痴犬→俗衆増上慢(妙信講・・・(※を創価学会が受けてきた。という趣旨)
●こういうのを「被害妄想」というのである。とんだお笑い種である。
以下、当時の当事者の証言である。
これが「法華経の行者」に競い起こる「三類の強敵」中の「俗衆増上慢」か?呵々大笑
とんだお門違い。自意識過剰。自惚れ。買いかぶり。全くの的外れ。妄執。妄念。ご苦労さんである。
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昭和四十五年から四十七年にかけての騒動を第一次妙信講騒動≠ニ呼ぶなら、第二次騒動≠ヘ、しばらくの小休止の後、昭和四十九年六月頃に再燃した。
第一の騒動は、昭和四十七年九月の、創価学会と妙信講代表による直接対決による法論の結果、創価学会が、
「現時において、広宣流布とか御遺命達成と断定しない」
という見解を公式に発表したことで、いちおうの解決を見た。
しかし、国立戒壇と正本堂の意義については、双方主張が平行線となってしまい、引き続き、継続して法論を行なう、ということで先送りされたから、法論が続けられるはずだったが、双方ともあまり熱意を示さず、法論は行なわれなかった。
それでも、数ヶ月に一度くらいのペースで、秋谷・山崎対浅井の会談は続けられた。
昭和四十九年五月末になって、妙信講は、浅井昭衛を本部長にする人事を総会で発表し、
「理事長は講務を統括し、対外的には講を代表する一切の責任と権限を講頭より付与され、よって、今後予想される対外的な闘争は、すべて新理事長の責任において遂行される」
と、浅井昭衛の独裁的地位を確立して、対外的な闘争≠キなわち、創価学会に対する宣戦布告に具えた。
その上で、秋谷副会長および私との対決の席で、一方的に
「公場対決申入書」
を突き付けた。
創価学会側は、これについて、宗務院にお伺いを立てた。
「法論で対決し、妙信講を打ち砕くことにやぶさかではないが、宗門内のこと、法義に関わることであり、是非についてお尋ねしたい」と。
宗務院からは、双方に、
「公場対決とは、当流と邪宗との間で法論を闘わす場合に行なうことであり、宗内での論義で行なうべきではない。厳禁する」
という通達が出された。
例によって、創価学会側は、宗門を楯(たて)にして、妙信講との対決を避けようとしたのである。
秋谷・山崎両者は、常在寺で浅井昭衛と会い、宗務院の通達に従い、公場対決には応じられない≠ニ回答した。
ただし、双方が直接法論を闘わすことについては、応じることにやぶさかではないが、それはあくまでも当事者間の対論であるべきだ≠ニの意向を示した。
これに対し浅井昭衛は、
「もう、これで、話し合いは終わりだ。我々は、我々の信ずるままに行動を起こす」
と、話し合いを打ち切り、実力行使に移ることを宣言した。
秋谷・山崎両者は、 「それは、約束違反であり、その上、宗門の御指南に背くことだ。これまで築いてきた、妙信講と創価学会との信義を破る無法な行為だ。信義を重んじるといってきた浅井昭衛自身の言葉にも反するではないか」
となだめたり非難したりしたが、浅井昭衛は一方的に席を立ち、
「理不尽と言われようと、信義に悖(もと)ると言われようと、かまわない。もはやこれまでだ」
と言い放って出て行った。
それをキッカケに、『顕正新聞』や号外ビラなどで、創価学会攻撃を大々的に開始した。
「大聖人の御遺命である国立戒壇の正義を守れ」
と、国立戒壇一色のキャンペーンを展開したのである。
この、唐突極まりない妙信講の変身の裏には、一つの背景と、浅井昭衛のしたたかな打算が存在した。
妙信講は、この少し前の昭和四十九年四月、突然、宗務院に対し、妙信講としての団体登山を申請した。
しかし、宗務院は、妙信講が宗門や法華講の秩序をことさら無視し、わがまま勝手な振る舞いをして、無用の摩擦や混乱を引き起こしてきたこと、そして、御法主上人が一宗の公式決定として
「今後、国立戒壇≠ニいう言葉は当宗において用いない」
と決せられたにもかかわらず、これに背き、
「国立戒壇建立こそ日蓮正宗の最大の目標であり、果たすべき御遺命である」
と公然と主張しているため、
「国立戒壇を主張し、宗内の秩序を乱し続ける間は、登山を許すわけにはいかない」
として、登山禁止を通告した。
浅井昭衛は激怒し、宗務院と喧嘩腰でかけ合ったが、宗務院は一歩も退かなかった。
御法主日達上人も、
「信者が、数を頼んで横車を押し通し、勝手なことをするという風潮を、もはや許しておくわけにはいかない」
と、宗門としてのけじめを付ける決意を示された。
その裏には、
「創価学会にも、これまでのようなやりたい放題は、もはや許さない」
という意味がこめられていたから、創価学会としても口を差し挟(はさ)むわけにはいかなかった。
それでも池田大作は、
「妙信講が騒ぐときには、必ず矛先を創価学会の方に向けてくる。大変迷惑だ。何とか説得して暴走をくい止めよ」
と私に指示した。
これを受けて、私は、二度にわたり、浅井昭衛と一対一で会い、暴発を思いとどまるよう説得した。
「ことによっては、創価学会が宗務院にとりなして、登山が叶うように力添えしてもいい」
とまで言った。
だが、浅井昭衛は、
「あなたや秋谷さんの気持ちはよくわかる。しかし、我々は、もうこれ以上、我慢を続けるつもりはない。今、根本的に邪義を糺さなければ、もはや糺(ただ)す時は永久に来ないだろう。今、振り上げた拳(こぶし)を降ろそうとしたら、妙信講は空中分解する。もう、後戻りはできない」
と、方針を変えようとしなかった。
二回目の茗荷谷の若渓会館での説得の時、私は、
「浅井さんは、ずいぶん教学の研鑽を重ねておられるようだし、それに特別の確信を持っておられるようだが、それにしても、猊下様や宗務院の法義解釈を誤りだ≠ニ断じきる根拠は、いったい、体どこにあるのですか」
と尋ねた。
すると浅井昭衛は、得意気に、
