ジダン氏の質問に返答す 1  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 223()12063 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

返答させていただきます。
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> DATE:  2月23日(金)03時25分48秒
> TITLE: Re: 卞氏の問難へ反論す 1
> NAME: ジダン

> 管理人様
>
▼> ジダンと申します。以前に書き込ませていただいた者です。その節は、73様にお返事をいただいて有難うございました。仕事で多忙のため、久しぶりの書き込みですが、お答えいただけると幸いです。以下の部分で少々、疑問に思った部分がありましたので、質問させていただきます。
>
●>> ■1「仏宝・法宝は必ず僧によて住す。」
>>
>> @ この御文の「仏宝・法宝」とは三大秘法→一大秘法→人法一箇の戒壇の大御本尊 に究竟せられる。
>> A 煎じ詰めれば大聖人の仏法とは戒壇の大御本尊。
>>
>
▼> この『戒壇の大御本尊』に関しての質問です。
> そもそも仏法における基本概念として、『無常』というものがありますよね?
> 『成住壊空』は、この世に存在するすべての物質(失礼は承知の上で表現します)に対して逃れようのない法則であると思います。そこで疑問に思ったのですが今、大石寺にある大御本尊は絶対に壊れない、絶対に常住のモノなのでしょうか?
>
>> 【文証】
>>
>> ■「余は二十七年なり(=大聖人様は弘安二年十月に出世の本懐を遂げられる)」(聖人御難事)
>> ■三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。(三大秘法抄)
>>
>> B 三大秘法(本門の本尊・戒壇・題目)整足してはじめて即身成仏の功徳を成ずる。
>>
>> ■但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、これを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり。(観心本尊文段上)
>> ■但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うべし。これ末法の観心なり。(観心本尊文段上)
>> ■「事の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ちこれ人法体一の本門の本尊なり。
>>  この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる所作は、即ちこれ本門の題目なり。本尊及び行者の所住の処は、即ちこれ本門の戒壇なり。(法華取要抄文段)
>>
>> C つまり本門の戒壇で本門の本尊に本門の題目を唱えてはじめて三大秘法が整足する。これに事と義がある。
>
>
▼> 『無常』という観点から考えるといわゆる『大御本尊』とは、大石寺に御安置されている『常住』の『大御本尊』のことではないと思われるのですが如何?
>
> 『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり』(日女御前御返事)
>
> 上記の『すりかたぎ(摺形木)』という御言葉からも察するに、『日蓮大聖人の大御本尊』とは、あくまで御本仏の生命が「五陰仮和合」して顕されたものであり、『分身散体』の義からしても『大石寺にある大御本尊』を指したものではなく、文字通り一切衆生に授与される「お形木」も含めた御本尊こそが「本門の本尊」あると思います。また「本門の戒壇」についても、『法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも、直至道場なり、道場とは究竟の寂光なり』(御講聞書)との御文から、如説修行の行者の住処を「本門の戒壇」というのではないでしょうか?それに、管理人様の引かれた上記の御文も『大石寺にある大御本尊』の御図顕以前の御書があり、直接にその正統性を証明する御文にはならないと思うのですが、如何でしょう?
>
> 教学の無い、無智無学の私の質問ですが後学のためにも、お答えいただければと思います。
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では、何点かに分類して整理しましょう。

【1】、戒壇の大御本尊も「物質」であるから、無常→成住壊空 を免れないのではないか?

これは以前既にある方へ返答してある内容と同様なので、その論文を編集再掲します。

【編集再掲】

1、

この宇宙(といってもビッグバンで始まったところのこの宇宙を包含する時空も含めての「宇宙」なのですが)にはまさに「法」があり、その法はまた存在そのものの本源である。と。
そして、その法はただ法として存在しているだけではなくてそこにまた自ずからその法を覚知する智慧の働きも備えていた。と。
そしてこの法と智慧が相冥合するところ自ずからその法を説かれる「人」としての働きが生じる。
その方が様々な深い因縁によって再びこの地球と言う天体の日本と言う国にお生まれになって、日蓮と名乗られ、その根本・本源の法を戒壇の大御本尊様というお姿で顕された。と。

そこでこの戒壇の大御本尊様は今後どうなるのであろうか?
ということですよね?

まずその本源の法を覚知して御図顕できる方は日蓮大聖人様以外いらっしゃらないと思います。
「御本仏」と言う存在の約束事として、今も今後も永劫とも言える年月、現れないのですね。

しかもその御本仏日蓮大聖人は究極唯一根源の御本尊として戒壇の大御本尊を顕されていらっしゃるので、この御一体しかこの世で我々一般の衆生が宇宙本源の法に触れ、その本源の妙法を覚知することのできる御本尊はいらっしゃらない。(※これは根源の事としての意義であり、この根源の戒壇の大御本尊からの枝葉の関係である正統な御本尊は義の戒壇である)
ただしここに大聖人が定められたことは、この戒壇の大御本尊の御内証を唯授一人の血脈相承で一人から一人へと相承なされ、その方がこの根本の戒壇の大御本尊を書写した御本尊(※あるいは、御法主上人の御允可為された御形木御本尊)の前で唱題をするならば、同様の悟りを得ることができるということです。(※義の戒壇の意)

そこで戒壇の大御本尊様自体はどうなっていくのかという疑問が生じるわけですね。
こと戒壇の大御本尊のことに関しては軽々に語るのは真に憚られるのですが、根本的には大聖人様即戒壇の大御本尊様ですから、龍ノ口の御法難の如くに、また「草木成仏」の義により、不思議なる御加護があらせられるということだと思います。

そこに加えて今後その時代時代の唯授一人の血脈相承をお受けになられた御法主上人が最新の保存技術を駆使されながら厳護なされていくことと拝察申し上げます。
現に七百年間には幾度か、御衣替え、お色直し等の儀も行われてきました。

これらの意義を大聖人は端的に

■「仏法法宝は必ず僧によて住す」と仰せです。

これ以上の解釈はさすがに憚られますので割愛しますが、いずれにせよ、戒壇の大御本尊を離れて大聖人様の御悟りはないのであります。
また、我々も妙法の悟りを得ることは不可能かと思います。
―――――――――――
2、

