●自行 勧門
「天の諸の童子、以て給使(きゅうじ)を為さん、刀杖も加へず、毒も害すること能はじ」土篭御書   文永八年一〇月九日  五〇歳 483

●祈り
▲豈(あに)軽瘡を愈(い)やして長寿を招かざらんや。此の語微(しるし)無くんば声を発(お)こして叫喚せよ。「一切世間の眼は大妄語の人、一乗妙経は綺語(きご)の典、名を惜しみたまはヾ世尊は験(しるし)を顕はし、誓を恐れたまはヾ諸の賢聖は来たり護りたまへ」と。(太田入道殿御返事 建治元年一一月三日  五四歳 913

▲釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄    文永一〇年四月二五日  五二歳 653

●悪人等の成仏不成仏
▲末代の悪人等の成仏不成仏は、罪の軽重に依らず但此の経の信不信に任すべし。(南部六郎三郎殿御返事   文永一〇年八月三日  五二歳 684

▲法華経の心は当位即妙(とういそくみょう)・不改本位(ふがいほんい)と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり。
684

●三道転じて三徳
正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり。(当体義抄 文永一〇年 五二歳 694)

●当体蓮華
日蓮が一門は、正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てヽ、正直に正法正師の正義を信ずる故に、当体蓮華を証得して常寂光(じょうじゃっこう)の当体の妙理を顕はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり。701

●修行
同じ法華経にてはをはすれども、志をかさぬれば他人よりも色まさり利生(りしょう)もあるべきなり。乙御前御消息  建治元年八月四日  五四歳 ≒895

●宝塔
末法に入って法華経を持つ男女(なんにょ)のすがたより外には宝塔なきなり。若し然れば貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなふるものは、我が身宝塔にして、我が身又多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。
今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり。此の五大は題目の五字なり。然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此より外の才覚無益(むやく)なり。
聞(もん)・信(しん)・戒(かい)・定(じょう)・進(しん)・捨(しゃ)・慚(ざん)の七宝(しっぽう)を以てかざりたる宝塔なり。
多宝如来の宝塔を供養し給ふかとおもへば、さにては候はず、我が身を供養し給ふ。我が身又三身即一の本覚(ほんがく)の如来なり。かく信じ給ひて南無妙法蓮華経と唱へ給へ。こゝさながら宝塔の住処なり。経に云はく「法華経を説くこと有らん処は、我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり。
 あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ(譲)る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり。(阿仏房御書 文永一二年三月一三日  五四歳 792

●良いものは良い
現に勝れたるを勝れたりという事は慢にに(似)て大功徳となりけるか。撰時抄 建治元年六月一〇日  五四歳 869

●今世の御利益
法華経の八の巻に云はく「若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は乃至所願虚(むな)しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」
「若し之を供養し讃歎(さんだん)すること有らん者は当(まさ)に今世に於て現の果報を得べし」871

真実一切衆生色心の留難を止(とど)むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり。四条金吾殿御返事   建治三年  五六歳 1194

●今生も息災延命
法華経の行者は信心に退転無く身に詐親(さしん)無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥(たし)かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり。最蓮房御返事   文永一〇年一月二八日  五二歳 642

●自受法楽
一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽(ゆうらく)なきなり。経に云はく「衆生所遊楽」云云。此の文あに自受法楽(じじゅほうらく)にあらずや。
遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千自受用身の仏にあらずや。四条金吾殿御返事  建治二年六月二七日  五五歳 991

法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏(げんぜあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)とは是なり。991

たゞ世間の留難来たるとも、とりあへ給ふべからず。賢人聖人も此の事はのがれず。991

苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へゐ(居)させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ991

▲正月の一日は日のはじめ、月の始め、とし(年)のはじめ、春の始め。此をもてなす人は月の西より東をさしてみ(満)つがごとく、日の東より西へわたりてあき(明)らかなるがごとく、とく(徳)もまさり人にもあい(愛)せられ候なり。十字御書    弘安四年一月五日  六〇歳1551