「あなたは、もとからの信者ではないから、わからないでしょうね。私は、御法主上人の代理を務められた御僧侶から、直々に、御相承の内容について伝授されたのです。信者で、御相承の中身を知っているのは私一人です」
と言ったのである。
私は、それまで、浅井昭衛を、エキセントリックで頑固な点はあるが、なかなかの人物であり、少なくとも、日蓮正宗信徒としての信仰心の一分は持っている、と評価していたが、この御相承云々≠ニいう話を聞かされた時、
「この人間は根本的に狂っているのだ」
と判断した。
これ以上、道理を説いて説得しても無駄だ、と見切りをつけたのである。
「今後、会う時は、敵味方に別れて対決するわけですな。」
そう言う浅井昭衛に対し、
「私達も、手加減(てかげん)しないで戦いますよ。腹を決めて向かってくるがよいでしょう」
と言って別れた。
後に私は、念のため、御法主日達上人に、この浅井発言についてお尋ね申し上げたとき、日達上人は
「バカな!!」
と、一笑に付された。
そして、私が宗門のこと、とりわけ御相承のことなど知るよしもないことをご覧になって、わかりやすく説明してくださった。
「たしかに、戦後、一時、管長代理という役についていた僧侶がいたし、浅井のいた妙信講が、その人の寺に所属していたことがあったと思うが、しかし管長代理というのは、宗門行政上の代行者であって、法主の立場をそっくりそのまま代行するということでは、けっしてない。だから、管長代理が、相承の中身を知るはずなどないのです。」
前述した、浅井昭衛がにわかに強硬路線に転じた背景というのは、このように、宗務院との間の軋轢(あつれき)がエスカレートしたことであった。
さらに、浅井昭衛にとって、もっと重要な、決定的な動機というべきしたたかな打算があった。
じつは、昭和四十九年五、六月頃といえば、御法主日達上人と池田大作の関係が極度に悪化し、いつ手切れとなってもおかしくない状況下にあったのである。
正本堂落慶直後から、池田大作は、日蓮正宗を支配下に収めようとして、さまざまな画策を行ない、ことあるごとに御法主上人を辱(はずかし)めて
「自分の方が上だ」
と会員に誇示(こじ)しようとした。
日達上人は、これを、七百年来続いた日蓮正宗にとっての危機だと感じられ、
「たとえ自分一人でも大石寺と御本尊を守る」
とまで宣言された。
池田大作は、日達上人の強固な御内意にあわてふためき、総監を通じて和解を求めたが、日達上人は、
「もう、宗門と創価学会は、別々にやりましょう。しかし、学会員がどうしても大石寺に参詣したいというなら、そのかぎりで信者≠ニ同じに取り扱う、ということにしましょう」
と通告された。これは、
「手を切ろう」
という意思表示であり、もはや、とりつく島もないように思われた。
池田大作は、創価学会内において、日達上人や宗務院の役僧方から受けが良かった私に、日蓮正宗との和解工作を命じた。
このような緊迫した状況の中で、宗門内には、
「創価学会と手を切るべし」
という御僧侶達も増え、その中から、陰で妙信講をけしかける人達も出ていたのである。
こうした状況を見て、浅井昭衛は、
「今こそ、創価学会を叩き、宗門から追放して、自分が宗内の主導権を握るチャンスだ!」
と判断したのである。
「御法主上人も、宗務院も、そして僧侶方も、最後は、創価学会を叩く妙信講を支持してくれるだろう。そして、創価学会さえ追い出せば、宗内には、もはや恐いものはない。宗務院や法華講など、力で押さえつけられる。」
こうした打算があったから、浅井はにわかに、
「信義に悖ると言われようと結構だ」
と言い放って、第二次大戦末期、急に不可侵条約を破棄して北方領土や旧満州に攻め込んだ、ソ連にも似た行動を取ったのである。
この見方が正しいことは、その後の妙信講の振る舞い、行動を見ればよくわかる。
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妙信講問題では、昭和四十七年七月、日達上人が妙縁寺に御下向になり、浅井親子を説得なさった折、その対談の模様を学会が盗聴し、その後、学会が妙信講と直接対決することになった経緯(いきさつ)についてもやはり、触れておかなくは思うので、前回よりも少しさ遡(さかのぼ)るが、今回はその点について触れることにする。
池田大作が泣きついたことにより、御先師日達上人が直々(じきじき)に妙信講の説得に出られることになって、私達は対応に苦慮した。
対談の成り行き次第では、全てが裏目に出てしまうのではないか、との危険を感じたからだった。
というのは、正本堂の意義付けについては、学会側がむりやり宗門にねじ込んでいく中で、学会を慰撫(いぶ)教導する御立場の上から、日達上人が歩み寄った表現を用いてくださった箇所を含んでいたからである。
もし、妙信講を説得なさる経過の中で、そうした事情を日達上人が口にされたり、あるいは、表現の訂正でもなさったら、学会の正本堂についての思惑はぶち壊しになってしまうかもしれない――池田大作も、日達上人に頼み込んだ後で、今度はその危険性に気付き、やきもきし始めた。
「どうなっても良いさ、猊下にお任せしよう」
口では、いちおう、そう言いながら、
「もし、こうなったらどうする、ああなったらどうする」
と、神経質に私に尋(たず)ねるのだった。
もし万が一、日達上人が、浅井父子に思わぬ言質(げんち)を取られたりした時は、ただちに対応を考えなくてはならない。
もとより、御法主上人にお預けすることになった以上、もはや、あれこれと前もって注文を付けるわけにはいかない。
そこで、じつに無礼千万ではあったが、随行される藤本庶務部長(当時)に、
「対論の趣旨を逸脱(いつだつ)することだけは絶対ないように、補佐をよろしくお願いします」
と、出すぎた念押しをした。
また、会談が終わったら、ただちにその内容を伝えてくださるように、ということもお願いした。
とにかく、一分でも一秒でも早く正確な情報を手に入れ、間髪(かんぱつ)を置かず対応しなくてはならなかった。
