痴犬→> 「当家三衣抄」
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下根のための方便を書かれた箇所ぐらい読んで分からんのか!
> どのハゲに教わったのか?
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マサシくん日蓮正宗の三宝も知らんとわな、情けないの〜 さすが狂学部長?
> 妙相寺の住職のハゲに、
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恥さらし袈裟衣を脱いでとっとと出て行けと、言うとけや〜
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ハゲが言っているのは化法ではなく化儀について定められた
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「当家三衣抄」の中の、しかも「下根を引接して修業を牽課するの具」である
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「数珠」についての説明文を引用しただけで、僧宝について化法として
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定められた「当流行事抄」は一切引用していない。
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この辺りにも、歪曲を意図して信徒を騙し続けているのが良く理解できるわな。
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●創賊どもが「当家三衣抄」の三宝論で追い込まれて、困ると必ず逃げ込む場所である。
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1、そもそも、末法に於いては上根・中根はほとんど有り得ないのである。
痴犬は自分が上根・中根とでも言うのか?呵々大笑。
痴犬などただの一闡提人・謗法者であり、「下根」にすら漏れた根機極劣の衆生である。
■利智精進にして観法修行するのみ法華の機ぞと云ひて、無智の人を妨ぐるは当世の学者の所行なり。是還って愚癡邪見の至りなり。一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要なり。
2、@痴犬は誰が上根上機だというのか?明示せよ。
Aその上根上機の者は、「観念観法」を修する、ということだが、その方法を具体的に示せ。
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3、根機の配当は以下の御指南に極まる。
日寛上人
問う、若し爾らば唱法華題目抄に云く「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」等云云。この文如何。
答う、これ宗祖の御本意に非ず。故に四信抄に云く「問う汝何ぞ一念三千の観門を勧進せず唯題目許りを唱えしむるや」等云云。持妙法華問答抄に云く「利智精進にして観法修行するのみ法華の機ぞと云つて無智の人を妨ぐるは当世の学者の所行なり是れ還つて愚癡邪見の至りなり、一切衆生・皆成仏道の教なれば上根・上機は観念・観法も然るべし下根下機は唯信心肝要なり」と云云。また十章抄に云く「真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり・日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし、名は必ず体にいたる徳あり」等云云。唱法華題目抄は一往天台附順の釈なり。佐渡已前、文応元年の御抄なり。
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日顕上人
「此の道に入りぬる人にも上中下の三根はあれども、同じく一生の内に顕はすなり」。
ここは、今の一生成仏を受けて、そのなかにおいても上中下の三つの機根があるということをお示しであります。
やはり、機根というものがあり、はっきり言うと、末法の衆生はほとんどすべてが下根なのです。
ですから、このような尊い御書を拝したからといって、直ちに即身成仏して、一生成仏の明煌々たる人格と智慧と徳を顕すことのできる方はなかなかいないと思います。しかしながら、一生のうちには必ず顕すことができるのです。これは真実でありますから、ここを忘れないで信心修行に励んでいただきたいと思います。
それで、「上根の人は聞く所にて覚りを極めて顕はす」。これは聞いただけで覚りを開くということですから、大変な人であります。このような方は正法・像法でもまれであったでしょうし、今日の時代にはいないであろうと思います。まして末法の人間にはそのような機根の方はいないのです。
「中根の人は若しは一日、若しは一月、若しは一年に顕はすなり」。これは主に像法時代の人と言えます。まれには末法のなかの利根な人にも唱題修行によって真の覚りに至る方がおられましょう。強盛な信心によって、一日、一月、一年ですばらしい境界を開かれる方も、あるいはいらっしゃるかとは思います。
それから、「下根の人はのび(延)ゆく所なくてつまりぬれば、一生の内に限りたる事なれば、臨終の時に至りて、諸のみえつる夢も覚めてうつゝになりぬるが如く、只今までみつる所の生死妄想の邪思ひ、ひがめの理はあと形もなくなりて、本覚のうつゝの覚りにかへりて法界をみれば皆寂光の極楽にて、日来賤しと思ひし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり」。下根の人間はなかなか成長することがなく、いつまで経っても同じところにいるようだけれども、一生は限られたものなので、臨終の時に至れば必ず成仏の相を顕すのであるということです。
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4、現実に信心修行に於いて「「下根を引接して修業を牽課するの具」である「数珠」」を痴犬は用いないのか?
用いているとすれば痴犬こそ下根であり、「下根のための方便を書かれた箇所」を謹んで拝さなくては成仏はできないであろう?
創価学会ではもはや「「下根を引接して修業を牽課するの具」である「数珠」」は不要か?
まっ、所詮、ニセ本尊では数珠を用いても用いなくても地獄行きなことには全くかわりはないか。呵々
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小結
つまりは、下根の為の御指南こそ、末法我等の機根にとっては実に重要な御教示なのである。
依って、
■問う、数珠の由来如何。
答う、夫れ数珠とは此れ乃ち下根を引接して修業を牽課するの具なり。
との御指南を楯にとって当家三衣抄の三宝論を否定する痴犬の恥論は道理・文証・現証において全く不可である。
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5、しかも、日寛上人仰せには以下の如く
■木槵子経(もくげんしきょう)に云わく「昔国王有り、波流梨と名づく。仏に白して言さく、我が国辺小なり、頻年寇疫し穀貴く民困しむ、我常に安んぜず、法蔵は深広なり、遍く行ずることを得ず、唯願わくば法要を垂示したまえ。仏言さく、大王、若し煩悩を滅せんと欲せば当に木槵子(もくげんし)一百八箇を貫き、常に自ら身に随え、志心に※1「南無仏・南無法・南無僧」と称し、乃ち一子を過ごすべし」@云々@。応に知るべし、木槵子の円形は是れ法性の妙理を表するなり。玄文の第一に云わく「理は偏円を絶すれども、円珠に寄せて理を談ず」@云々@。弘の五の上に云わく「理体欠くる無し、之れに譬うるに珠を以てす」@云々@。土宗の平形は大いに所表に違うなり。一百八箇は即ち百八煩悩を表するなり。数珠は須臾も身を離るべからず。故に「常自随身」と云うなり。
↑と数珠を用いる由来を木槵子経等を引かれて論証され、その御文中の※1「南無仏・南無法・南無僧」との箇所を取り上げて、更に詳細に御説示なされた箇所が、
※2 ※1「南無仏・南無法・南無僧」とは、若し当流の意は、南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思の境智冥合、久遠元初の自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲、南無日蓮大聖人師。
南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思の境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。
南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。
此くの如き三宝を一心に之れを念じて、唯当に南無妙法蓮華経と称え、乃ち一子を過ごすべし@云々@。
なのである。
であるから、※2の箇所は、奪の義では、数珠の「化儀」の意義とは直接関係があるのではなく、あくまで、※1「南無仏・南無法・南無僧」=三宝について、「当流の意」=日蓮正宗の正統な三宝としての「化法」の立義が、※2全文なのである。
更に与の義で言えば、数珠の化儀に即して化法を仰せでも、化儀即化法であるが故に、「数珠の化儀についての御指南だから化法ではない」、と蔑如することは、法門を知らぬ学会員らしい未熟者のすることである。
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結論
やはり、どこから検証しても、痴犬の恥論は全くの不可である。
今日の痴犬が地獄へ行く道理・文証の勉強会は、痴犬は「下根」と「民衆」を下して、自分は上根・中根であるがの如くの慢心ここに極まれり、の大バカ者であるから、それだけで地獄行き決定である。
もちろん、そんな大バカ者のくせに、ニセ本尊を拝んでいるのだから、地獄行きは二重・三重に確定的である。
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