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    持妙法華問答抄   弘長三年  四二歳
 抑(そもそも)希(まれ)に人身をうけ、適(たまたま)仏法をきけり。然るに法に浅深(せんじん)あり、人に高下ありと云へり。何(いか)なる法を修行してか速(すみ)やかに仏になり候べき。願はくは其の道を聞かんと思ふ。答へて云はく、家々に尊勝あり、国々に高貴あり。皆其の君を貴(たっと)み、其の親を崇(あが)むといへども、豈(あに)国王にまさるべきや。爰(ここ)に知んぬ、大小権実は家々の諍(あらそ)ひなれども、一代聖教の中には法華独(ひと)り勝れたり。是頓証菩提(とんしょうぼだい)の指南(しなん)、直至道場の(じきしどうじょう)車輪なり。
 疑って云はく、人師は経論の心を得て釈を作る者なり。然(しか)らば則ち宗々の人師、面々各々に教門をしつ(設)らひ、釈を作り、義を立て証得(しょうとく)菩提を志す。何ぞ虚(むな)しかるべきや。然るに法華独(ひと)り勝ると候はゞ、心せばくこそ覚え候へ。答へて云はく、法華独りいみじと申すが心せばく候はゞ、釈尊程心せばき人は世に候はじ。何ぞ誤りの甚(はなはだ)しきや。且(しばら)く一経一流の釈を引いて其の迷ひをさとらせん。無量義経に云はく「種々に法を説き、種々に法を説くこと方便力を以てす。四十余年未だ真実を顕はさず」云云。此の文を聞いて大荘厳等(だいしょうごんとう)の八万の菩薩一同に「無量無辺不可思議阿僧祇劫(あそぎこう)を過ぐるとも終(つい)に無上菩提を成ずることを得ず」と領解(りょうげ)し給へり。此の文の心は、華厳・阿含・方等・般若の四十余年の経に付いて、いかに念仏を申し、禅宗を持って仏道を願ひ、無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、無上菩提を成ずる事を得じと云へり。しかのみならず、方便品には「世尊は法は久しくして後要(かなら)ず当(まさ)に真実を説き給ふべし」ととき、又「唯(ただ)一乗の法のみ有り二無く亦(また)三無し」と説きて此の経ばかりまことなりと云ひ、又二の巻には「唯我一人のみ能く救護(くご)を為す」と教へ、「但楽(ねが)って大乗経典を受持して乃至余経の一偈をも受けざれ」と説き給へり。文の心は、たゞわれ一人してよくすく(救)ひまも(護)る事をなす、法華経をうけたもたん事をねがひて、余経の一偈をもうけざれと見えたり。又云はく「若(も)し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば則ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄(あびごく)に入らん」云云。此の文の心は、若し人此の経を信ぜずして此の経にそむかば、則(すなわ)ち一切世間の仏のたねをたつものなり。その人は命(いのち)をわらば無間地獄に入るべしと説き給へり。此等の文をうけて天台は「将(まさ)に魔の仏と作(な)っての詞(ことば)、正しく此の文によれり」と判じ給へり。唯人師の釈計(ばか)りを憑(たの)みて、仏説によらずば何ぞ仏法と云ふ名を付すべきや。言語道断の次第なり。之に依て智証(ちしょう)大師は「経に大小なく理に偏円(へんえん)なしと云って、一切人によらば仏説無用なり」と釈し給へり。天台は「若し深く所以(ゆえん)有りて、復修多羅(しゅたら)と合する者は、録して之を用ふ。文無く義無きは信受すべからず」と判じ給へり。又云はく「文証無きは悉(ことごと)く是邪謂(じゃい)なり」とも云へり。いかゞ心得べきや。

