる四つ。衆生が依りどころとする四種の人。
小乗では、
出世の凡夫(ぼんぶ)、預流(よる)と一来(いちらい)の人、不還(ふげん)の人、阿羅漢(あらかん)の人の四種。
大乗では、地前を初依、初地より五地までを二依、六・七地を三依、八・九・一〇地を四依とするほか、
諸説がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

→ 次に 「末代理即の我等」とある、この 「理即」というのは、円教の位に六即を立てるうちの一番下の位を言うのです。
即という字は色々な意味で解釈できるのですが、法華経の円の深い哲理から申しますと、あらゆる宇宙法界の事物は、ことごとく空の真理と、仮の真理と、中という真理が全部具わるので、その意味においてはどのようなものを挙げても全部が平等であり、また差別であり、差別でありながら究竟して等しいのです。
等しいとは即の義で、一が多、多が一であり、また地獄界に他界が具わり、仏界にまた余界が具わって離れない意味であります。

 ですから、もし言うならば、我々の如き迷いの衆生と仏様とが全く等しいということでもあります。
そのような、仏様も迷いの衆生も、あるいは悟りも迷いも一つであるという真如、六即の即という意味を我々が信ずることによってどういう御利益があるかといいますと、即の意義を持つ平等を信ずることによって下根下機の怖ずる心、疑う心をなくすのであります。
すばらしい仏様の境界に、我々凡夫は到底、到達することができないというように思い込んでいますが、そういう卑怯な、自らを否定し、もの怖じする心を破るところに、凡夫即仏という教えの意味があるのであります。

 六即のもう一つの面、つまり理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即という六即の六のほうは、厳然たる差別が示されているのです。
これを信ずることにより、凡夫の慢心と尊大な心を打ち破るという意味があります。
偉くもないのに自分は偉いと思っている人間が世の中には多いのでありまして、これが我見を増長し、争いの元となります。
そういう人間はまた、自分の心のなかに不幸の固まりを作っているのです。
そのような気持ちを持ちますと、芸は行き止まりになり、仕事もそのまま行き止まりになりますし、あらゆる徳を破壊するのであります。
その慢心、尊大な心を打ち破るのが、下は仏といっても理だけの荒凡夫より、真実の仏まで、厳然たる六の違いがあるという意味なのです。
ですから、この六即という法門はたいへん大事なものでありまして、円教の位を示しており、同時にそれはまた、それを信ずればそのまま我々が、この凡夫の身のままに仏様の境界を開ける教えでもあります。

 その六即のうちの一番下の位が理即でありますが、それをなぜ大聖人様が「末代理即の我等」とおっしゃったかというと、大聖人様が、地涌の菩薩としての御出現ではありますが、この末法に御出現になる時にはまことに底下の凡夫の姿で御出現になり、その故にこそ凡夫即極の実義を顕され、一切衆生を導かれるという下種仏法の意義を示されておるのであります。
この「末代理即の我等」という御文はそのように拝すべきであります。

 要するに、以上は高位の釈尊から四依、そして我らまで、汝が信じない以上、その不信を救えないぞ、との誡めです。

111
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
然りと雖(いえど)も試みに之を云はん、仏に値(あ)ひたてまつりて覚(さと)らざる者、阿難(あなん)等の辺にして得道する者之有ればなり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、このところからは質問に対する科段の「答」 のなかの 
「二、許」 の部分です。
許とは、問者の信じられないが信じさせてくださいとの願いに対し、まず誡めたあと、それを許して衆生の種々の機についての説明にかかる意味です。

 この初めより「此等は且く之を置く」 (御書六四八−一二行目)までのところは、機と機の様々な特殊性について説かれておるのであります。
これに四あるうちの第一として「余縁得道の例」を明かされるのがこの文です。

 十界のうち、仏界を説かれるに当たって、機のまず初めに不可思議な常識外の在り方、つまり仏様以外の余縁得道の例をなんのために挿入せられたかということですが、これについて他宗の学者が、他のところでは色々と述べておりますけれども、このことについては何も言っておりません。
つまり、この意味が解らないのです。

