おお!、文証つきページがある!
素晴らしい!

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*質問>個人信仰者は、御本尊をどこから入手すればいいのですか?

ネット上の販売店などから購入できます。
謗法への供養とならぬよう、できるだけ邪宗の利益とならない所を選びましょう。


*質問>謗法と関係している販売店からの購入は、謗法になりませんか?

謗法と全く関係していない販売店がない以上、仕方の無い事です。
大聖人は、許される謗法もあることを教えられています。

<文証>
■浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし■

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やっぱ、ぎゃはははは〜〜〜。

この程度だと思ったよ。

ほんと、馬鹿じゃないの?やっぱ。

この御書は、よく拝すると、
邪教を信仰し法華経を誹謗している者(門外)に対しての心構えと対応を御指南された個所と
同門の信仰者(門内)に対しての心構えと対応を御指南された個所とが、少々分かりにくく織り交ぜて説かれているのである。

それは、同じ佐渡に住む、一谷(いちのさわ)入道についての事と関連していると拝察され、同門の信仰姿勢と、それに対応された大聖人様が、大変細やかな気遣いを以って、阿仏房尼御前に御指南されていると拝される御書だからである。

で、駄犬が引用した個所は、同門の信徒に対する心構え、対応の仕方の個所である。

ネット販売店(門外)にどうやって、「我よりゆるして功徳を得さす」ことが出来るのか?呵々大笑!
事実、駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」は自分が買ったその販売店を教導して信心させているのか?呵々大笑!
(だったらその販売店を教えて証明してね。((駄犬に合わせて与えて言えば)十界曼荼羅以外を販売していたら、一発でアウトだもんね。)


次に、その「浅き罪」と「重きあやまち」とは 何を基準に、誰が、どうやって判断するのか?
それも明確に文証で例示せよ。

それが論理明晰に回答できなければ、結局ダメだね。
これじゃ、全然ダメ!
こんな引文の仕方では、落第だね。
やり直し。
このままだと謝罪だね。呵々大笑

謝罪文

「私は、今まで人様にネット販売の模造掛け軸を勧めてきましたが、そもそも、その販売店が謗法なのかどうかの基準すら御書の文証で証明することができませんでした。
大変間違っていました。未熟者でした。これも全て謗法の害毒で頭が蕩けてしまった罰の現証です。
やっぱり、ネットで買った模造掛け軸は捨てます。本当にごめんなさい。
そして、もし、赦して頂けるならば、もう一度、日蓮正宗の信仰を一から真面目にやり直しますので、どうか再入信させてください。
どうか、どうかお願いします。平に平にお詫びいたします。<(_ _)><(_ _)>
本当に皆様に大変なご迷惑をおかけしました。
重ね重ね、心よりお詫び致します。<(_ _)><(_ _)>

ぼちぼち、謝罪する?呵々大笑!


御書全文

0905
  阿仏房尼御前御返事 建治元年九月三日  五四歳 905

 御文(ふみ)に云はく「謗法(ほうぼう)の浅深軽重(せんじんきょうじゅう)に於ては罪報如何(いか)なるや」云云。夫(それ)法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり。然りといへども、信ずる者は成仏をと(遂)ぐ、謗ずる者は無間(むけん)大城に堕(お)つ。「若し人信ぜずして斯(こ)の経を毀謗(きぼう)せば即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄(あびごく)に入らん」とは是なり。謗法の者にも浅深軽重の異(こと)なりあり。法華経を持(たも)ち信ずれども、誠に色心相応の信者、能持此経(のうじしきょう)の行者はまれなり。此等の人は介爾(けに)ばかりの謗法はあれども、深重の罪を受くる事はなし。信心はつよく、謗法はよはき故なり。大水を以て小水をけ(消)すが如し。涅槃経に云はく「若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)し挙処(こしょ)せずんば、当に知るべし是の人は仏法の中の怨(あだ)なり。若し能(よ)く駈遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子真の声聞なり」云云。此の経文にせめられ奉りて、日蓮は種々の大難に値ふといへども、仏法中怨のいまし(誡)めを免(まぬか)れんために申すなり。
 但し謗法に至って浅深あるべし。偽(いつわ)り愚かにしてせめざる時もあるべし。真言・天台宗等は法華誹謗の者、いたう呵責すべし。然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。然る間、ま(先)づまづさ(差)しを(置)く事あるなり。立正安国論の如し。いふといはざる(不言)との重罪免(まぬか)れ難し。云ひて罪のまぬがるべきを、見ながら聞きながら置いていまし(禁)めざる事、眼耳の二徳忽(たちま)ちに破れて大無慈悲なり。章安の云はく「慈無くして詐(いつわ)り親しむは即ち是(これ)彼が怨なり」等云云。重罪消滅しがたし。弥(いよいよ)利益の心尤(もっと)も然るべきなり。軽罪の者をばせむる時もあるべし。又せめずしてを(置)くも候べし。自然になを(直)る辺あるべし。せめて自他の罪を脱(まぬか)れて、さてゆる(免)すべし。其の故は一向謗法になれば、まさ(勝)れる大重罪を受くるなり。「彼が為に悪を除くは即ち是(これ)彼が親なり」とは是なり。日蓮が弟子檀那の中にも多く此くの如き事共候。さだめて尼御前もきこしめして候らん。一谷(いちのさわ)の入道の事、日蓮が檀那と内には候へども外は念仏者にて候ぞ。後生はいかんとすべき。然れども法華経十巻渡して候ひしなり。
 弥信心をはげみ給ふべし。仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにく(憎)むべし。よし、にくまばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし。如説修行の人とは是なり。法華経に云はく「恐畏(くい)の世に於て能(よ)く須臾(しゅゆ)も説く」云云。悪世末法の時、三毒強盛の悪人等集まりて候時、正法を暫時(ざんじ)も信じ持ちたらん者をば天人供養あるべしと云ふ経文なり。
 此の度大願を立て、後生を願はせ給へ。少しも謗法不信のとが(失)候はヾ、無間(むけん)大城疑ひなかるべし。譬へば海上を船にのるに、船をろ(粗)そかにあらざれども、あか(水)入りぬれば、必ず船中の人々一時に死するなり。なはて(畷)堅固なれども、蟻(あり)の穴あれば必ず終(つい)に湛(たた)へたる水のたま(溜)らざるが如し。謗法不信のあかをとり、信心のなはてをかた(固)むべきなり。浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし。尼御前の御身として謗法の罪の浅深軽重の義をと(問)はせ給ふ事、まことにありがたき女人にておはすなり。竜女にあに(豈)をと(劣)るべきや。「我大乗の教を闡(ひら)いて苦の衆生を度脱せん」とは是なり。「其の義趣を問ふは是れ則ち難しとす」と云ひて法華経の義理を問ふ人はかた(難)しと説かれて候。相構へて相構へて、力あらん程は謗法をばせめさせ給ふべし。日蓮が義を助け給ふ事、不思議に覚え候ぞ、不思議に覚え候ぞ。穴賢穴賢。
    九月三日                日  蓮 花押
阿仏房尼御前御返事