 問うて云はく、人師の釈はさも候べし。爾前の諸経に「此の経第一」とも説き、「諸経の王」とも宣(の)べたり。
若し爾(しか)らば仏説なりとも用ゆべからず候か如何。

 答へて云はく、設(たと)ひ「此の経第一」とも「諸経の王」とも申し候へ、皆是権教なり。其の語によるべからず。
之に依て仏は
「了義経によりて不了義経によらざれ」と説き、
妙楽大師は
「縦(たと)ひ経有りて「諸経の王」と云ふとも、「已今当説最為第一(さいいだいいち)」と云はざれば【※1】兼但対帯(けんたんたいたい)其の義知んぬべし」
と釈し給へり。
【※1】天台 法華玄義 妙法蓮華経の経題を標示して、妙法と麁法を分別する中の語
華厳部→円教に別教を「兼」ねる。
阿含部→「但」、蔵教のみ
方等部→四教の機に「対」して、具に四教を説く。
般若部→通・別 二教を「帯」びて円教を説く。

 此の釈の心は、設ひ経ありて諸経の王とは云ふとも、前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば、方便の経としれと云ふ釈なり。
されば爾前(にぜん)の経の習ひとして、今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり。
唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に、已今当の中に此の経独(ひと)り勝れたりと説かれて候へ。
されば釈には
「唯法華に至って前教の意を説いて今教の意を顕はす」
と申して、法華経にて如来の本意も、教化の儀式も定まりたりと見へたり。
之に依って天台は
「如来成道四十余年未だ真実を顕はさず、法華始めて真実を顕はす」
と云へり。
此の文の心は、如来世に出させ給ひて四十余年が間は真実の法をば顕はさず。
法華経に始めて仏になる実の道を顕はし給へりと釈し給へり。

 問うて云はく、已今当の中に法華経勝れたりと云ふ事はさも候べし。
但し有(あ)る人師の云はく、
「「四十余年未顕真実」と云ふは法華経にて仏になる声聞(しょうもん)の為なり。
爾前の得益の菩薩の為には「未顕真実」と云ふべからず」と云ふ義をばいかゞ心得候べきや。

 答へて云はく、法華経は二乗の為なり、菩薩の為にあらず、されば「未顕真実」と云ふ事二乗に限るべしと云ふは【※2】徳一(とくいち)大師の義か。
【※2】平安初期の法相宗の学僧。伝教と三一権実論争をした。五年間。藤原仲麻呂の子といわれる。
此は法相宗(ほっそうしゅう)の人なり。
此の事を伝教大師破し給ふに
「現在の麁食(そじき)者は【※3】偽章(ぎしょう)数巻を作って法を謗じ人を謗ず、何ぞ地獄に堕(だ)せざらんや」【※3】偽りの著書。正法・正義を曲解した書物。
と破し給ひしかば、徳一大師其の語に責められて舌八つにさ(裂)けてうせ給ひき。

「未顕真実」とは二乗の為なりと云はゞ最も理(ことわり)を得たり。
其の故は如来布教の元旨(がんし)は元より二乗の為なり。
一代の化儀(けぎ)、【※4】三周の善巧(ぜんぎょう)、併(しかしなが)ら二乗を正意とし給へり。
【※4】開三顕一の説法。声聞に上中下の機根。
法説周→法理を聞いて直ちに悟る。舎利弗 方便品第二 十如実相→譬喩品第三→華光如来の記別
譬説周→譬喩によって悟る。迦葉等四大声聞←譬喩品 三車火宅 授記品第六→光明如来の記別
因縁説周→因縁によって悟る。富楼那など 化城喩品第七→大通智勝仏の因縁 五百弟子授記品第八・授学無学人記品九 で記別

されば華厳経には「地獄の衆生は仏になるとも二乗は仏になるべからず」と嫌ひ、方等には「高峯に蓮(はちす)の生(お)ひざるように、二乗は仏の種をい(焦)りたり」と云はれ、般若には「五逆罪の者は仏になるべし、二乗は叶ふべからず」と捨てらる。
かゝるあさましき捨者(すてもの)の仏になるを以て如来の本意とし、法華経の規模(きも)(※要・眼目)とす。

之に依って天台云はく
「華厳大品(けごんだいぼん)も之を治すること能(あた)はず。唯法華のみ有って能(よ)く無学(※既に学ぶべき物がないこと。←→有学 声聞の四果の第四・阿羅漢果)をして還(かえ)って善根を生じ仏道を成ずることを得せしむ。所以(ゆえ)に妙と称す」と。

