■ 本抄の御述作は、

● 文永元年(一二六四年)とも

● 文永九年(一二七二年)とも、また

● 弘安五年(一二八二年)の説もある。

しかし、「木絵の二像」 について述べられるのは、弘安五年はあまりに時代が下り過ぎている感がする。

「文永元年」 と 「文永九年」 の説は多くとられているが、

「文永七年」(一二七〇年)ごろ、釈迦仏像造立に関しての御書があり、このころ仏像についての質問が大聖人のところにきていたことも考えられ、
もしそうした質問への返事の草案として本抄がまとめられ、したためられたとすれば、

「文永九年」 ごろの御述作と考えられる。

本抄は御手紙の体裁になっていない。
したがって、こうした質問一般に対する返事の草案として、準備されたものと考えられる。
ただ、これは推定であって、

「文永元年」 説を否定するものではない。

(『日蓮大聖人御書講義』第六巻下 昭和56年11月18日発行)

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■ 御書研究も進歩する。

堀上人は従来の縮刷遺文の通り 「文永元年」 に系けるが

「昭和定本」で 「文永10年或は文永元年(縮)」、

「昭和新定」では「文永十年」、

「平成校定及び平成新編」で 「文永九年」。

系年決定は直接には藤本総監を委員長とする御書系年対告衆検討委員会であり監修は日顕上人。(いずれも編纂当時)
真蹟は身延の大火で焼失しているから内容で決める。
系年変更の詳細は発表されていない。



「草木成仏口決」(文永九年)に「草木成仏」の用語初出。

「木絵二像開眼の事」(文永九年)、

「曾谷入道殿許御書」(文永一二年)、

となる。


「草木成仏口決」以前には 「習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門」 は理解できまい。

「木絵二像」は「木画二像」として「観心本尊抄」、「本尊問答抄」に解説される。


本尊問答抄に

■ 然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし

ここでも真言での開眼供養を批判なさっているが本尊の説明として「本尊とは勝れたるを用べし」の解説だ。
木像画像の開眼供養を真言でなしても末法の本尊とはなるまい。


31世日因上人(妙喜寺文書)

■ 木絵の二像は本と草木にて有り然るを生身の妙覚の仏と開眼したまふ事は大事至極の秘曲なり
日蓮聖人乃至日因に至る迄三十一代累も乱れず相伝是れなり


「木絵二像」とは「曼荼羅本尊」であり「開眼」は 大聖人以来の作法だ