今後の時代によって、その時代の最先端の科学技術を駆使し保存厳護申し上げていけば、想像出来ない位未来まで御護り申し上げることは不可能じゃないと思いますよ。
歴代の御法主上人が時に宣しきを得た方途で久住せしむることは科学的にも矛盾はないと思います。

ではたとえば「地球だっていつかは太陽に飲み込まれてしまい無くなってしまうではないか?」との疑問も生じましょう。
これは何もこの「地球」という小さな天体に拘る事は無い訳で、それなりのテクノロジーを用い、他天体への御遷座もありえましょう。

ですから、結論として、常に唯授一人・血脈相承の御法主上人が久住せられ、ありとあらゆる方途を用いても、仏宝・法宝であれせられる戒壇の大御本尊様は厳護せられていく、ということです。

ですからそういう意義も含められてと拝しますが、こういう御文があるのです。

■「白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。」

決して現時の科学的な常識を無視した形での戒壇の大御本尊様の永存を主張しているのではないのですよ。

今まで申し上げてきたように、戒壇の大御本尊様は血脈相承されたその時代時代の御法主上人の御裁断によってあらゆる形をとって永存されるでしょう。
ですから、貴方の心配は杞憂ということになると思います。
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3、

●貴方の前提が「戒壇の大御本尊はいつか滅びる」ですが、このことに関しては既に詳述してあります。
結論から言えば、滅びないように僧俗相和してあらゆる方途をも講じていくのです。
それが僧俗共に為して行く広宣流布への道程なのです。

法華経とは観念的な何物かではありません。

■法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。秘す可し秘すべし。

つまり戒壇の大御本尊様こそが法華経の本体・実体なのです。
―――――――――――
4、

●ここの疑問が実は真に深く、大重要事だと思います。

ここが難信難解・難解難入 なんだと思うのですね。

つまり、宇宙の法そのものが永遠、というのは信じ易い。理解し易い。⇒ 法身如来 なんです。
で、この法そのものを悟る働きとしての智慧の永遠性・・ここもまぁ、何とか信じれる。  ⇒ 報身如来  ですね。
で、ここです、ここが大問題なのですね。
この法身如来と報身如来が相合するところに衆生を救う具体的な仏様の働きが現れる。 ⇒ 応身如来 です。

この応身如来様も永遠なのです。・・え??!となるんですよね。真面目に考えると。

この三身は即一身で、そのまま大聖人様であり、大聖人様の御身御一身はそのまま即三身なのですね。
そしてその大聖人様はそのまま戒壇の大御本尊様なのであります。
戒壇の大御本尊様は報身如来様を表に顕されていらっしゃいますけれども、一身即三身・三身即一身の御本仏であらせれられ、三世常恒なのです。
つまり永遠に存在されるのです。

ここが信じれるか否かの具体的な面での瀬戸際です。

この一身即三身・三身即一身の仏様の寿命は永遠無限であると、釈尊は寿量品で説かれた。
ここは到底信じがたいけどもしかし信じなさいよ、と。

それが開目抄に

■「本門十四品も涌出・寿量の二品を除きては皆始成を存せり。雙林最後の大般涅槃経四十巻、其の外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず。」

とあるところだと思います。

根本的にはそう信じ拝しまさに血統正しい御本尊様と境智冥合した時に、真の成仏の悟りがえられるのだと思います。

今現時にある物質だけを考えれば、確かに変化していくことは当然ですが、現の戒壇の大御本尊様も御衣替えや御化粧直しをされて、大聖人様御建立当時そのままではないですから、今後も、あらゆる手立てを尽くして、厳護されていくのです。
でも、その為には新たな保存の為の物質も加わっていきながら、しかし厳然と御護りされていくのです。

つまり変化しながら永存していただくのです。

貴方が戒壇の大御本尊様に絶対信をとれる、一段階として、今までの状況と今後の状況を説明しました。

今直ちに永劫の未来まで想いを馳せてしまうと確かに貴方の言うような気持ちになりますが、ここはしかし、凡慮を絶した仏の智慧を、そして御指南を勇気を出して心開いて信じる以外ないのですよ。

そして信じて戒壇の大御本尊様に南無妙法蓮華経を唱えたとき、間違いなく生まれてから今までに感じたことのない境地を感得することができるのです。

貴方が私と共々に戒壇の大御本尊様を拝する日を祈っていますよ。
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つづく。

 

ジダン氏の質問に返答す 2  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3 5()162020 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

久しぶりに少々時間が出来たので、前回の続きがあるのですが、先に以下の件について返答します。
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Re: ジダン氏の質問に返答す 1

> 管理人様
>
>  返答、有難うございます。
> それで内容に関してですが・・・かなりの長文で、私には理解しづらいのですが、思ったことを書かせていただきます。
>
>  他の方に対する返答の再掲ということなので、私の質問とは違う内容が語られていると思います。▼1『それからまず、『大石寺の大御本尊』の今後について質問をしたわけではありません。』
―――――――――――
↑この▼1は少々変ですね。

▼「『無常』という観点から考えるといわゆる『大御本尊』とは、大石寺に御安置されている『常住』の『大御本尊』のことではないと思われるのですが如何?」
また
以下の▼2『』の内容はまさに、”『大石寺の大御本尊』の今後について”の貴殿のお考えでしょう。
―――――――――――
>  『御本尊』を御図顕できるのは日蓮大聖人のみ。この点については異論ありません。そして、信徒一人ひとりの信心の活動の上で、法主の允可があるかどうかは別にして、お形木御本尊が必要であることは言うまでもないでしょう。
―――――――――――
↑その「信徒一人ひとりの信心の活動の上で」「必要である」「お形木御本尊」は、一体どういう謂れで「御本尊」として成立するかどうか、が重要な大問題ではないですか?
この板上で何度も記していますが、事実、今創価学会が出している掛け軸は「開眼」がないことは明白な事実です。
しかし、御書には

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。(木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳 638)