そのために、北条副会長らと相談の上、宮本邸以来、ほとんど封印していた盗聴≠ニいう手段を用いることになった。
電話盗聴と違って、仕掛けるのも非常に簡単で、失敗の気遣いはなかった。
私は、広野輝夫(学生部主任部長)を呼び、宮本邸電話盗聴の時の経験を元に、盗聴器の作製を命じた。
電話盗聴ではないから、電波発信式の機械は一日もあればできる、ということであった。
受信器等は、以前使ったものを一部保管していたのが役に立った。
七月四日午後、私は、会談会場の墨田区妙縁寺に行き、
「警備のため」
といって内外を点検した。
対談の場所である二階の和室のかもいの隙間に、盗聴器を放り込んでおけば、発見されることもないし、充分盗聴できる、という状況を見極め、広野輝夫に設置を指示した。
当日の早朝、広野は、私の自宅に立ち寄った。
「これから取り付けに行きますが……」
青ざめた顔で広野は言った。
「先輩の河合一さん(現副会長)にちょっと話したら、猊下にそんなことをしたら、罰が当たるから、やめた方がいいぞ≠ニ言われたんですが……大丈夫でしょうかね。」
緊張で顔を引きつらせながら尋ねた。そこで私が、
「猊下を攻撃するためにやるのではなくて、猊下をお守りするためにやることだ。浅井父子に揚(あ)げ足を取られたりした時に対応するためにすることだし、万一の時には、ただちに室内に駆けつけなくてはならないのだ。北条さん達も了解して、その指示の上のことだ。心配ないよ。何が起こっても私が責任をとる。罰があったら引き受けるよ。竹岡にもそう言ってくれ」
と言ったところ、ようやく広野は安心して出動した。
七月六日、広野輝夫は、もう一人の情報師団の中心者・竹岡誠治と共に、妙縁寺の脇の路地に停(と)めた車の中で、室内に仕掛けた発信器から送られてくる、日達上人と浅井父子の対話の模様を録音した。
私も、広野らとともに、車中で一部を直接聞いた。
受信器も、使用した電波の波長も、宮本邸電話盗聴の時と同じものを使用した。
発信器を急いで作らせたため、雑音が多い上に、近くを自動車が通るたびにブザー音のような雑音が加わった。
それでも、録音された話の内容は、明瞭に聞き取れた。
その内容は、両者の会話が、私達が危惧(きぐ)していたような結果に終わったことを示していた。
私は、広野から受け取った録音テープを創価学会本部に持ち帰り、文化会館六階の会議室で、北条・秋谷・原島の各氏と共に、再生して聞いた。
日達上人は、席に着かれるなり、
「言うことを聞かぬなら殺す、というなら、私を殺しなさい。さあ、殺しなさい。やれるものならやってみなさい」
と切り出され、
浅井親子を圧倒した。
「下着も着替えて、このように辞世の歌も用意してきた。法のために死ぬのなら、何の悔(く)いもない。」
浅井父子は、完全に度肝(どぎも)を抜かれ、日頃の威勢を全く失ってしまった。
「信心の世界に、言うことを聞かぬなら殺す、なんていう話を持ち込むのは、もっての他だ。」
日達上人の厳しい叱責(しっせき)に、浅井父子は詫(わ)び、けっして、それは、本心からやりたくて言っているのではない、などとモゴモゴ弁解した。
「私のやることに何が不満なのか。訓諭のどこが気にいらんというのか」
日達上人はたたみ込まれた。
その辺から、浅井昭衛が巻き返しを計ろうとした。
「宗務院が、創価学会に迎合して伝統法義を曲げ、御法主上人の真意を曲げた。私達は、猊下をお護(まも)りするためにやっているのです。」
「宗務院はどうでもいい。学会は学会だ。訓諭は私が出した。私がやったことだ。不満があり、殺すというなら、まず私を殺しなさい。」
「そのように言われると、私達には、何も申しようがありません。」
それから、浅井昭衛は、クドクドと国立戒壇論を述べ、正本堂が御遺命の戒壇だというのは、白を黒と言うがごとき間違いであり、世間や信者をたばかるものである等と、持論を述べ始めた。
日達上人は、浅井の論法など聞き飽きておられたのか、その話の腰を折って言われた。
「国立戒壇というのは、今後、いっさい当宗では言わない、と決めたのは私だ。だから、当宗の教義として国立戒壇がある、などということは、今後、いっさい言わないでもらいたい。そういう主張もしないでほしい。もっとも、信者がどんな考えを持とうと、それは勝手だから、それを口にするくらいはいいが、当宗の教義として文章にするのはいけない。」
この日達上人の、大きな御心からのお言葉につけ込み、浅井昭衛は、すかさず念を押した。
「じゃ、妙信講が、国立戒壇と言うのは、口で言うのは差し支えないですね。」
「それは、まあ、いいでしょう。しかし文書にしたり、他に押しつけたりしてはいかん。」
浅井は、ニンマリして言った。
「わかりました。これからは、よく注意します。ところで、正本堂の論義についてですが、訓諭の前半は、私達も納得できるのです。しかし、後段が、正本堂を、本門寺の戒壇となるべき建物だと決定している点については、正直いって納得いたしかねます。」
これに対して、日達上人は、ありのままを仰せられた。
「前の半分は私の気持ちのとおりだが、後半は、私の本意じゃなかった。いろいろな事情があって、あのようになったが……」
浅井昭衛は、我が意を得たりと突っ込んだ。
「しかし、訓諭として出された以上、宗内に誤解が流布してしまいます。正本堂を、将来のことであるにせよ、御遺命の戒壇≠セと断定されたままでは、法義の根本が揺らぎます。何とか、これを打ち消すなり、新たな訓諭で訂正するなり、していただけませんか。」
日達上人は苦慮されているようだった。
そんなことを約束したら、妙信講は喜ぶだろうが、創価学会が黙っていないだろうことは目に見えている。
「新たな訓諭を出すとか、訓諭を訂正するなんて、それはできないよ。よろしい。解釈文を出そう。解釈文の中で、その辺のことをはっきりさせよう。それでどうか。」
浅井昭衛は、小躍(こおど)りして喜んだ。
「たいへん結構でございます。ついては何ですが、その解釈文は、念のため、発表前に私共に見せていただいてよろしいでしょうか。」
