うわ〜〜〜、もう、たまらん!
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*質問>世界広宣流布は、どうするのですか?

広宣流布とは、大謗法を含む教えを世界中に広める事ではなく、謗法の無い信心を一人にでも広めることです。
謗法の無い信心による大功徳を証明することが、広宣流布です。
インターネットによって、世界中に正しく広める事が可能となりました。

<文証>
■法華経第四に云く「我が滅度の後に能く竊に一人の為にも法華経を説かん、当に知るべし是の人は則ち如来の使なり乃至如来則ち衣を以て之れを覆い給うべし」■


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● こりゃ、心底、ダメだわ。

大聖人様の広宣流布の定義

■ 戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、
霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。
時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり。(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1595)

■  日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、
富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。
時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬 九月 日 日蓮花押  血脈の次第 日蓮日興 (日蓮一期弘法付嘱書 弘安五年九月 六一歳 1675)

■ 下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり。(百六箇抄 弘安三年一月一一日 五九歳 1699)



● 広宣流布が成就した暁には、富士山本門寺の本堂に ■ 此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す
一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。
(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 文永一〇年四月二五日 五二歳 661) と御教示の一幅の御本尊が奉掲安置される。

その御一幅の御本尊こそ、

■ 「一、日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之(こ)れを相伝す、本門寺に懸け奉るべし」(聖典五一九頁)

という、「弘安二年の大御本尊」 である。

さて、駄犬のようなクズ個人信仰者がどう足掻いても、この一幅の 「弘安二年の大御本尊」 を手にいれようもないのである。

駄犬などせいぜいネット販売の模造掛け軸を有り難がって拝んでいるだけで、一体、何をどう広めて広宣流布するというのか。

しかも、全世界広布の暁には、この、「弘安二年の大御本尊」 が、富士山本門寺の本堂に安置されるのであり、その、「弘安二年の大御本尊」 を否定し誹謗している駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」こそ、大謗法者である。

駄犬が何をどうしようが、、「弘安二年の大御本尊」 と全く無縁であるから、大聖人様の仰せの「広宣流布」と全く関係がない。

ただのゴミ・カス・クズ。
謗法の虫けらが醜く蠢いているだけの事である。

自分のその大謗法の身の程を思い知るべきであろう。
自分のその謗法の醜面をよくよく見るといい。