 この余縁得道の例とは、仏様という、なんでもできないことのないほどの偉い方にお値いしても、その仏様に対して不信を持つ人が、かえって他の人によって導かれる例です。

 これは、須達長者という有名な大長者がインドにおりまして、そのお母さんはどうした加減か、釈尊の巧妙無比の御説法や神通等のお姿を拝しても、かえって釈尊に不信の念を懐き、少しも仏道において利益を得なかったのです。
そこで釈尊がそれを哀れに思し召して、弟子の阿難という人を遣わされました。
その阿難が輪王の姿をもって接していったならば、その威厳に驚いた須達長者のお母さんは我見を捨てて仏道に帰依したということがあるのです。
すなわち、仏様と比べれば徳は千分の一にも足りないような阿難ではあっても、須達長者の母のように、機根によっては、仏様より直接法を聞くときは信じられず、かえってその弟子の阿難によって得道するというようなことがあるのです。
ここでは機根が実に色々であるということをお示しになるのであります。

 それは、釈尊の教えを受けて末法に出現する日蓮即地涌の菩薩、すなわち四依の菩薩のうちの本門の四依、いわゆる地涌の菩薩の上首であるところの上行菩薩としての上からこの大法について説くにもかかわらず、あなたはまだ疑って信ずることがない。
しかし、機根は色々であるということをもって、釈尊の教えにおいて信ずることができない者は末法出現の仏によって救われるのであるということを、ここに内示されておる意味があります。
それは、その次に広く二つの機類を示されるところから、さらに明らかになってまいります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
其れ機に二有り。一には仏を見たてまつりて法華にして得道す、二には仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり。其の上仏教已前(いぜん)は漢土の道士・月支(がっし)の外道は、儒教・四韋陀(しいだ)等を以(もっ)て縁と為(な)して正見(しょうけん)に入る者之有り。又利根(りこん)の菩薩凡夫等の、華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て大通久遠の下種を顕示(けんじ)する者多々(たた)なり。例せば独覚(どっかく)の飛花落葉(ひけらくよう)の如し、教外(きょうげ)の得道是なり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 右の御文のなか「其れ機に二有り」より「法華にて得道するなり」までの一行半は、機の特殊性について四あるうちの第二として、一般的な「判機」を示されるのです。

 まず「一には仏を見たてまつりて法華にして得道す」とありますが、これは仏様に値った人でも、何によって成仏するか、また本当の幸せを得るかといいますと、これは仏様によるのではなく、法華経によるのだということを言われておるのでありまして、これが大事なところなのであります。

 それからもう一つ、「二には仏を見たてまつらざれども法華にて得道するなり」と仰せであります。
これは、仏様に直接値えなかった人−例えば釈尊滅後、迦葉、阿難等に値った人、あるいはその後、正法の時代の竜樹等、あるいは像法に入って迹門の天台、伝教等の方々に値うような人、そういう釈尊に値えない人が得道するのは何によるかといえば、これも実は法華経なのだと言われるのであります。

 それは、この 『観心本尊抄』 のあとのほうに、
  「彼は脱、此は種なり」 (御書六五六)
というたいへん大事な御法門が出てくるのですが、この種脱という御法門が大事なのであります。
法華経には下種と熟益、脱益という大事な化導の本質があるわけで、結局、ここでおっしゃっていることは、仏様に値っても、あるいは値わない場合でも、仏法において得道する者はすべて法華経の下種によるのであり、それが元となって得道すなわち脱益を得ることを、ここに仰せになるのであります。