「ああ、いいでしょう。これで、問題は解決したね。もう文句はありませんね。」
「ありません」
浅井父子は平伏した。
「よし、それでは、以後、諍(あらそ)い事は一切やめてください。創価学会と勝った負けた≠セのどちらが悪い≠ネどと言い合うことは、いっさいしてはなりません。よろしいか。」
「創価学会の方で何もしなかったら、私達もあえて争うことはしません。」
浅井父子は、妙信講本部へ帰ると、
「勝った。勝った」
と大騒ぎした。
幹部達を集めて、浅井昭衛は言った。
「近いうち、訓諭の解釈が発表される。妙信講の言うとおりの内容になる。正本堂は、ただの建物にすぎないことがはっきりする。それを見極めて、一斉に創価学会攻撃をやる。今がチャンスだ。必ず創価学会はつぶれる。少なくとも、宗門から追い出す……。」
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文化会館六階の会議室で、何とも言えない面持ちで、日達上人と浅井父子の対談の隠し録(ど)りテープを聞いた首脳は、ガックリ肩を落とした。
「だめだなあ!」
秋谷栄之助が言った。
「何てこった。これが、本山の本音か……」
北条浩が、うめくように言った。
そこへ池田大作がひょっこり顔を出した。
「どうだった?」
率直に、最悪の状況であると報告する私達に、池田大作は言った。
「やっぱり失敗だったか。悪かったな。私がやると、いつも失敗するなあ。しかし、私としては仕方がなかったのだよ。結果はどうであろうと、手続きとして、猊下にお願いして、一度説得してもらうのが筋じゃないか。」
しきりに言い訳をしたあと、
「それで、これからどうしたらいい?」
と尋ねるので、皆で今後の対策の協議に入った。
「訓諭の訂正になるような解釈文など、絶対に出してもらうわけにはいきません。そんなことになったら、池田先生も創価学会も袋叩きにされ、「話が違う。正本堂御供養金を返せ」という人達が本部に押しかけるでしょう。何としても、最低、訓諭の線は守らなくてはなりません。」
いずれ、宗門から報告や今後の方針を伝えてくるだろうから、それを見た上で、巻き返しをはかろう、ということになり、そのための準備として、情報収集に全力をあげることになった。
翌日、大石寺理事・早瀬義孔尊師が、日達上人猊下の使者として創価学会本部を訪れ、前日の対談の経緯と結果の報告をした。
おおむね正確な報告であったが、浅井父子に譲歩した形で訓諭の解釈文を出す、というニュアンスは正確に語られなかった。
創価学会側は、表向き丁重に礼を述べ、日達上人猊下の御苦労を賛嘆しておいた。
そのあとで、北条副会長(当時)が総本山に行って日達上人猊下にお目通りをし、
「猊下が口頭で言うのはかまわない≠ニ言われた、といって、妙信講が徹底的に学会攻撃をするといっている」
「解釈文を出していただくのは結構だが、その内容によっては大変なことになる」
等と言上して牽制(けんせい)し、圧力をかけた。
こうなってくると、浅井達の言い分を容れながら、なお、創価学会の顔も立てる文案を作らねばならず、そんなことは、とうてい不可能なことである。
そうこうしているうちに、
「解釈文が出たら、創価学会を総攻撃する」
と手ぐすね引いていた浅井父子も、次第にしびれを切らし、収まらなくなってきていた。
日達上人は、この両者の態度にサジを投げられ、
「こうなったら、創価学会と妙信講で、直接話し合って決着をつけなさい」
と両者に申し入れられ、正本堂落慶法要目前の九月始めから九月三十日にかけて、計七回、毎回二時間にわたる両者の激論が交わされたのであった。
会場は、向島の常泉寺。学会側代表は、秋谷栄之助・原島嵩・山崎正友。妙信講側は、浅井甚兵衛・昭衛父子と大久保某の三名。
この対論に当たっては、私が発信器をアタッシュケースに入れ、会場から道ひとつ隔てた学会員宅の一室で、受信機と録音機でこの電波を受信・録音する一方、その場に、広野輝夫・竹岡誠治ら情報師団の他に、桐ヶ谷章・八尋頼雄の両弁護士や神崎武法検事(当時。後に公明党委員長)が詰めていて、耳をそばだてて対論の様子を聞いていた。
彼らは、私達代表の発言にまずい点があればチェックし、常泉寺の御僧侶に頼んで、会場にメモを差し入れ、注意を喚起(かんき)するという役割と、万一、暴力沙汰にでもなった時には、ただちに駆けつけるという役割になっていた。
また、会議のたびに録音テープを書き起こし、これに基づいて作戦会議を行なった。
この作戦会議には、神崎武法の他に、福島啓充・吉村弘・高井康行らの現役検事(当時)がブレーンとして参加した。
会談は、双方、自分の主張を繰り返して譲らず、ついに秋谷栄之助が憤然(ふんぜん)と立ち、
「よし、もうこれ以上話しても無駄だ。実力で決着をつけるということなら、創価学会青年部は受けて立つ。阻止できるならしてみろ。次は、総本山で会おう!!」
と宣言した。
売り言葉に買い言葉で、浅井昭衛らも
「やりましょう!! やりましょう!! 大いに結構だ!!」
と席を立ちかけたが、その浅井の姿に、私は、不意をつかれた狼狽(ろうばい)を見てとった。
浅井昭衛は、口では流血騒ぎを起こす≠ニ威勢のいいことを言っていたが、それはハッタリだった。
そう言えば創価学会は、体面を考えて、けっして事を荒立てようとはしないだろうから譲歩するだろう
との計算が彼らにはあったのだが、そこを見透(す)かして、秋谷栄之助が、賭(か)けに出 たのであった。
「まあ待ってください!!」
私はまず秋谷を制し、それから浅井父子を座らせた。
「そんなことで、御本仏が喜ばれると思っているのですか。御法主上人はどうなるのですか!!妙信講と創価学会がぶつかって総本山で血を流したら、喜ぶのは邪宗だけではないですか。宗史に拭(ぬぐ)いきれない汚点が残るだけです。ここまで、十分議論し合ったのです。双方の違いもはっきりした。内ゲバはいつでもやれる。いま一度、冷静に、具体的な妥協の道を探ってからでも遅くないでしょう!」