との仰せが厳然と在り、「開眼供養」が為されない”もの”は本尊どころか、魔札・鬼札であると断言されております。
―――――――――――

>  ▼2『それから、『大御本尊』はどうなっていくかとか、最新の保存技術によって厳護していくなど、書かれていますが、保存技術云云などと言われている時点、『大御本尊』も『無常』を免れないと言っているのも同然であると思います。『大御本尊』が滅びないように厳護していく。厳護しなければ滅びるから、厳護していく。この時点で矛盾が生じていますね。』
―――――――――――
↑全く矛盾していません。
この世の存在で、全く変化しないものなど在り得ません。
その上では、戒壇の大御本尊様も「無常」の原理の上で、「常住」為されるのであります。
正信の僧俗があらゆる方途を尽くして厳護申し上げていくことで末法常住へ御奉公させていただくのであります。
また、更にその上に、人即法・法即人の事の一念三千の御当体であらせられる戒壇の大御本尊様に法界全体からの不思議な御加護が顕れることは絶対間違いのないことでしょう。
それは、大聖人様の御身に龍ノ口の光物のごとき現証が顕れたことからしても明白です。

■聖人は横死せず(神国王御書    弘安元年  五七歳 P1299)

戒壇の大御本尊様は日蓮大聖人様なのですから、「横死」などという「不慮の災難・故意による損壊」などしないのであります。

つづく

 

ジダン氏の質問に返答す 3  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3 5()173728 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

▼>  『成住壊空』の原理からも、仮に滅びたとしてもその生命は空であり、存在し続ける。『すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり』と仰せの通り、その根本の生命が御図顕された『御本尊』であると思います。
―――――――――――
↑ここは前回の未回答の部分と重ねてお答えします。
―――――――――――
▼『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり』(日女御前御返事)

上記の『すりかたぎ(摺形木)』という御言葉からも察するに、▼1『『日蓮大聖人の大御本尊』とは、あくまで御本仏の生命が「五陰仮和合」して顕されたものであり、『分身散体』の義からしても『大石寺にある大御本尊』を指したものではなく、文字通り一切衆生に授与される「お形木」も含めた御本尊こそが「本門の本尊」あると思います。』また▼2『「本門の戒壇」についても、『法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも、直至道場なり、道場とは究竟の寂光なり』(御講聞書)との御文から、如説修行の行者の住処を「本門の戒壇」というのではないでしょうか?』それに、▼3『管理人様の引かれた上記の御文も『大石寺にある大御本尊』の御図顕以前の御書があり、直接にその正統性を証明する御文にはならないと思うのですが、如何でしょう?』
―――――――――――
1、「多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊」との御文について。

これは、「上行再誕」としてのお立場すら明示されておられない、謙遜であり、且つまた、信行者に不信を起こさせない為の御配慮のお言葉と拝します。
それは、

■「日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を」
■「多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏の」

等の御文で領解できるところであります。
であるから、

■「是全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中(たほうたっちゅう)の大牟尼世尊(だいむにせそん)・分身(ふんじん)の諸仏のすりかたぎ(摺形木)たる本尊なり。」

と、一往、釈尊を教主としたところの表現を為されているのです。
もし、この御文の附文の辺をそのまま解したら、

「大聖人様は法華経の虚空会での釈尊の顕した「御本尊」をそのまま版木にして摺った本尊を今顕しているのである。」との意になり、大聖人様=能、釈尊=所 との「能所」の関係に於いて、能所が逆になってしまい、甚だ不可です。
―――――――――――

2、▼1『『日蓮大聖人の大御本尊』とは、あくまで御本仏の生命が「五陰仮和合」して顕されたものであり、『分身散体』の義からしても『大石寺にある大御本尊』を指したものではなく、文字通り一切衆生に授与される「お形木」も含めた御本尊こそが「本門の本尊」あると思います。』について。

【結論】

これは、枝葉と根源の筋目・縦分けに暝いが故の浅見、と言わざるを得ません。

【文証】

■観心本尊文段上    富山大石寺二十六世日寛謹んで記す
 (序)
 夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深密の大法にして本地唯密の正法なり。この本尊に人あり法あり。人は謂く、久遠元初の境智冥合、自受用報身。法は謂く、久遠名字の本地難思の境智の妙法なり。法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり。その体は一なりと雖も、而も人法宛然なり。応に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ。
 これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故十方三世の恒妙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。故に宗祖云く「此の書は日蓮が身に当る一期の大事なり」等云云。


■日寛上人・取要抄文段

広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。妙楽云く「像末の四依、仏法を弘宣す。化を受け、教を禀け、須く根源を討ぬべし。若し根源に迷う則は増上して真証に濫る」等云云。今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」(取意)等云云。

↑以上の御指南中の、■「本門三大秘法の随一」とは、”「本門の本尊」とはいえども中でもその根本が戒壇の大御本尊様である。”との意であり、
その意は■「一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。」に、明々白々であります。
―――――――――――

3、▼2『「本門の戒壇」についても、『法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも、直至道場なり、道場とは究竟の寂光なり』(御講聞書)との御文から、如説修行の行者の住処を「本門の戒壇」というのではないでしょうか?』について。

↑これは、上記「日寛上人・取要抄文段」の御指南によって、全く不可の謬論であります。
―――――――――――

4、▼3『管理人様の引かれた上記の御文も『大石寺にある大御本尊』の御図顕以前の御書があり、直接にその正統性を証明する御文にはならないと思うのですが、如何でしょう?』について。

当方の文とは以下ですね。
―――――――――――
> ■1「仏宝・法宝は必ず僧によて住す。」
>
> @ この御文の「仏宝・法宝」とは三大秘法→一大秘法→人法一箇の戒壇の大御本尊 に究竟せられる。
> A 煎じ詰めれば大聖人の仏法とは戒壇の大御本尊。
>
> 【文証】
>
> ■「余は二十七年なり(=大聖人様は弘安二年十月に出世の本懐を遂げられる)」(聖人御難事)
> ■三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。(三大秘法抄)
>
> B 三大秘法(本門の本尊・戒壇・題目)整足してはじめて即身成仏の功徳を成ずる。
>
> ■但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、これを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり。(観心本尊文段上)
> ■但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うべし。これ末法の観心なり。(観心本尊文段上)
> ■「事の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ちこれ人法体一の本門の本尊なり。
>  この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる所作は、即ちこれ本門の題目なり。本尊及び行者の所住の処は、即ちこれ本門の戒壇なり。(法華取要抄文段)
>
> C つまり本門の戒壇で本門の本尊に本門の題目を唱えてはじめて三大秘法が整足する。これに事と義がある。
―――――――――――