これは、要するに『観心本尊抄』一巻の大旨は、末法において大聖人様が出現あそばされて、法華経の根本の下種をあそばされるという意義が含まれております。

この御文はその伏線なのであり、そのためにここにおいて、わざわざ機は法華経の下種によって得道することをお示しになっておるのであります。

 したがって、種脱の法門の正しい捌(さば)きがはっきり肚(はら)に入ってからここのところを拝すれば、必ずそのように拝せるのでありますが、日蓮宗等の大学者と言われるような人々は、すべて種脱の法体を混乱しておりますから、ここを拝読しても結局、その深い意味を正しく取れないのであります。

 次に「其の上仏教己前は漠土の道士・月支の外道は、儒教・四章陀等を以て縁と為して正見に入る者之有り」という文より「教外の得道是なり」までは、機に四あるなかの第三として「過去の宿因開発(かいほつ)の助緑」を説かれます。
その初めにおいて、仏教外の教えにより、それが縁となって正見、すなわち法華経の悟りに入る者を示されて、その深い意味では釈尊の化導、特に久遠以来の釈尊の化導の意があることを含めておられるのであります。

 ここに挙げられる 「漢土の道士」というのは中国における道教の人のことであり、また 「月支の外道」というのはインドのバラモン教のことであります。
また「儒教」は中国の孔子、孟子等の教えでありまして、仁・義・礼・智・信等の人倫の教えを説き、その徳をもって身を修め、その徳を周囲に及ぼし、家を治め、そして天下を平らかにして国を治めていくというような、治国平天下の教えが儒教の道であります。
しかし、これはまだ過去・現在・未来という三世の実相を知らないのでありまして、仏教には到底、及ばないのです。

 それから「四韋陀」というのは、今の大学などで講ずるインド哲学では 「ヴェーダ」と言います。
ヴェーダとは、昔のバラモン教の教典です。
インドにおいてはそのヴェーダに対する解釈の違いなどから九十五、六種という外道が分派したと言われますが、それには
リグ・ヴェーダ、
サーマ・ヴェーダ、
ヤジュル・ヴェーダ、
アタルヴァ・ヴェーダ
という四つのヴェーダがあり、それを四韋陀と言うのであります。

 この韋陀乃至ヴェーダというのは、明らかという意味であります。
一切を明らかにして神の道を説き、また人間の教えを説くということでありますが、
リグ・ヴェーダはインドのバラモン教におけるところの神様の讃美歌であります。
サーマ・ヴェーダは、それを実際に節をつけて歌う等の、さらに選ばれた歌詠の書であります。
また、
ヤジュル・ヴェーダは祭祀のことを説いたものであり、
アクルヴァ・ヴェーダは災いを防ぎ、色々な祈願をかけるというようなことに関する法則や筋道を説いたものと言われております。

 さて、仏教が弘まる以前においては、ただいま申しましたような「漢土の道士・月支の外道は、儒教・四韋陀等」の教えを縁として、法華経の悟りを開く者があるというのです。
法華経の眼をもって見ると、それが解るわけです。
つまり、低い所にいたのでは高い所は判りませんけれども、高い所から見ると高低の一切が判るように、仏教という高い教えから見ますと色々な姿の機根のなかに、仏教以外の教えを受けていながら、自然に法華経の正見に到達して成仏していく者があるというその悟りも、実は過去世における法華経の種が元になっているのであります。

 次に「利根の菩薩凡夫等」とありますが、利根とは鈍根に対する言葉でありまして、つまり頭の鈍い人間に対して非常に利発な機根ということであります。
そういう利発な菩薩や凡夫は、華厳経を聞き、あるいは方等経という方便の教えを聞き、あるいは般若経等の大乗経典を聞くことが縁となって「大通久遠の下種を顕示する者多々なり」ということをお示しであります。