「闡提(せんだい)は心有り、猶作仏すべし。二乗は智を滅す、心生ずべからず。法華能く治す、復(また)称して妙と為(な)す」云云。
此の文の心は委(くわ)しく申すに及ばず。
誠に知んぬ、華厳・方等(ほうどう)・大品(だいぼん)(※大品般若経)等の法薬(ほうやく)も、二乗の重病をばいやさず。
又三悪道(さんなくどう)の罪人をも菩薩ぞと爾前の経にはゆるせども、二乗をばゆるさず。
之に依って妙楽大師は
「余趣(よしゅ)を実に会すること諸経に或は有れども二乗は全く無し。故に菩薩に合して二乗に対し難きに従って説く」
と釈し給へり。
しかのみならず
「二乗の作仏は一切衆生の成仏を顕はす」と天台は判じ給へり。

修羅(しゅら)が大海を渡らんをば是難しとやせん。
嬰児(ように)の力士を投げん、何ぞたやすしとせん。
然らば則ち仏性の種ある者は仏になるべしと爾前に説けども、未だ焦種(しょうしゅ)の者作仏すべしとは説かず。
かゝる重病をたやすくいや(治)すは、独り法華の良薬なり。

只(ただ)須(すべから)く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこ(幢)をたをし、忿(いか)りの杖をすてゝ偏(ひとえ)に一乗に帰すべし。
名聞名利は今生(こんじょう)のかざり、我慢(※我をたのみ心が驕ること。我を驕って誇り、他を軽んじて従わないこと。)偏執(がまんへんしゅう・※偏ったものに執着すること。偏った考えや教えに執着して正邪・勝劣を弁えないこと)は後生のほだ(紲)し(※馬の足などをつなぐ縄。手かせ、足かせ)なり。
嗚呼(ああ)、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。

 問うて云はく、一を以て万を察する事なれば、あらあら法華のいはれを聞くに耳目(じもく)始めて明らかなり。
但し法華経をばいかやうに心得候てか、速(すみ)やかに菩提の岸に到るべきや。
伝へ聞く、一念三千の太虚(たいきょ・※広大な天空)には慧日(えにち・※仏の智慧が平等広大で苦悩の闇を明るく照らすことを日光に例える)くもる事なく、一心三観(※衆生の日常起こす一念の心の中に空仮中の三諦が円融相即して具わることを観ずること)の広池には智水にごる事なき人こそ、其の修行に堪へたる機にて候なれ。
然るに南都の修学(※南都六宗(倶舎・成実・三論・律・法相・華厳)の教義を学ぶこと)に臂(ひじ)をくだす事なかりしかば、瑜伽(ゆが)・唯識(ゆいしき)にもくらし。
北嶺(ほくれい)の学文に眼をさらさざりしかば、止観・玄義にも迷へり。
天台・法相(の両宗はほとぎ(瓮・※胴が太く口の小さい土器。カメの一種。昔、湯水や酒を入れるのに用いた)を蒙(こうむ)って(※頭からかぶる)壁に向かへるが如し。(※全く相手にされない。の意か)
されば法華の機には既にもれて候にこそ、何(いか)んがし候べき。

答へて云はく、利智精進(りちしょうじん・※利智を働かせて一心に仏道を求めること。利智とは滞りのない鋭い智慧。精進は懸命に仏道修行に励むこと)にして観法(かんぽう)修行するのみ法華の機ぞと云ひて、無智の人を妨ぐるは当世の学者の所行なり。
是還(かえ)って愚癡(ぐち)邪見の至りなり。
「一切衆生皆成仏道」の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。
下根下機は唯信心肝要なり。
されば経には
「浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕(お)ちずして十方の仏前に生ぜん」 と説き給へり。
いかにも信じて次の生の仏前を期(ご)すべきなり。