もちろん、双方に異議があるわけがない。
そこで、私が、当面の妥協案を提案した。
「正本堂が、御遺命の戒壇かどうかということは、今の段階で、あえて結論を出す必要はない。現状を見れば、広宣流布達成は、まだまだ先のことである。その時までに決めればよいではないか。現時においては、正本堂という建物が完成したということ、そこに大御本尊様を御遷座申し上げても、けっして蔵から表にお出しするということではない。そのための儀式を行なうことに、何の異議があろうか。その点を確認し合って、国立戒壇の是非については、これから、さらに時間をかけて対論を続けていこうではないか。大事なことだから、時間を区切って結論を出せというのは間違いだ。」
浅井昭衛は、
「たしかに、広宣流布はまだまだ先であるから、御遺命の達成ではないということをはっきりさせること。そして、創価学会の方で既成事実を積み重ねるような正本堂が御遺命の戒壇である≠ニいう発言や指導を絶対にしないこと。そのことをきちんとした形の上で示し、今後、妙信講と国立戒壇の是非を論じていくというのであれば、今日のところはそれで結構だ」
と答えた。
そこで、秋谷栄之助は、
「広宣流布は、まだ達成されておらず、御遺命の達成ではないということは、首脳の談話として、『聖教新聞』にきちんと発表する。そして、これからは、御遺命の戒壇については、双方公けに論及せず、このメンバーの対論で煮詰めていくことにしようではないか」
と提案し、その内容をまとめて文書を交換した。
そして、数日後の『聖教新聞』紙上に、理事長談話として、
「正本堂落慶式を迎えるが、まだ、広宣流布達成ではない、さらに御遺命達成のため、折伏にがんばろう」
という談話を発表することにした。
ちょうど、その頃、学会本部では首脳陣が、
「もう、どうせ妙信講とは、実力でぶつかることは避けられない。正本堂落慶法要当日、総本山が内ゲバの戦場にならぬよう、警察に警備を頼むしかない」
と話し合い、公明党首脳から警視庁に根回しに行こうとしていたが、池田大作が、
「山友が、何とかなりそうだ≠ニ言って行ったんだから、帰るまで待とう。それからでも遅くないだろう」
と制止した。
その直後、我々三人が本部に帰り、
「間一髪、危機を回避できた」
ということを報告したところ、池田大作は、
「それみろ、私が言ったとおりだろう」
と得意気に言った。
それでも、池田大作は、万一のことに備えて、日達上人をせかし、大御本尊の御遷座を、予定した日の二日前に、総本山に居合わせた幹部達だけが供奉(ぐぶ)する中で、そそくさと行なった。
私もその中の一人として、大御本尊を支える棒の一端を肩に乗せながら、参加させていただいたが、何とも言えない気分であった。
落慶法要は、池田大作がそれまで夢見ていたのとは似ても似つかぬ、シラけた儀式となった。
沈みがちな空気を盛り上げたのは、ジョージ・ウイリアムス(貞永靖)が引きつれてきたアメリカ創価学会の芸能団≠ナあった。
彼らは底抜けて明るい派手なパフォーマンスで、池田大作をメンツの失墜から救いあげたのだった。
池田大作が、後に、
「私を本当に支えた弟子」
として、北条・竹入・中西・山崎正友らの名と共に、ジョージ・ウイリアムスの名を挙げたのは、このことがあったからである。
池田大作は、しかし、懲(こ)りない人≠セった。
福島源次郎ら側近に命じて、登山してきた学会員に、
「本日、広宣流布が達成されました。御遺命の戒壇が成就しました」
と口コミで触れて歩かせた。
これを耳にした原島嵩が、
「とんでもないことだ!!」
と、福島源次郎を総括した。
このことを福島源次郎から聞いた池田大作は、原島嵩と私を呼びつけ、血相かを変えて怒鳴りつけた。
「俺がやらせたことだ。それにお前らは文句があるのか!!」
原島嵩が、「妙信講との和解」云々と言い出すと、池田大作は、さらに居丈高になり、
「俺は、何も恐いものはない。奴らがやるというならやってみればよい。俺は俺流にやる。それに文句をつけるとはけしからん。お前達、ちょっと働いたからといって思い上がるな」
とどやしつけた。
私は、池田大作が、首脳達の手前、虚勢を張っているのであり、また長い間の抑圧の後で、「もう安心」と思ってぶち切れているのだとわかっていたから、何も言わずに黙っていた。
しかし、情けなくなって、自然に涙が出た。
「こんな男のために、私は死にものぐるいの努力をしていたのか……」
それを見て、池田大作は、間が悪そうに顔を背けた。
――――――――――――――――――――――
妙信講の一方的な宣戦布告によって、創価学会は、折から日蓮正宗との関係が悪化していたこともあり、背腹に攻撃を受けることになりそうな形勢となった。
それではたまらないから、日蓮正宗との関係修復に必死となった。
「国際センターは、創価学会だけでやります。数々の非礼はお許しください。今、創価学会は、正本堂建立に全力をあげてきた直後で、無理を重ねてきた反動もあり、苦しい中で内部充実を計っています。しかし、必ず近いうちに寺院建立など、御奉公を再開します」
「妙信講は、無法な暴力集団であり、浅井昭衛は、創価学会に取って代わって、宗門を思うがままに牛耳ろうとしています。御奉公を何もしないで、要求を突きつける、えげつない連中です。彼らの天下になったら、宗門は暗黒です。ここは、妙信講を徹底して排除するために、御宗門と創価学会が、一致団結して当たらなくてはなりません。宗門と学会がいがみ合うようでは、必ずつけ込まれます。我々は、全力をあげて、妙信講の暴力から御宗門をお護りします」
等々と、宗門側の説得に努めた。
結果、御法主上人も宗務院も、何をするかわからない妙信講に実力で対抗できるのは創価学会しかないから、当面は創価学会と和解し、一致して妙信講問題を根本的に片付けることになされた。
何のことはない。浅井昭衛の目論見は見事に外れ、すべてが逆目(さかめ)となって、創価学会からも日蓮正宗からも、徹底的に排除される結果を招いてしまった。
