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「戒壇の大御本尊が本物なら何故「国宝」の認定を受けられないのか?」との恥言を嗤う (^o^)010

邪難者の中には、

▼「大石寺は戒壇の大御本尊を科学鑑定してもらって、国宝扱いに認定してもらえばいいではないか。ならば信じることができる。(趣意)」

というようなことを嘯いている者がいる。

今回は、この恥言を嗤っておこう。

科学鑑定云々については既に論じた。

また、大聖人の御書・日興上人の御指南、他あらゆる角度からの検証により、

【※1】「戒壇の大御本尊が弘安二年に御建立せられ、それは大聖人の出世の本懐中の御本懐であり、将来広宣流布達成時に富士山本門寺本堂に御奉掲御安置される唯一の御本尊である」

ことも徹底的に論証した。

上記の論証について、現時(23.105)において、未だに、謗法退転者・他門・創価・就中、保田妙本寺関連の僧俗から、文証・理証による、真っ当な反論が為されていない。
上記の論証に文証・理証を以て正当に反論できないのであれば
【※1】は既存の事実である。
(もしそれが不承知であるならば、急ぎ急ぎ正当な反論を企てよ。速攻再反論して差し上げる。)

あらゆる道理・文証に依って、【※1】が論証され尽くされているのに、敢えてわざわざ科学鑑定などをお願いする必要はない。
それでも信じることができない迷見の者は、無理して信じる必要はない。
勝手に保田妙本寺でも、他門でもどこでも行けばいいのである。

もしくは、信仰自体を止めればいいことである。

しかし、【※1】についてそれを否定するならば、正確な物証・文献などによる証拠を提示すべきである。
当方は、【※1】を詳細に論証し、証明している。
反証できていないのは善Q麿などの謗法退転者らの邪難者の方である。
正当な文証・理証・現証による証明を理解出来ずに、ただ馬鹿の一つ覚えで「戒壇の大御本尊はニセモノだ〜〜!」と繰り返す姿は、実に幼稚で見苦しい限りである。

Q麿などの謗法退転者らのごときは、

二本の直線が平行線であることを証明する知識と見識を持ってない幼稚な者が、宇宙の果てまで、その二直線が平行かどうか、交点が生じないかどうかを確認しなければ納得できない。と言っているのに等しい。

こういう者は、ユークリッド幾何学において「三角形の内角の和は180度である」という定理を知らないか、理解出来ないのである。
仮にその定理を知っていても、証明方法が理解出来ていないのである。
道理と文証とはまさにこのことで、
定理とは文証である。
道理とは、証明方法。

この場合は、任意にもう一本直線を引いて、先の二本の直線と交わるところ、同じ側の内角の和が180度であるならば、三角形を形成できないから、この二本の直線は交わることはなく、空間的に永遠に平行線なのである。
この証明は一枚の紙の上で為し得ることである。

ところがである。

迷妄深き者、あるいは幼稚にして道理が理解出来ない者らは、目の前でこの実測と道理を示してやっても、納得ができず、

「そんなの、宇宙の先の先まで交わってるかどうか確認しなければ信用できないじゃんか!」と言っている、ちょっと頭の弱い児童と同レベルの恥言を為しているである。
仏法と申すは道理なり。

まさに、善Q麿のごとき謗法退転者らは、仏法の道理において、この譬えの、幼稚で頑迷な児童と等しい。
(もちろん反論があるならいつでもどうぞ。ただし、きちんとした文証を根拠に何か言ってきなさい。)

少々前置きが長くなったが、冒頭の恥言を破そう。

そもそも、科学的鑑定が必要ない上に、国宝などに認定される必要など、更にないのである。

Q麿ごとき謗法・退転者らは、実に大聖人の仏法に対して不勉強である。

以下、大聖人の御指南を拝して、善Q麿などの謗法退転者らの恥言を掃除しておこう。

■ 少しも妻子眷属を憶ふこと莫れ、権威を恐るゝこと莫れ。今度生死の縛を切りて仏果を遂げしめ給へ。(弟子檀那中への御状   文永五年一〇月一一日  四七歳 380

 「権威を恐れるな。」と仰せである。

国に「国宝」の認定を求めるなどとは、権威を求めている姿であるから、まさに大聖人の御精神と真逆な発想である。
こういう発想する輩はまず名聞名利が強く、臆病で、陰でコソコソ陰湿に謀略を巡らす者が多いものである。

確かに、退転者の特徴を大聖人は鋭く指摘されている。

   
なごへ(名越)の尼・せう(少輔)房・のと(能登)房・三位房なんどのやうに候をくびゃう(臆病)、物をぼへず、よく(欲)ふかく・うたが(疑)い多き者どもは、ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけ、そら(空)をき(切)りたるやうに候ぞ。(聖人御難事    弘安二年一〇月一日  五八歳1398