 これは、権経を聞くことによって、それにとどまらず、法華経の久遠の悟りに到達するのです。
「大通」とは法華経化城喩品の説相で、三千塵点劫の古えにおける仏との因縁があり、その上における法華経の真理による化導がありました。
また「久遠」というのは五百塵点劫の昔の仏との因縁という、本門寿量品の教えであります。
これらの人々は久遠五百塵点劫あるいは三千塵点劫の昔において法を聞いており、それを信受しなかったために悪道に堕ちて、地獄、餓鬼、畜生等の六道をつぶさに経巡(へめぐ)ってきたのです。
それが中間に仏様の熟益の化導に値って、次第に境界を開いて利根となり、そのような利発な菩薩や凡夫は華厳、方等、般若等の大乗経が縁になって、昔、受けた法華経の下種を自ら発得し、顕示するのであります。

 ここに「下種」という言葉が出てきましたが、ここが大事なのです。
色々なこともすべて、法華経の下種が根本となって成仏するのであるということを、釈尊の久遠の昔からの化導の上に示されております。
これを大聖人様がなぜ仰せられてるかといいますと、先程も申しましたとおり、末法の衆生に対して観心の本尊を顕し給うところの意義がこの『観心本尊抄』一巻の大旨であり、その上から即身成仏の大法をお示しになるのですから、結局、末法に久遠元初の大法が出現して一切の衆生に根本の仏種を下すということの準備としてお示しになっておるのであります。

 次の「例せば独覚の飛花落葉の如し」の「独覚」というのは縁覚のことで、山林に入って独りで覚るから独覚と言うのです。
また「飛花落葉」というのは、そよそよと風が吹いてきて花が散り、葉が落ちてきます。
座禅をし、心を澄ましてこの姿を見ておりますと、そこにこの世の無常を知り、無常のところからさらに真の宇宙法界に遍満するところの実相に到達していくというのです。
つまり、まず空理を覚り、次に仮理を覚り、さらに中道実相を覚るということです。

 しかし、これは 「教外の得道」 であると仰せであります。
この教とは法華経の意であり、ここでは法華経をもって真実の教えと立てておられますので、それ以外の但空等の教えは教外になるのです。
その教外の真理を自ら観じながら、機根によっては法華に到達し得道できることをお示しであり、ここまでは現在における順縁の機においても、根本に下種があって初めて得道するという意義を説かれております。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
過去の下種結縁無き者の権小に執着(しゅうじゃく)する者は、設(たと)ひ法華経に値ひ奉れども小権の見を出でず。自見を以て正義と為(す)るが故に、還(かえ)って法華経を以て或は小乗経に同じ、或は華厳・大日経等に同じ、或は之を下す。此等の諸師は儒家・外道の賢聖(けんせい)より劣(おと)れる者なり。此等は且(しばら)く之を置く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
右の文は、機の特殊性に四あるなかの第四として、権教に執して実を謗る機があり、その「失を破折」されるところです。

 さて、この御文のなかの

「過去の下種結縁無き者の権小に執着する者は」

という御文について日寛上人は、特に「過去の下種結縁無き者の」というように「の」と読むようにと御指南あそばされております。

ところが他宗においては、ここを区切りまして、

  「過去の下種結縁無き者・権小に執著する者は云云」
                  (昭和定本日蓮聖人遺文一−七〇六)
というように二種類の機根をここに立てておるのです。
これはやはり種・熟・脱の教えの上から考えてくると、正しくない見方であります。
つまり過去の下種結縁がないが故に、この末法に至って権教や小乗教に執着することになるのですから、「の」を入れて読むべきであります。

 さて、そのような者は
「設ひ法華経に値ひ奉れども小権の見を出でず」
と仰せであります。
たとえ法華経を見ても小乗だと思い、あるいは方便の教えだというように非常に低く見るのでありまして、天地顛倒の誤った見方であります。
そして
「自見を以て正義と為(す)るが故に」
−これらの者は、あくまで自分の考え方が正しいと思ってそこに執われてしまうか故に
「還って法華経を以て或は小乗経に同じ、或は華厳・大日経等に同じ、或は之を下す」
と言われております。