譬へば高き岸の下に人ありて登る事あたはざらんに、又岸の上に人ありて縄をおろして此の縄にとりつかば、我(われ)岸の上に引き登(のぼ)さんと云はんに、引く人の力を疑ひ縄の弱からん事をあやぶみて、手を納めて是をとらざらんが如し。
争(いか)でか岸の上に登る事をうべき。
若し其の詞(ことば)に随ひて、手をのべ是をとらへば即ち登る事をうべし。
「唯我(ただわれ)一人のみ能く救護(くご)を為す」の仏の御力を疑ひ
「以信得入(いしんとくにゅう)」の法華経の教への縄をあやぶみて、
「決定(けつじょう)無有疑」の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず。
菩提の岸に登る事難かるべし。
不信の者は堕在泥梨(だざいないり※地獄)の根元なり。

されば経には
「疑ひを生じて信ぜざらん者は則(すなわ)ち当に悪道に堕つべし」  と説かれたり。

受けがたき人身をうけ、値(あ)ひがたき仏法にあひて争(いか)でか虚(むな)しくて候べきぞ。
同じく信を取るならば、又大小権実のある中に、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道(じきどう)の一乗をこそ信ずべけれ。

持つ処の御経の諸経に勝(すぐ)れてましませば、能(よ)く持つ人も亦(また)諸人にまされり。
爰(ここ)を以て経に云はく
「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為(こ)れ第一なり」 と説き給へり。
大聖の金言疑ひなし。
然るに人此の理をしらず見ずして、名聞・狐疑(※狐のように疑い深いこと。疑い深くなかなか決心がつかずにためらうこと。)・偏執(みょうもんこぎへんしゅう)を致せるは堕獄の基(もとい)なり。
只(ただ)願はくは経を持ち、名を十方の仏陀(ぶつだ)の願海に流し、誉れを三世の菩薩の慈天に施すべし。

然れば法華経を持ち奉る人は、天・竜・八部(※八部鬼神→)・諸大菩薩を以て我れ眷属(けんぞく)とする者なり。
しかのみならず、

『因身の肉団に果満の仏眼を備へ、有為(うい・※因と縁によって作られた生滅するもの。←→無為。 生・住・異・滅の四相。常住ではない。)の凡膚に無為(むい・※因縁によって作られることなく、生滅変化のない常住不変の真理(真如)。)の聖衣(しょうえ)を著ぬれば、三途(ず)に恐れなく【※5】八難(※に憚(はばか)りなし。
【※5】悟りに趣く際に障害となる八種の難。
在地獄(・畜生・餓鬼)難→聖者に会えず、苦しみに逼られて仏法を聞くことが出来ないこと)
在長寿天難・在辺地難→色界・無色界の諸天や須弥山の北方にある辺地に住み、楽しみに耽って仏法を求めないこと)
聾盲おん(やまいだれ+音)な(あ)(やまいだれ+亞難→身体障害であるために完全には仏法の教えを受けられないこと)
世智弁聡難→世智に長けていても邪見に陥り正法を聞くことができないこと)
生仏前仏後難→仏が出世する前に生まれ、あるいは滅後に生まれて、仏法に巡り会うことができない

【※6】七方便の山の頂に登りて九法界(※九界 迷いの境界)の雲を払ひ、無垢地(むくじ・※等覚)の園に花開け、法性の空に月明らかならん。』
【※6】方便位  蔵教の声聞・縁覚  通教の声聞・縁覚・菩薩  別教の菩薩  円教の菩薩

「是の人仏道に於て、決定して疑ひ有ること無けん」の文憑(もんたのみ)みあり。
「唯我一人のみ能く救護を為す」の説疑ひなし。
一念信解(しんげ・※一念に仏を信解し帰命すること。信解品第17。四信五品(現在の四信と滅後の五品)。法華経の妙理を見聞し、一念に信解を起こす信心修行の最初。この功徳は般若波羅蜜を除く五波羅蜜を修行する功徳の百千万億倍すぐれる。)