【結論】
大聖人様の出世の本懐であられる「本門の本尊」とはやはり戒壇の大御本尊様以外には在り得ないのであります。

【文証】

■三大秘法稟承事    弘安五年四月八日  六一歳
戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり。

■具騰本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄)   弘安三年一月一一日
三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり。

↑との仰せから、「三大秘法の事の本門の戒壇」である富士山本門寺の”本堂”に複数体の御本尊が安置される道理はないのであって、御安置する御本尊はただ御一体しか在り得ません。
ではその御一体の御本尊とはどの御本尊様なのか。

■「余は二十七年なり(=大聖人様は弘安二年十月に出世の本懐を遂げられる)」(聖人御難事)
と仰せであり、更にまた、「本門戒壇」との銘があられる御本尊は弘安二年十月十二日御図顕の戒壇の大御本尊しかないのであります。

この論証に加え、上記日寛上人の御指南を併せ拝すれば、戒壇の大御本尊様以外に大聖人様の仏法の正体・根源は他に在り得ないと言う事です。

 

ジダン氏の質問に返答す 4  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3 9()141435 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

今日も少々、時間がとれるので書かさせていただきます。
―――――――――――
Re: 管理人様

> また一段と長く返事をいただきまして、有難うございます。
> 少しづつではありますが、感想を述べさせていただきます。
>
> 重ねて申し上げますが、私が最初に問うたのは、「『大御本尊』の存在は無常であるか否か?」ということであり、「『大御本尊』を今後どのように保存していくのか?」ということではありません。▼1『また、私見ではありますが以前にも申し上げた通り、私は「一切衆生に授与された『お形木』も含めた御本尊こそが『本門の本尊』である」と思っています』し、▼2『たとえ目に見える形としては無くなっても、その生命は常住であると考えておりますので、仮に『大御本尊』が無くなったら?という心配はしておりません。』
>
> ですから管理人様の答えの中で保存技術云云と語られた時点で『大御本尊』も無常の存在であると、私は解釈します。
>
> それから、教学以前の話になりますが、仮に地球が無くなっても他の天体に遷座してというお話でしたが、それではこの宇宙そのものが無くなってしまったらどうなるのでしょう?
> ビッグバンなどがある時点で、宇宙も空の状態から成じたもので、「無常」であります。無論、宇宙は無くなっても御本仏の生命は空の状態で存在し続けますが、宇宙が無くなった時点で「御本尊様」も形としては存在し得ないと思います。
>
>
> 手短かではありますが、また時間を見つけて感想を述べさせていただきます。
―――――――――――
では、▼1『』について、考察させていただきます。

これは、ある一義に於いては正しいと言えましょう。
しかし、そこにはきちんとした道理による裏付けが必要です。
御形木御本尊は、全て日蓮正宗御歴代上人の「御書写」御本尊です。
では御歴代上人は何を御書写されているかといえば、「戒壇の大御本尊の御内証」と仰せです。
ですから、御形木御本尊は全て戒壇の大御本尊が元であり、戒壇の大御本尊が能生であり、御形木御本尊は所生の関係にあります。

■仏は所生、法華経は能生、仏は身なり、法華経は神なり。然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし。(本尊問答抄   弘安元年九月  五七歳)

この↑御文の如くに、御形木御本尊が「仏」として坐しますためには、法華経→三大秘法→一大秘法→戒壇の大御本尊の御内証を伝持される御歴代上人の「開眼供養」が必要であります。

■流れを酌む者は其の源を忘れず(念仏無間地獄抄   建長七年  三四歳)

■流れを酌んで未だ源を知らざる故か。(五人所破抄   嘉暦三年七月)

ですから、源である戒壇の大御本尊を深く尊仰せずして「御形木御本尊」をどう拝しても「本門の本尊」の義は成立しません。
―――――――――――
次に、▼2『』について。

『御本仏の生命は目に見えなくても常住であるから戒壇の大御本尊が滅びても心配ない』との趣旨ですが、ここは大いに辟見と言わざるを得ません。
何故なら、御本仏の生命が常住としても、その一念三千の悟りを我等衆生が得られる為には、尊仰する法体が坐さなくては絶対に不可能であります。

■釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏し、王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便の教を儲け衆生を誘引す。其の後方便の諸の経教を捨てゝ正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕はして、其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し、人一の法と名づく。一人が上の法なり。

宇宙法界が即法身如来であり、そのことを「我が身は地水火風空なりと知ろしめし」たのが報身如来であり、法身如来と報身如来が冥合するところ直ちに応身如来が現れ、三身は即一身であり、この報身如来を中心として末法に御出現されたのでが戒壇の大御本尊でありますから、この報身如来を中心とするところの一身即三身である戒壇の大御本尊を離れて、衆生が即身成仏できる方途は在り得ません。
御形木御本尊はあくまでも、この戒壇の大御本尊=人法一箇・三身即一身・一身即三身・事の一念三千・十界本有常住の御内証を御書写された御本尊ですから、根源の戒壇の大御本尊への信なくしてはそのお力は現れないのは理の当然であります。

以上、意を尽くせませんが、あらあら、考察させていただきました。
宜しく、御深慮ください。

 

ジダン氏の質問に返答す 5  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 310()214344 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

教義的に興味深い内容ですね。
―――――――――――
Re: 大御本尊も無常の存在ということで、よろしいですね?