 これには色々な意味がありますけれども、例えば光宅寺の法雲法師という人が寿量品について、その「如来秘密神通之力」 の文を応身、無常の仏と解釈したのです。無常仏ということはすなわち応身仏でありまして、法報応三身常住の法身仏を応身仏と解釈したということは、寿量品を小乗教と解釈したわけです。
そういう誤った解釈法があるということをここに挙げられるのでありまして、それらを一々挙げられてはおりませんけれども、そのことを
「或は小乗経に同じ」
と言われておるのであります。

 また
「或は華厳・大日経等に同じ」
というのは、華厳宗の澄観等の人々の解釈、あるいは真言宗の善無畏三蔵等の解釈を言われるのであります。
例えば善無畏の『大日経義釈』という解釈においては、法華経と大日経とは、その理においては一往同じだと言い、再往これを見れば、印・真言がある故に大日経のほうが法華経よりも勝れておるというのが、真言宗の開祖である善無畏等の謬見(びゅうけん)であります。

それから華厳経と法華経とは同じく円教であるが、華厳は頓円、法華は漸円であるから、華厳のほうが法華経よりも勝れておるというのが華厳宗の法蔵、澄観等の偏見でありまして、これらは皆、仏法の筋目を狂わし、間違った解釈をしておるものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
法蔵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%94%B5_(%E5%94%90)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 また
「或は之を下す」
というのは、そういう人々と同時に、特に弘法大師の「法華経は第三の劣」とか、法然の「捨閉閣抛」等の誤った解釈を言われるのであります。

 申すまでもなく、法華経は最も勝れた教えであります。
それは釈尊が法華経において、
  「我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり」
                            (法華経三二五)
と示され、あるいは、
  「我が所説の経典、無量千万億にして、己に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」 (同n、)
と仰せのとおりであります。
そのなかには当然、法華経のなかのあらゆる道理、文証、現証のすべてを含んではおりますが、それに対して弘法大師は「法華経は第三番目であり、大日経が第一の教えである」と言うのです。
だれがそのように言うのかといいますと、法華経、大日経にその明文は全くないにもかかわらず、自分がそのように思うといって、その解釈を述べております。
そういうところに仏様の根本の教えに背き、勝手に教えを切り盛りしてしまった失があるのであります。

 したがって、大聖人様は
「此等の諸師は儒家・外道の賢聖より劣れる者なり」
と簡潔に破折されつつ、本題に戻って、
「此等は且く之を置く」
とおっしゃっております。
これは、あとに末法の下種の法を顕されるところで改めて破折されるためと、種熟脱の法門に関連して様々の機を挙げられて末法の機を暗示されましたけれども、それらに関しては一往ここに差し置き、本論に戻って十界互具のことについて、まさしく答えられるのがこの次の御文であります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
十界互具之(これ)を立つるは石中(せきちゅう)の火、木中(もくちゅう)の花、信じ難(がた)けれども縁に値ひて出生すれば之を信ず。人界所具の仏界は水中の火、火中の水、最も甚(はなは)だ信じ難し。然りと雖も竜火(りゅうか)は水より出で竜水(りゅうすい)は火より生ず、心得られざれども現証有れば之を用ゆ。既に人界の八界之を信ず、仏界何ぞ之を用ひざらん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この御文の科段は、前からの形として
正釈に二あるなかの
「一、現見をもって心具の十界を明かす」に
三あるなか、
「一、六道を示す」 
「二、三聖を示す」の次に
「三、仏界を明かす」ところで、その答えの
「一、誡許」の次の
「二、正答」に当たります。
総じて、このところは信じ難きを信ずるの現証を引かれるのであります。
この御文には通と別があり、通じては十界互具についての信ずべきを述べ、別しては人界所具の仏界を信ずべきを示されてあります。