の功徳は【※7】五波羅蜜(はらみつ)の行に越へ、五十展転(てんでん)の随喜(ずいき)は八十年の布施に勝れたり。
頓証(とんしょう)菩提の教は遥(はる)かに群典に秀(ひい)で、顕本遠寿(けんぽんおんじゅ)の説は永く諸乗に絶えたり。
【※7】六波羅蜜 大乗の菩薩が悟りを得るために修行しなければならない六種類の修行。
・布施(財施・法施(法を説く)・無畏施(恐怖取り除き安心を与える)
・持戒
・忍辱(一切の有情・非情から受ける迫害や災害、苦難等を耐え忍ぶこと。)
・精進(心身ともに力を尽くして他の五波羅蜜を修行すること)
・禅定(心を一処に定めて心を乱さず真理を思惟すること。)
・智慧(一切諸法に通達し、邪見を取り払って真実を正しく見極める智慧を得ること)

爰(ここ)を以て八歳の竜女は大海より来たりて経力を刹那(せつな)に示し、本化(ほんげ)の上行(じょうぎょう)は大地より涌出(ゆじゅつ)して仏寿(ぶつじゅ)を久遠に顕はす。
言語道断の経王、心行所滅の妙法なり。

 然るに此の理(ことわり)をいるがせ(忽諸)にして余経にひと(等)しむるは、謗法の至り、大罪の至極なり。
譬へを取るに物なし。
仏の神変にても何ぞ是を説き尽くさん。
菩薩の智力にても争(いか)でか是を量るべき。
されば譬喩品(ひゆほん)に云はく
「若し其の罪を説かば、劫を窮(きわ)むとも尽きじ」  と云へり。
文の心は法華経を一度もそむ(背)ける人の罪をば、劫を窮むとも説き尽くし難しと見へたり。
然る間、三世の諸仏の化導にももれ、恒沙(ごうじゃ)の如来の法門にも捨てられ、冥(くら)きより冥きに入りて阿鼻大城(あびだいじょう)の苦患(くげん)争(いか)でか免(まぬか)れん。
誰か心あらん人長劫の悲しみを恐れざらんや。

爰(ここ)を以て経に云はく
「経を読誦(どくじゅ)し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉(きょうせんぞうしつ)して而も結恨(けっこん)を懐(いだ)かん。其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん」云云。
文の心は、法華経をよ(読)みたも(持)たん者を見て、かろ(軽)しめ、いや(賤)しみ、にく(憎)み、そね(嫉)み、うら(恨)みをむす(結)
ばん。
其の人は命をは(終)りて阿鼻大城に入らんと云へり。
大聖の金言誰か是を恐れざらんや。
「正直捨方便」の明文、豈(あに)是を疑ふべきや。
然るに人皆経文に背き、世悉(ことごと)く法理に迷へり。
汝何ぞ悪友の教へに随はんや。
されば
「邪師の法を信じ受くる者を名づけて毒を飲む者なり」  と天台は釈し給へり。
汝能(よ)く是を慎むべし、是を慎むべし。

 倩(つらつら)世間を見るに法をば貴しと申せども、其の人をば万人是を悪(にく)む。
汝能く能く法の源に迷へり。
何(いか)にと云ふに、一切の草木は地より出生せり。
是を以て思ふに、一切の仏法も又人によ(依)りて弘まるべし。
之に依って天台は
「仏世(ぶっせ)すら猶人を以て法を顕はす。末代はいづくんぞ法は貴けれども人は賤(いや)しと云はんや」  とこそ釈して御坐(おわ)し候へ。
されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし。
然らば則(すなわ)ち其の人を毀(そし)るは其の法を毀るなり。
其の子を賤(いや)しむるは即ち其の親を賤しむなり。
爰(ここ)に知んぬ、当世の人は詞(ことば)と心と総(すべ)てあ(合)はず、孝経を以て其の親を打つが如し。
豈(あに)冥(みょう)の照覧(しょうらん)恥づかしからざらんや。
地獄の苦しみ恐るべし恐るべし。慎むべし慎むべし。

上根(じょうこん)に望めても卑下すべからず。
下根(げこん)を捨てざるは本懐(ほんがい)なり。
下根に望めても・慢(きょうまん)ならざれ。
上根もも(漏)るゝ事あり、心をいたさざるが故に。