> 管理人様
>
> また少しですが、書き込ませていただきます。
>
> ー開眼についてー
>
> ■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。(木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳 638)
> あなたの引いた、この『木絵二像開顕之事』ですが、この御書の内容は御本尊の開眼について述べられたものでは無く、題名どおりの「木像」と「絵像」を象徴とした草木成仏について述べられたものであります。そして、一念三千を知らない諸宗とそれを盗用した法盗人の真言には「木絵二像」を開眼する資格は無く、法華経によってこそ、真の草木成仏が可能になることを示されています。この御書では結論として、法華経によってこそ真の草木成仏が可能になり、更には我ら衆生の、生死にわたる色心の成仏も可能になるという原理を語られています。
>
> この御書を御本尊の開眼について書かれたものというと矛盾が生じますよね?真言にも「南無妙法蓮華経 日蓮」と書かれた御本尊があるんですか?真言がこの御本尊を開眼供養するのですか?
―――――――――――
↑通読すると貴君は御文の読み方に、権実相対に於ける「附文」の辺と、文底三秘からの「元意」の辺との、筋目・縦分けがあるのをご存じないようですね。

以前貴君と全く同じ疑義を為した「やまいぬ。」という方がいてその方への破折文がそのまま貴君の疑難への答えとして成り立つのでここで編集再掲します。
―――――――――――
【破折】

「木画の二像」「木絵二像」「画木」等 とは、権実相対に於ける一往、附文の辺では、仏像・画像の本尊であるが、再往、元意の辺では、大聖人御顕示の曼荼羅御本尊のことである。
それは、
「木絵二像開眼の事」の前半に

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

とあり、この御文をただ表面的な「文」だけで読めば、
「仏像の前に法華経を置けばその仏像は本尊と為る」
また、
「法華経を御仏の心法と心得て、仏像・画像の前で開眼供養すれば仏像・画像がそのまま生きた仏身となり本尊となる」との解釈になってしまい、甚だ不可である。
下種の御本仏である大聖人様が上記のような”本尊”を本仏の真意としてお認めになる道理はない。
末法適時の本尊は文字曼荼羅本尊であることは大聖人の他の様々の御教示より明白である。
であるから、この御文の 木絵の二像 とは 大聖人の御本意の法門、三大秘法から開会して拝せば、まさに「文字曼荼羅御本尊」となるのである。
更に詳細に閲すれば、「木絵二像」の
木像 とは 板曼荼羅
絵像 とは 紙幅の御本尊 と拝せよう。

それは以下の日寛上人の御指南で「木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。」と表現される御本尊が「今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。」と配されることからも明白である。

■『観心本尊抄文段』日寛上人
「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。(中略)当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云」(文段集四七〇n)
―――――――――――
【再度、詳細に破折】

●当方の主張→> >形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。 (木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳 638)
>
> →邪法を以って本尊を開眼供養すれば、その本尊には魔や鬼が入り込む、との仰せである。

▼↑に対してやまいぬ。君の主張→> ※1「詮を以て之を謂わば今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏に非ずして
> 権仏なり権仏にも非ず形は仏に似たれども意は本の非情の草木なり、又本の非情の
> 草木にも非ず魔なり鬼なり、真言師が邪義印真言と成つて木絵二像の意と成れる
> ゆへに例せば人の思変じて石と成り倶留と黄夫石が如し、法華を心得たる人木絵
> 二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に
> 鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ
> 鬼をば奪命者といふ」
>
> おいおい、真言破折の文証かね?(^o^)
> しかもこの前段に何と書かれてあるのか、わざと切ったね。(^o^)
―――――――――――

1、御書の御文は、対機・時期・所対等を深く考慮して拝さなければ、大聖人様の御心を読み誤ることになる。
その原理は以下の御文に依って知れる。

■了義・不了義は所対に随って不同なり。(※これは、釈尊の経についてであるが、その原理はそのまま大聖人様の佐前・佐後等、あるいは対機によって説き分けられる全ての御法門にも通じる)

■諸の法相は所対に随って同じからず、敢えて偏執すること勿れ、敢えて偏執すること勿れ。(日寛上人)

2、この御書は権実相対を主軸に説かれている。であるから、三大秘法そのものをそのまま御説きになられていない。この場合は、文底秘沈の三大秘法の義から依義判文して拝さなくては大聖人様の御真意を諒することはできない。

【その証拠とする文証】

■木絵の三十一相の前に五戒経を置けば、此の仏は輪王とひとし。十善論と云ふを置けば、帝釈とひとし。出欲論と云ふを置けば、梵王とひとし。全く仏にあらず。又木絵二像の前に阿含経を置けば、声聞とひとし。方等・般若の一時一会の共般若(ぐうはんにゃ)を置けば、縁覚(えんがく)とひとし。華厳・方等・般若の別円を置けば、菩薩とひとし。全く仏に非ず。大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしつじ)経等の仏眼(ぶつげん)、大日の印・真言は、名は仏眼大日といへども其の義は仏眼大日に非ず。例せば仏も華厳経は円仏には非ず。名にはよらず。
 三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。

この御文は内外相対→大小相対→権実相対の勝劣の筋目を、経典の高下浅深を十界の境界に即して説かれた箇所であり、その明示されている主意は法華経と爾前権教との相対、つまり権実相対にある。
つまり、本尊義そのものが論の主意ではないのである。

3、四条殿の機が未だ、久遠実成の釈尊像への執着が強い時期であったが故に、大聖人様が暫時の善巧方便として、木絵二像=仏像・絵像を面に立てて「開眼」の意義を御教示為されている。
これは下種仏法出現の草創期であればこそ未だ対機が熟さないが故に無理からぬ説相である。

4、以上の前提に立った上で、※1の当該文は、特に真言宗のみを破折されているのではなく、真言宗を代表として(権)、草木成仏を為し得る唯一の法門、一念三千の法門(実)を盗み取った華厳宗等(権)を含め呵責せられておられるのである。

【その証拠とする文証】

■妙楽是をうけて釈するに「然るに亦倶(とも)に色香中道を許せども、無情仏性は耳を惑(まど)はし心を驚かす」云云。華厳の澄観(ちょうかん)が天台の一念三千をぬす(盗)んで華厳にさしいれ、法華・華厳ともに一念三千なり。但し華厳は頓々(とんとん)さき(先)なれば、法華は漸頓(ぜんとん)のち(後)なれば、華厳は根本さき(魁)をしぬれば、法華は枝葉等といふて、我れ理をえたりとおもへる意(こころ)山の如し。然りと雖も一念三千の肝心、草木成仏を知らざる事を妙楽のわらひ給へる事なり。今の天台の学者等、我れ一念三千を得たりと思ふ。然りと雖も法華をも(以)て、或は華厳に同じ、或は大日経に同ず。其の義を論ずるに澄観の見(けん)を出でず。善無畏(ぜんむい)・不空(ふくう)に同ず。詮を以て之を謂はゞ、→当該文※1

