受胎の法門

子どもが母の胎内に生命を宿すということについて、『大宝積経巻
第七十二 菩薩見実会第十六 遮羅迦波利婆羅闍迦外道品第二十
四』(国訳宝積部4−146)に説かれてあります。

 ある日、諸天善神が、釈尊のみもとに一同に集まって、釈尊を
供養し、讃歎しておりました。それに対して、釈尊が諸天たちに
御説法をされました。

 そのとき、普行外道(ふざようげどう=遮羅迦波利婆羅闍迦外
道)という外道の中でも、宗教生活の最終段階に入った者たち8
千人が通りかかり、釈尊の御説法がその耳に入りました。

 外道たちは、その釈尊の御説法が、自分たちの全く知らない内
容であったので、大きな疑問と不快の念を抱きました。また、諸
天善神が、釈尊を供養することに嫉妬の念を抱きました。

 そこで、外道たちは、
「瞿曇(くどん=釈尊の一族の軋主に釈尊を指す。仏法を信
 仰していない者が釈尊に対して悪意をちって使った呼称)よ。
 我々は未だ曽て聞いたことも無い法を聞いたが、それを聞き終
 わって、非常に不快に思った。したがって、我々は君を敬うこ
 ともできないし、信ずることもできない。どうか我々の疑心を
 解いてくれないか」
と言って、釈尊に質問をしようと試みました。ところが、逆に、
釈尊が彼等に質問をされたのであります。

「君たちは、人間の生命がどのようにして母親の胎内に宿るか
知っていますか。」
この釈尊の御質問に対し、普行外道の1人は、
「種々の書物によれば、3つの因縁が和合して母親の胎内に生
命が宿ると説いていると聞いている。1つに父と母とが相近づ
き、2つに煩悩・欲望の心が起こり、3つにその欲望を満足さ
せる。このゆえに母親の胎内に生命が宿るのである。」
「その煩悩・欲望は、母親の方から起こるのか。」
「そうとは言い切れない。」
「では父親の方からか。」
「そうとも言い切れない。」
「父親の煩悩・欲望が母親の胎内に入るのか。」
「いや。」
「天界の業が尽きて、母親の胎内に入るのか。」
「知らない。」
「地獄界の業、畜生界の業、餓鬼界の業、阿修羅界の業が尽き
て、母親の胎内に入るのか。」
「いずれも知らない。」
「非色(非物質)のものが釆て母親の胎内に入るのか。」
「知らない。」
「色(物質)のものが釆て母親の胎内に入るのか。」
「知らない。」
「受(眼耳鼻舌身意の六根で受け入れること)・想(受け入れた
ものから像を取ること)・行(想によって起こる心の作用)・識
(受・想・行の作用を起こす根本意識)が、どこからかやって釆
て、母親の胎内に入るのか。」
 「知らない。」
 このように、釈尊の御質問に対し、外道たちは、何ら答えるこ
とができなかったのであります。
 そこで、釈尊は、外道たちのために、
「この受胎の法門ははなはだ探い寂滅(悟りの境地)であって、
 君たち外道の知るところではない。全ての外道は、間違った方
 向を求めて修行を進めている。それは、教えの根本が間違って
 いるからである」
と仰せになられ、更に、
 「善知識(正しい教えを説いてくれる人)に会えば、はなはだ
 深い法門を孟削、てくれる。そして、それを理解する眼を開いて
 くれるのである。たとえば、目の悪い人がいて、名医に巡り合
 うことができ、目を治療してもらって、目が治り、今までに見
 ることができなかったものを見ることができるようになるよう
 なものである。君たち外道の師弟の関係は、目の見えない人が、
 目の見えない人を導いているようなもので、目的地に到達しな
 いのみならず、大変危険である。導師でない人が自ら『導師』
 と言い、そして、悟りでないものを『悟り』と言い。正しい道
 を知らないのに『知っている』と言い、正しい道を見ていない
 にも関わらず『見た』と言い、結局、本当は他人を教えること
 が何ひとつできないのに『自分は師匠である』と言う。このよ
 うな人の教えを邪教と言うのである」
と仰せになりました。

