開眼に対する疑難を破す
 
重複した内容になるがご了承いただきたい。
 
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T 総本山大石寺とその末寺という本末関係が根本に於いて存在するところに、御法主上人の許認可の下に行われることであれば、何ら問題はないのである。
 
■大切なのは、いかに方法等に変化があっても、一貫して総本山の血脈法主の指示乃至、許可によるところの本寺と末寺の関係が厳として存在したということであり、この中心の在り方には絶対に変化がない。(第67世日顕上人『偽造本尊義を破す』31頁・H9.10)

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松岡雄茂の邪智極まる十項目の誑言を破す

4 法主による本尊の開眼と許可について≠破す
 
日顕上人御指南

■「以前に法道院より各末寺が送付を受けた御形木御本尊について「開眼がない」と推測しているのですけれども、当時の法道院主管の早瀬道応師、のちの日慈上人は、総本山の法主の許可によって、当時の形においてお取り次ぎをしていたのです。故に総本山の正しい化儀に、なんら反していないのであります。」(創価学会の偽造本尊義を破す六二頁)
 
とあるように、ここで仰せの意味は、以前、法道院では、当時の日達上人の御命によって法道院主管であった観妙院日慈上人が御形木御本尊のお取り次ぎをなされ、全国の寺院に送付していたことについて、これは正式に御法主上人の允可のもとで行われ、総本山において御法主上人の御祈念によって開眼がなされていたのであるから、なんら総本山の正しい化儀に反してはいない、との御指南なのである。しかもこの御指南は

▼法道院から下附されていた御形木御本尊には開眼がない

との疑難に対して破折された箇所であり、むしろ開眼があったことについての御指南なのである。したがって一連の御指南において、

▼形木本尊には開眼の必要がない

などとはまったくいわれておらず、汝の歪んだ先入観による臆断であると言わざるを得ない。
 
 また

▼法主が直接祈念するわけでもなく、不特定多数の形木本尊に漠然と許可を与えるだけで、なぜ、すべての形木本尊に「法魂」が宿るのですか

などとは、またまた汝の事実誤認である。日顕上人が仰せのように、御形木御本尊の御開眼は丑寅勤行において厳然となされているのであり、

▼許可のみで法魂が宿る
 
などとは汝の臆測による愚問である。

 いっておくが、御法主上人による開眼の御祈念は、汝のような謗法者の想像に及ぶものではない。
日應上人が、

■「此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり此金口嫡々相承を受けざれは決して本尊の書写をなすこと能はず(弁惑観心抄二一二頁)

■「金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり(『法の道』・研教二七―四七四頁)

と仰せのように、御法主上人による開眼とは「唯授一人金口嫡々相承」「極意の相伝」を御所持なされるお立場からの崇高なる御境界においてなされるものなのである。
しかるにその内容に関しては、血脈相承をお受けなされた御法主上人のみ知るところであり、余人が知る必要もなく、また知ることはできないのである。
 また付言すれば、先述のごとく、過去の法道院における御形木御本尊の下附は、法道院が独自に行っていたものではないのである。
当時、印刷技術等の問題を含め、種々の状況を鑑みられた総本山第六十六世日達上人の御命によりなされたものであり、御本尊の一切の権能を御所持される御法主上人の允可のもとで行われ、その上で丑寅勤行の折に開眼の御祈念をなされ、さらに各末寺において丁重に御宝前にお供えをしてから下付されていたのである。

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創価学会の邪説―――――――――――――――――――――――――――――――――――+

破折A 御本尊の開眼は? 必要なし

日顕宗は、「法主による御本尊の開眼がないから功徳がない」と言っているが、過去に法主が御形木御本尊を開眼したという事実はむしろ少ない。
昭和50年代まで宗門の御形木御本尊を一手に印刷し、全国の末寺に発送してきた東京・法道院でも一切開眼されていない。
また御書にも、開眼しないと御本尊に功徳がないという御文はどこにもない。
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【創価学会に対する破折】

本尊の開眼は金口相承、極意の相伝による

 学会では「御本尊の開眼は必要なし」と声高に主張していますが、
 
総本山第二十二世日俊上人は、
 
■「開眼と云うは、眼を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益も無く用も無し」
 
と、開眼の意義と必要性をご指南されています。

 日蓮大聖人は
『本尊問答抄』に
■「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」
 
と説かれ、
『四条金吾釈迦仏供養事』には
■「此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり(中略)此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」
と説いて、開眼にかかわる甚深の意義をご教示されています。

 第二十六世日寛上人の
『観心本尊抄文段』には
■「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。(中略)当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云」
 
とあり、草木成仏は一念三千の仏種によること、そして御本尊の全体も一念三千の仏種の開眼によってはじめて生身の仏となる旨を明確にご指南されています。

 さらに、第三十一世日因上人は、御消息に
■「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十
一代累も乱れず相伝是れ也」
と仰せられ、
 