只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし。聖愚問答抄 上   文永五年  四七歳 406

此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼(く)の如し。いかなる病さは(障)りをなすべきや。鬼子母神(きしもじん)・十羅刹(らせつ)女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さい(幸)はいは愛染(あいぜん)の如く、福は毘沙門(びしゃもん)の如くなるべし。いかなる処にて遊びたは(戯)ぶるともつヽ(恙)があるべからず。遊行(ゆぎょう)して畏れ無きこと師子王の如くなるべし。十羅刹女の中にも皐諦女(こうだいにょ)の守護ふかヽるべきなり。
但し御信心によるべし。つるぎ(剣)なんども、すヽ(進)まざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心のけなげ(健気)なる人こそ用ふる事なれ。鬼にかなぼう(金棒)たるべし。経王殿御返事 文永一〇年八月一五日  五二歳 685

経王御前にはわざはひも転じて幸(さいわ)ひとなるべし。あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。「充満其願、如清涼池」「現世安穏、後生善処」疑ひなからん。685

いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門とな(成)りとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだ(定)まりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。諸法実相抄 文永一〇年五月一七日  五二歳 666

かつ(餒)へて食をねがひ、渇(かっ)して水をしたうがごとく、恋て人を見たきがごとく、病にくすりをたのむがごとく、みめかたち(形容)よき人、べに(紅)しろいものをつくるがごとく、法華経には信心をいたさせ給へ。さなくしては後悔あるべし上野殿御返事    弘安二年四月二〇日  五十八歳 ≒1359

●煩悩即菩提
▲法華経に値ひ奉る時、八苦の煩悩の火、自受用報身の智火と開覚するなり 1739

▲第四 破有法王(はうほうおう) 出現世間(しゅつげんせけん)の事(中略)
「此の煩悩生死を捨てゝ、別に菩提涅槃有り」と云ふは権教(ごんきょう)権門(ごんもん)の心なり。今経の心は煩悩生死を其の儘(まま)置いて菩提涅槃と開く処を破と云ふなり。有とは煩悩、破とは南無妙法蓮華経なり。1742

●悟り
我等が色心の二法を無常と説くは権教なり、常住と説くは法華経なり。無常と執する執情を滅するを即滅化城と云ふなり。1745

傅大士(ふだいし)の釈に云はく「朝々(ちょうちょう)仏と共に起き、夕々(せきせき)仏と共に臥(ふ)す。時々に成道し、時々に顕本す」≒1801

始めて我が心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名づく。所謂南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり。(御義口伝 1801)

一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々に起こるなり。所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。1802

●三毒
妙法の大良薬を服する者は貪瞋癡(とんじんち)の三毒の煩悩の病患(びょうげん)を除くなり。法華の行者南無妙法蓮華経と唱へ奉る者、謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり。法華の行者罵詈(めり)せらるゝも忍辱(にんにく)を行ずるは瞋恚(しんに)の病を除くなり。法華経の行者是人於仏道(ぜにんのぶつどう)決定無有疑(けつじょうむうぎ)と成仏を知るは愚癡(ぐち)の煩悩を治するなり。されば大良薬は末法の成仏の甘露(かんろ)なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは大良薬の本主なり。1768

●六根清浄
功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。されば妙法蓮華経の法の師と成りて大きなる徳(さいわい)有るなり。功(く)も幸(さいわい)と云ふ事なり。又は悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳(おおきなるさいわい)とは即身成仏なり、又六根清浄なり。法華経の説の文の如く修行するを六根清浄と意得べきなり 1775



功徳は浅軽(せんきょう)なり。此等の罪は深重(じんじゅう)なり。( 開目抄 文永九年二月 五一歳 573)

叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとが(咎)にあらず。(日厳尼御前御返事 弘安三年一一月二九日 五九歳 1519)

人路をつくる、路に迷ふ者あり、作る者の罪となるべしや。(撰時抄 建治元年六月一〇日 五四歳 835)