 釈尊は、このように厳しく外道を破折されまして、次に受胎の
御法門をお説きになられました。

 仏法において、「母」とは、私たちが過去の世に行った行為(業)、
良い行為(善業)と悪い行為(悪業)の緑のことであり、仏法に
おいて「父」とは、過去の世に積んだ善業・悪業の困のことであ
ります。
 私たちが過去世に行った良い振る舞い、悪い振る舞いを善業・
悪業と申しまして、それが困となり、緑となって、和合し、その
業のより所である母の胎内に生命を宿すのであります。


○地獄界→人間界

 現在において、いななき破れたようなラバのような声、早口、
脅えた声、高い声、浅い声で、小心にして、常に恐れ戦(おのの)
き、体中の毛がしばしば立つ。夢には多く、大火の燃え盛ったり、
山を足ったり、鉄の釜の煮えたぎったり、人が杖をもって走った
り、自分の体に鉾(ほこ)が突き刺さったり、群がる犬を見たり、
たくさんの象が追って釆て自分を踏みつぶす。或いは、どこに向
かって歩いても帰るべき所が無い。このような悪夢に悩まされる。
こういう人の前世は地獄界です。■地獄界から人間界に生まれた人
と名付けます。              //′ノ

○畜生界一人間界

 愚鈍・少智・怠け者・多食で、好んで土や泥を食べる。性格は
弱く、言うことははっきりしない。愚かな人と仲良くなり、暗い
所を好む。濁った水を好み、草木をそのままかじることを喜び、
足の指で地をえぐり掘ることを楽しみとする。汚い所でも平気。
人前であろうと平気で大きな欠伸(あくび)をする。裸を見て喜
び、嘘・お世辞・二枚舌・悪口を喜ぶ。夢には、泥にまみれたり、
野の革を食べたり、蛇にまつわり付かれたり、山谷や林の中に入
っていく夢をみる。こういう人の前世は畜生界です。畜生界から
人間界に生まれた人と名付けます。

○餓鬼界→人間界

 髪の毛が黄色く、怒った日をして人をにらみつける。眼球は赤
い。性格はけちであり、嫉妬深く、飲食することを喜びとなす。
自分は物を努めて蓄えるが、困っている人を見ても、何も与えな
い。道に物が落ちていると迷わず自分の物にする。他人が良い物
を持っていると盗みたいと思い、すきあらば盗む。こういう人の
前世は餓鬼界です。餓鬼界から人間界に生まれた人と名付けます。

○阿修羅昇一人間界

 高慢にして、常に怒り、争いごとを好み、恨みを絶対に忘れな
い。増上慢にして、体は強くたくましく、目は白く、歯は犬のよ
うに長く露出している。2枚の舌をもって平気で人を傷つけ、平
気で人を破壊する。こういう人の過去世は阿修羅界です。阿修羅
界から人間界に生まれた人と名付けます。

○人間界一→人間界

 賢く、素直で、善人に近づき、悪人を嫌う。信義を守り、名聞・
称誉を好む。智慧を尊重し、恥というものを知り、漸悦の心を持
つている。恩を知り、布施を好む。長幼の序を弁え、有益なこと
と無益なこと、良い場所と悪い場所の判断・区別ができる。こう
いう人の過去世は人間界です。人間界から人間界に生まれた人と
名付けます。

○天界→人間界

 容姿端麗で、清浄を好む。飾り物や香をもって身を飾り、それ
を喜ぶ。良い音楽、良い歌舞を好む。立派な人と友達になり、悪
人と徒党を組むようなことがない。良い建物を好み、喜ぶ。人を
慈しむことを楽しみとし、正しい道を歩む。顔はいつも笑みを合
み、怒った顔は見せない。声は柔らサく美しい。会話も上手で人
を喜ばせることに巧みである。服装も装飾品も良いものを選び、
それを喜びとする。歩き方も伸びやかである。ひとつのことを始
めたら、途中で止めることなく、必ず最後までやり通す。こうい
う人の過去世は天界です。天界から人間界に生まれた人と名付け
ます。