また、第五十六世日応上人は
■「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」
と説かれているように、本宗における御本尊の開眼は、唯授一人の「極意の相伝」によることが明らかです。
【文 証】

『本尊問答抄』
    「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(新編一二七五n)

『四条金吾釈迦仏供養事』
    「此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。(中略)此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」(新編九九三n)

『本門如来寿量品廿三座』日俊上人
    「開眼と云うは、眼を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益も無く用も無し」(歴全三―三n)

『観心本尊抄文段』日寛上人
    「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。(中略)当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云」(文段集四七〇n)

『日因上人御消息』
    「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」

『法之道』日応上人
    「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教二七―四七四n)

   
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創価学会の邪説―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
 
破折B 本山からの下付は? 必要なし

日顕宗は、「本山から下付されていない御本尊だから功徳がない」と言っているが、本山を通さず末寺で直接印刷・下付された御本尊は数多い。有力末寺では有縁の法主の御本尊を形木にして授与していた。
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【創価学会に対する破折】

末寺での本尊下付は法主の許可による総本山の代行

  本宗の御本尊は、すべて御法主上人のご書写によるものであり、総本山から下付されます。
 これは、本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承を根本とする本宗の教義信仰からいって当然のことです。
日蓮正宗という和合僧団は、この大御本尊と唯授一人の血脈という、ご本仏日蓮大聖人の仏法の一切が厳然とまします富士大石寺を総本山と仰ぎ、そこを中心として師弟相対にのっとった正しい末寺と僧侶、さらに清浄にして正統な信徒によって形成されています。

 ここに一貫して流れるものこそ、大御本尊と血脈相承を根本とした師弟相対の信仰であり、信心の血脈なのです。
まさしく日興上人が仰せられた、
■「この法門は師弟子をたゞして、仏になる法門にて候なり」(歴全一―一八二n)

のご教示をそのまま実践している真の和合僧団、それが日蓮正宗です。
この日蓮正宗の総本山につらなる末寺は、戒壇の大御本尊のお写しをご安置申し上げ、御法主上人の御意を体し、総本山の出城として、一切の宗教活動をおこなうために設けられた信心修行の道場なのです。

 したがって、総本山の意を受けて運営される末寺において、御本尊のお取り扱いは、古来もっとも重大なことであり、御形木御本尊に関しても本山を通さずに直接印刷・下付≠キることはありません。
かつて一時期、宗門においては種々の事情によって、末寺で印刷された御形木御本尊を直接信徒に下付したこともありましたが、これは総本山の許可、すなわち御法主上人の允可を受けておこなわれてきたことであり、師弟相対の筋目に基づいた正当な行為です。

 末寺における印刷・下付という表面的な姿のみをとり上げて、総本山を通していない≠ネどという見方は、日蓮正宗本来の、総本山と末寺のつながりにかかわる、深い意義を知らない部外者の勝手な憶測にすぎず、浅見というべきです。

 宗門が、創価学会発行の本尊を『ニセ本尊』と断定する理由の一つとして、「総本山から下付されたものでない」ことを挙げていますが、これは単に「総本山から直接下付された本尊ではない」という意味ではありません。
それは『ニセ本尊』が、師弟相対の筋目も信心の血脈もない謗法集団の手によって、総本山を無視し、御法主上人の御意に反逆して勝手に印刷された物という理由によるのです。
 
【文 証】

『日蓮正宗教師必携』
    「寺院・教会は仏祖三宝の所有であり、住職・主管または檀信徒のものではない。すなわち、 住職・主管は、法主上人の命を受けて寺院・教会を管理し、寺務を執行するのである」(一n)

『日達上人全集』
    「小さいながらも初めてここに立派なお寺が建立せられたのでございます。また、ご本山に安置し奉るところの弘安二年の末法総与の戒壇の大御本尊のお写しがここに安置し奉っておるのであります」(二―七―三〇四n)

『日顕上人お言葉』
    「日蓮正宗の末寺は、大聖人様の仏法を根本とし、その地方その地方の信仰の中心道場として、宗門の化儀、化法を護り伝えるところに、その意義があるのであります。故に日蓮大聖人の仏法においては、根本的なところでその化儀・化法が確立されてこそはじめて、末法万年にわたって正しく伝わっていくということを深く考えることが、大事であります」(大日蓮 昭和五六年二月号五四n)

『日顕上人御講義』
    「大切なのは、いかに方法等に変化があっても、一貫して総本山の血脈法主の指示乃至、許可によるところの本寺と末寺の関係が厳として存在したということであり、この中心の在り方には絶対に変化がない。また、その上からの御形木下附であります」(偽造本尊義を破す三一n)

 
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創価学会の邪説―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
◆「本山ですべて開眼」は真っ赤なウソ