 十界互具ということは、さながら石の中に火があるという如く、また木の中に花があるという如く、直ちにその姿を見ればまことに信じ難い。
しかし、火打ち石は石と鉄片を打ち合わせれば火が出るし、春が来れば幹や枝ばかりだった木から美しい花が咲く。
故に、石の中に火がありヾ木の中に花があることは、鉄片や春という縁に値えば出生するから、これを信ずることができるようなものである。
地獄界所具の十界乃至、仏界所具の十界も信じ難いが、縁に値えば通じてこれを信ずることができるのであるとの意です。
つまり縁に値うという実例の上から、通じて十界互具全体を信ずるとの論証であります。

 しかし、別して人界所具の仏界を考えたとき、水中の火、火中の水の如く正反対であるから、最も信じ難いのである。
それと同じく、愚劣な人間のなかに仏様の境界が入っておるということは全く火と水のようなものであり、反対のものであるから、どうしても信ずることができないというのが
「最も甚だ信じ難し」
という文であります。

 ただし、そうではあっても、また反対の現象もあるということを、次の 
「竜火は水より出で竜水は火より生ず」 
の文をもって示されるのです。
夏になると夕立があり、一天かきくもって火のつくような大雨の時に、ピカツと光ります。
あれはやはり、雷雲があって雨が降る状態でないと稲妻は走らないのです。
ですから、たしかに水の中から火が生ずるのであります。
また、竜水の元となる雷雲は太陽の炎熱、つまり火によって生ずるのです。
故に、その火のところにまた水が存するという意味があるわけです。
したがって、そういう現象が実際にあれば、どうしても火の中に水があり、水の中に火のあることを信じなければならないではないかと言われるのです。

 そこで、あなたは既に人界に八界が具わることを信じたのであるから、仏界が具わることも信ずるべきであると言われます。
この「人界の八界」というのは、人界以外の八界という意味で、九界のうちで地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上、声聞、縁覚、菩薩の八界のことを言うのです。
人界においてそれ以外の八界が具わっておるということを、あなたはどうやら信じたではないか。
それならば、こういう不可思議なことがある以上、仏界が具わっておるということを、どうして用いないことがあろうか、との論詰であります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
尭舜(ぎょうしゅん)等の聖人の如きは万民に於て偏頗(へんぱ)無し、人界の仏界の一分なり。不軽菩薩は所見(しょけん)の人に於て仏身を見る、悉逹太子(しったたいし)は人界より仏身を成ず、此等の現証を以て之を信ずべきなり。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前の 
「一、信じ難きを信ずるの現証を引く」に続き、
「二、現事(現在の事実)を引いて証す」るのであります。

 まず、「尭」と 「舜」という方は三皇五帝のなかの聖人と言われる有名な皇帝ありまして、一切の民衆を深く思い、大慈悲をもって政治を執り、衆生の幸せを願って様々な施策をなしたという二人の聖君主を言うのであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://www.y-history.net/appendix/wh0203-013_1.html
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そういう人々の心は万民において隔たりなく、すべての人を幸せにしようとする心があるのであるから、これは人界のなかの仏界の一分であると言われております。

 それから不軽菩薩という方は、法華経の不軽菩薩品に説かれてあるように、道行く人を見て、顔は人間であるけれども、その人の心のなかには妙法蓮華が存するということ、すなわち仏様の命が具わっておることを見抜いて礼拝を行じたのです。

さらにまた
「悉達太子は人界より仏身を成ず」
と示されております。
この悉達太子という名は釈尊の太子の時の名前で、その時は凡夫でありましたが、城を捨て、王子の位を捨てて山に入り、修行をされて仏様と成られたということです。

最後の
「此等の現証を以て之を信ずべきなり」
との文は、以上論述の結びとして信を勧められるのです。
これらの現証をもって我々凡夫の心のなかに仏界が具わることを信ずべきであるとの懇説であります。

 すなわち、以上、拝したところは観心の法門中、理論的な十界互具に関することであり、仏の真実究竟の義である十界互具の法門を一切衆生に信ぜしめ、そして下種仏法の上から末法の一切衆生に真の仏知見を開かしめんとするところの道程における、大聖人様の大慈大悲による御指南の文であります。