ここに御指摘のごとく、退転する者の特徴は

1 臆病者 
2 仏法の大事や道理が心中に染まらない。(→例、三大秘法の義が飲み込めない。心肝に染まらない) 
3 欲深い(利害損得勘定が強い。こっちではもっと良い待遇で良い立場に就けるか?など。) 
4 疑心が多い。(例、どう道理で説明してやっても、また自分で唱題してみても、戒壇の大御本尊をどうしても信じることができない)

である。

臆病者は権威に弱いのである。
「国宝に認定されれば信じることができる」などと戯言を言っている者どもは、自らの浅ましい根性を恥じ入るべきである。

■ わづかの小島のぬしら(主等)がをどさんを、をぢ(恐)ては閻魔王(えんまおう)のせ(責)めをばいかんがすべき。仏の御使(おんつか)ひとなのりながら、をく(臆)せんは無下(むげ)の人々なりと申しふくめぬ。(種々御振舞御書      建治二年  五五歳1057

大聖人は日本国の為政者を「わずかの小島の主等」と仰せである。
この「わずかの小島の主等」に「国宝」などと認定されて、一体どうなるとでもいうのか?
大聖人はそれをお望みであり、そういうお墨付きをお喜びにでもなるというのか?
実に謗法退転者の考えることは低劣である。
志が低い。

■ 外典に云はく、未萠(みぼう)をしるを聖人という。内典に云はく、三世を知るを聖人という。余に三度のかうみゃう(高名)あり。一(ひと)つには去(い)にし文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏(そう)したてまつりし時、宿谷(やどや)の入道に向かって云はく、禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。此の事を御用ひなきならば、此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給ふべし。二つには去にし文永八年九月十二日申(さる)の時に平左衛門尉に向かって云はく、日蓮は日本国の棟梁(とうりょう)なり。予を失ふは日本国の柱橦(はしら)を倒すなり。只今に自界反逆難(じかいほんぎゃくなん)とてどしうち(同士打)して、他国侵逼難(たこくしんぴつなん)とて此の国の人々他国に打ち殺さるヽのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばや(焼)きはらいて、彼等が頚をゆひ(由比)のはま(浜)にて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ。第三には去年文永十一年四月八日左衛門尉に語って云はく、王地に生まれたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事(こと)真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば、頼綱(よりつな)問ふて云はく、いつごろかよせ候べき。予言はく、経文にはいつとはみ(見)へ候はねども、天の御気色(みけしき)いかりすくなからず、きう(急)に見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神(みたましい)我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり。(撰時抄 建治元年六月一〇日  五四歳 867)

■ 立正安国論を最明寺殿に奏(そう)したてまつりし時、宿谷(やどや)の入道に向かって云はく、禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。此の事を御用ひなきならば、此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給ふべし。

大聖人は、日本という国の為政者を諫め、善導せん。とされているのである。
今の為政者も鎌倉時代と本質的には何等変わりはない。
御自分が教え導く側なのに、何でわざわざその教えられ導かれる未熟で道を間違った側から「国宝」という認定を受ける必要などあるのか?

■ 日蓮は日本国の棟梁(とうりょう)なり。予を失ふは日本国の柱橦(はしら)を倒すなり。

時の権力中枢の最高実力者に向かって、このように宣言され、しかも、大聖人への謗法行為はまさに堕獄・亡国の行為である!と強く破折されているのである。
このような御境界の方が、なんでわざわざ「国宝」などという評価を求める必要があるのか。

■ 左衛門尉に語って云はく、王地に生まれたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。

大聖人が肉身を持つ凡夫身である限りは、身体は日本の司法・行政に拘束されるが、しかし、御本仏の御境地はそのようなものに拘束されるものではなく、十方法界に遊戯され自受法楽されているのである。
そのような方が、「国宝」などいうみみっちいものに囚われるはずなどない。

■ 此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神(みたましい)我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり。

まさに、久遠元初の下種本因妙の本仏の御境界である。
謗法退転者達の境涯が余りに小さく低いから、お国のお墨付き「国宝」などにすがる、みみっちい発想が出るのである。

「重要文化財」などは論ずるに足らないことは言うまでもない。

結局善Q麿などの謗法退転者らは
"権威あるものに評価していただかなければ、真価が理解出来ない。信じることが出来ない。"
という事であり、大聖人の御精神と全く逆の指向性である。

人法一箇の大聖人であらせられる大聖人の究極の出世の御本懐である戒壇の大御本尊を誹謗するのであるから、大聖人の御精神と全く逆の方向へ行くのは当然と言えば当然か。


正当な反論も出来ずに、大石寺への悪感情による悪口誹謗だけはお盛んな、その自らの拙い過去の悪因縁を恥じ入るべきであろう。


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