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総本山第五十九世日亨上人の見解

『富士日興上人詳伝』から

1,邪難「大聖人は戒壇の大御本尊を建立されなかった」
に対しての日亨上人の見解

■ 大聖人は、興上弘教の熱誠を賞し、その功績の重大なるにともないて、法難の熾烈なるは、実に末法怨敵の当鉾(とうむ=※私註・鉾先がまさに大聖人門下に向かった)なりといえども、これまったく日蓮出世の本懐満足の画期として、これを記念するために、弘安二年十月十二日に、本門戒壇の大御本尊を興上に親付し、万年広布流溢(りゅいつ)の時、大戒壇に安置すべく堅牢の楠板に書写せられたり。(聖教文庫 富士日興上人詳伝 上 160)

↑稀代の大学匠であられ、且つ、学者の立場として、宗史の伝記・伝説に対して、時に辛辣な批評と訂正を加えられておられた日亨上人であるが、戒壇の大御本尊御建立の事実に対しては一言の疑義を呈しておられず、このように既定の事実として述べられている。

2,邪難「戒壇の大御本尊は各パーツをつなぎ合わせてパッチワークの様に作った」
に対して日亨上人の調査結果

↓以下は、古来から言われた「御穴」伝説についての調査と御考察である。
少々長いが大変興味深い内容なので紹介させていただく。

■ ここに加上した伝説が、いまから二百年くらい前に、家中抄以後百年後ぐらいに出来(しゅったい)しておる。駿河国駿東郡井出の御穴(おあな)がそれである。身延山が波木井一家を総動員して、大石寺の戒壇本尊を掠奪(りゃくだつ)に来る風聞で、大石では南条一家総がかりで、これを防ぎ止めた云云との文献があるといえる御僧があったから、その事を請求したが見せてくれずに死亡した。(中略)
 日有上人御時代には、身延の波木井家(本家が八戸へ移りしが後)が衰微し、上野の南条家もまたふるわず、たがいに百、二百の軍勢を繰り出すほどの力はない。また波木井家の末孫が興国寺城(駿東郡井出に近し)攻めに加わりて戦死せしことが、身延の過去帳にあるとのことなれば、あるいは前のは(御穴伝説)これと混説したのかもしれぬ。ただし、また御穴のことは、武田信玄時代であるといっておる。井出其の屋敷内に御穴といって信徒が詣る時代があった(明治年中まで)。その御穴に(※戒壇の大御本尊を)隠匿して盗難を防ぐこと長かりしかば、本山では、御身代わりと称して、日有上人代御彫刻の紫宸殿本尊を安置したともいうが、御写の年代も異にして、大聖の授与書もなく、有師より日伝に授与したもので、また、だいぶ小形のものである。
 その幾年かの間に、穴中の湿気のために(※戒壇の大御本尊の)四隅が朽欠したるを、雲形(※精密な寄せ木細工の意)をもって巧みに隠してありともいっており、裏に種々の縁起が彫刻されてあると、真実(まこと)しやかに密告する役僧があったので、自分が貫首代(※時代)に役僧を立ち合わせて密査したのに、以上の伝説は真赤(まっか)な虚説(うそ)であり、全面堅石のごとき楠板で、少しの瑕瑾(きず)もない。これをもって房州系の古記に、建武初年の争いに、大石寺の正御影を持ち出す時、戒壇本尊に手を掛けたが、大石の大衆鎹(かすがい)を打っていたから持ち出せなかったと書いておる。これは例の日我以後の記であるから、信を措(お)けなかったが、これも拝見の序(ついで)に虚説が顕われた。以上の馬鹿気た伝説は、一掃しておいて・・云云
(聖教文庫 富士日興上人詳伝 上 288)

→ここから分ることは、"戒壇の大御本尊は後代の偽作"と謗る輩の説として、"戒壇の大御本尊はパッチワークのように各パーツ、パーツを組み合わせて作った"との荒唐無稽な難癖がある。
が、上記の日亨上人の精密な調査によって、戒壇の大御本尊は、まさに

「全面堅石のごとき楠板で、少しの瑕瑾(きず)もない。」

この事実に、妄想逞しく戒壇の大御本尊を誹謗している輩は何と答えるのか。
自らの過去世からの謗法の悪因縁を恥じ入るがよい。


3,邪難「鎌倉時代は板曼荼羅を造立する慣習はなかった」
に対して日亨上人の調査結果

■ 一般の板曼荼羅の思想は、(※鎌倉時代に)比叡山にもまた(※日蓮)御門下にもいくぶんかあったものとみえ、延山(※身延山)の中蔵に民部向師(※日向)の書写で「日蓮幽霊」云云の脇書ある板本尊があり、云云(同上 290)

→ 御指南の通りに、板曼荼羅思想は比叡山にもあり、
また、日蓮門下で、五老僧であった日向は既に板曼荼羅を造立していたのである。
であるから、「大聖人時代には、板曼荼羅思想はなく、不自然」との邪難は全く通用しない、ということである。


4,「本門戒壇」において、戒壇の大御本尊を論ず

■  小乗戒壇には仏像をおかず、四天王を四隅に立て、三師七証をもって授戒をなす。
 迹門戒壇には釈迦牟尼仏を請して和尚とし、文殊師利菩薩を請して阿闍梨とし、弥勒菩薩を請して教授とす。これが小乗の三師にあたるがゆえに現在の僧は単に伝戒の役をなすのみ。これをもってかんがうれば、本門戒壇にはむろん本門の大曼荼羅を安置すべきことが、とうぜんであるので、未来建立の本門戒壇のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのがいまの本門戒壇大御本尊であり、すなわち、小乗の三師にあたり、円頓の釈迦文殊弥勒にあたり、当時の法主は伝戎の大任を負うのみである。
開山上人は、これを弘安二年に密付せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古か)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついにほ今日のどとき常例となったのは、もったいない事であるから、四十余年前には、有名な某居士が懇願して月一回という事にもなった事があったが、永続しなかった。
 開山上人より三祖日目上人への富士総跡の御譲り状にも「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊」として、戒壇本尊とは書かれなかったのは、大いにこの味わいがある。
また、この御譲り状の初めに、「本門寺建立の時」とあるが、中には、「大石の寺」と名してあるも、当時開運の好機きたらず、一般に期待する大本門寺の建設にいたらざれば、しばらくはばかられたのである。(同上 下 59)


→ 以上の如く明確に、

「未来建立の本門戒壇のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのがいまの本門戒壇大御本尊であり、云云」

と戒壇の大御本尊御建立とその相伝の経緯を結論されている。

戒壇の大御本尊を否定する者どもは、日亨上人が常に冷静・中立に史実を検証し、是は是と認め、非は非と排してきた学者としての永年の研鑽の積み重ねから導き出された結論を否定出来るだけの根拠を提示できるのか?

ただただ戒壇の大御本尊を否定したいがための妄執から、憶測と妄念にかられて邪推しているだけではないか。

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