5、であるから、※1当該文の主意は、「一念三千の肝心、草木成仏の義を知らぬ者ども(権)が、本尊を開眼すれば、魔仏であり、鬼神である。法華を心得たる人(実)=三大秘法の御本尊を正統な立場に於いて書き顕せる人=大聖人 が、本尊を開眼供養しなければ、その本尊もどきは、拝む者の生気や寿命や功徳を吸い取り、今生には本人・家族・地域社会・・・果ては国家を滅ぼし、死後は無間地獄に堕ちる。」との御心である。

因みに、"敢えて本尊を真言等の邪法で開眼しなければ、そのような悪果報はないであろう、"と考えるのは早計である。
何故ならば、当該文を詳細に見ていくと、以下のように分類される。

■1 法華を心得たる人、木絵二像を「開眼供養せざれば」、家に主のなきに
※1「盗人(ぬすびと)」が入り、」
人の死するに其の身に
※2「鬼神」入るが如し。」

■2 今真言を以て日本の仏を供養すれば、
※3「鬼入りて人の命をうばふ。鬼をば奪命者(だつみょうしゃ)といふ。」
※4「魔入りて功徳をうばふ。魔をば奪(だつ)功徳者といふ。」
※5「鬼をあがむるゆへに、今生には国をほろぼす。」
※6「魔をたと(尊)むゆへに、後生には無間の獄に堕す。」

■1■2の両文を並立して閲すれば、
※1と※4
※2と※3  が相応している。

よって、

@ 法華を心得たる人=大聖人(=現時ではこの世で唯一御本尊を正統な立場に於いて書写できる御方=御当代御法主上人) が本尊を開眼供養が為されない”本尊もどき”と
A 真言宗に於いて開眼供養する”本尊もどき”は、

双方、

※1=※4=魔
※2=※3=鬼 となり、

結果
@A双方、
※5・※6となるのである。

つまり、わざわざ邪僧に開眼供養を頼まないとしても、本尊となるべき草木→木画二像→紙幅・板曼荼羅 を正当な資格者が開眼供養しなければ、邪僧が開眼供養したと同様に、魔が入り、鬼が入り、『拝む者の生気や寿命や功徳を吸い取り、今生には本人・家族・地域社会・・・果ては国家を滅ぼし、死後は無間地獄に堕ちる。』のである。

これは、まさに、創価学会が販売しているニセ本尊であり、身延のみやげ掛け軸等である。(その他ありとあらゆる"本尊"と称するもの全てである。)

以上の如くに、愚犬の恥言は全く愚かそのものであり、反論としては全く通用しない。
―――――――――――
つづく。

 

ジダン氏の質問に返答す 6  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 310()234116 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、つづきいきましょう。
>
> それから更に質問ですが、『法華を心得たる人』がどうして=『法主』となるのでしょうか?法華を心得たる人とは『法華経の行者』と言いかえることができると思いますが、それでは「中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者なり」(可延定業書)との御文を管理人様の読み方で読むとき、『四条金吾=法主=御本尊の開眼ができる』というようになってしまいますが、如何でしょうか?

―――――――――――
↑ここもやはり「文」に囚われた、浅見というべきでしょう。

まず、『法華を心得たる人』がどうして=御歴代上人 となるのか、を論証します。
といっても、こでも既に破折し尽くしている内容なので、編集・再掲いたします。
―――――――――――
【簡釈】

1、「法華」=法華経 とは末法今時、究竟するところ 戒壇の大御本尊 の御事である。

【文証】

■法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。( 三大秘法稟承事    弘安五年四月八日  六一歳)

■問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。
答ふ、夫釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。(三大秘法稟承事)

【現証】

「本門戒壇」 との銘があられる御本尊は弘安二年十月十二日御図顕の戒壇の大御本尊のみである。
―――――――――――

2、その法華経=戒壇の大御本尊をそのまま御身に宛てて唯授一人・血脈相承されているのが日興上人を随一とする御歴代上人である。

【文証】

■日蓮一期弘法付嘱書   日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日  日蓮 花押   血脈の次第 日蓮日興

■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」

仏宝法宝=人法一箇の戒壇の大御本尊に究竟せられ、その人法一箇の戒壇の大御本尊は大聖人様の出世の本懐であり、「日蓮一期の弘法」の究極の御法体である。
その御法体は、「血脈の次第 日蓮日興」として日興上人に相伝・伝持せられたが、この
「次第」 とは、=物事が行われる際の一定の順序。
という意義があり、大聖人亡き後、次の法嗣であられる日興上人は必ず
「血脈の次第 日興⇒次の法嗣(日目上人)」
とお決めになるという道理である。

更に補足すれば、この「血脈の次第 日蓮日興」との御文は、

釈尊
→上行菩薩(本地久遠元初自受用身・末法再誕日蓮大聖人←■本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり。)
→日興上人

という基本形を示し、これはつまりは、

御先師
→御当代
→次期御法主

との基本の方程式をお定めになった濫觴であり、末法万年の伝持・相伝の次第は次代へ唯授一人・血脈相承で必ず伝持・相伝されていくという大聖人御自らの御決判である。

その道理は以下の御文証に依っても明白である。

■ 一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。

であるから現時で、「法華を心得たる人」とは「戒壇の大御本尊を相伝された方」ということになり、御法主上人以外在り得ないのである。

【現証】

御法主上人こそが御本尊を書写できる。=これこそ、「法華を心得たる人」という正に「現証」である。
創価学会ですら、”日蓮正宗の御歴代上人の書写御本尊”を「本尊」としている。
これまた、「法華を心得たる人」とは、御歴代上人でしか在り得ないことを、無意識の内に認めている証左である。
―――――――――――

3、その「法華を心得たる人」である御法主上人が開眼供養為されない”本尊もどき”は、魔であり鬼である。
よって、創価学会の販売している掛け軸は魔札・鬼札である。
実に簡単な道理である。

つづく

 

ジダン氏の質問に返答す 7  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 312()213514 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

外野の”ノイズ”が多くてその処理に時間を割かれ、少々遅れましたが、では、以下について返答します。
―――――――――――
Re: 何だかヒートアップしてますねー。

