参照 駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」完全粉砕・反論不能の一覧表

クズ犬曰く
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■人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども 人をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありされば意が声とあらはる意は心法・声は色法・心より色をあらはす、又声 を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、され ば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり■

見えない「心」が、聞こえる「声」となって表れる場合がある。
認識できる他者の「声」を聞いて、認識できなかった他者の「心」を知ることができる。
この『色心不二』の法理によって「仏の心が法華経の文字」になったのであり「南無妙法蓮華経の文字が仏の心」なのだ!
大聖人の仏法の極理とは、この色心不二の法理のことであり、南無妙法蓮華経の『文字』それ自体のことなのだ!

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● ぶわはっはっはっははっはh〜〜〜!

いよいよ、精神病棟で精神病患者が意味不明な妄想を喚いている図、だな。

■ 人の声を出だすに二つあり。
一には自身は存ぜざれども、人をたぶらかさむがために声をいだす、是は随他意(ずいたい)の声。
自身の思ひを声にあらはす事あり、されば意が声とあらはる。
意は心法、声は色法。
心より色をあらはす。
又声を聞いて心を知る。
色法が心法を顕はすなり。
色心不二なるが故に而二(にに)とあらはれて、仏の御意(みこころ)あらはれて法華の文字となれり。
文字変じて又仏の御意となる。
されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思(おぼ)し食(め)す事なかれ。
すなはち仏の御意なり。

元意の辺を取り、意訳中心に拝させていただく。

● 衆生の機根や求めに従って説いた随他意の経、爾前・権教は、釈尊在世及び正法・像法時代までは有益な機根・時期もあったが、今末法となっては、仏法の正邪が見極めがたくなる経典郡である。
仏の悟りそのものを声にして説法された随自意の経もある。これが法華経である。
これは、仏の真意がそのまま声として現れている。

色心で言えば、意とは心法 声は色法。
心法である心から、色法である声を顕わす。
また、色法である声を聞いて、心法である心を知ることができる。

色法と心法は、二にして二に非ず、而して二 という原理であるから、仏の御意が顕われて、法華経の声=文字となっている。
また逆に、法華経の文字はただの文字ではなく、仏の御意である。

であるから、法華経を読誦する人は、ただの文字だと思ってはいけない。
法華経の文字はそのまま仏の御意である。

上記御文は以上の訳であり、この箇所だけで言えば

どこにも、


この『色心不二』の法理によって「仏の心が法華経の文字」になったのであり「南無妙法蓮華経の文字が仏の心」なのだ!
大聖人の仏法の極理とは、この色心不二の法理のことであり、南無妙法蓮華経の『文字』それ自体のことなのだ!


などという 文・義 はない。

クズ犬は以後に文証を引いて自見を正当化しようとしているが、法門の筋目が違うのである。(次回に詳細に破折する)

上記の御文は、あくまで、「法華経」と「仏」に関して色心不二の関係を述べられたところであり、「南無妙法蓮華経」の文義など教相にはどこにもない。

そもそも、この「木絵二像開眼の事」全編に亘って「南無妙法蓮華経」とは一言もお説きではない。


そこへクズ犬はいきなり何の脈絡もなく、唐突に


この『色心不二』の法理によって「仏の心が法華経の文字」になったのであり「南無妙法蓮華経の文字が仏の心」なのだ!
大聖人の仏法の極理とは、この色心不二の法理のことであり、南無妙法蓮華経の『文字』それ自体のことなのだ!
 

このように狂人のごとくに喚いているのである。

「法華経」と「仏」の「色心不二の原理」をお説きの文脈に、クズ犬は、自見をごり押ししたいがために、この御書の文上・教相には全く存在しない「南無妙法蓮華経」を強引に挿入してきて、ねじ込んで喚くのである。

教相では釈尊の法華経を論じているところへ、いきなり文底下種の南無妙法蓮華経を乱入させて、論旨の筋道を違えて、自見を正当化する。

これを 「乱引 妄引 盲引 」そして 強引 と呼ぶ。呵々大笑!


粛々と国技館で相撲の試合をしているところへ、いきなり 江頭2:50が乱入したような有様である。  呵々大笑。

あちょ〜〜〜!ってか? 

唐突に 自見をねじ込む 狂い人