参照 駄犬「考える人←実は「何も考えられない人」完全粉砕・反論不能の一覧表


さあ、さあ、今、金沢〜〜〜

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さらに文証を出そう。
■此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり■

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● お!いいじゃん!

ここも、同じ。

■ 今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。(上野殿御返事 弘安元年四月一日 五七歳 1219)

さ、駄犬どうする? 法華経もせん(詮)なし。 なんだって!

■ 此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。

なのに、「法華経は詮なし。」無力・効力無し、と。

さあ、クズ犬、上記の両文を矛盾無く会通してみ?

まっ、駄犬などに答えなど到底出るはずもないので、詰問してもつまんないから、ここを深く考えていきましょうか。

小学生に、微分・積分を問うても、 『詮なし』 だもんね。呵々大笑!

だから、クズ犬はお外のお砂場で一人で遊んでおればよろしい。これからの内容を理解するのは無理だからね。

では、正常な思考の皆様、いきましょうか。

当該箇所一段

■ 草木世間と申すは五色のゑのぐ(絵具)は草木なり。
画像これより起こる。
木と申すは木像是より出来す。
此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。
天台大師のさとりなり。
此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。
(四条金吾釈迦仏供養事 建治二年七月一五日 五五歳 993)

■ 此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は「法華経」の力なり。

この「法華経」とは

■ 今、末法に入りぬれば余経も「法華経」もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。(上野殿御返事 弘安元年四月一日 五七歳 1219)

の御文から、当然、「釈尊の法華経」ではない。

但、「南無妙法蓮華経」 なのである。
そしてこの「南無妙法蓮華経」はまた、

 法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。秘すべし秘すべし。(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1595)

との御文から、但の題目としての「南無妙法蓮華経」ではなく、三大秘法 である。

■ 三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如(し)かず。(三大秘法稟承事 弘安五年四月八日 六一歳 1594)

の御文から、三大秘法即日蓮大聖人 である。

それは、

■ 伝教大師云はく「一念三千即自受用身(じじゅゆうしん)、自受用身とは出尊形の仏なり」文。此の故に末曽有(みぞう)の大曼荼羅とは名付け奉るなり。(日女御前御返事 弘安二年八月二三日 五八歳 1388)

との御文からも証明される。

そして、本門の戒壇、本門の題目は 本門の本尊に究竟されるが故に、三大秘法→一大秘法 である。

ここをまとめると、

A「法華経=末法の法華経=三大秘法=一大秘法(大曼荼羅御本尊=戒壇の大御本尊)=仏(末法の御本仏)=日蓮大聖人」  となる。

そこで、当該文に戻る。

■ 此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。

注意深く読むと、これまさに「開眼供養の義」そのままなのである。


会通 その1

紙・絵の具・墨・板・植物・など、草木・非情でできた本尊と成すべき物質に、仏の魂魄という神(たましい)を入れることは、法華経 の力 である。

この 「法華経」 に A の結論を代入すると、


会通 その2

紙・絵の具・墨・板・植物・など草木・非情でできた本尊と成すべき物質に、仏の魂魄という神(たましい)を入れることは、「日蓮大聖人」 の力 
である。


となるのである。

つまり、日蓮大聖人が能動的に、紙・絵の具・墨・板・植物・など草木・非情でできた本尊と成すべき物質に、仏の魂魄という神(たましい)を入れる行為が
「開眼供養」
なのである。

それで初めて「紙・絵の具・墨・板・植物・など草木・非情でできた本尊と成すべき物質」は「草木成仏」し、「生身の仏」となり、衆生を教化する「本尊」と成り得るのである。

この義は以下の御文の義とも

■ 日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。(経王殿御返事 文永一〇年八月一五日 五二歳 684)

寸分違わずピシャッと符合するのである。

その原理は、その次に続く、

■ 此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。


この御文でも、確認することができる。

即身成仏 とは、どのようにするのか?

自分の「前」に、「法華経二十八品(末法では詮無い(= しかたがない。かいがない。無益だ。 )」をただ、置いただけで「即身成仏」するのか?
そんなバカなことはあり得ない。

大聖人の魂魄がこもった十界文字曼荼羅御本尊に、至心に「南無妙法蓮華経」と唱題して、(他へも折伏行を成して)=信力・行力、
仏の命である御本尊と我ら衆生が境智冥合して、我が身に仏界を開き(=仏力・法力)、即身成仏する。


● 即身成仏

仏(御本尊) ← 信力・行力 ← 衆生
仏(御本尊) → 仏力・法力 → 衆生    即身成仏

「主体者」 → 「動作・行動」 → 「結果」  という方程式である。


● 草木成仏  (非情は自発的、能動的な行動が起こせない。)

同じ成仏の方程式として、

「主体者」 → 「動作・行動」 → 「結果」

仏 → 仏の魂魄という神(たましい)を入れる → 草木   草木成仏

という原理となる。


もし、クズ犬の主張とすれば、

  法華経二十八品(末法では詮無い(= しかたがない。かいがない。無益だ。 )を  木絵二像の前に  ただ置けば 草木成仏 して 生身の仏 になってしまう。

ということになる。
この法華経二十八品は誰が置いてもいいんであろう。誰か限定はあるのか?

すると、ツイで誰かが言っていたように、

熊の彫り物の前に、禅宗の坊さんでも誰でもいい、麻薬中毒患者でも、殺人犯でも、はな垂れ小僧でも何でもOK!が、法華経二十八品を持ってきて、ポンと置く。
これも、角川文庫なんかでも良いかも知れない。

すると、あ〜〜〜ら不思議!
その熊の彫り物は、な、なんと!「生身の仏」となってしまうんです〜〜〜!

ですよね? どっか違っている?

違ってたら教えてね? 


さ、クズ犬、ここまで愚弄されたからには、反論できるよな〜〜〜?  
     

彫り熊が 仏になっちゃう  駄犬説    ぶわはっはっはっっはh〜〜〜!