逆に、創価学会にとっては、妙信講の暴走のおかげで、危機一髪≠セった日蓮正宗との関係を修復し、破門される危機を免れることができたのである。
浅井昭衛は、創価学会に、最後通告を送った後、機関紙やビラで総攻撃を開始し、寺院や会員宅に押しかけて、法論を迫った。
さらに、宣伝カーによる街頭宣伝や、国会周辺の街頭デモ行進まで行なって、
「国立戒壇建立!!」
「創価学会の法義歪曲」
を宣伝した。
ここまでエスカレートしてしまっては、いたしかたない。宗務院は、半分は創価学会にせっつかれながらではあるが、妙信講に対する処分手続きの準備にかかった。
一方、創価学会も、全面対決の態勢に入った。
私が実行責任者となり、全情報師団や法律師団を投入した。
実力でぶつかり合うことや、組織の末端でのトラブルに備えて、男子部や警備要員が、いつでも出動できるように準備を行なった。
しかし、外との戦いではなくて、宗内での争いであるから、宗門側の具体的な参加・協力が、ぜひ必要であった。
宗務院から宗門内に、妙信講に荷担する者が出たら処分する、との強い統制が敷かれ、創価学会の作戦本部である私の方から要請があれば、ただちに対応する態勢を整えていただいた。
また、創価学会だけでなく、法華講連合会でも青年部員を選抜(せんばつ)し、創価学会青年部と共同して妙信講対策に当たる態勢がとられた。
また、この日が来ることを予想して、すでに妙信講内に何人もスパイを潜入させてあった。
館岡倉市事務局長配下のM1、福島源次郎氏配下のM2、M3と暗号名で呼ばれるスパイは、すでに妙信講本部の中堅幹部に昇進しており、本部や浅井の自宅の警備や電話番の役割を与えられるまでになっていた。
さらに、私の情報師団からも、二名を潜(もぐ)り込ませた。
彼らを通じて、妙信講の内部情報は創価学会側に筒抜けとなっていた。
妙信講本部近くのマンションにアジトを作り、そこに情報員を常駐させ、監視に当たった。
文京区音羽に妙信講本部があった頃、それを見張っていた私の情報師団のアジトが、過激派学生運動集団≠フアジトではないか、と公安警察に目をつけられるというハプニングもあったが、その後、妙信講本部が板橋区常盤台に移転すると、すぐ隣のアパートを借り、監視と、盗聴器の受信、そして、宣伝カーの見張りや破壊等の妨害活動を行なった。
さらに、創価学会直属の興信所を使って、妙信講幹部の身辺調査を徹底的に行なった。
私の元には、このように妙信講に張り巡らされた情報網から、妙信講のあらゆる会合における指導内容、各支部組織の実態とその活動、浅井昭衛をはじめ、村岡青年部長、長岡男子部長といった主な幹部の言動が、毎日、逐一、正確に報告されてきた。
情報員達は、時には、当時、妙信講を陰(かげ)で支援していた松本日仁、八木直道師、その他の僧侶が、電話で浅井昭衛をけしかけ、盛んに煽(あお)るやり取りを、浅井昭衛が録音しておいたテープを持ち出したり、ダビングして私の元に届ける、ということまでやってのけた。
彼らの中には、また、所属していた墨田区妙縁寺の住職松本日仁の身辺警護のため、泊まり込む、という職務を与えられた者もいる。
私は、妙信講が動き出してから一ヶ月もしないうちに、ほとんど全講員の名簿を入手した。
こうして、準備万端整えた上で、妙信講の処分に乗り出した。
まず、宗務院から、妙信講に対し、宗規に定められた手続きにのっとり、処分手続きに入ること、処分に対して言い分があれば、言い分を弁疏(べんそ)≠ニして提出するよう、通告書を送り付けた。
その上で、所定の手続きを経て、妙信講に対する解散命令が出された。
浅井昭衛は、講中の動揺を恐れて、解散命令を受けたことを隠そうとしたから、私が集めた講員名簿に基づき、解散処分≠発表した日蓮正宗の機関誌『大日蓮』と、法華講連合会機関紙『大白法』、そして、御法主上人に肉筆で認(したた)めていただいた講員に対する呼びかけの書状(速やかに寺院につくように、との内容)を、全講員に送り付けたのである。
同時に、法華講青年部と創価学会青年部が共同して、妙信講員への折伏≠開始した。
こうして、日蓮正宗と創価学会の徹底した反撃にあって追い詰められ、うろたえた浅井昭衛は、ついに、創価学会本部襲撃という、最後手段に踏み切ったのであった。
浅井昭衛は、十月四日を襲撃の日と定め、青年部幹部と打ち合わせや準備を行なった。
その様子が、逐一、私の耳に入っていたのは、いうまでもない。
前日までには、襲撃に参加する人数、その集合方法や服装、指揮官および指揮系統、押し入る方法、最終日程等々が、詳細にわかっていた。
当然、創価学会は迎え撃つ準備を整えた。
本部地下に、柔・剣道、空手や拳法などの有段者や、警備のプロの男子部員を五十名ばかり待機させた。
襲撃側より人数を押さえたのは、襲われて防いだ≠ニいう印象を演出するためと、その人数で十分対応できる≠ニ計算したからである。
また、念のため、本部前の青年会館や周辺施設にも、同様に待機させた。
聖教新聞社、公明新聞のカメラマンを、要所要所に配置した。都合のよい証拠写真を撮るためである。
また、後日の法的手段に備えて、弁護士も、本部前の見えるところに待機した。
この日、午後から、文化会館六階の会議室では、私が主催して、宗務院役僧方と弁護士による、正本堂御供養金返還訴訟≠フための打ち合わせを行なった。
襲撃による緊張感を、宗門側にも直に味わってもらいたかったから、スケジュールをそのように調整したのである。
午後三時頃、妙信講本部から宣伝カーが出発し、四時前には、外苑東通り曙橋のたもとにある警視庁の前を通過した、との知らせが入った。
私は、首脳と相談し、
「学会青年部が妙信講青年部を痛めつけるところを、宗門側に見られるのもまずいので、場所を移ってもらおう」
と提案し、役僧方に、
「じつは、まもなく妙信講青年部員が、大挙して創価学会本部に殴り込みをかけてくる、という情報が入りました。万が一のことがあってはいけませんので、千駄ヶ谷の国際センターの方へ、一時移っていただきます」