 凡(およ)そ其の里ゆかし(※心が引かれる。慕わしい。懐かしい。)けれども道絶たえ縁なきには、通ふ心もをろ(疎)そかに、其の人恋しけれども※憑(たの)めず契(ちぎ)らぬ(※夫婦の約束をする)には、待つ思ひもなをざり(等閑)なるやうに、彼の月卿雲客(げっけいうんかく)に勝れたる霊山浄土(りょうぜんじょうど)の行きやす(易)きにも未だゆかず。
相手に、こちらが希望するようにしてくれることを伝えて願う。
※たよりになるものとしてあてにする。力としてたよる。

「我即是父(がそくぜふ)」の柔軟(にゅうなん)の御すがた見奉るべきをも未だ見奉らず。
是誠に袂(たもと)をく(腐)たし、(※着物の袂が泣き濡れて腐るほど嘆く)胸をこが(焦)す歎(なげ)きならざらんや。
暮れ行く空の雲の色、有明方(ありあけがた・※月が残っている夜明け方の頃。)の月の光までも心をもよほす(※促す。催促する。せきたてる。)思ひなり。
事にふれ、をりに付けても後世(ごせ)を心にかけ、花の春、雪の朝(あした)も是を思ひ、風さは(戦)ぎ、
村雲(※高積雲層積雲のこと。むらがり立つ雲。一群(む)れの雲。)

まよふ夕(ゆうべ)にも忘るゝ隙(ひま)なかれ。
出る息は入る息をまたず。
何なる時節ありてか、「毎自作是念(まいじさぜねん※毎(つね)に自ら是の念を作さく)
の悲願を忘れ、何なる月日ありてか、無一不成仏の御経を持(たも)たざらん。
昨日(きのう)が今日(きょう)になり、去年の今年となる事も、是期(ご)する処の余命にはあらざるをや。
(昨日死ぬはずだったのが今日まで延び・・・・成仏した境界ではない)

総て過ぎにし方をかぞへて、年の積るをば知るといへども、今行末(ゆくすえ)にをいて、一日片時も誰か命の数に入るべき。
(過去を振り返って、自分の積み重ねた年齢は知っているけれども、行く末を考えたら、いつ死んでもおかしくない。誰が果たして余命を延ばすグループにいられることができよう)

臨終已(すで)に今にありとは知りながら、我慢偏執名聞利養(がまんへんしゅうみょうもんりよう)に著(じゃく)して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下(むげ※それより下はない。ひどい。極めて卑しい)
にかひなし。

さこそは「皆成仏道の御法(みのり)」とは云ひながら、此の人争(いか)でか仏道に※「ものうからざるべき。」(※もの憂いと思わないでいられようか)
「色なき人の袖にはそゞろに月のやどる事かは。」

新古今集』藤原秀能明石かた色なき人の袖をみよすゝろに月もやとるものかは色なき人の袖とは無位無官になっていた光源氏を暗示する)
そぞろに  何とはなしである。わけもなく

又命已に一念にすぎざれば、仏は一念随喜(いちねんずいき※随喜→随順慶喜 信順して歓喜すること。)  
の功徳と説き給へり。
若し是「二念三念期す」と云はゞ、平等大慧の本誓、頓教(とんきょう)一乗皆成仏の法とは云はるべからず。
流布の時は末世法滅に及び、機は五逆謗法をも納めたり。
故に頓証菩提(とんしょうぼだい)の心におきて(掟)られて(※固く信じて、固く決めて)、狐疑執着(こぎしゅうじゃく)の邪見に身を任(まか)する事なかれ。

生涯幾(いくば)くならず。
思へば一夜の仮の宿を忘れて幾(いくば)くの名利をか得ん。
又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。
只先世の業因に任せて営むべし。
世間の無常をさとらん事は、眼に遮(さえぎ)り(※あまりに多くの姿がある)
耳にみてり。
雲とやなり、雨とやなりけん、昔の人は只名をのみきく。
(※偉人・賢人も名前だけは残っているが、本人は雲にも雨にもなってしまっている)

