おお!ゴールが見えてきたぞ〜〜。

この痴文のゴミ山の向こうに。

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大石寺信者の物達よ!

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おいおい、「物」かよ〜〜。

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己の御本仏日蓮大聖人が明確に繰り替えし書き残された「法華誹謗は亡国・無間地獄」の根本中の根本教義を無視し、逆に御書に一片も無き大石寺の御本尊誹謗教義をどうして信じられるのだ?

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は〜〜〜〜?

まず、▼「己の御本仏日蓮大聖人が」。。。。←意味不明です〜〜〜。

次、

● 日蓮正宗における「大聖人御真筆御本尊」に対する姿勢を説示する

● 末法の「法華経」とは何か

これ程、明快にお示しなのに、それが見えない駄犬の頑迷さに逆に驚くぜ。

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晴天に太陽が見えず、暗闇に化け物が見え、太陽に眼を閉ざし、化け物を信じる境涯である。

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これも、当方などを真似して、カッコつけてるけど、ちょっと、意味不明です〜〜〜。

それよっか、駄犬こそ、↓これです〜〜〜。

■ 癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より外の別の日やましますらん。山を隔(へだ)て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提(いっせんだい)の人としるべし。生き盲にことならず。(報恩抄 建治二年七月二一日 五五歳 1001)

この御文はまさに、駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」のような、愚悪な者を痛烈に呵責せられている箇所なので、少し詳しく見ていきましょう。

愚かな者、道理に暝い者は、疑い深く邪心をもって執拗に訊いて来る。

「我々は南の空しか見ていない。その南の空には確かに「太陽」は一つだが、しかし、見ていない東西北の空にだって、「太陽」以外の別の「太陽」に匹敵する「日」があるのではないか?」

あるいは、

「山の向こう側から煙が昇るのを見て、「確かに煙は確認できるがしかし、現地に行って直にその元の「火」を見ない限りは、その煙が「火」から出ている、ということは信じない。」

このように言う者どもは一闡提人である。

→一闡提=仏の正法を信ぜず、誹謗をし、また、誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者のこと。(中略)今、末法においては、日蓮大聖人からの正統・正系の仏法相伝である日蓮正宗を信ぜず、誹謗をし、正統な御本尊を拝めない者。堕地獄の衆をさす。

まさに生き盲である。→つまり、道理が全く見えない者との意。


これ、まさに駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」そのままの姿である。



更に、↓これです〜〜。

■ 所詮仏教に依って邪見を起こす。目の転ずる者、大山転ずと欲(おも)ふ。(寺泊御書 文永八年一〇月二二日 五〇歳 484)

末法の法華経=三大秘法→一大秘法=戒壇の大御本尊  という、文証・理証・現証 が現然であるのに、それが己の過去謗法の悪因縁深くして、全く見えぬ。
自分が邪妄できりきり舞いして、不動の仏法の真理が見えず、かえってその不動の真理が、グルグル回って見える。

駄犬の姿です〜〜。

謗法で きりきり舞して 山回り   惨め〜〜。