■ 草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 文永一〇年四月二五日 五二歳 645)

この御文も、一義には開眼の義をお示しと拝する。

木画の像 は 草木で出来ている。 その草木に 生身の仏 となる 因 と 果 を 「置かなければ」
その木画の像を 「本尊」 として尊仰することは無意味である。  本尊として機能しない。 成立していない。   という義。

この 「草木に 生身の仏 となる 因 と 果 を 「置く」」 行為 → 開眼の義 

この 「木絵の像」 とは 十界文字曼荼羅

■ 此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶(なお)文殊薬王等にも之を付属したまはず、何(いか)に況(いわ)んや其の已外(いげ)をや。但(ただ)地涌千界を召して八品を説いて之を付属したまふ。其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空(くう)に居(こ)し、塔中(たっちゅう)の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士(きょうじ)上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属(けんぞく)として末座に居し、迹化(しゃっけ)・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処(しょ)して雲閣月卿(うんかくげっけい)を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。是くの如き本尊は在世五十余年に之(これ)無し、八年の間但八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為(な)し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画(えが)けども未(いま)だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 文永一〇年四月二五日 五二歳 654)

本門の肝心 = 南無妙法蓮華経の五字 = 十界文字曼荼羅 = 寿量の仏 = 仏像 

木絵の像 = 仏像 = 十界文字曼荼羅