と伝えた。
緊張に顔をこわばらせながら、役僧方が国際センターに移動された後、私は、文化会館の二階に陣取って、戦況を見守った。
夕方五時半頃から、信濃町駅周辺に、妙信講青年部員が、三々五々集まりはじめた。
彼らは、いつものようにビラをまいたりせず、緊張した面持ちで
「今日は、命がけだぞ!!」
「思いっ切り闘おうな!!」
などと、ささやき合っていた。
すでに、宣伝カーが動き出した段階で、四谷警察署に対し、
「夕刻、妙信講青年部が大挙して学会本部に殴り込みをかけてくる、という確かな情報が入った。ついては、防御と警備のための出動をお願いしたい」
と申し入れていた。
四谷署からは、三十名の警官を派遣して、警備に当たることになった。
――――――――――――――――――――――
十月四日、午後六時になると、四谷署の制服警官三十名が、学会本部に到着し、門と前庭に配置された。
これとほとんど同時に、鉢巻き姿で目をつり上げた、八十名を越える妙信講青年部員が集まり、宣伝カーと共に、閉ざした表門の前で気勢を上げはじめた。
しばらく警官をはさんで押し問答をしていたが、長岡青年部長の命令一下、数名が塀(へい)を乗り越えて侵入し、内から門扉を開き、全員を構内になだれ込ませた。
彼らは統制のとれた行動で、一手は、案内所をとりかこみ、一手は、階段を駆け上がって、入り口の鍵を壊して文化会館内へ乱入しようとした。
警官達も手を出す間もない、迅速な、計画的な行動であった。
そこで、待機していた五十名ばかりの学会の警備隊が出動した。
彼らは、たちまち妙信講員の大部分を門の外に押し返し、再び門を閉ざした。
中に取り残された十名たらずの幹部達は、そこで袋叩きにあった。
これを見ていた塀外の妙信講員は、宣伝カーを門扉に衝突させて押し開け、再びなだれ込んだ。
警官達は、なだれ込んだ妙信講員の逮捕にかかり、警備隊は、残る連中を、実力で塀外に排除した。
三十分あまり乱闘が続いた後、引き上げろ≠フ号令がかかり、妙信講員達は、信濃町駅方面に引き上げたところを、駆けつけた機動隊によって全員逮捕された。
創価学会側は、一人も逮捕されなかった。
創価学会側は、数名が軽いケガをしたが、それは、すべて
「相手の顔や頭がこぶしにぶつかって怪我した」
というもので、つまり、殴った時に、手の皮がすりむけた、という程度であった。
一方、妙信講側は、建物の中に一歩も入れなかったのみか、数では劣る創価学会青年部に徹底的に叩きのめされ、多勢がそうとうの手傷を負わされた。
しかも、全員が逮捕され、長岡・村岡らは、さらに拘留(こうりゅう)されるし、浅井昭衛自身も取り調べを受けるハメとなって、うろたえ、取り乱した。
何も事情のわからない世論は、
暴力はいけない
といって妙信講を非難したし、宗内においても、大勢で仕掛けておきながら返り討ちにあったことが知れわたり、妙信講の面目は丸つぶれになり、同情や支援も失ってしまった。
池田大作は、自ら御法主上人に電話をし、
「徹底的にやっつけました。お山へ行くようなことがあっても、創価学会が護ります」
と得意気に報告した。
御法主上人は、
「いやはや呆れた。あんなことをする連中は処分しておいてよかった」
と述べられた。
その後、事態は、裏で妙信講をそそのかしていた、八木直道師と松本日仁の擯斥(ひんせき)へと発展し、妙縁寺へは新住職が任命され、寺の明け渡しをめぐって、また一騒ぎがあった。
しかし、この騒ぎを機に、妙信講とそのシンパの僧が宗門から完全に追い出されたことで、十年近く続いた妙信講問題は、いちおうの決着を見た。
その後も、浅井昭衛は、勝手に日蓮正宗妙信講≠ニ名乗り、妙縁寺から持ち去った寺宝の御本尊を本部に安置して、徹底抗戦を続けた。
宣伝カーを毎日繰り出しては、ビラまきを続ける妙信講を、徹底的に押さえるために、宗門と創価学会で専門機関が作られた。
学会青年部員と法華講青年部による合同の組織切り崩し隊は強化され、恒常(こうじょう)化された。
妙縁寺に、執事として派遣された浜中和道師(当時)を名義上の編集・発行人として、顕正新聞に対抗するために破邪新聞≠発行し、妙信講への攻撃と批判を徹底して行なった。
この破邪新聞は、妙信講の全講員にダイレクトメールで送り付けられたから、浅井昭衛は、講中に読むな∞開封せずに送り返せ≠ネどと指令したが、ダメージは深刻だった。
もちろん、新聞作りの実際の作業は、浜中発行人ではなく、私と、部下の岩住俊典の二人でやった。
御法主上人は、妙信講掃討作戦を全面的に支援してくださり、いろいろと応援してくださった。
妙信講は、一方で、訴訟を起こし、法廷で争う戦術を採った。
妙信講そのものの処分無効を訴える訴訟の他に、松本日仁の擯斥処分を争う訴訟、八木直道師に対する処分を争う訴訟、および、それぞれに対する仮処分異義事件等や、多数の訴訟が起こされた。
それらに対する対応も、また私に委(ゆだ)ねられた。
その後、昭和五十二年の初頭まで、創価学会と妙信講の間の小競り合いは続いた。
しかし、すでに、宗門にとっても創価学会にとっても、妙信講問題は、さほど重要なことではなくなっていた。
妙信講に対しては、その部下達の、極めて限定的な陣営で、十分に事たりたのであり、池田大作率いる主力は、すでに他の目標に向かって走り出していた。
昭和五十二年二月になり、裁判の法廷に出廷した松本日仁は、すでに九十歳近い高齢であり、衰弱が目立っていたが、その後、千葉県下の病院に入院した、との情報を入手した。
その病院を突き止め、学会員の看護婦にカルテを調べさせたところ、老衰(ろうすい)が激しく進み、危篤(きとく)状態だということがわかった。
この頃、じつは、私は、妙信講裁判を早急に片付けなくてはならぬ状況に置かれていた。
いわゆる五十二年路線で、池田大作が御法主上人と宗門を徹底的に痛めつけたのに対し、御法主上人は、反撃のために、私の協力を求められたのである。