▼> 私の書き込みが遅いもので、知らない間にいろいろな方を巻き込んでしまっているようですね。段々と収集がつかなくなってきていますが、できる限りで書き込ませていただきます。
>
> 『木絵二像開眼之事』の解釈から始まった御本尊の開眼についての議論ですが、先ず管理人様の反論に対してお答えしたいと思います。
>
> 以下、引用
●> (中略)
> それから『法華を心得たる人』についてですが、
>
> 【簡釈】
>
> 1、「法華」=法華経 とは末法今時、究竟するところ 戒壇の大御本尊 の御事である。
>
>
▼> ということですが、いきなり【簡釈】しすぎでは?
> 引かれている御文もこの『木絵二像開眼之事』よりも10年も後にご執筆された『三大秘法稟承事』からですしね。
―――――――――――
↑まず、10年ほどで三世を通暁される御本仏日蓮大聖人様の仏法の本義が変遷することなど在り得ないでしょう。
10年後の御文だと、どこが、どのように変なのでしょうか?
―――――――――――
▼『法華を心得たる人』とは『法華経の行者』と同義であると思います。『如説修行の法華経の行者』をこそ『法華を心得たる人』と言い、法主ただ一人を指している言葉ではありません。ですから、法主による開眼供養など、私には必要ありません。
―――――――――――

1、その根拠を、文証・道理をもって挙げて下さい。
でなければ、それはただの個人的な感想・意見であって、そのような個人的な見解を元として仏法を論ずることは基本的な姿勢として不可ですね。

■文証の所出を知らざる我意の浮言ならば之を用うべからず。(法華真言勝劣事 307)

■証文に経文を書いて進ぜず候はん限りは御用ひ有るべからず。是こそ謗法となる根本にて侍れ。(題目弥陀名号勝劣事 332)
―――――――――――
2、訳としても大いに意味が異なります。

心得る=物事の事情や意味するところをよく理解する。のみこむ。わきまえる。
行者=仏道を修行する人。修行者。
―――――――――――
3、草木成仏・非情成仏を為せる方こそ、「法華を心得たる人」

草木成仏

@−1 法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。
 −2 法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

非情成仏

A法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、彼の魂を変じて仏意と成す。成仏是なり。

この@Aの両文は、草木成仏・非情成仏を明示された同義の御文です。
この開眼供養や死骨成仏を為すことが、以前にも言われていましたが、四条金吾殿等の有力檀越といえども為せる道理も文証もありません。

■但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。

大聖人様は富木殿ほどの有力檀越にさへ、このように、開眼は許されておりません。
大聖人の御名代として御僧侶である伊予公殿に「開眼供養」を御命されておられるのです。

その大聖人様が
■「血脈の次第 日蓮日興」
■「仏宝・法宝は必ず僧によって住す」
と末法万年の僧宝の御立場を明示されておられるのですから、僧宝の立場であられる方の「開眼供養」なき本尊状の物は間違いなく、魔札・鬼札であり、それを拝む者は、今生には我が身・家庭・子孫を滅ぼし、後生には無間地獄に必ず堕すのです。
創価学会発売の曼荼羅掛け軸などはその代表的な代物です。
よくよく、忌み嫌い、戒めるべき、汚物・毒物であります。

 

ジダン氏の質問に返答す 8  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 316()111447 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ジダンさんへ。

「開眼」の必要な事についての、御書での論証は以下の、沖浦さんへの投稿に示してあります。
もし、この中でご不明な点がおありでしたら、どこの、どういう点で、ご納得いかないのか、ポイントを挙げて、仰せ下さい。
再度、詳細にご説明いたしましょう。

【引用再掲】

沖浦さん、以下の内容は少々問題が多いですね。
直接対面対論とは別に、当掲示板上で教義的な内容に触れる限り、破折させていただきます。
―――――――――――
Re: 木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖が

>  木絵二像を引用しご本尊様の開眼を説かれるわけが無い。
>
>  大層簡潔な道理ですよ。
>
>  それともね、蓮祖建立の木像や絵像が大石寺にあって法主以下が拝んでいるのですか??
>
>  木像〜板曼荼羅。
>  絵像〜紙幅のご本尊様。
>
>  これはね、こじつけにすぎませんよ。
>  ですからね、詭弁を弄するより、
>
>  日蓮正宗ではしきたりとして法主が開眼をしております。
>
>  これでいいんですよ。
―――――――――――
1、大聖人が、御正意・御真意として釈尊等の絵像木像の類を本尊として帰依することを後々までお認めになるわけがない。
それは、大聖人の仏法を学ぶ者の”常識”です。
(もちろん不相伝家では、これすら理解していませんが。)
さて、では問題となるのは、発迹顕本以降の佐後である文永9年に、何故「木絵二像」の「開眼」の御抄があるのか。ということでしょう。

そもそも、この御書中には、

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり

とあり、この御文を文字だけで読めば、「釈尊の絵像・木像の前に法華経を置けば、必ずその木絵の二像は純実円満の生身の仏となる」
との意味になり、大聖人様が釈尊の絵像・木像を本尊としてお認めになっていることになり、沖浦さんのいう、▼「木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖」という前提自体と大いに矛盾してしまいます。
つまり、この御書は、既に何らかの方便を含ませてお説きである。ということが分かります。
方便があるからには真実・真意がその奥に存在するのが道理です。
我々修行者は方便の言に囚われ、大聖人様の真意を見誤るような軽薄な読み方をしては浅識・計我・不解との謗法となりましょう。
謗法は地獄行きですから、よくよく恐れなければならないところです。

そこで、大聖人様は「開眼」の意義についてどのようにお考えになっていたかを検証すれば、自ずと該抄「木絵二像開眼の事」の真意が領解できるものと思います。

この御抄の中に、

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

とあり、この「印する」という語には「跡を残す。しるす。光・影などを物の上になげかける。」等の意味あり、”ある主体者が対象へ向かって為す行為”であることが分かります。
更に、この御文直後の

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、云々」

との御文と併せ拝すれば、
■「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば」と
■「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養」とは同義ですから
「印する」とは「開眼・開眼供養」の意義であることが分かります。

ここで分かる事は、
【1】”「開眼供養」により「草木成仏」する。草木成仏をした”木絵二像”は生身の仏”になる”
ということでしょう。

では、草木成仏 とはどういうことでしょうか?