 このように、前世に地獄界・畜生界・餓鬼界・阿修羅界・人間
界・天界の六道から人間界に生まれ変わってきた人たちの相より
も、もっと立派な相になりたいと思ったならば、本当に正しい教
えを待った立派な人、優れた師匠、このような人を仏教では善知
識と言いますが、その善知識に近づいて、その人の正しい教えに
随い、その人の振る舞いを真似れば、良いのであります。


○人間界一地獄界一人間界

 人間界から地獄界に生まれ変わった人は、人間界にいるときに、
もろもろの悪業を造り、暖志(しんに=怒りの心)を起こして殺
害をしたために地獄界に落ちてしまいました。そして、地獄界で
種々の苦を受けて、人間界のときに造った罪障を消滅して、また
人間界に生まれてきたわけでありますが、地獄界にいた時の習気
(じっけ=無意識に身についている習慣)が、いまだなお残ってお
ります。ですから私たちは、現在の振る舞いを見て、
 『私は前世は地獄界にいたのだ』
ということが判るのであります。そのような人は、前世の地獄界
の業を断ち切らなければならない。そのためには、善知識を求め、
教えを受けなければなりません。善知識は、地獄界の業である暖
業(じんごう=怒・りの業)を断ち切る方法として、慈悲行を実行
し、六波羅蜜の修行を満足するように説いて下さいます。

○人間界一畜生界→人間界

 人間界から畜生界に生まれ変わった人は、人間界にいるときに、
愚痴の法を行ったために、もろもろの悪業を造り、それによって
畜生界に生まれました。この人は、畜生界にいるときに、多くの
畜生と生活していたため、人間に生まれ変わっても、畜生の生活
習慣がでてきます。

 『光日房御書』に、
「粟をつ(摘)みたりし比丘は、五百生が問牛となる」
             (平962・新1448・全930)
とございます。

 これは、『法苑珠林巻第三十五』や『法華文句記巻第二』に説か
れているお話です。

 釈尊の御弟子の情梵波提(きょうぼんはだい)という人は、食
事をするとき、牛のように反裔(はんすう)して食べるという変
な癖(くせ)がありました。釈尊は、情梵波提が過去世において
粟を盗んだため、五百生の間、牛として生まれ、このたび、よう
やく人間として生まれ変わり、釈尊の御弟子となることができま
した。しかし、五百生の間、牛として生きてきたため、その余習
として、食事のとき、牛と同じように、反易して食べるのである
と説かれております。

 このように、自分の過去世が畜生界であったと判った人は、畜
生界の業を断ち切らなければならない。そのためには、善知識を
求め、教えを受けなければなりません。善知識は、畜生界の業で
ある愚痴業を断ち切るために、十二因縁の法門を説いて、過去・
現在・未来の三世の生命が、因果によってつながっていることを
教えて、愚痴の心を取り除いて下さいます。そして、六波羅蜜の
修行の中の、特に般若波羅蜜(はんにやはらみつ=仏様の智慧)
を説いて下さるのであります。

○人間界→餓鬼界→人間界

 人間界から餓鬼界に生まれ変わった人は、人間界にいるときに、
憧食(けんどん=けち・物惜しみの心・欲深い心)の法を行った
ために、もろもろの悪業を造り、それによって餓鬼界に生まれま
した。この人は、餓鬼界にいるときに、多くの餓鬼と生活してい
たため、人間に生まれ変ゎっても、餓鬼の生活習慣がでてきます。
そのような人は、前世の餓鬼界の業を断ち切らなければならない。
そのためには、善知識を求め、教えを受けなければなりません。
善知識は、餓鬼界の業である憧貪業を断ち切る方法として、六波
羅蜜の中の特に布施羅蜜の修行を満足するように説いて下さいま
す。布施とは、私たちの持っている物を、見返りを求めず、他に
与えることです。特に仏法僧の三宝に布施することを御供養と申
します。そして、更に般若波羅蜜を説いて下さるのであります。