もったいないことであったが、宗門と創価学会が衝突すると、妙信講問題が宙に浮いてしまう。
私は、妙信講問題への影響を理由に、創価学会首脳の宗門攻撃に歯止めをかけたが、御法主上人に対しても、今しばらくのご辛抱をお願いした。
このような事情があったため、一日も早く妙信講問題に決着をつけることが必要だったのである。
さて、数ある妙信講関係の訴訟の中でも、松本日仁が原告となっている地位確認訴訟が、妙信講にとって、一番、勝訴の見込みが残っていた(他の訴訟は、すでに宗門側勝訴の見通しがついていた)。
松本日仁の死亡により、この訴訟が中断してしまうと、妙信講側の旗色は極めて悪くなる(浅井昭衛が松本日仁の訴訟にこだわる理由は、じつはそればかりではなかったことが、後日、判明する)。
この情報を得た数日後、妙信講側の主任弁護士と、桐ヶ谷章弁護士が地下鉄の中で出会った際、先方から、
「一度、山崎先生と酒でも飲んで話し合いたい」
との申し出があった。
かくて、数日後、妙信講の主任弁護士と私との間で、和解の話し合いが始まった。
私が、松本日仁の病状を先刻承知していることを伝え、それにも拘(かか)わらず、妙信講側に、メンツを保ったまま撤退する機会を与える用意があることを伝えると、相手はただちに、ざっくばらんな話し合いを求めてきた。
結果として、日蓮正宗側が、妙縁寺松本日仁名義の預金一億二千五百万円を、松本日仁個人の財産として松本日仁に渡す、ということと引き替えに、妙信講関係のすべての裁判を取り下げる、ということで合意に達した。
もっとも、その具体的な実行について相手方の弁護士は、松本日仁の意思であるとして、一億二千五百万円を顕正寺設立基金口座に振り込む≠アとを強く要求し、「これが容(い)れられなければ、和解の話は御破算だ」とまで言った。
擯斥された松本日仁が、自前の寺を建てたいという意志を持ち、そのために苦労して数十年にわたって蓄えてきた貯金(寺の代表役員名義ではあったが、実際は、松本日仁の労働の対価を積み立てたものである、といっても差し支えなかった)を、その建設費に充(あ)てたいと思うのも、不自然なこととは思えなかった。
自分が死にかけており、死後、遺族の意向で妨げられないように、生前に建立資金口座に入れておく、ということも、委任を受けた代理人が、そう主張する以上、私の方でそれを云々する理由もなかった。
「あとのことは、すべて委任された私の責任で処理します。山崎先生の方には、ご迷惑をおかけしません。」
相手方弁護士にそう言い切られては、それ以上押し問答するわけにもいかないし、病院へ押しかけて、真意を確かめる、というのも大人げない。
一方、日蓮正宗の方からは、
「妙信講が、松本日仁から受け取ったとして本部に安置している、寺宝の本尊の返却を求められないか」
「今後、日蓮正宗と名乗ってはならぬ、という条件をつけられないか」
という要望があった。
しかし、御本尊については、相手方が返却を拒否したからといって、法的手段で執行吏(り)の手を借りて差し押さえたりするというのも、信仰という観点からはそぐわないように思うし、次の、名称について、制限を付けても、向こうが勝手に名乗るのを差し止めることは困難である。
妙信講側としても、いずれ、宗門から独立した法人格を取得しないかぎり、やっていけないであろうから、名称のことも、その時に自然に解決するだろうと思われた。
とくに目に余るようなことがあったら、その時に、名称使用禁止訴訟あるいは、仮処分等の法的手続きを取ればいいのではないか、と宗門に申し上げて、これ以上は、あえて触れないことにした。
また、妙信講側が訴訟を一切取り下げて、処分の不当性を争わないという態度に出る以上、以後、日蓮正宗の名称を使わないのが常識であり、あえてそれを使うとすれば詐称に等しいことである。
結局、松本日仁個人の資産として渡すべき一億二千五百万円の預金は、松本日仁の指示に従い、顕正寺建立準備資金資金口座へ振り込む形で支払う、ということで、妙信講側は一切の訴訟を取り下げる、という和解が、四月下旬に成立した。
このことを浅井昭衛らは、「日蓮正宗が妙信講のためにお寺を作ってくれることになった(お寺を作る資金を出してくれることになった)」等と宣伝したが、松本日仁と日蓮正宗の間の訴訟で、松本日仁に渡される金を、妙信講に支払うなどという和解をしたわけではないし、その金で寺と称する建物を作ろうが、作るまいがい、それは先方の勝手というものである。
もっとも、この金の処理をめぐって、後に、松本日仁の遺族と妙信講の間にトラブルが生じたようで、私のところにも、松本日仁の遺族の代理人から問い合わせがあった。何とも、みっともない話である。
また浅井らは、「日蓮正宗妙信講という名称もどうぞ名乗ってください、ということになった」等とも言うが、それは、裁判の場で名称の使用を争うことはしない、というだけのことであって、すでに解散処分を受けた時点で、日蓮正宗内には妙信講≠ニいう名の団体は存在しなくなったし、もちろん、その後に名乗る顕正会≠ニいう名の団体も、日蓮正宗内には存在しない。
浅井昭衛が勝手に日蓮正宗≠ニ詐称しているだけのことである。
なお、八木直道師におかれては、後に、妙信講の僧侶蔑視の本性を知り、改悛(かいしゅん)して日蓮正宗に帰伏を申し出て、再び僧籍を得られ、○年○月に逝去されている。
妙信講は、顕正会と名乗るようになってからも、性根は一向に変わらず、相変わらず国立戒壇≠主張し、独善的・狂信的な活動を続けた。後年、理境坊所属妙観講と法義上で衝突し、厳しく誤りを指摘されると、集団で妙観講に殴り込みをかけたりした。
しかし、所詮、ごまめの歯ぎしりにすぎない。創価学会を小粒にし、さらにえげつなくした存在にすぎないのではなかろうか。
浅井昭衛の本質も、所詮は、ミニ池田大作である。
過去に、日蓮正宗の法義に背き、御法主上人を蔑(ないがし)ろにした勢力は、いつしか消え去っていったが、それらと同様、顕正会も時の流れの中でいずれ消えていく運命にある。 |