痴犬のコピペ↓
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ところで、日精の「家中抄」日道伝(富要5-213)には、日目上人から日道に付属された相伝の目録の31ケ条が示されているので、紹介しよう。
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「日興御さく(作)の釈迦一そん(尊)一ふく(幅)
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(これについて日亨上人は頭注で「本師造像家なる故に此の疑文を依拠とするか」と日精を破折)
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御しゅうそく (しょうそく=消息の誤り)
> 日興の御ふみ一
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授職灌頂きりかみ (相承の切り紙のこと)
> 結要付属きりかみ
> 三衣の相伝 (*)
> 三衣の口伝 (*)
> 廻向口伝
> 広裳衣相伝
> 念珠の相伝 (*)
(以上3つの(*)が「数珠の相 伝三通」に該当)
> 今此三界きりかみ
> 蓮師名相の口伝
> 大黒のきりかみ
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日蓮弘法日興付属きりかみ (身延相承書のこと)
> 天台大師四十八の起請文
> 当家神道きりかみ
> 日文字の系図
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佐渡妙泉寺日満と申す付弟のきりかみ (泉は宣の誤り)
> 大聖人の父母の御事きりかみ
> 日円の御本尊一ぷく
> 日番御本尊一ぷく
> 高祖の仏法修行の習きりかみ
> 十羅刹のきりかみ
> 三衣授与のきりかみ
> 日興上人の御自筆御経
ありと云ふ事以後の証文になるべし(日亨上人は追加の小さい文字の日精が書いた箇所について頭注で「本師読誦の例として故に之を引くか」と破折されている)
> 大石寺のさしづ
> 二字の習のきりかみ
> 観心本尊抄の合文
> 三大秘法のきりかみ
> 本尊相伝のきりかみ
> 愚身が日文のきりかみ
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右日目御自筆今当山に在るなり。」(日亨上人は頭注で「現在の此の文書は少しも目師の筆に似ず、又目師の名判、年月もなきなり」と日精のこの記録の不正確さの根拠を示している。)
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このようにして見ると、すでに日精の時までに、4代日道上人から伝わっていたとされるのは、決して正しい相伝ではないと思われる。その証拠に、日亨上人は頭注で要法寺の臭みのある内容に破折を加えている。
●実に以って浅はかである。
1、家中抄は、日精上人が古来から伝わる伝承を可能な限り見聞し網羅した書であり、教義上の是非を究明することを主眼にした書ではない。
2、■「猶恨むらくは御筆記文は多く天下の大乱に散失し或は国々門徒へ持参し諸伝の法門は住侶闕減に習ひ唯見聞の及ぶ所、纔(わずか)に之を記録して未だ精密ならざるなり、豈罄(むなし)く興師の道を尽すにたらんや、庶幾(こいねがわく)は所所に散失の御筆并(ならび)に本尊記文等見聞にしたがって之を記してその缺(けつ)を補ひ給はば是れ吾かねがふ所なり。」
と、精密なものではないことを御自ら仰せなのである。
3、確かに「右日目御自筆今当山に在るなり。」に対して日亨上人は、「日目御自筆」に○印を付せ疑義を呈せられ、頭注に「現在の此の文書は少しも目師の筆に似ず、又目師の名判、年月もなきなり」と註せられている。
ということは、この切り紙目録自体は「疑文」であって、唯授一人・血脈相承の「金紙」とは全く別のもの、と見るべきである。
であるから、この切り紙目録の記載中に何か疑義があったとしても別に当たり前であって、なんら殊更に騒ぐことでもないのである。
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痴犬>
しかも、これら31ケ条も含めた全ての相承のうち、わずか17ケ条のみが「目録として」残ったのみで、それ以外は既に日因上人の時には焼失してしまっていたという。
●↑これは、浅はかにも資料を横一列に並べて稚拙な足し算・引き算をしてみてるだけで、全くお粗末な「数式」である。
1、切り紙目録自体が「疑文」である。⇒「31か条」などと勘定してみても全く意味が無い。
2、日因上人の御文は「袈裟数珠の”相伝”」であり、内証別付嘱とは別物である。
3、この後に説かれる「十二か条の御法門」こそ、内証別付嘱の一端を示唆している。
が、その内容についてはまさに唯授一人、御法主上人のみ知るところである。
日顕上人御指南
■例えば、日精上人が『家中抄』の道師伝に、日目上人は日郷に御相承されたという邪説を破して、まさしく目師が道師に御相承を授けられたことを明かすなかにおいて、
「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(日蓮正宗聖典六九五n)
ということをおっしゃっておりますが、これはまさしく金紙であって、いわゆる直接、口伝のみによって申し置かれたものだけではないわけです。つまり、金口といっても、金紙として相伝されている内容もあるのでありまして、その基本のところだけは御理解いただきたいと思います。
家中抄
■況ヤ又御上洛の刻には法を日道に付属す所謂形名種脱の相承判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はゞ内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり、其ノ器に非ずんば伝へず、此クの如き当家大事の法門既に日道に付属す、爰に知リぬ大石寺を日道に付属することを後来の衆徒疑滞を残す莫れ
痴犬などの邪心の者には全く窺い知る事の出来ない深旨である。
しかしてこの甚深の御法門を拝信することにこそ戒壇の大御本尊の仏力・法力が流れ通い、即身成仏の大果報を拝受させていただくことが出来るのである。
痴犬などその謗法の毒気に染まりきった頭を一度割って、慙愧しなければ絶対に得ることのできない境地である。
哀れ極まりない、愚かな衆生であることよ。
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