そこで、ちょうどこの年、文永9年、人本尊開顕の重書「開目抄」が説かれた同じ月に顕された「草木成仏口決」に拝してみましょう。

■草木成仏とは非情の成仏なり。(草木成仏口決  文永九年二月二〇日  五一歳)

草木成仏とはつまり、非情が成仏することである。
しかし、ここで注意を要するのは、【1】”「開眼供養」により「草木成仏」する。”ということです。
そこでここをまとめると、
【2】草木成仏は開眼供養に依って為されるが、それは非情の成仏ということである。非情が”仏と成る”ということである。

■我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。

塔婆はそのままでは非情である。であるから、その非情である塔婆を「開眼供養」することにより、草木成仏せしめて故人の成仏を期するのである。
その根拠は以下の御文でも明瞭である。

■我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり。

この御文は、塔婆にも通じ、曼荼羅御本尊を御本尊として信行の対境とする意義へも通じる文証である。
であるから、直後に以下の曼荼羅御本尊に関するお言葉へと続くのである。

■此の有情非情、十如是の因果の二法を具足せり。衆生世間・五陰(ごおん)世間・国土世間、此の三世間有情非情なり。一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり。

では、ここまでをおさらいして纏めて見ましょう。

【小結】

開眼供養によって、非情は草木成仏する。草木成仏とは非情が仏と成ること、つまり、生身の仏となることである。

さて、では、
【小結】開眼供養によって、非情は草木成仏する。草木成仏とは非情が仏と成ること、つまり、生身の仏となることである。
について、更に他の御書に詳細を拝していきましょう。

■四条金吾釈迦仏供養事      建治二年七月一五日  五五歳

されば画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二には五陰(ごおん)世間、三には国土世間なり。前の二は且(しばら)く之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐ(絵具)は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。

この御文には、更に詳細に「草木成仏」の意義が示されています。

■画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。

ここも、”絵像木像の「開眼供養」は法華経・天台宗でしか為し得ない。”と仰せでありますが、この御文をそのまま字の面だけで読めば、”絵像仏像等の釈迦像を開眼供養するのは、法華経と天台宗でしか出来ない”となり、大聖人様が仏像を容認し、法華経をそのまま用い、しかも像法過時の宗派である天台宗を容認することになってしまい、大聖人様の御真意の御法門ではないことになってしまいます。

【参考御書】

■今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。
■天台法華宗は伝教大師の御時計りにぞありける。此の伝教の御時は像法の末、大集経の多造塔寺堅固の時なり。いまだ於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にはあたらず。(撰時抄      建治元年六月一〇日  五四歳)

ですから、ここもやはり方便で御説きであり、御真意は更に深いところにあると拝さねばなりません。
そこで、この後の御文を拝すると、いよいよ大聖人様のご真意が明瞭となってまいります。

■草木世間と申すは五色のゑのぐ(絵具)は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。

ここで、大聖人様が仰せになった、「絵像・木像=木絵の二像」の意義が鮮明に現れてまりました。
つまり、「画像」の意味は、「絵の具」→つまり、”本尊”として書いた素材そのものを仰せであり、「木像」との意味は、「木」=木材、というやはり「素材・原料材」を指しておられることが分かります。
つまり、「絵像・木像=木絵二像」と仰せになった御真意は、表面上の「釈迦の絵像木像」という意味では決してなく、その原料素材としての「絵の具・木材」という「非情」のことであった訳です。
ここで、今までの考証の深意が詳らかになってきました。

【小結2】

大聖人様は機根が未だ”曼荼羅本尊正意”という深旨まで熟さない対告衆に対して表向き「釈尊像造立」を容認しつつ、そこに、原料素材である非情の絵の具・木材等の開眼供養による草木成仏により生身の仏身と為す一念三千の悟りの法門とその絶対必要性を説き篭められていたのであります。
この点を踏まえて以下の御文を拝すればいよいよ大聖人様の御真意がいや増して明瞭となる事でしょう。

■此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。

こここそが開眼供養の本義を方便の御文の内に明確に篭められて仰せ御遊ばされた御文であります。
つまり、
この画(=原料素材としての絵の具。当然、”墨”も含まれることは自明の理である)、木材に、魂魄という神を入れること(=開眼供養)は、法華経(=三大秘法)の力である。これは天台大師の悟り(=大聖人様の悟り)である。この法門は生きた衆生に即して言えば即身成仏であり、非情である墨などの絵の具や木材で言えば草木成仏である。(=生身の仏と成ること)

以上の論証から導き出される結論は、

【結論】

曼荼羅御本尊も木絵二像と全く同じく、紙・木材・墨等の非情である素材で出来ているのであるから、そこには法華経を心得た智者(鎌倉時代で言えば大聖人様。また大聖人様より御命を賜った御僧侶方)によっての開眼供養により、草木成仏為されなければ生身の仏として成立しない。
(ただしこの時代は大聖人様が直接御本尊を顕されていたのですから、殊更に曼荼羅御本尊に関しての「開眼供養」の御指南が無いのは当然です。が、現時では、殆どの信徒に下付されるのは御形木御本尊、つまりは”印刷された御本尊”ですから、素材が非情で出来ている限り、開眼供養によって草木成仏を為し、生身の仏と顕現しなければ「本尊」として成立しないということが、以上の、「木絵二像開眼の事」「草木成仏口決」「四条金吾釈迦仏供養事」等の御書を併せ拝し、検証すれば自ずと明瞭となってくるのであります。そうは言っても毒気深入の頭破七分者にはそう簡単には理解できないでしょうが。)

ということで、

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

との御文は、やはり創価学会発売の本尊らしき様相を偽装した掛け軸を指すのであります。(もちろん、その他世の中に存在する一切の本尊状の”モノ”も含む)

【後述】

さて、以上の論証に反駁したい向きは沖浦さんをはじめ大勢いらっしゃるでしょうが、くれぐれも正当なる道理・文証を以っての反論にを心掛ける様にご留意いただきたい。
ただ、無闇矢鱈に「自分はそうは思えない!」というだけの我意・我見のごり押しでは、反論として成立しないことを銘記されたい。
また、そのような低次元の遠吠えの繰り返しは、そのまま自らの敗北を意味することになるので、創価学会の恥晒しとならないように十分にお気をつけ下さい。

では、宜しくお願い致します。