日顕および日顕宗は「すべて御本尊は本山で開眼してきた」とヌケヌケと語っているが、これは次のように真っ赤なウソである。
 
@戦後〜昭和50年代

末寺で一括印刷、そのまま全国へ発送

宗門の御形木御本尊の印刷等は、すべて東京の法道院という末寺で行われ、末寺の注文に応じて全国に発送されていた。ここでは印刷後、表装、箱詰めされて発送されるまでの間、本山にも運ばれることなく、もちろん法主による開眼も一切されていなかった。
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【創価学会に対する破折】

末寺での御形木印刷は総本山のお取り次ぎ

 創価学会は、「御形木御本尊の印刷等はすべて東京の法道院という末寺で行われ……」と非難していますが、この件に関して日顕上人は、
  
■ 「以前に法道院より各末寺が送付を受けた御形木御本尊について『開眼がない』と推測しているのですけれども、当時の法道院主管の早瀬道応師、のちの日慈上人は、総本山の法主の許可によって、当時の形においてお取り次ぎをしていたのです。故に総本山の正しい化儀に、なんら反していないのであります」(偽造本尊義を破す六二n)

とご指南されています。

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創価学会の邪説―――――――――――――――――――――――――――――――――――+
A昭和54年以降

本山移管以後も御形木御本尊の開眼なし本山内事部に御本尊を担当する部署が設置され、業務が本山に移管されてからも、勤めていた僧侶によれば、「御形木御本尊の場合、表装の前にも後にも、法主・日顕が祈念などすることなどなく、末寺に発送していた」
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【創価学会に対する破折】

信用できない離脱僧のよた話

 これも事実とは異なった、離脱僧による悪質な作り話です。
 
【文 証】

『日顕上人御講義』

    「師僧背逆の離脱謗法僧どもが『御本尊の祈念を、我々が見たことがないから、そういうことはなかった』などと言っておるようですが、法主自らの権限事項をそんな小僧どもに教える必要もない。私は今も所化・小僧に対して『今日はこうこうで、こういうことをしているんだ』などということを、ひとことも言ったことはありません。だから、あの離脱僧どもは何も知らないでいたわけです。それで今になって、『開眼はなかった』などと創価学会の者どもに言ったりしているらしいけれども、そんなものは問題になりません。あるいは、創価学会に習った虚偽策謀の言とも言えましょう」(偽造本尊義を破す五九n)

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T 総本山大石寺とその末寺という本末関係が根本に於いて存在するところに、御法主上人の許認可の下に行われることであれば、何ら問題はないのである。

■大切なのは、いかに方法等に変化があっても、一貫して総本山の血脈法主の指示乃至、許可によるところの本寺と末寺の関係が厳として存在したということであり、この中心の在り方には絶対に変化がない。(第67世日顕上人『偽造本尊義を破す』31頁・H9.10)
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U 「開眼」の義に関する深い御指南

@開眼の義に於いての時間的空間的迷妄を破す。

■総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。(第67世日顕上人『創価学会の偽造本尊義を破す』59頁)。
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ここで仰せの開眼の意義は、大聖人の御内証たる唯授一人・血脈相承の御境界よりなされる開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わることを仰せになられているのである。
つまり、客殿の御宝前に一切の御本尊がお供えされていなくとも、「開眼」の義は成り立つのである。
その原理の一端を以下の御文に依っても窺い知る事ができる。

■題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし(『御講聞書』)

■一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし。

■「当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」

■円頓の行者は自行と化他と一法をも漏らさず一念に具足して、横に十方法界に遍するが故に弘なり。竪には三世に亘って法性の淵底を極むるが故に深なり。此の経の自行の力用此くの如し。
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A御法主上人の命により御名代である末寺の御住職にも開眼の儀は成し得る。

■但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ(『真間釈迦仏御供養逐状』)

→大聖人は、御弟子(御僧侶)に命じて開眼を為さしめておられた。
師の命によって行うところに、その弟子分であられる御住職に血脈が流れ通い、開眼の意義が生まれるのである。
しかしまた、開眼の根本的意義は御法主上人による本山における祈念にあることは上記の御指南において明白である。

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補足

■ 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何。師の曰く、深秘なり、代々の聖人悉く日蓮と申す意なり。(御本尊七箇之相承)

↑このまま素直に拝すれば、御歴代上人(の御内証)は、日蓮大聖人である。ということですね。

■     真間釈迦仏御供養逐状   文永七年九月二六日  四九歳
但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。

↑これは、(迹仏への執着がある機類への一往方便の意義ではあるが、)開眼供養を弟子の伊予房へ代参させておられる。

大聖人→伊予房
  師 →弟子
御法主上人→末寺御住職

全く同じ関係性であり、
「総本山大石寺とその末寺という本末関係が根本に於いて存在するところに、御法主上人の許認可の下に行われることであれば、何ら問題はないのである。」
その主張に全く遺漏はない。
もし、「問題がある」というのなら、正当で的確な文証をあげて反論してみてください。