○人間界→阿修羅界一人間界

 人間界から阿修羅界に生まれ変わった人は、人間界にいるとき
に、多くの善業を積みはしましたが、情慢(きょうまん=腐り高
ぶる心)を起こしたために、もろもろの悪業を造り、それによっ
て阿修羅界に生まれました。この人は、阿修羅界にいるときに、
多くの阿修羅と生活していたため、人間に生まれ変わっても、慢
心があふれた言動になります。そのような人は、前世の阿修羅界
の業を断ち切らなければならない。そのためには、善知識を求め、
教えを受けなければなりません。善知識は、阿修羅界の業である
橋慢業を断ち切る方法として、情慢の人が、よく他人を見下しま
す。その悪い性質は誤りであると指摘します。さらに阿修羅の自
分中心の考えに対して、無我を説いて、
 「私たちの体は五陰が仮に和合したものである」
と説いて下さいます。そして、更に般若波羅蜜を説いて下さるの
であります。

○人間界→人間界

 人間界から人間界に生まれ変わった人は、人間界にいるときに、
十善の業を修めましたので、再び人間界に生まれてきました。十
善とは、不殺生・不倫盗・不邪淫・不妄語・不椅語・不悉口・不
雨音・不食欲・不暖羞・不邪見のことです。一眼の亀の誓えの如
く、人間界に生まれることが、いかに難しいかが解ります。前世
に人間界にいた人は、そのときの習慣が、いまだなお残っており
ます。ですから私たちは、現在の振る舞いを見て、
 『私は前世は人間界にいたのだ』
ということが判るのです。そのような人は、もっと尊い境界を志
すことが必要です。そのためには、善知識を求め、教えを受けな
ければなりません。善知識は、そのような人のために、
 「一切の物は無常である」
と説いて下さいます。人間が人間に生まれ変わって、何ら問題な
いように思えますが、それは、生死の境界と言いまして、まだ迷
いの境界であります。善知識は、一切の苦悩を断じ尽くした捏磐
の境界を説いて下さり、更に、六波羅蜜の法を説かれ、発心させ
て、成仏するまで退転しないように導いて下さいます。

○人間界→天界→人間界

 人間界から天界に生まれ変わった人は、人間界にいるときに、
布施・持戒等の清浄行を修めて天界に生を受けたのであります。
天界にいるときに造った、多くの天界の生活習慣が残っておりま
す。しかし、天界の喜びと言っても、仏法を信仰する喜び、捏磐
の喜びに比べれば、まだまだ小さいものであります。天界から人
間界に生まれ変わった人も、やはり善知識を求め、教えを受けな
ければなりません。善知識は、そのような人のために六波羅蜜の
修行とその功徳を説いて下さいます。


 以上のように、釈尊は受胎の御法門を普行外道8千人に御説法
されました。外道たちは、初めは釈尊を馬鹿にして、釈尊を困ら
せるための質問をしようとしておりましたが、その汚い心は、い
つしか釈尊に対し奉る尊敬の念に変わり、釈尊の御足に礼拝し、
釈尊の御徳と御教えを賛歎し、仏法に帰依しました。
 この人たちが、多くの人たちに仏法を説いたことは言うまでも
ありません。仏法を信仰している人は、必ず、他の人に仏法を説
きます。説かない人は仏法を信仰しているとは言えません。

 日蓮大聖人様は『三三蔵祈雨事』に、

「されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちえなにに
かせん。ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば、
善知識たひせちなり」   (平873・新1292・善1468)

と仰せであります。

私たちは、1人では成仏できません。善知識によらなければ、
成仏はできないのであります。
 善知識とは、仏様であります。.また、仏様の御教えを正しく承
け継いだお方です。
 また、そのようなお方が書かれた書も善知識になります。くだ
らない本を百冊読むよりも、そのような書を一度でも多く読むこ
とが大切です。
 更に、私たち凡夫も善知識にもなれば、恵知識にもなります。
私たち、仏法を信仰する者は、他人の善知識にならなければなり
ません。また、他人は全て善知識であると敬うことが大切であり
ます。