露とや消へ、煙とや登りけん、今の友も又みえず。
(※今世のの友も、死に別れれば、露とも煙ともなってしまっている)

我いつまでか三笠(みかさ)の雲と思ふべき。
(※自分が死んだときも、いつまでも三笠山にかかる雲としてそこに留まっていない)

春の花の風に随ひ、秋の紅葉(もみじ)の時雨(しぐれ)に染むる。
是皆ながらへぬ世の中のためしなれば、法華経には
「世(よ)は皆牢固(ろうこ)ならざること、水沫泡焔(すいまつほうえん)の如し」 とすゝめたり。
「以何令衆生得入無上道(いがりょうしゅじょうとくにゅうむじょうどう)」
(※何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと)

の御心(みこころ)のそこ、順縁逆縁の御ことのは、已に本懐なれば暫くも持つ者も又本意にかないぬ。
又本意に叶はゞ仏の恩を報ずるなり。

悲母(ひも ※慈悲深い母親のような)深重の経文心安ければ、「唯我一人」の御苦しみもかつがつ(僅々 ※辛うじて。やっと)やすみ給ふらん。
釈迦一仏の悦び給ふのみならず、諸仏出世の本懐なれば、十方三世の諸仏も悦び給ふべし。
「我即ち歓喜す、諸仏も亦然なり」 と説かれたれば、仏悦び給ふのみならず、神も即ち随喜し給ふなるべし。

伝教大師是を講じ給ひしかば、八幡大菩薩は紫の袈裟(けさ)を布施し、「※空也(くうや)」上人是を読み給ひしかば、「松尾の大明神(だいみょうじん)」※は寒風をふせがせ給ふ。

※京都区右京区嵐山にある松尾神社。空也伝 雲林院にいたとき、法味に飢えて寒さに震えた老人と現ず。空也、40年間法華経を読んできた間中着ていた衣を与えて、法味を回向した)

 されば「七難即滅七福即生」と祈らんにも此の御経第一なり。
現世安穏と見えたればなり。
他国侵逼難・自界叛逆の難の御祈祷(きとう)にも、此の妙典に過ぎたるはなし。
「百由旬の内に諸の衰患(すいげん)無からしむべし」 と説かれたればなり。
然るに当世の御祈祷はさかさまなり。
先代流布の権教なり。
末代流布の最上真実の秘法にあらざるなり。
譬へば去年の暦(こよみ)を用ゐ、烏(からす)を鵜(う)につか(使)はんが如し。
是偏(ひとえ)に権経の邪師を貴みて、未だ実教の明師に値はせ給はざる故なり。
惜しいかな、文武の「卞和(べんか)があら玉」※、何(いず)くにか納めけん。

嬉しいかな、釈尊出世の「髻(もとどり)の中の明珠」、今度我が身に得たる事よ。
十方諸仏の証誠としているがせならず。
さこそは「一切世間には怨多く信じ難し」と知りながら、争(いか)でか一分の疑心を残して、決定無有疑(けつじょうむうぎ)の仏にならざらんや。
過去遠々(おんのん)の苦しみは、徒(いたずら)にのみこそうけこ(受来)しか。
などか暫(しばら)く不変常住の妙因をうへざらん。
未来永々の楽しみはかつがつ(※どうにか。ともかく。2 とりあえず。急いで。)
心を養ふとも、しゐ(強)てあながちに電光朝露(でんこうちょうろ)の名利をば貪(むさぼ)るべからず。
「三界は安きこと無し、猶火宅の如し」とは如来の教へ「所以に諸法は幻の如く化の如し」とは菩薩の詞(ことば)なり。
寂光の都ならずば、何(いず)くも皆苦なるべし。
本覚の栖(すみか)を離れて何事か楽しみなるべき。
願はくは「現世安穏後生善処(げんぜあんのんごしょうぜんしょ)」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞、後生の弄引(ろういん※手引き)なるべけれ。
須(すべから)く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧(すす)めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
                                日蓮花押